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高野房太郎とその時代【追補3】




大田英昭氏に答える
  ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3) ─



 

4. 大田英昭氏「二村批判」への反論

1. 無名の青年が社説を執筆した筈はない、か?

 前回までで、家永三郎氏による「蘇峰証言」の後半部分、つまり「労働者の声」の筆者は竹越か山路であらうとの言葉は、蘇峰の記憶違いであったことを論証し得たと考えます。
  今回は「大田英昭氏に答える」の最終回で、氏による「二村批判」*1について検討し、その批判が成り立ち得ないことを明らかにします。以下、大田氏による二村批判の諸論点を、ひとつひとつ検証します。

  最初に取り上げるのは、民友社と関係のない無名の青年が、社説を執筆した筈はない、と大田氏が主張されている問題です。大田氏が「二村批判」を開始した契機は、おそらく「蘇峰証言」にあったと思われます。しかし、氏が「高野房太郎説の誤り」を確信したのは、この問題点を「発見」されたからだと推察されます。以下、ご本人の言葉をそのまま紹介します。

  民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われることを主張するのに、二村の挙げる論拠は説得力を欠くといわざるをえない。

 さらに大田英昭氏は、私の今回の論稿「大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論」(最初のタイトルは「再論・〈労働者の声〉の筆者は誰か ─大田英昭氏に答える」でしたが、5月15日に現在の名称に改めました。)の第1回分を掲載して間もなく、同氏のブログ《長春便り》に「二村一夫氏の反論に答えるーー「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」を公開されました。その批判の中心点は、やはり、この問題で、「『国民之友』の社説欄を外部筆者が執筆する筈はないというのが、研究者間の〈共通認識〉」であるとして、次のように論じています。

 「労働者の声」は、『国民之友』の「国民之友」欄に掲載された論説である。家永氏はこの「国民之友」欄について次のように説明している。「無署名であって、民友社の主義主張を発表する場所であり、蘇峰の政治的抱負を吐露するための欄である。従って大部分は蘇峰の執筆にかかると思われるが、なかには他の社員が執筆した文もあった」(「『国民之友』」『文学』23号、1955年1月)。また『国史大辞典』には北根豊氏による次の説明がある。「「国民之友」欄は社説欄に該当するところで、無署名であるが民友社すなわち蘇峰の主義主張を掲げた」(『国史大辞典』第五巻〔吉川弘文館、1985年〕)。
  「国民之友」欄に掲載された論説は『国民之友』の社説であり、蘇峰ないし蘇峰に代わる民友社員の記者が無署名で執筆し、民友社の主義主張を掲げたものである、という見解は、現在に至るまで、『国民之友』を史料として研究する者の共通認識であろう。例えば、民友社研究で著名な西田毅氏がその著書『竹越与三郎』〔ミネルヴァ書房、2015年〕で、「民友記者として重用された三叉は、蘇峰とともに『国民之友』と『国民新聞』の社説を書いたが、のちに人見一太郎も三叉が書く社説の一部を執筆するようになった。『国民之友』の方は山路愛山も書くようになったという」(64頁)と記しているのも、同様の認識によるものだろう。

