高野房太郎とその時代 (44)4. アメリカ時代(22)ニューヨークにて(1)
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Name | Takane Henry |
Rating at date of Present Roll | Mess Attendant |
Date of Enlistment | 94 May 2 |
Where Enlisted | New York |
Term of Enlistment | 1 |
Place or Vessel from which Received | on board |
When Received on Board | May 2 / 94 |
Where born | