『二村一夫著作集』バナー、クリックすると著作集目次に戻ります

『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


補論(2)  足尾銅山における囚人労働


囚人労働の始まり

 ここで足尾銅山における囚人労働について見ておくことにしよう。足尾で囚人の使役が始まったのは,古河家経営前のことである。詳しい事情はわからないが,1872(明治5)年12月10日に足尾懲役場が設置されており(1),この時に囚人の使役が始まったと見てよかろう。懲役場の設置は,同年4月に懲役法が制定され,それまでの笞杖にかえて懲役刑が採用されたことにともなうもので,栃木県では同年10月に栃木懲役場,11月に宇都宮懲役場が設置されている(2)。このように,足尾懲役場が栃木,宇都宮とはとんど同時といってもよいほど早い時期に設置されていること,また足尾銅山は前年,1871年11月までは県営であったから,ことによると囚人使役は懲役場の設置より先に始まっていた可能性がないとはいえない。
 いずれにせよ,古河が操業を引き継いだ1877年に囚人が使役されていたことは確かである。同年3月,古河が前借区人の副田欣一から引き継いだ建設物の目録のうち「本山出沢の建設物」の一部につぎのように記されている(3)

「一、 懲役県出張所 壱棟(間口二間 奥行三間)
   付属品 一、 畳 十畳
         一、 障子
一、 同焚屋 壱棟(間口弐間 奥行 四間)
一、 同監倉 弐棟(間口三間 奥行 五間、 間口三間 奥行 四間半〔後略〕」。

 また同年8月現在,50人の囚人がいたことは,足尾から古河本店宛の報告書に,旧盆にあたり稼人に出す祝儀の一部にとして「懲役人一人に付素麺三把宛,此人員五十人,則ち百五十把」と記録されている(4)ことから判明する。このほかにも『木村長七自伝』に,下稼人の神山盛也〔別資料では神山盛弥〕が「栃木県の囚徒を使用して居りました。これが世間に聞えて足尾では懲役人が働いて居ると評判された次第なのです」とある(5)。神山盛弥は坑夫・掘子など41人の労働者を使役し,下稼人中の最有力者であった。
 このように囚人労働は古河が経営する前から存在したものではあったが,古河もその存続を望み,さらにその規模の拡大を希望していたことは明瞭である。鉱長に就任したばかりの木村長兵衛が,1880(明治13)年10月8日付の手紙で次のように書いているのである(6)

「現今当山に使役する人員は総計七百五十人程有之,其外業行盛大の目的より栃木県庁より懲役人を拝借致し,薪炭掘子用達方に都合二百人程増員相願候に付,是よりは夫々手順を経て進業盛大の宝山に可相成見込に御座候」。

 引き継ぎ当時は28.5坪でしかなかった監房が1886年12月末現在では104坪にまで拡大されている(7)ことも,古河による囚人労働拡大の事実を裏書きしている。
 では,囚人はどのような仕事をさせられていたのであろうか? いま引用したばかりの長兵衛の手紙に「薪炭掘子用達方」とあるように,主として運搬作業を中心とする雑役に従事していたとみられる。なかでも製煉の燃料に使う木炭や薪の運搬は囚人労働に依存するところ大であった。しばしば引用されよく知られた事実であるが,『古河市兵衛翁伝』は次のようなエピソードを伝えている(8)

 「その頃〔1881年頃〕,操業上最も苦痛を感じたものは木炭の不足であったが,人夫の不足も亦当事者の苦労の種であった。当時の足尾が懲役人の労力を如何に歓迎したかは,『兼て県庁に願置候懲役人廻し方之儀も存外速に相運び,当月一日に重罪の極悪徒廿名送り呉れ,不取敢間に合ひ重畳に御座候』と翁に報告した事によつても分る。併し,囚人を就役さす事も余り有利な事ではなかつた。十四年の或る日,五十三間坑に労役中の囚人五名が,監守を縛つて壱番坑より抜出で,簀子橋へ山越えして,上州方面へ逃走した。其内四名は捕縛したが一名を逮捕し得なかつた為めに,上州より猟師十八名を雇入れて,見当り次第銃殺せんとした。かかる騒動の為めに,二日間囚人の就役が禁ぜられ,その結果,炭を運ぶ人夫が不足し,熔鉱方を休業するの已むなきに到つた」。