 一般論として、『国民之友』の社説欄=「国民之友欄」が、主筆の蘇峰をはじめとする民友社の論説記者による執筆枠であったことは、私もまったく同意見です。辞典レベルの記述なら、こうした解説で十分です。僅かな例外の存在など問題にする必要はありませんから。
  しかし、家永三郎氏が徳富蘇峰に質問した言葉が「〈労働者の声〉が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものか」*2だけであったのは、氏がこうした「常識」に縛られ、「思い込み」の上に立って質問していたからでしょう。歴史研究者としての家永三郎氏は、本来なら、ここで「〈労働者の声〉は民友社の社論であったのか否か」についても質問しておくべきだったと思います。この問いを発していれば、あるいは別の答えが得られたかもしれないのです。
   『国民之友』に掲載された労働問題に関する論説は、「労働者の声」を除けば、すべて「特別寄書家」によるものでした。家永氏は、『国民之友』の社説欄で「労働者の声」が例外的な論稿であることを認識し、ほかに労働問題に関する論説が皆無であるのは何故かを疑い、問うべきでした。
  この点に関連して、大田英昭氏は、「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではない」と述べています*3
  はたして民友社は一時的にであれ「労働者の組織化に熱心」だったと言えるのでしょうか? 私はそうは考えません。その根拠は、以下の通りです。
  『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です。
  さらに、立命館大学人文科学研究所が作成した『国民之友総索引』*4で、「労働」に分類されている論説、記事は、総数で34本です。1号平均50本掲載されているとして、372号分で18,600本中の34本です。『国民之友』の労働問題への無関心さは、この数値に明瞭に示されています。つまり徳富蘇峰を主筆とする『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいないのです。
  「労働者の組織化への熱意」がまだ高かったではずの時期、つまり「労働者の声」が掲載されたその年、1890(明治23)年前半期の第6巻を例に、より具体的に見てみましょう。第69号から第86号までの計18号が発行されています。この間の「時事欄」の記事の総数は462本、1号平均25本余です。この多数の記事の中で広い意味で「社会・労働問題」に関連する記事は、以下の通りです。見出しの列記が可能なほど、数が少ないのです。内容を読むと「社会・労働問題」ではないものもありますが、ここでは、見出しで社会・労働問題らしいものは、あえて含めました。「社会各職業の大会」(76号)、「聖上の御慰問、貧民」(79号)、「米価の騰貴と貧民の乱暴」(79号)、「米商貧民を救う」(79号)、「小作人同盟の解散」(81号)、「社会問題の端」(81号)、「日雇人夫と小農」(84号)以上7点です。なお、この7点のうち、『総索引』の「労働」の項に分類されているのは、「小作人同盟の解散」以降の3点だけです。ご覧になってすぐ気づかれるでしょうが「労働者の組織化への熱意」と呼びうる記事は、ただの1つもありません。
  ここで、大田英昭氏に伺いたい。「労働者の声」や「労役者の組合」を掲載したこと以外に、徳富蘇峰、竹越三叉らが、彼らの生涯にいおいて、何時、何処で、またいかなる形で「労働者の組織化」を企てたり、応援する活動を展開していたのでしょうか? 「熱意が冷却」する前の実態を、ぜひお教えいただきたいと思います。
 
  私の反論に対する、大田氏の新たな主張は、さらに以下のように続きます。

『国民之友』社説の位置づけをめぐって当事者や研究者の間で長年共有されてきた事実認識を、二村氏があえて疑い、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)などという主張を維持したいのであれば、まず『国民之友』社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例を挙げることが、最低限必要だろう。さもなければ、「労働者の声」の筆者=高野房太郎説は、二村氏の願望の表現にすぎないといわねばならない。

 承知しました。私の主張が単なる「願望の表現」ではないことを証明しましょう。私が「労働者の声」の筆者は民友社の社員ではなく、社外筆者によって執筆された論稿ではないかと考えたのには、それなりの理由があります。
  そのひとつは、先に述べた『国民之友』に労働問題に関する論説や記事が極めて少ないことです。どうみても民友社内には、「労働者の声」を執筆しうる知識・見識をもった人物がいそうにないことでした。
  もうひとつの理由は、『国民之友』が社外筆者からの寄稿を前提とした編集方針を採用していた事実です。『国民之友』創刊時に、民友社は、以下のような「寄書之規約」*5を定め、社外筆者による寄稿を受け容れる姿勢を明示していました。

        寄書之規約
  一 凡ソ我雑誌(国民之友)ニ採録スル寄書ハ編輯者ト原稿交換其他本社ト格別ノ約束アルモノノ外此規約ニ従フモノトス
  二 寄書ノ論説ハ必シモ本社ノ主義ト合スルヲ要セズト雖モ採録ノ許否ト報酬ノ多寡トハ専ラ編輯者ノ定ムル処ニ拠ル
  三 寄書ハ之ヲ通常特別ノ二種ニ分チ通常寄書トハ一般ノ投書家ヨリ寄贈スルモノ、特別寄書トハ特ニ本社ノ乞ヒニ応シ投書スルモノヲ云フ〔後略〕

