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第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907〜1928



はじめに

 日露戦争期から評議会解散までの労働者階級の状態と労働運動について検討すること、これが本稿に与えられた課題である。労働運動が本格的な発展をとげたこの時期を対象に、労働者状態と労働運動のそれぞれについて独自に検討することは、筆者の力量もさることながら、研究の現状、紙幅の制約からみて容易ではない。
 そこで、本稿では、主として労働争議を手がかりに、労働運動の発展段階をさぐり、各段階の歴史的特質を追求することに重点をおきたい(1)。労働者状態は、その検討に必要な限りでふれることになろう(2)


 1 第一次大戦前の労働運動

 1 日露戦後の大争議

 1907(明治40)年は2度目の高揚期であった。1897年、最初の高揚期に始められた「同盟罷業ニ関スル調査」は、この年には60件、1万1483人(但し参加人員は54件分のみ、6件分不明)と第一次大戦前の最高を記録した(3)。注目されるのは、大鉱山、軍工廠、造船所など、日本資本主義の根幹をなす大経営で争議が続発したことである。
 一連の争議の直接的な原因が物価上昇、とりわけ米、塩、味噌等の生活必需品の値上りにあったことは明らかである。ただ、物価上昇は一般的な問題であり、鉱山や軍工廠に争議が続発した理由としては充分でない。
これに対し、軍工廠については一つの回答がある。すなわち、ここでは戦時中の繁忙期に支給されていた手当や賞与が打ち切られ、残業も減少したため大幅な収入減となったというのである。これは事実である。しかし、この事実は同時に、争議に参加した労働者は、戦時中は大幅な収入増をかちえていたことを意味している。横山源之助は、砲兵工廠の労働者が、日露「戦争の為めに、未曾有の多忙と賃銀を贏ち得」たとし、それは「日給一円以上の職工が一ヶ月百円以上の収入を見た(4)」ほどであることを記している。
 むしろ、「窮乏」の点では、金属労働者より、戦時中「俄に寂莫を告げた」紡績・織物工場などの労働者の方が著しく、物価上昇による打撃も大きかったに相違ない。鉱山でも、暴動の主力となった採鉱夫より、それに参加しなかった雑夫等の方が明らかに低賃金であった。もちろん、こういったからといって軍工廠等の労働者が「窮乏」していなかったと主張しているのではない。ただ、争議の原因となった「窮乏」「貧困」は、かつて、多くの論者が好んで強調した「原生的労働関係」における「窮乏」とは質的に違いがあることを指摘したいまでである。
 最近の研究は(5)、重工業労働者の実質賃金が、日清戦後に僅かながら上昇し、彼等がその供給母胎である都市雑業層、貧農層とは異なった生活構造をもちはじめていたことを明らかにしている。日露戦争は、非常な労働強化を伴ないながらも、この傾向をさらにおし進めた。重工業労働者が、一旦は「下層社会」的生活水準、生活様式から脱け出した、あるいは脱け出しつつあったこの事実こそが、彼等に、戦後の「窮乏」をいっそう強く意識させることになったのである。
 しかし、以上では、まだ1907年に大鉱山、軍工廠等に暴動、同盟罷業が続発した原因としては充分でない。「窮乏」は争議の主要な原因の一つではあるが、「窮乏」すれば、あるいは「窮乏」を意識さえすれば、争議がおこるわけではないからである。ある意味では、「窮乏」は常に存在する。それが1907年という時点で同盟罷業や暴動という行動の原因となり得た理由はどこにあるのか。
 この点を解明するには、まず、争議それ自体の特徴を見る必要があろう。
 第1に注目されるのは、軍工廠、造船所では下級職長と熟練工が運動の中心となり、職員層および上級職長に対して抵抗していることである。同様に、鉱山では採鉱夫を中心とする熟練職種の労働者が、飯場頭に対し、また鉱業所長から現場員にいたる職員に反抗している。廠長や鉱業所長が攻撃されたのは、職場慣行を無視した就業規則を定め、罰金や供給米の削減、馘首等の厳罰を課して、その遵守を強制したためであった。職員や上級職長に対する不満は、昇給、請負価格の決定等に関し、賄賂を要求するなど不公正な取扱いが多いためであった。
 こうした矛盾は、日露戦争前後に、これらの経営が急速に規模を拡大し(6)、新技術の導入を進めていた過程で生まれたものであった。創業当初は技術者が少数であり、また生産が手工的熟練に強く依存していたため、経営側は直接生産過程の末端を掌握しえず、古参労働者に作業を請負わせ、作業の指揮、監督、賃金決定、時としては雇用、解雇にいたるまで彼等にゆだねていた。しかし、このような間接的管理体制は経営規模の拡大、新生産手段の導入、それに伴なう工場内分業体系の変化によって修正を迫られた。産業によって、経営によって、また職場によっても違いはあるが、経営側はしだいに生産過程への規制を強化していった。親方請負制に代って個人を単位とした請負制、あるいは出来高払制度が採用された。
 この親方請負制の廃止は、多様で弾力的な職場慣行にかわって、画一的な工場規律の支配を意味した。親方請負制は親方労働者による苛酷な支配、労働条件の決定等についての恣意的な取扱いを許していた。しかし、反面、親方労働者と職工との関係は、日常的な接触に裏づけられた「人間味」のあるものであり得た。親方労働者はまた、職員や他の労働者集団との関係では職工の保護者であった。親方請負制の廃止は、経営者には利潤の増大をもたらしたが、労働者にとっては必ずしも労働条件の改善とならなかった。また、統一的な工場規律の支配は、個々の労働者の労働条件の決定に関する恣意性を廃し客観的な基準にもとづく公正な取扱いを意味しなかった。労働者の格付け、作業配分等は依然として上級職長や下級技術者の判断にゆだねられ、賄賂がものをいった。
 鉱山においても飯場頭による作業請負は廃止され、飯場頭の任務は労働力の確保、入坑督励、作業監督等に限られた。このため、彼の収入は、一定額の手当、鉱夫雇入れの際の紹介手数料、配下鉱夫の入坑工数に応じた手数料等となり、物価上昇に伴ないその実収は減少した。このため飯場頭は賄費や供給品の値上げ等、流通面で収奪を強化し、鉱夫との対立を深めた。一方作業請負の廃止と鉱業資本による鉱夫の直接雇用によって飯場頭は鉱夫の雇主としての外被を取り去られ、中間搾取者としての本質をあらわにして、鉱夫に対する支配力を弱めていた。日露戦後に、軍工廠、大鉱山に争議が起り得た客観的条件は以上のとおりである。
 ところで、鉱山や軍工廠に大争議が続発した要因としてもう一つ見落せないのは、労働者側の主体的条件である。一般に、この時期の争議の特徴として強調されてきたのは、その自然発生性であり、非組織性である。治安警察法の下で労働組合の存在が認められていなかったため、生活に困窮した労働者の不満は自然発生的に爆発したというのである。暴動や罷工が労働組合によって組織され指導されたものでなかったことは事実であり、その限りでこの特徴づけは誤りとはいえない。しかし、自然発生性だけを強調する傾向には賛成できない。何故なら、1907年以前の運動の経験、伝統があったからこそ鉱夫や鉄工の間で争議が起り得たからである。
 これを、一連の争議の「起爆剤」となった足尾暴動で見ておこう。よく言われるように、この暴動は1907年2月4日に「突如として」起ったのではない。実際には、暴動の起る3年以上も前から「全国坑夫の一大組合組織」を目標とした一鉱夫.永岡鶴蔵が足尾銅山に入り、鉱山労働者の間でねばり強い活動を続けていたのであった。
 何故鉱山労働者の間から永岡のような労働運動の組織者が生まれたのか。それは何よりも鉱山労働者の自主的な共済団体「友子同盟」の存在と深くかかわっている。永岡が鉱山労働運動の組織者となることを決意したのは、片山潜の働きかけによるものであるが、彼がその勧めをすぐ受け容れた背景には、彼自身が友子同盟の一員として長い経歴をもち、各地の鉱山を渡り歩いた経験があること、しかもこの間に友子同盟を基盤に同盟罷工を組織し、あるいは秋田県を相手とする鉱夫税撤廃運動に成功した経験を持っていたことがある。さらに、永岡が足尾で3年間活動を続け得たのも、鉱業資本や飯場頭らが、友子同盟の「渡り歩き」の慣行を無視できなかったからである。友子同盟の伝統のない筑豊炭田では、1920年代になっても労働運動の組織者が炭坑用地内に入ることさえ容易でなかったことを考えると、この事実のもつ意義は小さくない。
 3年間の活動の間に、永岡は、資本家がいかに労働者の生命、安全を無視しているかを糾弾し(7)、職員や飯場頭の不公正を具体的な事実をあげて追求している。労働者が行動に立ち上るのに彼の活動が重要な役割を果したことは明らかである。とくに、1906年秋、夕張から南助松が加わって大日本労働至誠会足尾支部を結成してから、運動は急速に発展した。至誠会は、鉄工組合以来の伝統である共済活動を軸とする組織方針をのりこえて、賃上げ、供給米の改善を要求に掲げ、容れられなければ同盟退職しようと呼びかけたのである(8)。至誠会はまた、友子同盟の組織に働きかけてその支持を得るとともに、飯場頭に奪われ中間搾取の手段となっていた友子同盟の共済金の出納権をとりもどす運動を指導し、それに成功した。この出納権が飯場頭から友子の山中委員に引き渡される約束の日の前日、暴動が始まったのである。暴動の先頭に立った男は、飯場頭から買収されていた疑いが濃い。
 一方、軍工廠や造船所の争議が、鉄工組合などの運動経験と不可分であることは、1902年、6年、12年と再三争議がおきた呉工廠には村松民太郎はじめ少なからぬ数の旧鉄工組合員が働いていたこと(9)、また、大阪砲兵工廠争議では呉などから来た「渡り職工が主動となつて一部の職工を煽動した」事実が指摘され、「この渡り職工は今まで各製造所で同盟罷工などを遣ってきた経験もあるやう(10)」だと言われていることなどから確認することができる。
 さらに、この争議の経験、伝統は、これを見聞した若者たちによって第一次大戦後に引き継がれていくのである。