 このエピソードは,囚人が坑内労働にも従事していたこと(おそらく鉱石運搬などの〈掘子〉としてであろう),木炭の運搬は全面的に囚人に依存していたことをうかがわせる。



行刑上の制約

 このように古河の操業初期において,囚人労働は不熟練労働力の供給源として大きな比重を占めていた。しかし,経営側から見たとき囚人労働は安価ではあるが,その供給量には制約があり,しかも行刑上の都合によってその数が変動するという難点があった。『栃木県統計書』には1882(明治15)年から88(明治21)年の各年について足尾監獄の在監者延べ人員と同時に,各年における在監者の最多人員と最少人員とが記載されている。次がそれである。

第4表 足尾監獄在監者数等推移
年次在監延人員一日平均
在監者数
最多在監者数
(同月日)
最少在監者数
(同日月)
年間
入獄者数
年間
出獄者数
1882年49,868137149
(9月1日)
125
(11月11日)
--
1883年55,274151184
(12月31日)
138
(7月12日)
--
1884年68,216187249
(12月31日)
101
(11月29日)
--
1885年40,214110196
(1月1日)
63
(11月26日)
--
1886年35,85598127
(4月18日)
68
(9月9日)
423323
1887年27,54475112
(3月7日)
48
(10月5日)
172241
1888年36,22799132
(11月17日)
63
(1月14日)
347295

【備考】 『栃木県統計書』明治十九年、同二十・二十一年より作成。

 これを見ると,在監者数が比較的安定していたのは1882年と83年だけで,84年以降は最少人員と最多人員との間に2倍から3倍もの開きがある。しかも出入率はきわめて高く,1886年の入獄者数は,同年の在監者1日平均の4.3倍にも達している。さらに,在監者がもっとも少ない時期は,9月から11月といった農繁期で,足尾でも人手不足がいちじるしかったであろう時期に集中しているのである。何故このようなことになったかといえば,理由は2つあった。その第1は,1879(明治12)年に,東京と宮城に集治監が設けられたことの影響である。同年の〈内務省達丙第20号〉により,栃木県を含む関東・中部地方の1府8県の監獄に収容されていた「懲役一年半以上ノ囚人ヲ小菅集治監ニ収禁セシメ」(9)たため,栃木県の監獄に残されたのは刑期が1年半未満の囚人だけであったから,労働期間もまた短期にならざるを得なかったのである。
 第2の理由は,〈監獄則〉による制約である。1872年の〈監獄則〉では懲役刑を5等級に分け,刑期の長さにより一定期間を経るごとに重労働からしだいに軽労働に移る〈階級制度〉を採用していた(10)。それによれば,最も重労働の第5等は「土石ヲ運搬シ荒地ヲ開墾シ米ヲ搗キ油ヲ搾リ石ヲ砕クノ類」で,これは刑期にかかわらず100日を限度とし,4等に進むことになっていた。第4等は「諸官邸ノ造営街路ノ修繕瓦陶煉化石等ノ調土及耕耘ノ類」であった。鉱山労働は明らかに第5等であったから,いかなる刑期の囚人も100日を越えてこれに従事させることは出来なかったと見られる。もっとも,この〈監獄則〉は1881(明治14)年に改められ,「実行至難なる階級処遇的役法を廃止」(11)した。したがって,これ以後,制度上は鉱山労働についても,より長期の囚人使役が可能になった。その場合でも,囚人労働使役に関する行刑上の制約は小さなものではなかった。
 たとえば,〈明治十四年監獄則第四十二條〉によって,囚人を監獄外で使役する〈外役〉については,一定数の看守と押丁が必要であったことである(12)。すなわち「外役ノ囚徒ハ一組十人以上十五人以下ト定メ看守一人,押丁二人以上ヲシテ之ヲ監セシム」と定められていた。在監者が多数いた場合でも,その全員を鉱山労働に従事させ得たわけではないことである。したがって看守9人,押丁7〜8人,使丁1〜2人の足尾監獄(13)では5組75人が外役に出せる最大の数であった。しかし,これは看守等のほとんど全員が外役の監視に当たったと仮定してのことで,実際には外役にでない囚人を監視するために一定数の看守,押丁は残さざるを得なかったから,1日に使役可能な数はせいぜい4組60人であった。1881年の木村長兵衛から本店宛の手紙に(14),この間の実情をうかがわせるものがある。