  つまり、『国民之友』は、創刊当初から、「本社ノ主義」に縛られない、「一般ノ投書家ヨリ」の投稿=「通常寄書」を受け容れることを決めていたのです。『国民之友』については、著名人に「特別寄書家」を委嘱し、毎号数多くの「特別寄書」を掲載していたことが知られています。実際に「特別寄書欄」は常に社説の次に置かれ、中江兆民、尾崎行雄、植木枝盛ら著名人の寄書も多く、目立つ存在でした。さらに、文学を中心とする文化欄ともいうべき「藻塩草」には、森鴎外、二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉、幸田露伴といった、日本文学に新たな時代を画した作家が多数登場し、注目されて来ました。しかし実際には、特別寄書家以外の「一般ノ投書家」からの投稿も相当数に達し、「投書欄」が置かれた号も少なくありません。「投書欄」だけでなく、「批評」「雑録」「記事」などの各欄にも、「何某氏の寄稿による」と記された文章が含まれています。
  このほか ─ 大田氏にはとても信じ難いことでしょうが ─ 数は限られていますが社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実があります。それもご要望にピッタリの「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例」が存在するのです。「労働者の声」が発表されるちょうど3ヵ月前、1890(明治23)年6月23日発行の第86号 の巻頭論文「山縣伯に與ふるの書」がそれです。「労働者の声」が同じ「国民之友欄」ではあっても巻頭ではなく、論説の2番目に掲載されたのに対し、この「山縣伯に與ふるの書」は『国民之友』の文字通りの巻頭論文です。この論説には「前書き」があり、次のように記されています。

民友記者足下、余は白面の一書生、胸中固より三分の策なし。草廬豈に三顧の客あらんや。閑窓兀座悶々抑ゆる能はず、吐て一片瓦礫の文字となる。余窃かに自ら慚づ。然れども恥を忍んで足下に贈るは、敢て國民之友の紹介を得て、之を山縣伯の一覧に供し、併せて天下の識者に正を乞はんと欲するの微意あるが為のみ。足下紙面を吝む寸字寸金の如し。若し足下の割愛を得て之を紙上に登録するの栄を得ば、余は敢て足下を以て余の知己なりと云ふを憚からさる可し。行文頗る足下の口吻に肖たるは、亦是れ里婦心を捧ぐるの類のみ、請ふ之を一笑に附せよ。
                  鐵 面 生

 このように、「白面の一書生」の投稿が、『国民之友』の社説欄、それも巻頭に掲載された事例が、明白に存在するのです。今ではほとんど使われない言葉ですから念のために付記すれば、「白面」とは、年が若く経験の乏しい者、青二才を意味しています。大田氏が「民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われること」は、決して異例ではないのです。投稿の採否、さらに採用した論稿を、どの欄に掲載するかは、蘇峰ら編集部の判断によって決められていたのです。
  言葉だけでは信じられない方のために、同論稿の画像をつぎに掲げます。