 2 友愛会

 1907年の高揚の後、労働争議はいっきょに退潮した。08年から10年のスト件数はそれぞれ、13、11、10件、同参加人員は823、310、2934人に過ぎない。また、社会主義運動は足尾暴動直後に開かれた日本社会党第二回大会後、弾圧が強化されるなかで内部対立が激化し、「大逆事件」後はほとんど身動きできない状態に追いこまれた。これらの事実から、1908年以降、米騒動までの時期は一般に「冬の時代」と呼ばれ、ともすれば運動の空白期とみられがちである。しかし、最近では、都市に民衆騒擾が相次いだ事実が注目され、この時期が再検討されつつある。ただ、米騒動を含む都市の民衆運動には、別に1章があてられているので、ここでは、友愛会を対象に、それも、日清戦後の鉄工組合と比較することで、この期の運動に接近してみたい。
 鉄工組合と初期友愛会とを比べてすぐ気づくのは、両者が共通の特質を具えていることである。ともに知識人の働きかけによって生まれ、結成後も「有識者」が大きな役割を演じている。また、両者とも、労働力の売り手の組織としては無力であり、その主目標は労働者に「労働の神聖」を「自覚」させ、「団結」して「修養」をつみ、「技能の向上」に努め、労働者の「地位の向上」を図ることであった。
 これらの事実は、両者が直面していた問題の共通性を示唆している。
 第一の、知識人による「上からの組織化」は、まさに日本資本主義が「上から」育成された事に対応するものであった。もともと、職人ギルドの伝統のない日本では、労働者の間で、労働条件等を自律的に規制する慣行は弱かった。欧米諸国の異質な技術が、ほとんど抵抗なしに受容されたのも、そのためであった。旧職人層の組織が弱体であった上に、彼らと新たに生まれた工場労働者の間には、技術的にも人的系譜の上でも断層があった。これらの事実は、工場労働者の自主的運動の展開を制約した(11)。むしろ、労働者の組織化は、欧米の労働運動について知識を有する「有識者」の宣伝啓蒙活動として始められたのである。
 第2に、両者の主張のうち、労働者が最も惹きつけられたのは「地位向上」への呼びかけであった。当時、多くの青少年が村を離れ、都会に出たが、その際の目標は「立身出世」であり「成功」であった。苦学して上級学校を出て官吏や会社員になること、商店の小僧からたたき上げて自分の店をもつこと、これが「立身出世」「成功」の例であった。これに対し、新たな職業分野であり、致富の機会にも乏しく、災害の危険も高い工場労働者、鉱山労働者になることは「立身出世」競争での落伍を意味した。労働者の挫折感は、「飲む、打つ、買う」といった道徳的頽廃の瀰漫となり、「一般社会」から「職工社会」に対する差別を増幅させていた。だから、「労働神聖論」に裏づけられ、欧米の先進社会の実例にもとづく「地位向上」の呼びかけが彼らの労働運動参加への重要な契機となり得たのである(12)
 もっとも、労働者階級の圧倒的多数が、経済的にも、あるいは生活様式の上でも「下層社会」から分離していない段階では、「地位向上」の要求はさして強いものではなかったであろう。しかし、僅かではあれ「下層社会」から離脱しはじめた労働者の上層にとっては、社会的地位向上への呼びかけは強く響くものをもっていた。高野房太郎らの呼びかけにこたえたのが熟練職種である「鉄工」、とくに、「親方労働者」であったこと、初期友愛会が熟練工に基盤をおいていたのもこのためであった。
 もちろん、鉄工組合と友愛会とでは相違する点も少なくない。鉄工組合は共済活動に重きを置いたのに対し、友愛会の共済活動は、仲間のつき合い程度のものでしかない。鉄工組合は、その名のように金属機械工だけを組織対象としたが、友愛会は職人や婦人労働者を含め、全ての職種に門戸を開放していた。
 だが、最大の相違は、鉄工組合が数年で衰えたのに、友愛会は着実に成長し、遂には名実ともに日本の労働組合運動を代表する労働総同盟に発展したことである。何故このような違いが生じたのか、この点を中心に考えてみたい。
 第1に問題となるのは、指導者の、とりわけその社会的地位の相違である。鉄工組合の場合は、高野房太郎も片山潜も、ともにアメリカで、文字通り「苦学」し、そこで得た知識と体験にもとづき、祖国に労働組合を育成しようとした。だが、彼等は日本社会で公的な活動をおこなうのに有効な「肩書き」がなく、交友関係等でも不利であった。
 これに対し、東京帝国大学法学士・鈴木文治は格段に好条件であった。運動の初期では、この差は決して小さなものではない。初期友愛会の順調な発展は、支部の存在する企業の重役や技師の支持、協力によるところ大であった。これは友愛会の理念が、工場規律に積極的に適応する新しい型の労働者を求めていた経営者・技術者層に受け容れられたためであるが、同時に鈴木とその後援者の「肩書き」がものを言ったことも否めない。
 しかし、これは、あくまで友愛会の順調な発展を助けた条件である。より基本的な要因は、この十数年間の日本資本主義の発展が、労働者階級の量的、質的成長をもたらしていたことにある。
 量的成長については、鉄工組合結成時の1897年現在の重工業労働者が僅かに3.2万人であったのに、1914年では18万人(5.6倍)、19年には39.2万人(12.2倍)に達していた(13)ことを指摘すれば充分であろう。
 一方、質的成長をさぐる有力な材料は機関紙・誌である。内容的に比較検討する余裕はないが、鉄工組合の準機関紙『労働世界』の場合、労働者自身の発言は、きわめて少ない。『友愛新報』も最初の1、2年はほぼ同様であるが、1914年4月の第26号からは「自由文壇」欄が設けられ、労働者の投稿が掲載されるようになった。『労働及産業』になると、この欄への投稿者が増加し、1916年1月号には、「近頃投書が非常に多くなって、毎月何百通と数へるほどになった」と記されている。こうした労働者投稿家のなかから社会劇『工場法』をはじめとするすぐれた戯曲や小説を数多く発表した平沢計七も生まれたのであった。
 もちろん、労働者の質的成長は投稿増加に示されているだけではない。はじめは知識人だけであった本部員にも、菊地喜市、平沢計七、福田龍雄、松岡駒吉らの労働者出身の活動家が登用され、重要な役割を果すようになっている。これらの先進的労働者が生まれた背景には、一般的な学校教育の普及向上に加えて、機械化の進展が労働者に高い知的水準を要求するようになっていたことがある。また同時に、彼等が運動の伝統を背負っていた事実を見落してはならない。
 たとえば、平沢計七である。彼が労働者としての生活を始めたのは、1903年、日本鉄道大宮工場の職工見習生としてであった。彼の父もまた、1899年以来、同工場の鍛冶工であった。言うまでもなく日本鉄道は1898年の日鉄争議を機に組織された矯正会の組織基盤である。また当の大宮工場には、鉄工組合が支部を有し、1900年3月、支部員が中心となってストの準備までして待遇改善運動をおこなっている。同工場の職工の子として、また14歳からは自らも職工として、この時期に大宮に住んでいた平沢に、こうした運動が影響しなかったとは考えられない。また、松岡駒吉をはじめ、三木治郎、桂兼吉、小泉七造、小西喜代蔵、中田惣寿、餅田守一、藤沼栄四郎ら多数の活動家を生んだ室蘭支部は、日本製鋼所室蘭工場を基盤にしていた。ところで、日鋼室蘭は呉海軍工廠から集団で移住した労働者を中心に新設されたのである。呉工廠は、既に見た通り、「鉄工組合の落武者」を中心に再三のストを経験していた。呉からの移住者は1909年室蘭で地方税をめぐって町当局と争い、また友愛会結成前の1912年にも賃上げ争議をおこしている。松岡が頭角をあらわしたのも、その争議においてであった(14)


 2 労働運動の本格的発展

 1 1917年=新たな高揚の始まり

 1917(大正6)年は第三の高揚期の始まりであった。それをはっきり示したのは同盟罷業の急増である。スト件数は前々年が64件、前年108件と明らかに上昇傾向をみせていたが、この年には、いっきょに398件、参加人員5万7309人を記録したのである。とりわけ、同年6月以降急速にふえ、以後、第一次大戦が終了した18年11月から翌年5月まで一時後退するが、6月からは再び増加、とくに7月、8月は100件を越える伸びを示している。こうして20年5月戦後恐慌の影響があらわれるまで約35ヵ月間高揚は継続した。17年6月から20年4月までのスト件数は1395件、参加人員は19万8402人で、1ヵ月平均にして約40件・5670人に達している。スト統計が作成されはじめた1897年7月から1916年までの20年間における年平均が、約31件・4140人であるから、この35ヵ月間の1ヵ月はそれ以前の1年分を大きく上まわっているのである。

表1 同盟罷業罷業月別件数・参加人員(各年度とも上段件数・下段人数)


1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
19145012848824841
7,90411541,0591,3013,30841249673533323181
1915643551274886123
7,8523726322951,1547811391,9671,488455120137312
19161081011656121113115135
8,4136449456773241819466261,826769270927278
1917398101413161338768256382022
57,3091,5201,6032,7861,5411,08311,80916,6009,0685,0492,8131,4362,001
1918417192539282925421084734129
66,45780210,8893,8572,6944,0652,3252,52926,4588,4783,017852491
191949715191515164410611538384630
63,1371,9352,6371,1187282,3353,23816,88912,4876,1527,7166,2941,608
192028232434727191425251912154
36,3713,1605,0625,5846,2263,5391,5901,5825,6961,0137711,856292
19212461513918131933383127219
58,2251,3761,2457712,9531,4337,74727,0644,3842,4786,0181,821935
192225015172718212036302320149
41,5031,8005,7922,7458377,6294,5586,1172,8202,1174,3881,5641,136
192327012133221175133208172818
36,2595613,1954,0312,3822,2805,4516,3931,7324801,0597,3731,322
192433324213828355530262822188
54,5262,8621,0651,8869,6959,63313,1048,4711,9041,6341,0791,9621,231
1925293131515112331212749293524
40,7423,0651,7787581,5941,8586,9785,2982,9882,1942,5139,3382,380
19264952629294425223612960423716
67,2346,1083,3172,6023,4231,7641,0044,6907,8227,78616,8113,2778,630
1927383342453343335234726263018
46,6723,0331,9896,3463,1604,9447,1942,6217,6753,4053,0301,8141,461
1928393222135363637355843231829
43,3371,9351,8933,7012,4154,16810,9982,4513,4103,7032,0891,7574,817

〔備考〕『昭和三年労働運動年報』による。ただし誤植は他年度版で訂正した。1924年以降は同盟怠業を、さらに1927年以降は工場閉鎖を含む。

 ストライキのこの急増ぶりは、明らかに運動の新たな段階の到来を示している。従来の研究では米騒動の1918年、あるいは労働組合が続出した19年を画期とするものが多い。それぞれ一定の意味をもった区分ではあるが、17年のスト高揚の意義を軽視しているように思われる。この点は後述する。
 17年にストが急増した原因の1つは明らかに物価の上昇であった。『工場監督年報第二回』はこれについて、「大正六年ニ於テハ前年ニ比シテ諸物価総テ騰貴ヲ為シ就中米麦薪炭ノ如キ生活上欠ク可カラザルモノニ於テ最モ甚ダシク約五割ノ騰貴ヲ示シ」とのべている。一方賃金は「一般職工ノ実収入ハ少キモ三割乃至五割ヲ増加シ、其ノ多キモノニ至リテハ殆ンド倍額ノ収入アルモノナキニアラズ。斯ク職工ノ賃銀モ昇騰シ、其実収入ニ至リテハ更ニ著シキモノアレバ、職工ノ生活ハ従前ヨリ余裕ヲ生ゼルガ如キ感ナキニアラザルモ、諸物価ノ暴騰ハ賃銀ノ騰貴ニ比シ一層熾烈ナルモノアリ。為ニ少数ノ例外ヲ除キ一般ニハ生活上必シモ安易ナル能ハザルノ状況ニアリ」。
 もちろん、スト急増の原因は物価上昇だけではない。何よりも、第一次大戦を機に日本資本主義が急速に成長し、労働者階級が数的に増大したことが基盤にある。工場労働者数は、開戦の年1914年には95万人であったが、19年には161.2万人に達している。これは5人以上規模の民営工場の職工だけの数字で、しかもかなりの集計もれがある(15)。職工以外の人夫等(9.3万人)、官営工場労働者(16.3万人)、鉱山労働者(46.5万人),通信労働者(11.5万人)、運輸労働者(20年現在で57.8万人)、5人未満規模工場の労働者を加えると19年現在の労働者数は300万を越えていたであろう(16)。なお、しばしば指摘される女子労働者の高い比率も、民営工場だけをとれば54%であるが、官営工場、鉱山、運輸等では男子が圧倒的に多いことを考慮する必要がある。
 この労働者階級の急増が運動の発展に及ぼした影響は多様であるが、まず第1に指摘する必要があるのは、この間労働力の需給関係が労働者側に有利に働いたことである。この点を検討するには、単に1914年とくらべ19年の労働者総数の増加、あるいは重工業労働者の比重の増大を指摘するだけでは充分でない。同じ重工業労働者でも、職種別、熟練度別によって異なった労働市場を形成するからであり、5年間の幅では、運動に及ぼした影響を論ずるには広すぎるからである。
 いま、この点を各職種について具体的に検討する余裕はないが、この期の運動の主力であった機械及器具工場の労働者数の変化を、業種別に、1916年から20年までの各年について見ておこう(表2)。17年の増加率の高さが顕著である。とくに造船業、機械製造業がぬきんでている。17年以降、これらの産業を中心に攻勢的ストが続発し得た主要な理由はここにある。


 
表2 機械器具工場業種別労働者数
年次機械器具工場
総計
機械製造業船舶車輌製造業器具製造業金属品製造業
工場数職工数工場数職工数工場数職工数工場数職工数工場数職工数
19161,815184,21839035,07817369,42921822,2501,03457,461
(100)(100)(100)(100)(100)(100)(100)(100)(100)(100)
19172,345277,26676173,790233120,52622522,5581,12660,392
(129)(151)(195)(210)(135)(174)(103)(101)(109)(105)
19182,814300,45991770,096251132,68330025,8811,34671,799
(155)(163)(235)(200)(145)(191)(138)(116)(130)(125)
19192,945280,5371,08164,073232125,85637828,4411,25462,167
(162)(152)(277)(183)(134)(181)(173)(128)(121)(108)
19202,582239,8351,00156,243224101,38831426,7371,04355,467
(142)(130)(257)(160)(129)(146)(144)(120)(101)(97)