「此程も重罪人十五人計り栃木表へ護送に相成り,目下百三人の内夫れぞれ役割引去り外業に使役する人員六十余人より無之,本庁に於ても此程囚人不足の由にて兎角十分ならず。到底此分にては詮方無之候。仍つて九蔵山炭背負い等は馬三四頭を買入れ運送をなす見込に候」。

 要するに,在監者が103人いても,実際に外業に使役出来たのは60人余りであったのである。



囚人の労働条件

 では,足尾銅山における囚人の労働条件はどのようであったか。これについての詳細な記録はない。ただ,1884年現在の囚人賃金について,大原順之助の「足尾銅山現況」の中に,木炭の「運搬ニハ主トシテ栃木県囚徒ヲ役(一日十三銭宛)スルヲ以テ」(15)とあるのが,今のところ唯一の記録である。しかしこの記録から,囚人1人1人が1日13銭の賃金を得ていたと即断してはならない。なぜなら,賃金については1881年7月制定の〈在監人傭工銭規則〉(16)があり,それによれば「定役ニ服スル囚徒現役一百日ヲ経レハ始テ各人ノ工銭ヲ料定シ之ヲ十分シテ其一分ヲ与ヘ余分ハ之ヲ監署ニ収ム」と定められていたのである。この規定はそのまま同年9月制定の〈明治十四年監獄則〉にとり入れられた。すなわち,囚人は最初の100日間は〈只働き〉であり,その後でも,もともと一般労働者の賃金よりはるかに低い(17)〈傭工銭〉の,その10分の1を与えられたに過ぎないのである。この規定は間もなく改められ,「現行律ニ依リ処刑セラレタル者ハ懲役七年以上ノ者ニ工銭ノ十分ノ一ヲ給シ五年以下ノ者ニ十分ノ二ヲ給スベシ(18)」とされた。改善には相違ないが,とても大幅改善とは言えるものではなかった。要するに,古河が支払った1日13銭というのは,賃金として囚人に直接支払われたのではなく,〈監署〉に支払った〈傭工銭〉であった。食事などが官給されるとはいえ,囚人は最初の100日間は〈只働き〉で,その後の手取り額は,実額にすれば1日1銭3厘か2銭6厘で,一般労働者の15分の1か,15分の2という僅かなものであった。
 では,労働時間等はどうであったか。これについても〈監獄則〉によって詳細に定められていた。その内容は,当然のことながらと言うべきか,あるいは囚人労働について広く行きわたっているイメージからすれば意外にもと言うべきか,それほど苛酷なものではない。たとえば,すでに見たとうり〈明治五年監獄則〉では,いかなる囚人も第5等の重労働には100日間従事させられるだけであった。それより1段軽い第4等の労働には,終身刑の者は5年260日,懲役1年の者は100日従事すると,第3等に軽減される決まりであった。また,労働時間も,午前7時から午後5時,その間午前11時から午後1時までは昼休みの,実働8時間であった。なお,5月1日から7月31日までは,昼休みを午前11時から午後2までの3間とし,作業終了は午後6,同じく実働8間であった(19)。この〈監獄則〉は1881年に改められ,段階を追って重労働から軽労働に移す〈階級処遇的役法〉が廃止されたことは,すでに述べた。この点は明らかに改悪であったが,労働時間は月毎に詳細に規定され,平均すると実働1日7時間41分余で,20分近く短縮された(20)。労働時間の面で見る限り,囚人は一般労働者よりむしろ好条件であった。もちろん,こうした規則が果してどれだけ守られていたか,疑問は残る。ただ,同じ古河経営の福島県の軽井沢銀山の事例では「囚人就役時間短なるも」と伝えられており,〈監獄則〉をまったく無視することはなかったと思われる。
 なお,これはいわゆる〈労働条件〉そのものではないが,見過ごせないのは,当時の囚人は外役の時,逃亡防止のため2人1組で鉄鎖につながれていたことである。また,獄則を犯せばさまざまな罰則が課せられた。現に足尾監獄では,1886年に10人,87年に4人,88年に3人が〈減食〉の懲罰を受けていることが判明している(21)。〈減食〉は「常食ノ半若クハ其三分ノ二ヲ減シ塩湯二品ノ外菜ヲ与ヘス(22)」という罰で,重労働に使役されていた囚人にとっては苛酷なものであった。
 だが,なにより足尾における囚人労働の実情を明瞭に示しているのは,つぎの2つの記録である。すでに引用紹介した『古河市兵衛翁伝』の囚人逃亡事件についての,官側の資料の一端である。

