高野房太郎とその時代 (40)4. アメリカ時代(18)ガントン『富と進歩』との出会いサンフランシスコからタコマに戻った直後の1892(明治25)年3月7日、房太郎は東京の岩三郎に宛てて、一冊の本について、つぎのように書き送りました*1。 先頃から経済書の翻訳をしていましたが、このたび完成しました。ただ専門用語で、辞書には良い訳のないものがあります。そこで日本の経済学の本を参照する必要があり、たびたび経済書を送ってくださるようお願いしている次第です。古本屋の前を通りかかった折など、安い本があったらお買い求めの上、ご送付ください。 またずいぶんと惚れ込んだものですが、この経済書こそ他ならぬジョージ・ガントンの『富と進歩』でした。その原本、つまり房太郎がサンフランシスコで買い求め、翻訳にも使ったペーパーバックの廉価本が、今も残っています。冒頭に掲げた写真がそれで、表紙裏には、購入日が「1891年11月29日」、さらに「1892年3月1日、ワシントン州タコマにおいて終了、所要期間2ヵ月半」と英語で記されています〔英語原文は前回注記参照〕。最初これを見た時、「所要期間」は読了までの日数と思い込んだのですが、上の手紙で翻訳にかけた時間であることに気づきました。なんと本文382ページ、前付け23ページ、計400ページを超える専門書を、僅か2ヵ月半で訳し終えているのです。それも、生活と仕送りのためフルタイムで働きながら、その余暇でなし遂げたことでした。翻訳作業だけに明け暮れたわけではないのです。しかもこの間に、サンフランシスコからタコマへ移転しています。あらためて房太郎の語学力の高さと、その並々ならぬ集中力と勤勉さを知った思いでした。
もうひとつ、この『富と進歩』翻訳の事実は、高野家に流れる「学問好きな血」をうかがわせてくれます。すでに何度か述べたことですが、房太郎の自覚的な〈人生の目標〉は、実業界における成功でした。それは渡米以来、その死にいたるまで、労働運動に打ち込んだ一時期をのぞき、ほぼ一貫していました。ただこの目標は、長崎屋の跡取りとして、周囲の期待を一身に背負って育てられたなかで否応なしに掲げさせられた、いわば後天的なものだったと思われます。彼のもって生まれた性格は、実業家よりも、学者・研究者向きだったのではないか、と私は考えています。ものごとについて徹底的に調べ、ことがらの原因を筋道をたてて追究せずにはおられない性向は、日本雑貨店の開店前後の動き、あるいは機械製材所設立計画の立案過程でも目立っています*2。
おそらく岩三郎の生涯を規定したのも、これと同じ学問好きのDNAだったのでしょう。ただ次男に生まれた岩三郎は、兄からの仕送りにも助けられて最高学府にすすみ、ごく自然にその「学問好き」な個性を生かすことが出来ました。一方、兄の方は家長として家を支える義務を負い、長崎屋再興という周囲の期待にがんじがらめになっていたのです。 話がだいぶ横にそれてしまいました。もう一度『富と進歩』に戻りましょう。房太郎がこれほど惚れ込んだ書物は、どのような内容だったのでしょうか。『富と進歩』の最終章は「要約と結論」と題され、著者自身によって次のようにまとめられています*5。 1) 社会進歩は大衆の物的条件の改善に依存する。 著者によるこの要約そのものが10項目にもおよび、各項目の相互関係があまり明快でないのに加え、それをやや圧縮した上で翻訳していますから、分かり難いかもしれません。とくに全体のロジックがつかみにくいと感じられるでしょう。ガントン理論を一言でいえば、富の総生産を増加させることなしには労働階級の所得を増加させることはできない。労働時間の全般的短縮を実行すれば、労働者全体の実質賃金が上昇し、それによって社会全体の消費が拡大し、その結果富の総生産は増加する。したがって、実質賃金の上昇は、単に労働者階級にとってだけでなく、資本家にも地主にもプラスになり、社会全体を進歩させる、という主張です。 この時期以降、房太郎が書いた論文は、いずれもこのガントン理論に沿ったものとなっています。岩波文庫の『明治日本労働通信』日本文編、「『愛国』記者に与う」以降の論稿がこれに当たります。なかでも、1893(明治26)年2月の『東京経済雑誌』に寄稿した「富国の策を論じて日本における労働問題に及ぶ」は、彼がガントン理論に依拠し、日本経済の発展をはかろうとしたことを明示しています。その骨子は以下のとおりです。 一 富国の策