〔備考〕『工場監督年報』第一回〜第五回による。上段は15人以上規模工場の12月末日現在の数。下段バーレン内は1916年を100とする指数。

 1919年からは同盟罷業だけでなく、争議行為を伴なわない争議についても統計が作られ始め、同年の件数は1891、参加人員は27万2088人と第2次大戦前の最高を記録している。集計が始まったこと自体、19年以前に「同盟罷怠業ニ至ラザル争議」が急増したことを推測させる。これもまた、労働市場が売手市場であったことを反映している。ストの継続日数が短かったことも同様の理由によるものであろう。3日以下が、17年で76.1%、18年79.1%、19年73.1%である。
 ところで、この期の運動の最も重要な特徴は、何よりもストライキと労働組合との結合にある。日清戦後の運動が鉄工組合に代表される「労働組合」の成立を特徴とし、また日露戦後の運動が重工鉱業大経営における争議の続発を内容としたのに対し、第1次大戦以後は両者が結合した点に意義がある。このように言うと、それでは何故、労働組合が続出した19年でなく、17年を画期としたかという疑問が出されるであろう。
 たしかに、ストライキと労働組合の結合が明瞭な形をとって現われたのは19年のことである。東京砲兵工廠争議の小石川労働会、東京の16新聞社製版工ゼネストの革進会、足尾・釜石鉱山争議の大日本鉱山労働同盟会、東京市電争議の日本交通労働組合等、大争議と前後して労働組合が結成されている。また友愛会も川崎造船所をはじめ数多くの争議に関係し、大日本労働総同盟友愛会と改称し、名実ともに労働組合への脱皮を印象づけたのは1919年のことである。このほか、争議と関係なしに少なからぬ数の労働組合が各地に生まれている。
 しかし、ストライキと組合との結合は普通考えられているように19年に突如として始ったわけではない。友愛会の下部組織の一部ではすでに15年頃からその兆があらわれていた。同年2月に発会式をあげた友愛会本所支部結成の中心となったのは、前年、東京モスリン争議の指導者として解雇された人々であった。その1人、菊地喜市は会員拡大の実績を買われ労働者としては最初の有給本部嘱託となり「ローカル・オーガナイザー」に任命されている。あるいは、16年には横浜船渠で一友愛会員の解雇問題に端を発し、支部が中心となってストライキをおこしている。これらは、まだ一般的な傾向ではなかったが、17年1月の池貝鉄工所争議、3月室蘭支部が中心となっておこなわれた日本製鋼所争議以後、友愛会は急速に質的な変化をとげたのである。
 室蘭争議を機に、官憲や経営側の友愛会に対する圧迫は強まった。従来、経営の承認保護の下で存在していた支部の多くがつぶれ、脱会者があいついだとみられる。友愛会本部は、圧迫をかわすために警察や軍工廠当局、経営者などに対する諒解工作につとめ、あるいは会員の自重を要望し、「資本労働の調和」を強調する宣言を発した。そのためか機関誌には支部が争議を起した事例についての報道はあまり掲載されていない。それでも諸史料から池貝鉄工、日鋼室蘭のほか、三田土ゴム、東京計器、同小名木川分工場、深川ガス、東京製綱、東京毛織、日本兵器、三菱神戸造船所、磐城炭坑、富士瓦斯紡、精工舎、共立電機、日本蓄音器などの争議に友愛会員が関与したことが明らかである。なお、18年4月の友愛会6周年大会の会務報告は、この1年間に本部が調停に関与した争議件数を約70件とのべており、実際に友愛会の支部が関係した争議は、これよりさらに多かったと思われる。
 問題は、同じ会務報告が、17年4月から18年3月までの1年間の新入会員を総計1万7988人と報告しているのに対し、鈴木会長が、この1年が「迫害試練の年」であったとして、「会員に於ては、昨年の4月に比して明かに減員」したことを認めていることである。前年3月末の会員数は2万人余であったと推定されるから、この1年間に会員の大半が入れ替ったことになる。友愛会はまさにこの1年間で労働組合としての実態をもちはじめたと考えられるのではないか。
 多数の支部がつぶれ、脱会者が相ついだなかで友愛会が組織を維持しえたのは、約1万8000人もの新入会員を得たためである。それが可能であったのは何よりも造船をはじめ機械器具工場等が未曾有の好況で、熟練労働者に対する需要が急増していたことによるものであろう。室蘭支部等の解雇者がすぐ職を得て、そこに新たな支部を組織することが可能であったのは、まさにこうした状況があったからである。


2 労働組合続出の背景

 1917年を画期として重視したからといって、19年の運動が単なる17年の継続に過ぎないと主張しているわけではない。19年、とくにその後半、多数の労働組合があいついで結成されたことは、それ自体注目に値する事実である。渡部徹の研究によれば、この1年間に設立された労働団体は総数211にのぼっている。ただし、この中には女工供給組合や企業内の共済組合も含まれており、そのすべてが労働組合ではない。労働組合の形態をとってはいても、その目的が主としてIL0労働代表選出に参加することにあったとしか思えないもの、あるいは普選にそなえ選挙地盤を育成することを意図していたと疑われるものもある。また、明らかに自主的な労働組合に対抗するために作られた御用組合もある。しかし、こうした団体のなかでも、その後、自主的な労働組合に発展したものがあり、単に指導者の意図だけでその団体の性格を判断することはできない。むしろ、きわめて多様な意図のもとに労働者の組織化がおこなわれたことこそ、この年の1つの特徴として重視さるべきであろう。
 では、この年に労働組合の結成があいついだのは何故であったか、この点を考えたい。しばしば指摘されているのは、ロシア革命の影響であり、米騒動の衝撃であり、IL0の意義である。いずれも無視できない要因である。ただ、問題は、従来、それらの要因がともすれば並列的に提示されるにとどまっていることである。しかし実際には、これらの要因が及ぼした影響は、運動参加者の階層によっても異なっていた。
 たとえば、この時点で、ロシア革命が日本の労働者階級に及ぼした直接の影響はさして大きなものではなかった。これは事実である。しかし、一方、組合の組織者として登場した知識人にとっては、ロシア革命の衝撃は決して小さくない。麻生久、佐野学、野坂参三ら初期新人会員を見ればこの点は明らかである。
 一方、労働者にとっては、18年の時点では、ロシア革命よりも講和条約でIL0(国際労働機構)の設置が決定されたことの方が直接、間接に大きな影響を及ぼしている。第1は、日本のILO参加が労働組合公認の第一歩と考えられたからである。事実、原内閣は「労働組合ヲ直チニ危険ナリト云フ考ヘハ有ツテ居リマセヌ、労働組合ガ危険ニナル虞ガアル、若クハ危険ナラムトスル企テデモアリマスナラバ是ハ取締ラナケレバナラヌ、何等危険ノ虞ナクシテ平穏ニ組合ガ出来マスナラバ少シモ差支ナイト考ヘマス、今日ノ状態デハ別ニ危険ガアルヤウニモ認メテ居リマセヌ(17)」との態度を表明し、労働組合を禁止する法律はないことを確認した。また野党憲政会が治警法第17条から「誘惑、若ハ煽動」の文字を削除する改正案を提出したのに対し、これを拒否はしたが、(同盟罷業を)「其工場内ニ居ル人ガ申合セテヤラウト云フ時ニ、之ニ向ツテ圧迫ヲ加ヘルト云フコトハ如何ナモノデアラウカ、或ハサフ云フ者ハ、此箇条ニ依テ取締ル必要ハアルマイ(18)」と同条の適用を限定する意向を表明した。
 また、資本家の間でも、この時点では組合承認論が強まっていた。たとえば、19年6月に大阪市が、職工組合の可否について各工場に回答を求めたのに対し、可とするもの120、時機尚早とするもの17、指導者によりて可とするもの12であったのに対し、不可とするものは12に過ぎなかった(19)
 第2に、平和条約第427条にもり込まれた、労働非商品の原則、団結権等の「一般原則」は、これまでの友愛会などの主張が国際的に承認されたものとして、友愛会員を大いに励ました。とくに、労働非商品の原則は、単なる社会的地位向上の要求から、労働者も人間であるとして労資対等の意識を強めていた先進的労働者に大きな感銘を与えた。この点は、資本家側が同じ「一般原則」のうちでも8時間労働制や幼年労働の禁止を主として問題にしたのと、きわめて対照的である。
 しかし、ロシア革命にせよ、ILOにせよ、日本の労働者階級がそれを主体的に受けとめる力をもっていたからこそ、運動高揚の契機となり得たことを忘れてはなるまい。その意味で、17年から19年にかけての争議や騒擾に多数の労働者が参加した事実こそ、労働組合の続出を可能にした最も基本的な要因であったと考える。


 3 労働戦線統一への動き

 企業の枠をこえて労働条件を規制するクラフト・ユニオンが育ち得なかったことは、日本の労働運動の歴史を貫く重要な特質の一つである。この事実は、よかれあしかれ、日本の労働者階級の性格に大きな影響を及ぼしている。
 もっとも、まだ1910年代までは、労働市場は企業別に分断されておらず、多くの労働者はより良い労働条件を求めて企業間を渡り歩いていたから、同一産業、とりわけ同一職種の熟練労働者の間では、企業の枠をこえた連帯感が存在した。友愛会が海員部はじめいくつかの職業別組合を組織し、印刷工が信友会、鉱山労働者が全国坑夫組合を結成したのも、こうした連帯感の存在を示している。だが、海員を別として(20)、その基盤は決して強固なものではなかった。
 日本の労働組合は、入職規制を伴なう徒弟制や労働時間の制限等によって自律的に労働条件を規制する力をもたなかったから、労働者が、現実に労働条件の維持改善をはかろうとすれば、同盟罷業・怠業等を武器に各経営者と個別に交渉するほかはなかった。この場合一般に、労働争議は企業単位たらざるを得ず、しかも、資本家は意識的に自社の「従業員」以外との交渉を強く排除した。こうした事実は労働組合に強い企業内的性格を与えがちであった。友愛会の支部が、争議を機に組織を拡大した際、しばしば企業別組合化したのもこの事実とかかわっている。
 とはいえ、17年以降の労働争議の頻発、労働組合の相次ぐ結成は、労働者の団結の一定の拡がりを示していた。またそのこと自体、さらに広汎な労働者の団結を育てる要因として作用した。とりわけ、先進的な労働者の間では、職業や経営の枠をこえて、労働者階級としての連帯感が生まれていた。
 こうした階級的な連帯感を育てる上で大きな役割を果したのは、個別資本を相手とする労働争議よりもむしろ政治的問題をめぐる共同闘争であった。その第1は、治安警察法第17条の撤廃運動と普通選挙運動であり、第2はILO労働代表の選出問題や官選労働代表反対運動であった。
 第1の運動の口火を切ったのは友愛会、とりわけ神戸聯合会を中心とする関西の活動家であった。19年はじめのことである。19年8月に友愛会が大日本労働総同盟友愛会と改称し、名実ともに労働組合の全国組織たることを表明するにいたったのも、この運動の直接の成果といえる。普選運動は翌年2月にかけてさらに広汎な労働組合を結集し、関西では普通選挙期成関西労働聯盟が、関東では普選期成治警法撤廃関東労働聯盟が結成されたのである。
 第2の運動は、友愛会だけでなく多数の労働組合の共同闘争をすすめた。まず9月にはILO労働代表選定協議会に参加を認められなかった小石川労働会、新人セルロイド工組合など18団体が大日本労働聯盟を結成し、さらに政府が労働組合の反対をおしきって鳥羽造船所技師長・桝本卯平を労働代表に任命してからは、友愛会、信友会、大日本労働聯盟、大日本鉱山労働同盟会等は一致して反対運動を展開した。こうした共同闘争を経て労働組合の統一の動きはさらに一歩前進し、1920年には恒常的な連合体を組織するまでにいたった。同年5月2日の第1回メーデーを機に友愛会、信友会等の9団体が労働組合同盟会を結成したのである(21)。同様の企ては関西でも進み、友愛会、向上会、大阪鉄工組合等の13団体は関西労働組合聯合会を結成した。労働組合同盟会、関西労働組合聯合会はともに地方的な連合体であり、組織的にも、活動面でも決して強固な組織ではなかった。だが、普選や治警法廃止、ILOなど特定の課題をめぐる共闘から主要労働組合を網羅した恒常的な組織の結成に進んだことの意義は軽視できない。
 政治課題をめぐる統一行動の展開、労働戦線統一の進展は、個々の労働争議に対しても、これをその経営体の労働者だけの問題とみるのでなく、階級全体の問題としてとらえる視点を育てていった。周知のように、1919年12月、大日本鉱山労働同盟会が関与した足尾争議にあたって、友愛会、信友会、小石川労働会、日本交通労働組合などは協議会を開き、「凡ゆる労働争議に対し、之れを単なる部分的問題にあらずして吾人労働階級全般の消長に関するものと認め、今後一切の情実を廃して一致協力以て之が貫徹に努めんことを期す」と声明している。この背景には、桝本労働代表排斥運動での共闘の積み上げがあったことは明らかである。
 翌20年4月の東京市電ストに際しては、メーデーの準備にあたっていた各組合は一致して日本交通労働組合を支持した。メーデー当日も、同争議支援の緊急動議が可決されている。労働組合同盟会も、折からの戦後恐慌によって問題化した失業対策の実施を政府や資本家に要求する統一行動をおこなったり、天下り労働組合法に反対する宣言を発する等の活動のほか、労働争議支援に力を入れた。20年の友愛会紡織労働組合による富士紡争議、正進会による東京15新聞社印刷工争議では、寄附金募集、応援演説会や支援デモなどが組織されている。