「〔1881年7月〕栃木県足尾監獄署出役四名逃亡逮捕監房ニ収容セントスルニ際シ拒捕再ビ逃出セントシ暴行ヲ為シタルニ因リ制馭上已ムヲ得ズ有合セノ棒ヲ以テ三名ヲ殴殺シ一名ヲ重傷ス。」(23)

この記録は短いが,逃亡した囚人に対する残虐な処遇が明瞭に示されている。何より問題なのは,逃亡囚3人を殺し,1人に重傷を負わせたのは,リンチに他ならないことである。ちょっと讀んだだけでは,事件は,囚人が「暴行ヲ為シタルニ因リ」「已ムヲ得ズ」制馭した正当防衛の行動であったかに見える。しかし,この資料が明らかにしているのは,逃亡囚に対する暴行が,彼らを逮捕する際に起きたものではなく,すでに逮捕し「監房ニ収容セントスルニ際シ」起きていることである。すでに自由を奪われた逃亡者が,「殴殺」しなければ「制馭」しえないほどの暴行を働いたとは考え難い。かりに逮捕された囚人らが「再ビ逃出セントシ暴行ヲ為シタ」のが事実であるとしても,銃や刀剣で武装している看守,押丁の手に負えないものであるはずがない。ここで注目すべきは,囚人を殺害した〈凶器〉が「有合セノ棒」だったことである。逃げだそうとする囚人を銃や刀剣で威圧して「制馭」するのでなく,「有合セノ棒ヲ以テ三名ヲ殴殺シ一名ヲ重傷」させているのである。この行為が監房の前で行われていること,「制馭」に「有合セノ棒」が使われていることは,まさにこの行為が他の囚人に対する見せしめのリンチであったことを告白している。
足尾銅山における囚人労働の実態をうかがわせる第2の記録は,次にかかげる第5表,栃木県の3監獄における在監者の死亡数についての統計である。
 宇都宮監獄,栃木監獄とくらべて足尾監獄の死亡率がいちじるしく高いことは,〈監獄則〉の規定ではさほど苛酷には見えなかった囚人労働の現実を,とりわけ鉱山における囚人労働の実態を雄弁に物語っている。

第5表 栃木県3監獄在監中死亡者数
 足尾監獄宇都宮監獄栃木監獄
一日平均在監者数死亡者数同比率一日平均在監者数死亡者数同比率一日平均在監者数死亡者数同比率
1886年98人10人10.2%837人21人2.5%279人10人3.6%
1887年75人11人14.7%682人21人3.1%226人4人1.8%
1888年99人2人2.0%690人21人3.0%232人1人0.4%
平均91人8人8.8%736人21人2.9%246人5人2.0%