この論稿で房太郎が主張したのは、労働者をとりまく社会的環境を整備することが労働者の消費力の増大につながり、国を富ませるもとになる。社会環境を整備するには、a)労働組合の組織化、義務教育の徹底によって労働者の知識程度を向上させる、b)法律で労働時間を短縮させ、女性・年少労働を規制する、などの方策をとる必要がある、といったことでした。 ガントン理論に接する前から、房太郎は、労働組合の存在がアメリカの働く民衆の豊かさを支えているとみていました。したがって、日本の働く人びとの生活を豊かにし、その社会的地位を向上させるためには、有識者が先頭にたって労働組合を組織化する必要があると考え、そのように主張していました。ガントン理論に接した彼は、労働組合の組織化が労働者にとってプラスになるだけでなく、日本経済全体を発展させる、つまり〈富国〉のもととなることを確信させたのでした。明治初年に生まれ育った青年に共通するナショナリズムが、こうした〈富国策〉につながる理論を受け入れさせたと言えましょう。 私は、房太郎がガントン理論に惚れ込んだのには、もうひとつ理由があったのではないかと考えています。それは、『富と進歩』が経済の「法則」を明らかにしていると主張した書物だったことで、これは房太郎が一連の論稿において強調している点なのです。 「一物品の価値はその製産に要せる原価に依って定まるとは、これ経済的価値の原則にして製造品においてはその要せる原料労力及び地代等これが元価たるものにして、労力においては労働者の生活の費用これが原価たり」(「『愛国』記者に与う」)。
房太郎は、この世界を動かしているものは、経済であり、それを支配する「経済学上の法則」の存在を確信していたものと思われます。彼の経済学への関心は、ガントンの著作に接したことによってさらに強まりました。それをはっきり示しているのは、これ以降、房太郎が経済学の書物をあいついで購入している事実です。 正確な時日は分かりませんが、房太郎は早くから経済学になみなみならぬ関心をいだいていたように思われます。それを窺わせる手紙が残されています。それは、岩三郎が第一高等中学校の本科に進学するときに、政治学科を選択したことに不満の意を表したものです。すでに「タコマ・チョップハウス」の項で紹介済みの、1890年8月8日付の手紙ですが、関連箇所だけを、もう一度見ておきましょう。 第一高等中学〔予科〕の卒業試験の結果はどうでしたか? もちろん立派な成績で合格されたこととは思いますが、十六日付のお便りでふれておられなかったので、念のためにお訊ねいたします。また、お選びになった科目などについては、私から特に申し上げるべき意見はありません。また、学校のことについて良く知らない私には、分からないことばかりです。しかし、君が政治科に進学されようとしていることについては、ちょっと不満がないわけではありません。もちろん君には君の考えがあることですから、将来どのような方向に進もうと考えておられるのか聞きたいと思います。そうすれば、私としてももう一度考える材料を得ることになると存じます。 おそらく房太郎は、岩三郎が政治学でなく経済学を専攻することを望んでいたのであろうと思われます。しかし岩三郎は、第一高等中学でも、東京帝国大学法科大学でも政治学科に進みました。実は法科大学にはまだ経済学科がなかったのです。経済学科が政治学科から分離独立したのは、それから15年も後の1908(明治41)年のことだったのです。しかし岩三郎は、自分の専攻を決める際、房太郎の考えにしたがったことは明らかです。なぜなら、大学院では「労働問題を中心とする工業経済学」を専攻しているのですから。もっとも最終的にはポストの関係もあって、統計学の教授に就任したのですが。
東京帝国大学に経済学部が誕生したのはそれからさらに後、1919(大正8)年のことでした。この経済学部の創立に際し、その口火を切り、独立運動の中心となったのは、ほかならぬ高野岩三郎でした。この運動が進捗せず挫折しそうになったとき、岩三郎は大学に辞表を提出し、以後講義のほかは大学へ出ないという形で抗議し、ついにこれを成立させたのでした。 【注】*2 日本雑貨店の創業前後については、「米国桑港通信」第1回、同第2回、同第3回など参照。機械製材の計画については、本稿第33回「材木伐出場」起業計画参照。 *3 どうやらこの翻訳原稿は刊本にはならず、日の目をみることなく終わったようである。また残念ながら、訳稿も残っていない。 *5 George Gunton Wealth and Progress: A Critical Examination of the Labor Problem , D.Appleton and Co., New York, 1890. pp.378-382.
*6 1892年5月31日付で Ricardo Political Economy and Taxation
を発注(代金として2ドル前払い。本は1ドル50セント。50セント預け)すると同時に、多数の経済学書の価格を問い合わせていることが、同年6月8日付の G.P.Putnam's Sons(ニューヨークの書籍商)から、タコマの房太郎宛ての返事によって分かる。問い合わせた書物の著者名、書名と価格は以下のとおり。 「経済書は今では20冊以上所蔵しています。2,3日前にさらに20冊ほど注文しましたので、経済書の蔵書という点では恥ずかしくないものだと思います。実は、月々2,3冊ほど注文するつもりでしたが、10冊以上まとめて注文すると2割引になるとのことで、その方が得だと考え、余剰金があるときは貯金しておいて一度に注文しました。小生が帰国する際に貴弟への土産物としては、ただ経済書とエンサイクロペディア・ブリタニカ28冊があるだけです。 |
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