3 戦後恐慌と労働運動

 

1 恐慌の影響

 1920(大正9)年3月、戦後恐慌が始まった。この恐慌は、直接、間接に労働運動に多様な影響を及ぼしたが、最も決定的な点は、労働市場が買手市場に変ったことであった。15人以上規模の民営工場労働者数は、19年末の148万人から20年末の137万人へと11万人、約7.3%の減となった。しかし、この数字は恐慌が労働運動に及ぼした影響を示すものとしては充分でない。運動の発展は産業によって異なり、恐慌の影響も産業によって一様ではなかったからである。
 戦後恐慌で最も深刻な打撃を受けたのは、他ならぬそれまで労働運動の主舞台となってきた造船業、金属鉱業などであった。第一次大戦中に異常な躍進をとげた造船業は、1919年の造船量(汽船)63.6万総トンをピークに21年には21.7万総トン、22年10.2万総トン、25年には4.8万総トンに減少した。金属鉱業、とりわけ産銅業は軍需の減少に加え、チリ、コンゴ等における大鉱山の開発、さらに、浮遊選鉱法などの新技術で低品位鉱を大量処理した低価格のアメリカ銅等との競争にやぶれ、これまで有数の銅輸出国であった日本は輸入国に転じた。表3は、造船業、金属鉱業における労働者数の推移である。


表3 船舶製造業・金属鉱業労働者数
年次船舶製造業金属鉱業
191795,899(85)165,151(100)
1918113,234(100)160,960(97)
1919104,007(92)100,800(61)
192086,178(76)78,842(48)
192174,675(66)45,423(28)
192252,235(46)40,080(24)
192346,487(41)41,971(25)

〔備考〕 船舶製造業は常時職工15人以上を使用する工場の12月末日現在数.『工場監督年報』各年による.金属鉱業は6月末日現在.『本邦鉱業の趨勢』各年による.

造船労働者は5年間で5分の2に、鉱山労働者は4分の1に減少している。もちろん、造船労働者は海軍工廠や機械工業の一部と、鉱山労働者は炭鉱労働者と共通する職務内容をもっているから労働市場における競争関係はこの数字が示すほどきびしいものではない。しかし、22年のワシントン軍縮条約により軍工廠でも大幅に人員が削減され、石炭鉱業も19年をピークに32年まで労働者数は減少を続けているので、労働市場における需給関係が労働者にとってきわめて不利であったことに変りはない。
 こうした状況を反映して、1920年5月以降、ストライキは急減した(表1参照)。要求別でも賃下げ反対、解雇手当増額などが主となった。しかし、従来とちがったのは、こうした不利な状況にもかかわらず、組合組織が維持され、労働者が積極的に反撃に転じたことであった。その事実は、21年7月のスト参加人員が2.7万人と1ヵ月間ではそれまでの最高を、第二次大戦前を通じても第2位を記録したことに現われている。


2 三菱・川崎争議

 この2.7万という数字は、主として神戸の三菱・川崎両造船所争議によって記録されたものである。この争議は、幾つかの点で従来見られなかった特徴を具えている。規模の点で戦前最大の争議であっただけでなく、その内容において、日本の労働運動が新たな段階に達したことを示す里程標ともいうべき争議であった。
 第1の、そして最大の特徴は、争議が個別経営の枠を越え、労資の階級対階級の抗争として意識的にたたかわれたことである。他の諸特徴も、この点と深くかかわっている。
 第2の特徴は、要求内容の新しさ、すなわち経済要求中心でなく、団体交渉権という権利問題が中心要求に掲げられたこと。
 第3は、労働者による工場管理が企てられたこと。
 第4は、争議が労働者側の敗北となり、自主的労働組合が企業内から追放され、代って労資の意思疎通機関として工場委員会が設けられたことである。
 それぞれの特徴について詳しく論ずる余裕はないので、第1の点を中心に見ておこう(22)
 よく知られているように、三菱・川崎争議は、それに先だって展開された大阪地方の一連の団体交渉権確認要求争議(23)に強い影響を受けて始められた。口火を切ったのは大阪電燈会社の争議であった。友愛会大阪聯合会は総力をあげてこれを応援した。続いて5月の藤永田造船所の争議では、同じ造船労働者の争議であったためでもあろう、神戸聯合会は大阪聯合会より早く、しかも4回にわたって争議支援の労働者大会を開き、「全国的横断組合を背景としたる団体交渉権の確認」を要求する宣言を発した。大阪では、住友3社(電線、製鋼、伸銅)でも団交権要求争議が組織され、友愛会大阪聯合会は、これらの闘争を通じて急速に組織を拡大した。
 これら一連の争議のピークをなしたのが三菱・川崎争議であった。6月25日、三菱内燃機に始まった争議は、7月2日川崎造船、4日同兵庫工場、5日三菱造船、11日三菱電機と急速に拡大した。この間7月4日には、友愛会神戸聯合会を中心に神戸の各労働組合は労働者大会を開き「聯合団」の名で神戸市内の工場主に「団交権確認」の申し入れをおこなった。争議は神戸製鋼、台湾製糖、ダンロップゴムなどにも波及した。
 川崎・三菱両争議団には友愛会員でない労働者が多数参加していたが、その指導に当ったのは賀川豊彦をはじめとする友愛会の役員であった。争議の最終段階では、友愛会は本部を神戸に移し、鈴木文治らが争議団総聯合本部の指導にあたった。友愛会傘下の組合を中心に、全国の労働組合から多数の「闘士」が応援にかけつけ、1万円を越えるカンパが寄せられた。
 一方、資本家側は、問題が「権利」にかかわること、しかもこれを彼等のコントロールの及び難い横断組合に認めることについてはきわめて非妥協的であった(24)。三菱三社・川崎造船はあいついでロックアウトに入り、多数の活動家を解雇した。7月12日、川崎争議団が工場管理宣言を発してからは弾圧は強化された。警察は市中デモを禁止し、貼り紙を制限し、多数の労働者を検挙、検束した。「軍器保護」の名の下に憲兵隊を派遣していた軍は、さらに歩兵1個大隊を駐屯させ、警戒にあたらせた。
 争議が長期化するにつれ、争議団の結束はくずれた。スト基金はなく、カンパは全て運動費や検挙者への差し入れに使われたから、争議団員とその家族は1ヵ月余を無収入で暮らさざるを得なかった。しかも不況下のストでは資本家に与える打撃は弱かった。7月25日、工場は再開され、職長層は御用団体を組織して争議団の切りくずしに奔走した。警察はピケを禁止し、就業者の保護に当った。もはや勝敗は明らかであった。8月8日、最高幹部会は就業を決定。12日には「惨敗宣言」を発して両争議団は解散した。友愛会員は川崎・三菱両造船所をはじめ、神戸の主要経営から追放され、友愛会最大の拠点の1つであった神戸聯合会は潰滅的な打撃を蒙った。


3 工場委員会制

 一連の団体交渉権要求争議に対し、資本家側は工場委員会制の導入で応じた。本来、横断的労働組合に対する団交権を要求していたはずの組合側も、その実現の見通しが困難なこともあって、次善の策として労働組合への加入の自由と工場委員会の設置要求に傾いていった。組合の代表が委員に選ばれることによって、工場委員会が事実上の団交の場となることを期待したのである。
 しかし、資本家側が意図していたのは自主的労働組合の代替物としての「意思疎通機関」であった。委員会は通常「従業員」の互選による委員、および同数の会社側の指名委員によって構成され、「協議・決定機関」ではなく、「諮問機関」あるいは「懇談会」でしかなかった。一般に委員会の議題から労働条件に関する件は除外されていた。
 この場合、もし自主的労働組合が維持され、「従業員」の多数がこれを支持して委員に組合の代表を送るようであれば、工場委員会は「意思疎通機関」から団体交渉の場に変りうる可能性をもっていたであろう。しかし、川崎・三菱争議をはじめ、資本家は自主的労働組合を企業内から追放するのに全力をあげたのである。
 すでに見たように、この時、労働市場における需給関係は決定的に労働者側に不利であった。もちろん、組合組織が強固であれば、労働市場が売手に不利であっても組織を維持することはできたにちがいない。しかし、この時、多くの組合はまだ生まれてから数年しかたっておらず、「従業員」の一部を組織していたに過ぎない。しかも、労働組合に対する法的保護はなく、逆にストライキを事実上禁止する治警法第17条をはじめ、弾圧立法が網の目のように張りめぐらされ、国家権力はこれを自在に適用して労働運動を抑圧したのである。
 争議を機として、経営側に忠実な労働者が登用され、非協力的な者は排除されていった。こうして、大勢としては、1920年代の末までにほとんどの大企業から自主的労働組合は閉め出されてしまった。もちろん、産業により、個々の経営によって、その時期や形態は異なっていたが(25)
 「意思疎通機関」の設置とともに、共済組合、購買会、診療所、寄宿舎、社宅など「企業内福利施設」の改善、充実がはかられ、労働者を企業内にまるがかえにする体制が強化されていった。基幹労働者は新規学卒者を中心に雇い入れ、企業内養成施設で技能訓練をおこなうとともに、経営に親和的な労働者をつくりあげるための「しつけ教育」が重視された。
 こうした過程を経て、大企業の労働市場はしだいに企業別に分断、封鎖されていった。長期勤続が一般化するにつれて、企業内昇進制度や、勤続年数あるいは「年功」に応じて昇給する制度が整備されていった。一方、臨時工制度が広汎に採用されて景気変動に対する調節機能をはたすとともに、「非組合的労働者選択の手段」ともなった。
 ところで、資本家側が、この時期、自主的労働組合に対処するために「意思疎通機関」の設置をもってのぞんだのは何故であったか。
 それは、資本家が、争議の原因を、何よりも経営の大規模化にともない、経営側と従業員の間の人間的接触の機会が失われたこと、そのため労資の意思疎通が欠除したことに求めていたからである。これは、問題の一面をかなり適確にとらえていたといってよい。
 鈴木文治はすでに1913年秋の社会政策学会において、日本の同盟罷業の特質を論じて、「その直接の原因は単に経済上の問題に基くに非ずして、道徳上或は人格上、或は感情上の動機に出づることが甚だ多い」事実を指摘し、「今日の職工は……何物より先に人としての待遇を求めて居る(26)」と述べていた。この指摘は、日鉄機関方争議、呉工廠争議、足尾暴動など数多くの事例で裏付けることができる(27)
 しかも、第1次大戦以後の労働争議、労働組合運動を体験した労働者は、「其の自ら選びたる代表者に依り親しく企業者と交渉せむことを望むの情甚だ切なるもの」(協調会「労働委員会法に関する建議案」)があった。このような労働者に対しては、労働組合の承認をもってするか、あるいはこれに代りうる機関を対置するほかはなかったであろう。もし仮に、第1次大戦中のような好況が長期にわたって継続していたならば、労働組合承認のコースがより一般化したかもしれない。しかし戦後恐慌後の状況は、大経営から自主的労働組合を閉め出すことを容易にしていたのである。