【備考】 『栃木県統計書』明治十九年、同二十・二十一年より作成。なお,刑死者は除いた。




鉱業発達史における囚人労働の意義

 ところで,囚人労働は,これまで日本資本主義発達史において,とりわけ鉱山業発達史において重視されてきた。しかし従来の囚人労働の研究が三池炭鉱,幌内炭鉱などの大炭鉱を対象に進められてきたことは,鉱山業における囚人労働の意義を過大に評価させることになっているように思われる。しかし,足尾銅山での囚人労働について具体的に検討した後では,その評価に疑問をもたざるをえない。
 たとえば津田真澂氏の次のような主張は,はたして正当であろうか。

「労働力の最も簡便な形での再生産の仕方は政府からの囚人〈貸下〉である。高島,三池,中小坂,幌内などでの囚人使用は周知の事実に属するが,跡佐登,別子でも囚人労働が用いられた。とくに足尾銅山明治十七年の大直利はこの囚人使用によったものである。囚人労働は日本鉱業興起の基底であるといってよいであろう。」(24)

 津田氏が指摘されるように,鉱山業で囚人労働が広く用いられたことは確かである。氏が挙げられた他にも,1870年代から1890年代にかけ,金沢県金平村銅山,北条県の某銅山,滋賀県政所山鉱山,岡山県吉岡銅山,官営生野鉱山,福島県半田銀山,福井県西谷鉱業社,福島県軽井沢銀山,また筑豊の小炭鉱などでも囚人労働は存在した(25)。行刑の上で,とくに監獄外での懲役,いわゆる〈外役〉のなかで,鉱山労働の比重は大きかった。しかし,「囚人労働は日本鉱業興起の基底」と規定し得るほど,日本の鉱山業の発達にとって囚人労働は大きな意味をもっていたであろうか。
 三池炭鉱,幌内炭鉱で囚人労働が採炭部門を中心に,量的にも無視しえない比重を占めていたこと,また三池で長期間存続したことは事実である(26)。だが,秀村選三氏が指摘するように,三池,幌内で使役されたのは〈集治監〉の囚人であった。府県の枠をこえて集められた長期刑囚であり,「はじめから炭坑の労働力補充を目的として秩序だった囚人規制の中に組み入れられたものであった(27)」。府県の枠をこえていたから大量の人員確保が可能であり,長期刑囚であったから,一定の経験・熟練が必要とされる採炭作業にも従事させ得たのである。
 しかし,これらの事例は鉱山業全体からみれば例外的な存在であった。多くの鉱山,炭鉱における囚人労働は,主にその所在地近辺の府県監獄の短期刑囚によるものであった(28)から,人員にも一定の限界があった。もちろん,経営規模の大小によって,その鉱山における囚人労働の比重は異なる。小鉱山で,従業員数が少なければ,府県懲役場の短期刑囚でも大きな意味をもったに違いない。しかし,日本の鉱山業全体にとって,囚人労働が「興起の基底」というほど重要な意義をもっていたであろうか? 知る限りで,全国の囚人鉱夫数が判明する最も早い時期のものは1886(明治19)年の2,369人,1892(明治25)年の2,134人(29)であるが,これは明治初期の囚人鉱夫の数としてはおそらく最大であったと見られる。なぜなら,囚人が鉱山業に従事させられ始めたのは1870年代のことであるが,多数が使役されるようになるのは1882(明治15)年の空知集治監,翌1883年の三池集治監の設置以後のことであり,1880年代末には,高島炭鉱事件の影響もあって鉱山・炭鉱における囚人使役は減少の方向をたどるからである。一方,全国の鉱夫数について確実な数値が残っているのは,第4章で見るように1893年末現在のものが最初で,8万6,917人である(30)。要するに囚人労働は,その最盛期でも,全国の炭鉱・鉱山の労働力の2.5%程度を占めたに過ぎないのである。しかも,その主要部分は三池など特定の炭鉱に集中していた。これをもって「囚人労働は日本鉱業興起の基底」とするのは,過大評価であり,不当な一般化というべきであろう。