鐵面生(白面の一書生)「山縣伯に與ふるの書」『国民之友』第86号所収


2. 高野房太郎は無名ではなかった

 もうひとつ、大田氏が誤解されていることがあります。それは、「労働者の声」掲載時点で、高野房太郎は、文字通りの「無名の青年」ではなかった事実です。高野房太郎は、すでに論壇デビューを果たしていました。それも、日刊の全国紙『読売新聞』の寄稿家として、実績をあげていたのです。「労働者の声」掲載の3ヵ月前には、『読売新聞』紙上に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」*6 を11回にわたって連載しています。掲載年月日は、1890(明治23)年5月31日に始まり、6月7日、10日、13日、18日、19日、23日〜27日です。優秀なジャーナリストであった徳富蘇峰は、たえず新たな海外情報を入手するため、アンテナを張っていたはずで、おそらく高野房太郎論文も読んでいたことでしょう。
  さらに言えば『国民之友』には「東京各新聞の社説」という、毎号掲載される記事枠があります。この欄を維持するには、民友社は主要新聞をすべて購読し、これを読む担当記者を置く必要があったに相違ありません。房太郎の「米国通信」、とりわけ米国の労働社会という特異なテーマを扱った力作、しかも11回もに分け、長期間掲載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」が、蘇峰ら民友社記者の目にとまらなかったとしたら、その方がよほど不思議です。山路愛山の文才を、初対面で見抜いた徳富蘇峰のことです、「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を読んで、高野房太郎の知識・才能を評価していた可能性は高いと思われます。要するに、高野房太郎は無名の「鐵面生」に比べれば、はるかに知名度は高かったのです。もしも蘇峰らが、事前に高野房太郎のアメリカ通信を読んでいなかったとしても、『国民之友』への投稿に際し、房太郎はその執筆履歴を添付していたことでしょう。
  ついでに付け加えておけば、高野房太郎は翌1891(明治24)年8月には読売新聞社の社友となり*7、『読売新聞』の一面トップに「日本における労働問題」を掲載しています。この論文の前書きには「社論に換えて江湖の一考を煩わんと欲す」との「社告」が付されています。さらにまた1892年には、徳富蘇峰の『国民新聞』に「金井博士および添田学士に呈す」*8 と題する論文を載せています。これらの動きも『国民之友』に「労働者の声」が掲載された事実と関連しているのではないか、と私は推測しています。


3. 「労役者の組合」との関連

 「労働者の声」の筆者を高野房太郎と推定する上で、私が注目しているのは、「労働者の声」掲載の2号前、つまり明治23年9月3日に発行された第93号の巻末「時事」欄の記事「労役者の組合」です。この記事の後に掲載されている3点は「経済雑事」「海外時事」「時事日記」という、毎号、巻末に置かれる記事枠です。したがって「労役者の組合」は、実質的には、時事欄の一般記事としては末尾に掲載された短文です。すでに『高野房太郎とその時代』第38回でも紹介していますが、以下に再掲します。

     労役者の組合
左官大工の組合は既に設あるべし。然れども活版職工の組合、彫刻者の組合は未た設なきが如し。其他労役者として組合の設なき者は、速かに之を設ざる可からず。唯之を設るに労役者を保護し、労役者の地位を進むるの効能を有せずんば、是なほ組合無きに勝るなり。若夫れ組合を設けんと欲せば、其組合に於て賃銭の事を議せよ、雇主に対する処分を議せよ、而して一致結合の運動を為せよ。今日資本家労役者の関係は、労役者の勢力過重に非ずして、資本家の権力過重なるに在り。労役者は資本家の命只是れ奉するのみ、資本家の不正を以てするも、無理を以てするも、之に向て抵抗する勇気なきなり。勇気なきは固より怪むなし、労役社会に結合なければなり。資本家に対する一個人を以てす、決して勝を期すべからず。然れども結合の力を以てすれば、資本家何か有らん。然れ共吾人は強て同盟罷工(ストライキ)を起せと云ふに非ず。隊を組んで乱暴を働けと云ふに非ず。只資本家、雇主等が、不正、不道、無理の事を、為すに至りて、労役者を保護する丈けの勢力は、労役者に抱持して失ふこと無からんことを望むのみ。

 この記事は、高野房太郎の執筆であることが明らかな「職工諸君に寄す」と、論旨やキイワード「結合」「同盟罷工」などで共通性が強く認められます。私は、この「労役者の組合」こそ、高野房太郎による『国民之友』への最初の投稿だったのではないか、と考えています。この投稿が採用されたことに力を得て、高野は「労働者の声」を寄稿したのではないでしょうか。ことによると、民友社側が「労役者の組合」に内容的な新しさを認め、その筆者に、より詳しい論稿の寄稿を求めたことも考えられないではありません。「労働者の声」が「鐵面生」の場合のような「前書き」なしに掲載されたことは、「依頼論稿」であったからだとも考えられます。