 4 労働運動思想の変化

 1 「地位向上」から「解放」へ

 ここで、第1次大戦後の労働運動思想の変化について見ておこう。
 最初、友愛会員ら先進的労働者をとらえたのは「デモクラシー」であった。初期友愛会の地位向上の要求は、主として労働者自身が修養を積むことによって一般社会の受容を期待するものであったが、しだいに「先づ吾人の人格を認めよ」という主張となっていった。そこでは、自己の修養だけでなく、むしろ資本家や監督者が労働者に接する態度を是正することが要求された。友愛会は親睦修養団体から、労働者の要求を貫徹するための団結体へと変化していった。1916年から17年が、この点での画期であったことはすでに見たとおりである。19年に展開された普選運動、労働組合公認運動、治警法改正運動もこの延長線上にある。
 すでに見たとおり、日本の労働者にとって労働組合は決して単なる「労働力の売り手の組織」ではなかった。これは、一つには組合が労働条件の決定に関して非力であったためであるが、同時に労働者が社会的差別に深い憤りを感じ、また大企業の処遇が非人間的な「人情」を欠いたものであることに強い不満を抱いていた事実の反映でもあった。
  我等の労働運動は決して単純なる金銭問題に非ず。勿論、賃銀問題待遇問題が労働問題の直接刺戟機線(ママ)なるは当然なるも、然も其原動力中心要求は意識的の人間解放であり、人間平等の容認を求むる自覚の絶叫である。資本家の専横と圧迫に対する権利の奪還的反抗運動である。雪辱戦である。生存権の主張だ。生活意志の高調である。我等は奴隷的屈辱的地位を逃れんとするのである(『労働者新聞』第12号、1919.6.15)。
 友愛会神戸聯合会の機関紙上での一労働者の発言は、労働者が労働運動に何を期待したかをはっきり示している。労働運動は「人間解放」「社会改造」をめざす運動たることを期待されていたのである。一方、この時期に多くの知識人が労働運動へ接近し、参加した動機も「解放」であり「改造」であった。
 しかし、この段階では「人間解放」への道すじ、「社会改造」の方法について具体的に論じられることはほとんどなく、その限りでは運動内部の対立はまだ顕在化していなかった。むしろ、かつては社会主義に強い拒否反応を示した友愛会も19年8月の7周年大会では「札つき」の社会主義者・堺利彦を来賓として遇し、懇親会にも招いて挨拶を求め、これを大喝采で迎えるようになっていた。
 この頃論壇では、「社会改造」に関する海外の「新思潮」がつぎつぎに紹介された。曰く、アナキズム、職工組合主義、ギルド社会主義、サンジカリズム、ボルシェビズム、IWW主義、修正社会主義、国家社会主義。


2 「サンジカリズム」

 これらの新思想のなかで、「デモクラシー」に続いて労働運動をとらえたのは「サンジカリズム」であった。早くからアナキズムの色彩が濃かった信友会、正進会など印刷工の組合だけでなく、友愛会でも、1920年には関東や、関西でも京都地方の活動家の間にその影響は拡がっていった。阪神地方ではギルド社会主義を信奉する賀川豊彦の影響が強く、同年10月の友愛会第8周年大会は議会政策か直接行動かをめぐって、関東側と激しく対立したほどであった。しかし、三菱・川崎争議の敗北を機に労働運動に対する賀川の影響力は衰え、「サンジカリズム」の全盛時代が到来した。
 もともとサンジカリズムの運動は一定の理論体系にもとづいて成立したというものではない。むしろ、ヨーロッパの社会主義政党の「体制内化」に批判的であった戦闘的労働者の間で展開された運動を理論化したのがサンジカリズムであった。
 日本の「サンジカリズム」もこの点は同じで、欧米のサンジカリズム理論にもとづいて形成された運動であるというより、この時期の労働運動に支配的であった諸傾向が「サンジカリズム」と呼ばれたのである。支配的な諸傾向は何かといえば、(1)労働組合運動の第一義的目標を階級制度の廃絶に置くこと、(2)普選運動など一切の政治運動の否定、(3)機械破壊など実力行使の容認、(4)知識階級指導者の排斥などである。
 注目されるのは、ここでは、ヨーロッパのサンジカリズム理論の核心をなすゼネスト論が欠落していることである。階級社会を廃絶するためには、政党を通じての運動では駄目で、純粋に労働者階級だけの組織である労働組合(サンジカ)の直接行動こそ決定的な意義をもつ、というのが本来のサンジカリズム理論の中心的命題であった。そこでは、直接行動とはストライキ、サボタージュ、とりわけゼネストを意味していた。これに対し、日本の「サンジカリズム」ではゼネストはほとんど問題にされず、かわりに戦闘的少数者による暴力行使が強調され、しばしば、この暴力行使が「直接行動」の名で呼ばれている。本来は、機械破壊等による生産阻害まで含む「サボタージュ」が、日本ではその一形態にすぎない組織的怠業としてのみとらえられ、ついには個人的に怠けることまで意味するようになったことと訳語一人歩きの好一対である。
 このような傾向は、もちろん日本の運動が置かれていた状況を反映していた。友愛会の総力を結集した三菱・川崎争議敗北の後で、ゼネストは問題になりようがなかった。これに対し、少数者による破壊は、労働者が機械ではなく意思をもった人間であることを示しうる点で、残された唯一の手段であると考えられた。ただ実際には、よく言われるほど、この時期の争議が破壊を伴なったわけではない。組織的に計画された打ち壊しは21年1月の足立製作所争議でおこなわれたに過ぎない。藤永田造船所、三菱・川崎争議等でも騒擾罪が適用されているが、いずれもデモが取締りの警官と衝突したものであった。ただし、いずれも未遂におわているが、大阪電燈争議の際は西尾末広らが、三菱・川崎争議では赤松克麿らがダイナマイトによる破壊計画を立てている。彼等は、大杉栄らのアナキストとは対立する立場に立っていたが、労働組合運動の目的を革命におき、少数者の実力行使を是認した点では、明らかに「サンジカリスト」であった。「アナ・ボル対立」のため決裂した「日本労働組合総聯合創立大会」の翌日、1922年10月1日に開かれた「ボル派」の中心・総同盟の第11周年大会は、創立以来の綱領を改正したが、その内容は、まさにサンジカリズムそのものであった。曰く「我等は労働者階級と資本家階級が両立すべからざることを確信す。我等は労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」(傍点引用者)。
 いずれにせよ、日本の労働者階級の先進的部分は、この段階ではじめて、一定の大衆的な拡がりをもって、資本主義社会の廃絶が自らの階級的使命であることを認識したのであった。
 では、何故、この時期に、労働組合運動が労資協調論からいっきょに「サンジカリズム」に飛躍したのであろうか。この点を主題にすえて検討した渡部徹は、「サンジカリズム期」に先だつ19年の後半、ギルド社会主義が労働運動の指導理論となり、これが接続項となって「サンジカリズム」が容易に受容されたと説いている(28)。ギルド社会主義は、日本の労働運動が模範としてきたイギリス産の理論であり、その主張の賃金奴隷の廃止、労働者自治の主張、反マルクス主義的性格が日本の労働者の問題意識と同質のもので、違和感なく受けとめられたことなどを指摘し、さらに、ギルド社会主義からサンジカリズムヘの転換の契機としては、1920年前半の普選運動の挫折と戦後恐慌をあげている。
 たいへんきめこまかな分析ではあるが、ギルド社会主義に関しては、それが論壇でもてはやされたほど労働運動全体に影響を及ぼしたといえるのかどうか、また、ギルド社会主義を接続項にしたことが「サンジカリズム」を容易に受容させたことは事実であるにしても、それが急速な「サンジカリズム」化にとっての不可欠な要因であったのか疑問が残る。より一般的な疑問は、運動を制約する客観的条件を「外在的要因」として軽視し、理論の果した役割を過大評価しているかに思われる点である。
 たしかに、戦後恐慌それ自体は運動の「外在的要因」である。しかし、そこで展開された労働者の運動体験、生活経験は単なる外的要因ではない。サンジカリズム理論が運動の「サンジカリズム」化を招いたというより、きびしい官憲の弾圧、容赦ない資本攻勢のもとで惨敗を続け、従来の運動方針の行き詰まりが誰の目にも明らかであったからこそ、サンジカリズムが急速に受容されたと見るべきではなかろうか。
 さらに付け加えれば、友愛会はじめ日本の労働組合が「労働力の売り手の組織」としては非力で、むしろ労働者の地位向上がその主たる関心事であったことが、アナキズム、「サンジカリズム」を抵抗なく受容させた重要な要因であったと考える。友愛会の「地位向上」の要求は、大正デモクラシーの高揚のなかで「人格尊重」「人間平等」の容認を求める要求に発展していたのであるが、これと総同盟の改正綱領「労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」こととの間に断絶はほとんど意識されていないのではないか。だからこそ、このきわめて重要な内容をもつ綱領改正がほとんど議論らしい議論なしに成立しているのである。実際、さきに引用した『労働者新聞』(19年6月)紙上の一労働者の発言は、第一次『労働運動』の創刊(同年10月)にあたって、その巻頭に掲げられた大杉栄「労働運動の精神」と論旨において全く同一である。先進的労働者がアナキズム、サンジカリズムを受け入れるのに、さして思想上の「転換」「飛躍」を要したとは思えない。


 3 「ボルシェビズム」

 労働運動が全体として「サンジカリズム」化したといっても、もちろん、統一的な運動が形成されたわけではない。運動内部では、組織的、人的な関係が錯綜していた上に、理論的、思想的な対立がしだいに顕在化していった。いわゆるアナ・ボル対立である。
 「アナ」「ボル」両派とも労働運動の目標に、労働者階級の解放、自由・平等の新社会の建設を掲げ、普選運動に否定的な点では共通していた。両者をわけたのは、労働組合運動の組織諭とロシア革命に対する評価であった。
 組織論をめぐる対立は、全国の主要な労働組合を集めた1922年9月の日本労働組合総聯合創立をめぐって激しく争われた。大杉栄らアナキストは、労働者の自主・自治を強調し、労働組合の「自由聯合」を主張した。一方、「ボル派」は中央集権的な資本主義に対抗するには、戦闘力の集中が必要であるとして組合の中央集権的合同を主張した。総聯合創立大会は、「合同主義」をとる総同盟系と「自由聯合主義」に立つ反総同盟系の主導権争いの場となり、労働戦線統一の企ては、かえって対立を激化させる結果となった。異なった立場の組織が、共通の敵に立向うための「協同戦線」は、言葉の上では提起されていたが、実際の運動ではほとんど考慮されず、両者とも、あるべき労働組合の組織形態について自己の原理の優越性を抽象的に主張するにとどまった。
 アナ・ボル対立のもう一つの対決点はロシア革命に対する態度であった。もともと、天皇制下の日本の社会主義者はツアーリの圧制下にあるロシアの革命運動に強い関心と共感を抱いていた。それだけに、ロシア革命の成功は、彼等に強い感銘を与えた。古くからの社会主義者だけでなく、第1次大戦後に運動に参加した青年も、ロシア革命とそれを成功に導いたレーニン主義への関心を強めた。中でも山川均は、雑誌『社会主義研究』等を通じ、ロシア革命、ボルシェビズムについて精力的に研究、紹介し、「ボル派」の指導的な理論家となった。
 一方、大杉らのアナキストも最初はロシア革命を支持した。大杉は堺・山川らよりも積極的にコミンテルンと接触し、第二次『労働運動』では「ボル派」の近藤栄蔵らと協力したほどであった。しかし、労農ロシアにおけるアナキスト迫害の事実を知るにつれ、大杉らはソビエトを非難し、「ボル派」と対立した。
 「ボル派」はアナキストとの理論闘争を通じて、次第に政治行動否定のサンジカリズム的傾向から脱却しはじめた。かくて1922年7月、コミンテルンからの積極的な働きかけもあって、日本共産党が結成された(29)
 共産党の結成は、日本の労働者階級の歴史において、これまで全く例のない新たな型の組織の出現を意味していた。第1は、共産党が非合法の秘密結社であったことである。治警法第1条は「政事結社」に届出の義務を課し、同第8条は内務大臣に結社禁止の権限を与えていた。社会民主党はじめ、従来の社会主義政党はこの規定に制約され、妥協的な綱領を掲げるか、結社禁止を覚悟して届出て直ちに禁止されてきた。共産党が非合法の秘密結社であったことは、こうした配慮を不要にした。審議未了に終ったとはいえ、22年テーゼ草案が「君主制の廃止」を要求に掲げることができたのは、このためであった。この党の出現によって労働者階級が自らの権力を樹立することが、はじめて実践的な課題となったのである。支配階級はこの事実をよく理解した。言葉の上では共通の内容をもつ総同盟の改正綱領が不問に付されたのに、共産党の創立は治安維持法の制定を必要としたのである。
 第2は、それがコミンテルンの日本支部として、国際的な革命運動組織の一部であったことである。日本が後進資本主義国であったことは、支配階級にとっても被支配階級にとっても、社会問題や労働運動が萌芽のうちから、問題の重要性や将来の発展方向を予見させ、先進諸国の経験に学ぶことを可能にしていた。しかし、この可能性を現実のものにする上で、被支配階級はきわめて不利な立場にあった。とくに、日本が極東の一島国であること、言語をはじめ異質の文化体系に属していることは、経済的にも、教育機会の面でも劣っている労働者階級が国際的な運動と交流しその経験から学ぶ上で大きな妨げになった。社会主義運動が、本来的なその担い手である労働者階級の間に容易に拡がらず、長い間知識階級を主たる担い手としたことも、この事実と深くかかわっている。
 一方、支配階級は常に運動がまだ芽生えのうちに、先手を打ってきた。治安対策が何よりも「思想対策」であった一つの理由はここにあった。
 コミンテルン日本支部の結成は、この点で日本の労働者階級が立ち遅れをとりもどすのに一定の役割を果した。22年テーゼ草案、27年テーゼ、32年テーゼ等が日本の運動に及ぼした影響を考えれば、それは明らかであろう。これらのテーぜをはじめとするコミンテルンの指導、国際共産主義運動との交流によって、日本の社会主義運動は思想運動、啓蒙運動の段階から抜け出し、現状の科学的分析にもとづき、意識的に運動を組織し指導することを学んだのであった。反面、彼我の理論的較差の大きさは、コミンテルンやソビエトの権威に対する盲従をもたらすなどマイナスの要因も小さくなかったのではあるが。
 このように、共産党の結成は、歴史的には一つの画期的意義をもっていたが、結成半年後の党員数58人が示すようにその組織勢力は決して大きなものではなかった。しかも、生まれたばかりの共産党は、組織的にも、思想的にも統一を欠き、その実態は従来の思想団体や労働団体の中心分子の連合体ともいうべきもので、後に「上海会議一月テーゼ」によってきびしく批判されたところであった。