足尾での囚人労働の終わり

 足尾銅山における囚人労働のピークは1884(明治17)年であった。この年7月1日,足尾監獄の在監者は249人と過去の最高を記録した。この年1年間の延べ在監者数は6万8216人,1日平均で187人,これもまた最高記録であった。しかし,その一方で足尾銅山の労働者総数は3,067人と,前年の3倍に増加し,囚人労働の比重は急速に低下したのである。大富鉱脈の発見にともない激増した労働力需要は,栃木県の監獄が供給し得る限界をはるかに上回る水準に達したのである。こうなると,囚人労働は,その存在が一般労働者を募集する上での妨げと感じられるようになる。
 同時に,この頃から外役中の逃亡事故が多発したこともあって,各地で〈外役縮小,内役拡大〉の方針がとられるようになる。1884年には警視庁が「已むを得ざる場合を除くの外,外役作業を禁止」したのをはじめ,85年には内務省が外役取締りの強化を命令している。これを受けた形で,群馬県など各地の監獄で外役作業を廃止する方針がとられている(31)。さらに,1888年の〈高島炭鉱事件〉が大きな社会問題となり,人びとの目を炭鉱や鉱山における労働者の待遇問題に集めたことも,鉱山での囚人使役を廃止する方向に作用した。別子銅山は明らかにその一例である。すなわち1888年11月の愛媛県会は,別子銅山で使役中の囚人に「病者並に死亡共に多き事」,その労働が「他の服役に比せば一層の苦役たる事」などを理由に,松山監獄別子・立川出役所の廃止建議を可決した。その結果,翌1889年3月をもって同出役所は廃止された(32)。足尾でも,それと同じ1889年3月31日に足尾監獄署が廃止され,宇都宮監獄署足尾外役所に改められた。さらに1891(明治24)年9月30日には足尾外役所も廃止されたのである(33)




【 注 】


(1) 「宇都宮刑務所沿革抄」(刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,1943年, 1,127ページ。

(2) 田代善吉『栃木県史』(下野史談会,1935年)446ページ。

(3) 茂野吉之助『古河市兵衛翁伝』(五日会,1926年)107ページ。

(4) 前掲書 追録32ページ。

(5) 茂野吉之助編『木村長七自伝』(私家版,1938年)116〜117ページ。

(6) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』(私家版,1937年)46ページ。

(7) 『栃木県統計書 明治十九年』308ページ。

(8) 茂野吉之助『古河市兵衛翁伝』(五日会,1926年)126ページ。

(9) 刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,巻末年表64ページ。

(10) 内閣記録局『法規分類大全』(1891年,復刻版 原書房,1980年)治罪門三〔復刻版では治罪門(2)〕67,68,90ページ。

(11) 刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,1,176〜1,177ページ。

(12) 内閣記録局『法規分類大全』(1891年,復刻版 原書房,1980年)治罪門三,168〜169ページ。

(13) 『栃木県統計書』明治十九年307ページ,同明治二十・二十一年333ページ。この他に典獄1人,書記1人がいた。なお,1889(明治22)年では看守7人,押丁3人,1890年には看守8人,押丁4人と減員している。

(14) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』(私家版,1937年)47ページ。

(15) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻82ページ。

(16) 内閣記録局『法規分類大全』治罪門三,157〜158ページ。

(17) 1884年の足尾の雑役夫の賃金は20銭から23銭であった。また同じ古河が経営する軽井沢銀山の場合は「職夫一人の賃額を以て囚人一人五分を使用せらる」程度(『日本鉱業会誌』第60号,1890年2月)と報告されている。なお,『日本鉱業会誌』第65号(同年7月)にも軽井沢銀山における囚人労働に関する現地からの通信が掲載されている。また,1888年現在の福島県半田銀山における囚人1人1日の〈傭工銭〉は平均12銭5厘であった(「半田銀山近況」『日本鉱業会誌』第39号,1888年5月)。

