高野房太郎とその時代 (37)4. アメリカ時代(15)読売新聞の社友として
「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」から1年あまり後、『読売新聞』に、また高野房太郎の労働問題論が掲載されました。今回のテーマは「日本に於ける労働問題」、1891年8月7日から4日間連載で、毎回一面トップを飾るという破格の扱いでした。 左に掲ぐる論文は在米国社友高野房太郎氏の寄稿に係る。今や労働問題大いに上下の注意を惹くに至りたれば殊に社論に換えて江湖の一考を煩わさんとす。 1887年に房太郎の「米国桑港通信」が初めて『読売新聞』に掲載された時は、「O. F. T.生」の匿名でした。その通信の質の高さが評価されたのでしょう、2年後には「高野房太郎」の名が明記されるようになりました。とはいえ、扱いが埋め草的である点は同じでした。しかし今回は、「通信員」ではなく「社友」としての資格で、「社論」つまり新聞社としての論説に代わる論文として公表されたのでした。もともと当時の『読売新聞』一面は、主筆・高田早苗の論説の指定席でした。そこに「日本に於ける労働問題」が掲げられたのは、同稿を『読売』の首脳陣が高く評価したからに相違ありません。世間の注目度も「北米労役社会の有様を叙す」とはくらべものにならなかったでしょう。高野の旧友、伊藤痴遊が彼を労働問題の論客として記憶し*1、在米日本人の間で房太郎が「労働問題論者」として知られるようになった*2のは、本稿によるところが大きかったと思われます。 さて、この論説で、もうひとつ注目される点があります。他ならぬその執筆時期で、1891年7月、つまり職工義友会の創立と相前後して書き上げられている事実です。義友会設立の目的は、「欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解釈〔=解決〕に備えんとするにあり」、というものでした。一方、この「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者状態の改善策を提起した論稿です。言うなれば、この「日本に於ける労働問題」は、職工義友会の創立宣言的な意味あいをもっていたのではないでしょうか。この推測が当たっているかどうかは、読者各位のご判断に委ねることとして、まずはその内容を見ておきましょう。
同稿はつぎの3部から構成されています。「第一 労働社会の現状」、「第二 労役者状態改良の方策」、「第三 日本の労役者を結合せしむるに必要なる条件」。 社会組織が平等を欠いているため、労働者は不正な抑圧に屈服し、財産なく恒心なく教育なく勇気のない状態にある。彼らには一家団欒のよろこびはなく、妻子は飢えや寒さに苦しんでいる。貯蓄などは考えもせず、猜疑心が強く、自尊心・廉恥心もないので、結局堕落し、ついには救済の道さえなくなるであろ。これが日本の労働社会の現状ではないか。 「第二 労役者状態改良の方策」の論旨を一言でいえば、「労働組合の設立こそ、労働者状態改革の唯一の手段である」という主張です。この節は、いささか抽象的な議論に終始して、やや分かりにくいところがありますが、彼はつぎのように論じています。 日本の労働者の惨状を招いた原因を考えてみると、そこに「外部の作用」と「内部の作用」の2つ原因を見出すことができる。「外部の作用」とは社会組織の問題であり、資本家の圧迫である。一方「内部の作用」とは、労働者自身の問題である。彼らが財産をもたず知識が乏しいこと、徳義に欠け軽薄である点がそれである。両者は互いに作用しあって、今日の惨状を招いたのである。
「第三 日本の労役者を結合せしむるに必要なる条件」の節では、前節よりやや具体的に、日本において労働組合の組織化をすすめるために、とるべき方策が論じられています。その主張は、つぎの2点から成っています。第1は「名望ある有識家これを率いんことを要す」。なぜなら、日本の労働者は、自力では自己の地位を改善する力をもっていないから。無産無知、不徳軽薄、猜疑嫉妬といった問題が過去において労働者の団結を妨げて来た。この問題を克服するには、名望のある知識人が労働組合を指導する必要がある。これが、房太郎の認識です。