 5 治安政策の転換と労働運動

 1 治安政策の体系

 第1次大戦後の労働運動の急速な発展は、支配階級に新たな対応策の確立を迫った。1919年の労働組合公認への動き、20年以降の強圧策への再転換等、試行錯誤を重ねながら、次第に新たな労働運動対策が形成されていった。
 ただ、この問題に入る前に、若干さかのぼって、政府の労働運動対策、治安政策について検討しておきたい。治安政策は、運動の展開を制約した重要な条件であるが、それについてほとんどふれてこなかったからである。
 第二次大戦前の治安立法というと、すぐ想起されるのは治安維持法であり、治安警察法である。そして、治安警察法といえば、第17条が問題にされ、多くの史書は、しばしばこれをイギリスの団結禁止法と同一視し、あるいはこれを「労働組合死刑法」と呼んで、ストライキはこれによって容赦なく取締られた、と述べている。しかし、この叙述は必ずしも正確ではない。
 第1に治警法第17条は、労働者の団結それ自体を禁じたものではなかった。「労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ協同ノ行動ヲ為スヘキ団結ニ加入セシメ或ハ妨クル」目的については、「他人ニ対シテ暴行・脅迫シ若ハ公然誹毀」することを禁じたに過ぎない。暴行・脅迫、公然誹毀はそれ自体、いずれも刑法上の罪であり、刑も一般に治警法より重い。実際上の効果としては、単純暴行や名誉毀損が親告罪で「告訴ヲ待テ之ヲ論ス」るものである点をはずしたに過ぎない。また実際、治警法によって解散を命ぜられたのは「政事結社」がほとんどで、労働組合で解散を命ぜられた事例は1928年の評議会が最初であった。第17条で一番問題になるのは、「同盟罷業ヲ遂行スル」目的で、「他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス」とした点にある。ストライキは、常に何等かの「誘惑、煽動」を伴なうものであるから、これでは事実上ストは禁止されてしまう。ストを禁じられた労働組合は、労働組合ではないという意味で、これを「労働組合死刑法」と呼ぶことは可能である。
 ただ、問題はその適用である。表4を見ていただきたい。1914年から1925年の間に第17条違反で検挙されたものは、他の法令違反との併合を含めても154件、1165人である。この間のスト件数は3208件であるから、同条の適用率は僅か4.8%に過ぎない。しかも検挙された1165人のうち、起訴猶予、不起訴等が半数を越える596人、無罪又は免訴が99人に達したのである。有罪は213人、1926年現在で未決が257人である(30)。これらの数字を見る限り、治警法がストを容赦なく取締ったとすることは正確ではないであろう。

表4 労働争議に伴なう犯罪検挙者数(警保局調査)
        (各年度とも上段件数・下段人員数)
種別

年次
騒擾罪同左と
他法令
との併合
治警法
第17条
違反
同左と
他の法
令違反
騒擾罪
と治警
17条併合
暴力行為
等処罰に
関する
法律違反
同左と
他の法
令違反
その他
の法令
適用
1914516
181432
1915516
64165
1916111113
1931959
19171211225
2813628174
191815626311566
910574172150341251,965
191958162637
1251961071296536
19202222228
179318511378
192115811364101
323705826157634
1922142833
6143-109213
19234421929
14816568237
192471213757
143764160383
192531214148
8524710205331
1926682113123171
726711574665993
1927533071109
34114267295710
19281674660
322060177289
65371391415720456789
2,1401,067913218344021342,0916,999

【備考】
 社会局労働部『昭和三年労働運動年報』414〜415頁「自大正三年至昭和三年労働争議に伴ふ犯罪検挙表」による。但し,原表には1928年の数字の一部に誤記があり,同書413〜414頁「昭和三年労働争議に伴ふ犯罪検挙調」を照合して訂正した.

 それでは、労働運動は治警法の下でも、予想以上に自由が保証されていたのか。無論そうではない。いつ適用されるかわからない第17条の存在自体が、労働運動に対する大きな制約であり、しかも資本家や警察は運動をおさえるために、この条文を最大限に利用して威嚇したのである。だが、ここで重視する必要があるのは、治警法や治安維持法を頂点とした治安立法の体系であり、またその適用が「当局」によって極めて恣意的に行なわれたことである。労働運動を制約したのは治警法第17条や治維法だけではない。これを補完し、ある意味ではより日常的に規制したいくつかの治安立法を見逃してはならない。たとえば、行政執行法である。治警法と同じ1900年に制定されたこの法律は、「暴行、闘争ソノ他公安ヲ害スルノ虞アル者」を検束する事を認めていた。この規定は、何等罪を犯していない者でも、警察が「公安ヲ害スルノ虞アル」と認めさえすれば、これを検束できたため、労働争議の指導者や応援者を「豚箱に泊め」て争議をつぶすのに愛用されたのである。この検束は「翌日ノ日没後ニ至ルコトヲ得ス」という制約があったが、形式的に釈放し、再検束することによって、何日間でも検束を続け得たのである。警察犯処罰令も労働運動者の身柄を拘束するのにしばしば用いられ、しかも違警罪即決令によって裁判によらず警察署長の即決で拘留や科料の言渡がおこなわれた。
 また、治警法第17条廃止と同時に暴力行為等処罰に関する法律が制定され、むしろ「争議にともなう犯罪」で検挙された件数、人員はともに急増している。26年は件数でこれまでの最高を記録し、人員で米騒動の年の1918年に次いでいる。同条の廃止はストを合法化したが、決して争議に対する取締りの緩和をもたらさなかったのである。
 さらに治安立法の体系のなかでも大きな比重をもっていたのは、言論、集会の自由を規制する諸立法である。この点でも治警法は重要で、集会に届出の義務を課し、警官がこれに「臨監」し、発言が「安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スルノ虞アリト認ムル場合」は中止を命じ、さらに集会そのものを解散させる権限を認めていたのである。
 新聞紙法や出版法も運動の発展に対する首枷となった。組合等の機関紙誌が「時事ニ関スル事項ヲ掲載スル」場合は、新聞紙法によって最高2000円、最低でも250円という高額の保証金を納めなければならなかった。「掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊」すと認められた時はビラ、ポスターに至るまで「発売頒布」が禁止され、差押えがおこなわれた。発禁を避けようとすれば「伏字」を用いざるを得なかった。
 こうした制約の下では、運動方針等について、公開の場で、大衆的に討議して誤りを是正することは容易でなかった。運動の経験が全体の共通財産として蓄積されず、同じ誤りが何回も繰り返されたのも無理からぬ点があった。


 2 労働運動の方向転換

 1923(大正12)年秋から24年にかけて、政府の労働政策は転換をとげた。23年10月の山本内閣による普選実施声明と翌年2月、清浦内閣の下でIL0労働代表の選出が労働組合の互選に改められたことが、その主内容である。
 一般にこの政策転換は、抑圧一辺倒から「飴と鞭」へと特徴づけられている。注目すべきは、この転換がともに法律制定によるものでなく、単なる政府の態度表明、行政的措置としておこなわれたことである。何故、25年の普選法成立、あるいは26年の治警法第17条撤廃を転換点としないのか。また、行政レベルでの組合公認の動きというのであれば、治警法第17条の適用緩和が表明された19年、あるいは労働組合法案の発表された20年を画期と見ることも可能ではないのか。
 結論から言えば、労働政策の転換点はやはり23〜24年であったと考える。理由は、これらの措置が、運動の側の「方向転換」をもたらすことに成功したからである。言い換えれば、これらの措置は、運動の方向転換をひきだし得たことによってその有効性が明らかとなり、第1次大戦後の労働運動対策は試行錯誤の段階を終えたのである。25年の普通選挙法と治安維持法、26年の治警法第17条撤廃は、いわばその仕上げであった。
 労働運動の「方向転換」を印象づけたのは総同盟の方針転換であった。山本内閣の普選声明から1月もたたない11月、総同盟は中央委員会で、普選実施の暁は選挙権を行使することを決定した。さらに、翌年2月の総同盟第13年大会はこの方針を確認すると同時に、ILOについても従来の否定方針を変更し、その「利用」を決定した。政府のILO労働代表選出方法の変更は、総同盟大会4日後の2月16日に発表された。官業労働総同盟も総同盟と同時に大会を開いてILO利用方針を決定しており、おそらく労働代表選出方法の変更は事前に組合側の一部に伝えられていたと思われる。
 総同盟の「方向転換」は、政府の普選声明に触発されたものであったが、その背後には、いくつかの要因が働いていた。
 その第1は、1921年から22年にかけて、総同盟、とりわけ膝元の東京が組織的に大打撃を受けていたことがあげられる。『大正十一年労働運動概況』によれば、22年末現在で東京の総同盟組合員は僅かに852人に過ぎない。とくに主力の金属機械工は、東京鉄工組合35人、東京電機工156人という惨状であった。21年1月の足立鉄工所争議、園池製作所争議における工場破壊や工場占拠等で多数が検挙されたこと、同年7月には東京聯合会が大会紛糾によって解体状態になったこと、同年11月には芝浦製作所、池貝鉄工所に企業別組合が出来、多くの組合員が総同盟を離れてこれに参加したことなどが、衰退の原因であった。『労働』21年1月号の棚橋小虎「労働組合へ帰れ」が先進労働者の反撥を買ったのに、『前衛』22年7・8月合併号の山川均「無産階級運動の方向転換」が総同盟右派まで含めた広い支持を得たのは、こうした状況の下で運動の新しい方向が模索されていたからであった。
 第2には、総聯合運動において総同盟が「自由聯合派」と対立したことは、総同盟内における「ボル派」の影響力を増大させると同時に、政治運動に対する否定的な評価を一変させていた。総同盟はじめ各組合が1923年の過激社会運動取締法など3悪法反対運動(31)に積極的に参加したことは、この傾向が総同盟だけでなく労働運動全体に拡がっていたことを示している。政治運動に対する積極的な姿勢という点で、運動の転換はすでに始まっていたのである。
 第3は、「鞭」の側面、23年6月の第一次共産党検挙、同年9月の関東大震災下のテロルの影響である。とくに震災下では、大杉事件、亀戸事件等の虐殺事件だけでなく、多数の社会主義者や労働運動家が軍や警察によって迫害され、リンチを加えられた〔注〕。この影響は多様であり、深刻であった。一部では弾圧に対する恐怖から運動を離れ、さらには積極的に反共連動を展開するものもあらわれた。しかし、反面では、検挙事件ではじめて共産党の存在を知り、非道なテロルに運動への決意を固めた者も生まれた。運動の「方向転換」にとって重要であつたのは、これらの諸事件を通じて、労働運動、社会主義運動が一般民衆の広い支持を得ていないことをあらためて認識させたことであった。その認識は左右を問わず共通していた。問題は、その反省にもとづいて新たにどの方向を選ぶかであった。
 第4は、これも広い意味での震災の影響であるが、震災による失業対策等を一つの契機として、鈴木文治と後藤内相はじめ内務官僚との接触が深まったことである。「飴と鞭」は普選やILOなどの「政策」面だけでなく、一部の労働運動指導者と内務官僚との「関係改善」の面でも進んだのである。ILOは両者の交流の舞台として大きな意味をもつことになった。創立時には鈴木文治が参加を拒否した協調会と労働組合の関係も変化しつつあった。たとえば、浜田国太郎は日本海員組合の活動援助の為、2万円の融資を協調会に申し入れている(32)。資金援助といえば、鈴木文治も「震災善後策の一端」として、総同盟内に「鮮人部」を設け、「鮮人労働者の保護救済、戸籍性行の調査、職業の紹介、相互理解の促進、思想の善導、感情の融和等の事業」を行なうため、年間1万2000円乃至1万5000円の援助を、朝鮮総督斎藤実に求めた事実が知られている(33)
 以上からもうかがえるように、総同盟の「方向転換」は、内部に左右の対立をはらみながら、さし当っては、投票権行使、ILO利用という具体的な方針における結果的一致にもとづいて進められたのであった。