(18) 内閣記録局『法規分類大全』治罪門三,195ページ。なお,1889年の監獄則改正により,囚人への給与額は,重罪囚の場合10分の2,軽罪囚は10分の4に改められた(『日本近世行刑史稿』(下),1,232ページ。

(19) 内閣記録局『法規分類大全』治罪門三,68〜69ページ。

(20) 前掲書,187ページ「囚徒服役時限表」参照。日の出に起床し,日没には夕食まで済ませて〈還房〉するように月毎に就業時間,休業時間が分刻みで決められている。

(21) 『栃木県統計書 明治年十九年』313ページおよび『栃木県統計書 明治二十・二十一年』339ページ。

(22) 「明治十四年監獄則」第103條(『法規分類大全』治罪門(三)178ページ。

(23) 刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,巻末年表87ページ。なお,この事項の典拠は『公文編年録』である。

(24) 津田真澂「明治前期鉱山業の性格」(『一橋大学研究年報』社会学研究13,1974年。津田氏は「足尾銅山明治十七年の大直利はこの囚人使用による」と述べておられるが,足尾で囚人を探鉱や採鉱に使役した記録は,知る限りではない。唯一の例外は『日本近世行刑史稿』(下)で,これには足尾で「囚徒の採鉱作業」が行われたとする記述がある(同書1120ページ。同巻末年表151ページ)。しかし同書の足尾関係の記述は『古河市兵衛翁伝』などに依っており,囚人を採鉱作業に使役した事実を裏付けるものではない。ちなみに,1889(明治22)年の〈監獄則施行細則〉第44條は,「男囚は砕石,開墾,採鉱,土方,石工,耕耘運搬若くは監獄の用に限り構外の役に服せしむることを得」(『日本近世行刑史稿』(下)1,235ページ)とあり,行刑上は鉱山労働一般を〈採鉱〉と呼びならわしたとも考えられる。

(25) 主として『日本行刑史稿』(下)第6章および巻末年表による。ただし,吉岡鉱山は『三菱社誌』第2巻282ページ,軽井沢銀山は『日本鉱業会誌』第60号,1890年2月による。筑豊の炭坑については注(27)の秀村選三氏の論稿を参照。

(26) 三池における囚人労働については田中直樹『日本炭砿労働史研究』(草風館,1984年)240〜269ページ参照。幌内を含む関連文献については同書245ページ参照。なお,三池の囚人労働の比率がこれまで過大に評価されている疑いが強い。これについては,拙稿「原蓄期における鉱山労働者数(下)」(『研究資料月報』290号,1982年10月)参照。

(27) 秀村選三「明治前期・中期福岡県の炭坑における囚人労働−−監獄派出所・出役所・監獄支署について−−」(九州大学『経済学研究』第37巻1〜6合併号,1972年2月)。

(28) 炭鉱・鉱山所在地の府県以外の囚人が使役された例外的なものは,九州各県の監獄支署が置かれた三池炭鉱,岡山県の囚徒を使った兵庫県の生野銀山,宮城集治監から一時期ではあるが囚人の〈貸与〉を受けた半田銀山などである。

(29) 1886年については『第七統計年鑑』第255表,592ページ参照。

(30) 農商務省鉱山局『第二鉱山統計便覧』(1895年)76ページ。

(31) 刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,1,204〜1,205ページ。

(32) 『資料愛媛県労働運動史』第1巻,78〜79ページ,85〜86ページ。

(33) 刑務協会編『日本近世行刑史稿』下,1,127ページ。



[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2004年9月3日]

【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

本書 詳細目次      本書 内容紹介       本書 書評



法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会  

編集雑記          著者紹介        更新履歴


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

 Wallpaper Design ©
あらたさんちのWWW素材集


   先頭へ