  

4. その他の論点

 『国民之友』の社説欄を、高野のような無名の青年が執筆した筈はないという主張の他にも、大田英昭氏は、「労働者の声」が高野房太郎によって執筆されたことが疑わしく、「論拠不十分」であるとして、3つの疑問を呈しておられます。

@ 二村は、「労働者の声」の論旨が「日本に於ける労働問題」と一致していると主張している。しかし「労働者の声」は、「同業組合」(労働組合)の機能として、疾病・火災など不慮の事態に備える共済的機能と、雇主の圧制に抵抗するためのストライキ機能とを挙げている。他方高野の「日本に於ける労働問題」は、「労役者の結合」(労働組合)の機能として、主に「自尊自重の念」「謹厚篤実の風」「貯蓄の念」などを労働者に植え付ける教育的機能を重視する一方、労働者の「同盟罷工」や「ボイコット」は「資本家の有力なる結合」の前に効力を失っていることを指摘している。また高野において、組合の共済的機能は、組合の目的として二次的な「方便」とされ、「労働者の声」における位置づけとは異なる。このように、両者の論旨は決して一致しているとはいえない。

 この指摘について反論するなら、以下の通りです。
 「労働者の声」と「日本における労働問題」は、同じ時期に、まったく同じテーマで書いているわけではありません。論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です。たとえば、同盟罷工やボイッコットが、資本家の有力な結合の前に効力を失っているという主張を、彼の原文で見てみましょう。

  熟ら〔つらつら〕欧米各国に於ける資本家労役者間の関係の近状を察するに、資本家の結合が労働者の結合を制裁し労役者の地位を益々困難ならしむるを見る。労役者が依て以て其権利を保全する唯一の手段となせし同盟罷工及びボイコット(労役者共同して一切其異議ある資本家の製産品を購求せざるを云ふ)は、今や資本家の有力なる結合に対して其効力を全うすることを得ず、却て資本家の為に同盟停業、職工総解雇の窮迫に遇へり。是近時における一現象にして、労役者結合の前途一大困難を現はし来れり。

「日本における労働問題」は、「労働者の声」より1年近く後に執筆された文章です。そこで述べられているのは「欧米各国における資本家労役者間の関係の近状を察するに」であり「是近時における一現象にして」です。つまりごく最近に顕著になった傾向として「資本家の有力なる結合」が進展していることを論じているのです。「労働者の声」の執筆時とは違う状況に直面して、こうした警告を発しているのです。ちなみに、翌1892年には、アメリカのホームステッド製鋼所で、合同製鋼労働組合の賃下げ反対ストに対し、経営者側がロックアウトを実施して勝利し、組合を追い出したアメリカ労働運動史上有名な出来事がありました。房太郎が「日本における労働問題」を執筆したのは、このような緊迫した労使対立下においてでした。
  私が注目したのは、論旨や用語の細部にいたるまでの一致ではなく、「労働者の声」の論旨が全体として、高野房太郎の他の論稿や、彼のその後の言動と、いささかの矛盾もない事実なのです。

 大田氏の第2の批判点は以下の通りです。

A 二村は、「労働者の声」が、その呼びかけを労働者に向かってではなく知識人に向けて訴えている点で、高野の姿勢と「完全に一致」しているという。しかし、労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない。

 Aの大田氏の批判点も、@で述べたことと変わりません。論稿によって、その主張のポイントの細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なことです。二つの論文がまったく同じことを繰り返すはずもないのです。

大田氏の第3の批判点は、以下のようなものです。

B 二村はまた、「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」という用語が共通しているという。しかし、「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。例えば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている。

 これに対する私のリプライは以下の通りです。
 たしかに、高野は「日本の労働問題」では「同業組合」という語を使っていません。しかし他の箇所、たとえば「職工諸君に寄す」では、「しからばいかにして同業組合は組織すべきか」と、「同業組合」の語を使っています。また「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っているのです。