 3 総同盟分裂と各派の特徴

 政府の労働政策の転換は、総同盟だけでなく、労働運動全体に影響を及ぼした。ILO労働代表の公選は、事実上政府が労働組合を公認したものとうけとめられた。その結果1924年1年間だけで10.2万人もの組合員が新たに組織され、23年末現在の組合員数12.6万人は、1年後には22.8万人に達し、組織率は3.2%から5.4%と大幅な伸びを示した(34)。ただし、労働組合運動としての実質は、この数字が示すほど急速に拡大したわけではない。10.2万人のうち4.7万人は、海軍工廠の共済組合が当局の支持のもとに、急遽、労働組合に衣更えしたものであった。
 一方、総同盟の「方向転換」は、左右両派が一致して進めたものであったが、その具体化の過程で、両派は次第に対立を深め、遂に25年5月には組織を2分するところまでいってしまった。総同盟の第一次分裂である。
 数字の上だけで見れば総同盟は分裂前の24年末現在でも僅かに2.9万人にすぎず、組織労働者全体の13%弱を占めていたに過ぎない(35)。しかし、総同盟は、歴史の古さからいっても、労働争議に対する関与率の高さに端的に示される労働組合としての実質を備えていた点でも、飛びぬけた力をもっていた。総同盟が日本の労働組合を代表する組織であることは、最初の公選ILO労働代表に鈴木文治が選ばれた事実に見られるように、自他ともに認めるところであった。だからこそ、総同盟の「方向転換」は日本の労働運動の「方向転換」であり、その分裂は、日本労働組合運動の分裂を意味したのである。
 それだけではない。労働組合の分裂は、「無産政党」の分立と深くかかわっていた。総同盟第一次分裂をもたらした左右の対立は、一旦は成立した「単一無産政党」の分裂を結果し、政党の分裂はさらに総同盟第二次分裂を惹き起したのである。かくて、日本の労働運動は、左、右、中間の三派が鼎立するところとなった。無産政党各派はその支持基盤を確保するために、その他の労働組合や農民組合等に働きかけ、各組合もまた、政治的発言の場を求めて何れかの無産政党と結びついていった。こうして、総同盟分裂は、連鎖反応的に、これまで対立抗争の圏外にあった団体までまき込み、「無産階級運動」全体の分裂をもたらしたのである。
 ここで形成された対立関係は、第二次大戦以後、今日までにいたる対立の「原型」となった。その意味で、総同盟第一次分裂の影響はきわめて深刻なものがある。したがって、この問題については、とりわけ綿密な検討が要求される。さらにまた、総同盟分裂から評議会解散までの3年間は、よきにせよ悪しきにせよ、左、右、中間の三派が、相互に対立し競合しながら、積極的、意識的に運動を展開した時期である。ある意味では、第二次大戦前の労働運動の全歴史を通じて最も内容豊富な時期であるが、この時期についての研究は、まだ始まったばかりであり、事実についても不明の点が多い。
 しかし、すでに紙数も尽きてしまったので、ここでは、総同盟の二回の分裂で生まれた左、右、中間の三派の組合について、ごく大まかな特徴を述べてむすびに代えたい。
 右派の日本労働総同盟を主導したのは鈴木文治のほか、松岡駒吉、西尾末広、三木治郎、金正米吉ら友愛会生え抜きの、大経営の熟練労働者出身の活動家であった。彼らは「現実主義者」であることを誇り、「健全なる労働組合主義」を標榜して組織の安定的な維持・発展に努めた。具体的にはストを極力おさえる「争議統制」をおこない、また団体協約締結運動を展開したのである。総同盟が共産主義に強く反対し、「現実主義」路線を採用したことは、内務官僚や資本家の一部からは高く評価された。しかし、工場委員会・会社組合で固めた大経営は従業員が外部の勢力と結ぶことを好まず、総同盟といえども組織化を許さなかった。このため、総同盟が団体協約を結び得たのは評議会などの戦闘的組合の侵入をおそれ、争議に手を焼いた小規模経営が主であった(36)
 総同盟は海員組合、官業労働総同盟と結んで社会民衆党を支持し、また組合運動の多数派を構成してILO労働代表選出などで共同歩調をとった。とくに評議会解散後は、完全に日本の労働組合運動の主流を形成した。しかし、総同盟が果してその模範としたイギリスの労働組合のような「労働力の売り手の組織」として機能しえたといえるかどうかは疑問である。
 中間派は、1926年12月の日本労農党結成にともなう総同盟第二次分裂によって生まれた日本労働組合同盟である。この派の主導権を握ったのは麻生久、河野密、浅沼稲次郎、加藤勘十ら初期新人会や建設者同盟出身の知識人であった。しかし、彼等の活動の重点は政治運動にあり、組合同盟の中心となったのは棚橋小虎、菊川忠雄らの知識人と、可児義雄、高梨二夫(鉱夫組合)、望月源治(関東合同)、岩内善作(紡織)、藤岡文六、安芸盛(兵庫県聯)ら「ストライキマン」的活動家であった。
 組合同盟の主力組合は日本鉱夫組合、関東合同労働組合、関東紡織労働組合の3組合で公称人員は創立直後の27年1月現在で約2万人であった。しかし、実勢はその半分以下であったと見られる。主力組合は関東に限られ、29年9月の総同盟第三次分裂によって生まれた労働組合全国同盟と合同して全国労働組合同盟を結成する(30年6月)までは全国組織としての実態を欠いていた。全国一の工場労働者を擁し、争議件数でもとび抜けていた大阪府に全く組織を欠き、また伝統的に運動の主力であった金属労働者の間に基盤を持たなかったこと、主力組合が組織的にきわめて不安定であったことも組合同盟の大きな弱点であった。このため日本労農党は組合同盟以外にも支持基盤を求めざるを得ず、反総同盟の立場で結集していた日本労働組合総聯合をはじめ司厨同盟、製陶労働同盟、それに日本農民組合の一第一次大戦前後の労働運動と労使関係部(1927年3月全日本農民組合となる)を加えて日本労農総聯合を組織した。
 左派は総同盟第一次分裂で生まれた日本労働組合評議会であった。評議会の実権を握っていたのは言うまでもなく共産主義者であり、評議会は労働農民党とともに日本共産党の合法部隊として、事実上、非合法の党組織を代行するものとなりがちであった。ところで、日本共産党にとって、総同盟内の左右対立が激化した1924年から評議会解散までの4年間は、思想的・理論的に、また組織的にも激動期で、評議会もその指導下にあって大きくゆれ動いたのである。
 評議会を直接指導したのは渡辺政之輔、杉浦啓一、鍋山貞親、国領五一郎、三田村四郎らで、多くは大衆的基盤を欠く「思想団体的小組合」出身の労働者であった。また、後期新人会員はじめ少なからぬ数の知識人・学生が活動に参加したが、主に無給の組合書記や研究会のチューターとしてであり、友愛会時代とでは知識人の組合内の地位は大きく変化している。
 評議会は創立当初から積極的に争議に関与し、組織を拡大した。内務省調べでも、分裂当時の1万0778人から26年末には2万2361人と組合員を増し、第二次分裂によって減少した総同盟と肩を並べた。総同盟が大阪、東京等の大都市中心であったのに対し、評議会は北海道、東北、中部、中国、九州地方の中都市にまで組織の網をひろげた点に特色がある。総同盟と同じく、主たる組織基盤は中小経営にあったが、京浜地方では石川島造船所、芝浦製作所などにも喰いこんでいた。
 評議会が存在したのは、僅かに3年足らずであった。しかし、その間、評議会が日本の労働運動に新たにつけ加えたものは決して僅かではない。何よりも、一定の理論、政策にもとづいて運動を意識的に組織し、指導することは、評議会によってはじめて本格的にとりくまれたことであった。失業反対運動、健康保険法実施に際し保険料の全額を政府・資本家負担にすること等を要求した運動、5法律(失業手当法、最低賃金法、八時間労働法、健康保険法の改正、婦人・青少年労働者保護法)獲得運動が提起され、実行に移された。また、きびしい弾圧に耐えてストを持続するため、秘密指導部を設け争議日報を通じて争議団を指導すること、工場代表者会議や工場委員会の自主化などは評議会が編み出した組織戦術として周知のところである。
 このような積極的な活動にもかかわらず、それ自体の直接の成果は限られていた。しかし、評議会の活動が日本の労働運動全体に及ぼした影響を無視することはできない。左派が大きな勢力をもっていた日本交通総聯盟はいうまでもなく、組合同盟や総同盟といえども評議会の活動を意識しない訳にはいかなかった。また、評議会の存在こそが支配層に総同盟の役割を評価させる一つの大きな要因であった。その意味でも、1928年4月10日、評議会中央およびその傘下の九地方評議会に対する結社禁止命令は、単に左翼労働運動に対する弾圧にとどまらず、日本労働組合運動そのものに対する禁圧の第一歩となったのである。




【注】

(1) 争議を手がかりに労働運動の発展段階、特質をさぐるという問題意識、方法とその研究史的背景については、二村一夫「労働運動史(戦前期)」(労働問題文献研究会編『文献研究・日本の労働問題》増補版《』総合労働研究所、1971年)を参照願いたい。1970年以前の文献については同論文で紹介したので、本稿では主としてそれ以後の研究に限って注記した。

(2) 当初は労働者状態についても、検討したいと考え、準備は進めたが、最終的には断念せざるを得なかった。理由はこの時期の賃金統計がそのままでは全く利用に堪えないことが主たるものである。本稿の対象時期については1900年以降、農商務省が全国の商工会議所に命じて実施した「諸傭賃金」が時系列的比較が可能な賃金統計として知られている。しかし、その信頼性は、当の農商務省統計課長呉文聡をして「各商業会議所の報告は甚しく区々なりて、疑問百出して殆んど信じ難きもの多し」と嘆かせたほどのものであった。しかも、賃金率と賃金所得の区分を欠くという致命的な欠陥がある。このような数字を表示しても、賃金の実態は明らかにしえず、むしろ事実を誤って伝えるおそれがある。また、この統計が戦後恐慌のおきた1920年に調査様式を変更したことも、時系列比較を最も必要とする時に、これを不可能にする結果になっている。