労役者をして直接的利益を享有せしめんとせば、まずこの会合をして友愛協会たらしめんことを要す。すなわちその会員の疾病に罹るやこれを救助するの資金を与え、その死亡するやその家族に扶助金を給与し、その火災その他の不幸に遭遇するや、これを援助するの仕組みを設く。これその一方なり。労役者の貯金を集めて共同営業会社を設け、労役者をして資本家の地位を兼ねしめ、生産上分配上労役者をしてその利益を享有せしむるにあり。あるいは物品の製造に従事し、あるいは日用必需品の売捌に従事し、以て労役者の収入を増し、若しくはその生計費用を減ぜしむ。これその二なり。 つまり、房太郎の提案は、1)労働組合が「友愛協会」=「共済組合」として相互救済活動を行うこと、2)「共同営業会社」=「生産協同組合と生活協同組合」としての活動もおこなうことなのです。彼が目指しているのは、労働組合が強大な勢力となり、資本家と対等の地位を占め、労働者全体の社会的地位を引き上げることにあるわけですが、それには時間がかかり、労働者は労働組合の意義をすぐには理解し得ない。したがって、労働組合に相互救済機能や協同組合的機能をもたせ、労働者に直接的利益を実感させなければならない、そう主張しているのです。つまり、この提唱は、単に労働組合の勧めであるだけでなく、共済組合の勧めであり、協同組合の勧めでもあったのです。 以上、この「日本に於ける労働問題」を読んで気づかされるのは、房太郎がすでにこの段階で、後の「労働組合期成会」や「鉄工組合」において実践した路線を打ち出している事実です。これはいずれ後ほど、詳しく述べることになるでしょうが、高野はゴンパーズが強調した職能別組合の組織化を第一目標にはしませんでした。労働組合の組織化に先立って、知識人や労働組合に理解ある資本家までをも会員とする「労働組合期成会」=「労働組合の成立を期する会」、端的にいえば「労働運動の応援団」を結成したのです。これは何よりも、労働運動の発展にとって、有識者の指導・援助が決定的に重要だと彼が考えていたからでした。これまでの高野房太郎研究の多くは、房太郎がアメリカ労働総同盟のオルグとして活動した事実から演繹して、彼をゴンパーズ主義者であり、ゴンパーズの影響下に職能別労働組合の組織化をすすめたと述べています。しかし、これは事実に基づかない主張だと思います。房太郎がゴンパーズと出会ったのは1894年のことです。実際には、房太郎は、ゴンパーズと会う3年以上も前に、日本の労働組合の組織化をいかに進めるべきかを、自分で考えていたのでした。 もうひとつ、この論文を読めば、「高野房太郎が労働運動家となったのは、貧しい少年時代を送り、アメリカで外国人労働者として苦難の生活を送った体験があるからだ」という説が、当を得ていないことも、ご理解いただけるのではないかと思います。房太郎は明らかに「有識者」の側に身をおいて労働組合運動の意義を説いているのです。自らを労働者階級の一員であると考えて、労働組合の組織化を企てているわけではありません。無知な労働者を導いて、労働組合の組織化を援助し、指導する立場にある「有識者」の一人して、「日本に於ける労働問題」を論じているのです。これは、すでに第30回「労働運動への開眼」で述べたことではありますが、高野房太郎研究にとっては重要なポイントなので、再度強調しておきたいと思います。 いずれにせよ、職工義友会創立の時点で、「当時の日本人の間で、彼ほど労働運動に早くから関心をいだき、深い知識をもっていた人物はいませんでした」、と私が高野房太郎を評価したことの根拠は、ご理解いただけたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 【注】*1 伊藤痴遊は「亡友の思ひ出」と題する回想記で、「高野は、読売新聞へ投書して頻りに労働問題を論じ始めた。恐らく彼はこの問題の先駆者というてよかろう。片山潜らは高野に学ぶところが多く、その外にも多くの同志を得るにいたり、高野は一躍して労働問題の大先輩になってしまった」と記している。第19回「伊藤痴遊とその仲間たち」参照。 *2 サンフランシスコで発行された日本語雑誌『遠征』第31号(明治26年8月)に「高野房君」と題する小文が掲載されたが、その冒頭の一句に「労働問題論者として其名も高野君」とある。 *3 ここでも引用は原文通りではなく、現代語訳、それも分かりやすさを優先した抄訳である。 |
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