 用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。高野房太郎は、今なら「団結」というであろう箇所を、もっぱら「結合」の語を用いていました。これは一貫した高野房太郎の文章の特色です。「労働者の声」と同一筆者が執筆したものと考えられる「労役者の組合」では、団結の語はなく、すべて「結合」が用いられています。これは「労役者の組合」が、雑誌巻末の記事欄掲載の短文で、投稿がそのまま使われたからでしょう。これに対し「労働者の声」は、社説欄に掲載された論説です。この場合、蘇峰ら編集者による加筆訂正があったことは、容易に想像されます。「労働者の声」では「大結合」という複合語で「結合」の語が使われていますが、他には「結合」はなく、もっぱら「団結」が用いられています。これはおそらく、編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え、書き換えたからだろうと推測されます。「大結合」は複合語だから残ったのでしょう。「労働者の声」の「団結」の箇所をすべて「結合」と読み替えると、「結合」の方が自然であると感じられる箇所があります。たとえば「弱者の強者に抵抗するは、弱者の力を団結するの外なきのみ」などは、「弱者の力を結合するの外なきのみ」とした方が文章としては自然だと感じますが、如何でしょう。
  全体として、用語や論旨に関する大田氏の批判は、いささか「あら探し」的になっているのではないでしょうか。


5. 結び

 最期に、こちらからお伺いしたいことがあります。「竹越三叉執筆説」をとられる大田氏は、三叉のどの論稿、あるいは論稿群をもって、彼が「労働者の声」と完全に一致する主張を保持していたとお考えなのでしょうか? 文体、用語、論旨など、さまざまな面で、学兄が私に要求されている水準を満たす竹越三叉作品を、是非ともお教えいただきたいと存じます。
  もっと率直に言わせていただけば、学兄の「二村批判」の根拠は「〈労働者の声〉竹越三叉執筆説」ですが、その主張は「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています。しかし、この2点の論稿は、「竹越三叉執筆説」を論証するための出発点とはなり得ても、そのまま「証拠」として使い得る内実を有してはいません。大田英昭氏の「二村批判」は、歴史科学が要求する最低限の史料批判を抜きに、自らの判断こそ正しいとの「思い込み」で議論を進めておられます。そうした手続き上の問題があったことへの自覚がおありでしょうか? 「二村批判」のためには、まず「竹越三叉執筆説」を実証する作業が必要だったのではありませんか?




【注】

*1 大田英昭『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』(日本評論社、2013年刊)188〜189ページ。また同氏のブログ《長春便り》にも「労働者の声」の筆者についてと題する一項で、著書での「二村批判」を再録している。

*2 家永三郎「『国民之友』研究の思い出」(《民友社思想文学叢書》第1巻『徳富蘇峰・民友社関係資料集』1986年12月、三一書房刊に付された『月報 7』所収)

*3 大田英昭『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』(日本評論社、2013年刊)188〜189ページ。

*4 《復刻版 国民之友 別巻》同志社人文科学研究所編『国民之友総索引』(明治文献、1968年刊)。

*5 《民友社思想文学叢書》第一巻『徳富蘇峰民友社関係資料集』(三一書房、1986年刊)p.71。

*6 高野房太郎著 大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信 ─ 労働組合の誕生』pp.245-276。なお、『高野房太郎とその時代』第36回「日本最初の労働組合論」 

*7 同上書、pp.277-288。なお『高野房太郎とその時代』第37回「読売新聞の社友として」参照 

*8 同上書、pp.289-293。




【追記】
 本稿を掲載した後、筆者がかねてから主張してきた「〈労働者の声〉高野房太郎説」は誤りであることが判明した。その経緯については、「再び大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・三論」を参照願いたい。この結果、高野房太郎説に立つ本稿は全文をとりさげる。しかし、本稿は大田英昭氏との論争の過程で執筆したものであるから削除はせず、本著作集への掲載は継続する。
〔2018年9月12日 記〕






法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会


編集雑記          著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
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