(3) 隅谷三喜男解説『職工および鉱夫調査』(光生館、1970年)〔二村一夫書評参照〕所収。なお、この調査にはかなりの脱落がある。青木虹二、『日本労働運動史年表』第1巻(新生社、1968年)は、本稿の対象とする時期についての労働争議を典拠を附して網羅した労作であるが、1907年については争議行為を伴なわないものを含め238件を記録している。ただし、このうちには、落語家や娼妓の争議まで含まれており、労働争議としては200件余、そのうち同盟罷業は150件程度である。

(4) 横山源之助「東京の工場地及工場生活のパノラマ」(『日本労働運動史料』第3巻、1968年、13頁)。

(5) 兵藤釗『日本における労資関係の展開』東京大学出版会、1971年、203〜213頁。〔同書については二村一夫書評参照〕

(6) 1906年現在で呉工廠、東京砲兵工廠各2.3万人、大阪砲兵工廠1.6万人、足尾銅山1.3万人等である。鉱山、官営工場は男子労働者の最大の結集点であった。

(7) 鉱山や軍工廠で労働争議が多かった背景の1つに、これらの産業における労働災害の発生率の高さがある。労働災害が運動参加の契機となった組合活動家の例は山本利一(至誠会)、福田龍雄、安藤国松、小泉七造(以上友愛会)、高島信次(全国坑夫組合)、北島吉蔵(南葛労働会)等、少なくない。平沢計七の作品のテーマを見ても、この問題がこの期の労働運動で大きな意味を持っていたことがうかがえる。

(8) この期の争議を1907年の恐慌と結びつけて説明する見解があるが、誤りであろう。1907年の上半期は依然として前年後半からの企業熱が続いていた。南らの同盟退職の呼びかけも「戦後ノ経営トシテ鉱業事業到ル処ニ勃興シ、労働者ヲ待ツコト切デアル」という事実に裏づけられていたのである。むしろ恐慌は1908年以降の争議退潮の一因であった。

(9) 広島県社会運動史刊行会『広島県下の明治社会主義運動と呉海軍工廠のストライキ』1966年。

(10) 労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第2巻、1963年、93頁。

(11) 「同盟進工組」に見るように、全く例がない訳ではない。なお、鉱山労働者の場合には若干事情が異なる。ここでは、1910年代まで採鉱作業が機械化されず、或る程度技術的な連続性が存在したこと、また日本は古くから世界有数の産銅国であり事実上の賃労働者がすでに徳川時代に相当数蓄積されていたことなどから、自生的な運動、自生的な組織が存在した。「友子同盟」がそれである。ただし、ここでも労働条件等を自律的に規制する慣行は弱かった。また、徒弟期間について「三年三月十日」といった規定はあったがほとんど空文化していた。この事実は日本において労働組合が労働力商品販売者の組織として、きわめて弱体であったことと深くかかわっている。クラフト・ギルドと労働組合の関係については、ウェッブによるブレンターノ批判を通じて、両者に系譜的な関係のないことがよく知られている。しかし、われわれとしてはギルドが確立したところの社会的慣行、自律的規制の伝統を抜きにしては、クラフト・ユニオンが成立しえなかったことをこそ重視すべきであろう。

(12) 金属労働者の経歴で注目されるのは、官営工場で労働生活のスタートを切った者が多いことである。また、組合活動家には中途退学者、進学断念者が多い。労働者全体の傾向を反映しているに過ぎないのか、運動参加者にその傾向がとくに強いのか必ずしも明らかではないが。帝大法学士が直ちに労働運動指導者となり得たこと、反面、知識階級排斥論が大きな影響を持ったことなども、こうした傾向と深いかかわりを持っていると考えられる。

(13) 兵藤釗、前掲書、90頁、322〜323頁。ただし、1919年の民間工場の労働者数は『工場監督年報』に依る。注(15)参照。

(14) 石田幸成編『室蘭地方労働運動史』1961年、18〜26頁。なおこの点に関しては池田信氏の教示を得た。

(15) この数字〔開戦の年1914年の工場労働者数は95万人、1919年に161.2万人〕は農商務省『工場統計表』による5人以上規模工場のものである。第1次大戦中の労働者階級の増加を示すものとして常に引用される数字であるが、その信頼度には大きな疑問がある。たとえば、1919年末現在の府県別数を、『工場監督年報』(第4回)の「常時十五人以上ノ職工ヲ使用スル工場」の職工数とくらべると、北海道、富山、山梨、長野、長崎、大分の6道県で『工場監督年報』の数字の方が多く表出されている。とくに長崎県の数字は『工場監督年報』が2万5505人であるのに対し、『工場統計表』では僅かに8856人である。このうち船舶製造業は281人で、明らかに三菱長崎造船所が脱落している。1920年の『工場統計表』では長崎県は総数2万6967人、うち船舶製造業1万7768人である。このため、『工場統計表』の機械及器具工場の労働者数は19年が25万6876人、20年が26万5137人と増加している。一方『工場監督年報』では19年が28万人、20年が24万人と4万人の減である(表2参照)。工場側の申告をそのまま集計した(自計式)『工場統計表』より、工場監督官の工場臨検によってチェックされていた『工場監督年報』の数字により高い信頼をおくべきであろう。なお、他計式で職工10人以上規模を調査した『農商務統計表』の職工総数の場合も、1918年を除き、毎年15人以上規模の『工場監督年報』より少ないというおかしな結果になっている。

(16) 職工以外の人夫は『工場統計表』、官営工場労働者は『第三九回日本帝国統計年鑑』、鉱山労働者は『本邦鉱業の趨勢』、通信労働者は『逓信省年報』による数字。以上いずれも労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第10巻、1959年による。運輸労働者は第1回国勢調査の運輸業本業者のうち労務者の数である。内閣統計局『大正九年国勢調査報告 全国の部 第二巻』1929年、による。ただし、国勢調査では他産業内での運輸従事者も計上されており、運輸産業労働者数としては過大である。

(17) 1919年1月24日、貴族院本会議における山脇玄の質問に対する原首相の答弁。『官報』号外、大正8年1月25日付『第四一回帝国議会貴族院議事速記録』第3号。

(18) 1919年2月3日、衆議院予算委員会における片岡直温の質問に対する床次内相の答弁。『第四一回帝国議会衆議院予算委員会第二分科会会議録』17ページ。

(19) 大原社会間題研究所『日本労働年鑑』大正9年版、905頁。

(20) 海員の場合は、一般に特定の船会社に常傭されず、航海ごとに雇用契約を結んでいたから、企業別組合の成立する条件はほとんどなかった。また、下船即失業であるから、海員は常に職業紹介機関の必要を強く感じていた。高級船員については、海員協会が早くから事実上労働力供給を独占していたが、一般船員については職業紹介を主たる機能とする労働団体が多数存在した。1920年、第2回ILO総会で「海員ニ対スル職業紹介所設置ニ関スル条約」が採択され、これが、船舶所有者と船員の代表団体との協同事業として無料の職業紹介制度を確立すべきことを命じていたことから、1921年5月、日本海員同盟友愛会(友愛会海員部改称)など23団体が合同して日本海員組合が成立した。海運業では、主要な生産手段たる船舶は労働者の管理下にあり、資本の直接の監督が及び難いこと、争議に際して警察の介入も困難であることなどから、陸上労働者とはちがって、労働者側が比較的有利な条件にあった。また、資本の側も、船舶単位、企業単位で労働条件を切り下げ、利潤を増大させることに限界があるため、単一組合との統一交渉によって全体として労働条件をおさえる方法をとった。こうしたことが、比較的強固な産業別組織が成立し、維持された理由であろう(笹木弘『船員政策と海員組合』成山堂書店、1962年、参照)。

(21) 青木哲夫「労働組合同盟会の歴史的意義」(『歴史評論』265号、1972年8月)。
(22) 兵藤釗、前掲書、池田信『日本機械工組合成立史論』日本評論社、1970年、参照。

(23) 福本茂雄「総同盟大阪連合会と労働委員会(1)(2)」(『大阪百年史紀要』第2号、第3号)参照。

(24) 第二次大戦前の日本では資本家階級は「権利問題」に一貫して強い反対の態度をくずさなかった。この点がとくにはっきりあらわれているのは、労働立法に対する強い反対運動である。彼等が危惧したのは、法案の内容だけでなく、法制化それ自体であった。立法が労資間の権利・義務関係を明確化し労働者の権利意識を育てることをおそれたのである。労働組合法が成立しなかったのも、資本家の反対によるところが大きい。彼らは産業報国会の法制化に対してさえ反対したのである。もちろん彼等の危惧には根拠があった。永岡鶴蔵が最初に指導したストは鉱業条例の遵守を要求するものであった。また、1916年の工場法施行がどれほど労働者の権利意識を育てたかは、『労働及産業』の2回の工場法特集などを見れば明らかである。労働者は工場法の内容には強い不満を示したが、資本家といえども守らなければならない規範が設けられたことを評価し、規制の強化を要求したのである。

(25) 鉱山業では工場委員会制をとらず、一般に「意思疎通機関」と共済組合を一体化した「会社組合」が、1919年〜20年に導入されている。また石川島造船所、横浜船渠、浦賀船渠等、京浜地方の一部の重工業大経営では「意思疎通機関」と同時に企業別の労働組合が存在した。なお、軍工廠、八幡製鉄所などでは、一定の枠内で労働組合の存在が認められていた。

(26) 社会政策学会編『労働争議』同文館、1914年、205頁。

(27) 日本鉄道争議の第一の要求は、「書記同等の待遇」と「機関方を機関手、火夫を乗組機関生、掃除夫を機関生とする職名改称」などである。足尾で至誠会が労働者によびかけた「供給米の改善」は、役員だけに内地米を供給し、労働者には「南京米」しか供給しないことの是正であった。また1921年の川崎造船所争議の直接の原因は、創業25周年記念金の分配の不公正と職工の死亡事故に対する会社側の「冷淡な処置」であった。こうした傾向は、現在の労働争議においても根強く存在している。たとえば、労働条件に対する不満が、経営者側の「誠意のなさ」として問題にされることは、しばしば見られるところである。

(28) 渡部徹「1918年より21年にいたる労働運動思想の推移」(井上清編『大正期の政治と社会』岩波書店、1969年)。

(29) 「第一次共産党」の成立については犬丸義一が「日本共産党の成立をめぐって」(『現代と思想』第21号所収)はじめ数多くの論考を発表している。

(30) 社会局『大正十五年労働運動年報』439頁。

(31) 松尾尊兊「1923年の3悪法反対運動」(渡部徹・飛鳥井雅道編『日本社会主義運動史論』三一書房、1973年)。

〔注〕 原文では「震災下では、大杉事件、亀戸事件等の虐殺事件だけでなく、多数の社会主義者や労働運動家が軍や警察だけでなく自警団等によって迫害され、リンチを加えられた。」と記していた。震災下で自警団が朝鮮人、中国人に迫害を加えたのは事実であるが、社会主義者や労働運動家を迫害した事実は確認されていないので、下線部分は削除した。この誤りを指摘された佐藤冬樹氏に感謝する(2006年9月28日記)。

(32) 荒川実「日本海員組合近状」(協調会部内文書『海員労働団体(1)』)。

(33) 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』岩波書店、1971年、139〜141頁。

(34)  戦前と戦後では組織率算出のための分母の基準が異なることに注意されたい。国勢調査によって西岡孝男が推計したところによれば、戦前最高の組織率7.9%(1931年)は、戦後基準では約4.5%であるという(『日本の労働組合組織』日本労働協会、1960年、164員)。

(35) 社会局『大正十三年労働運動概況』3頁、17頁。

(36) 川崎、兵庫、小倉の3工場で約2000人の東京製綱株式会社が例外的に大きいだけで、大半は100人未満である。『総同盟五十年史』第2巻、同刊行委員会、1966年、265〜336頁参照。




 初出は「労働者階級の状態と労働運動」(編者より与えられた題)として『岩波講座 日本歴史』第18巻『近代5』(岩波書店、1975年9月刊行)所収。




【関連論文】



法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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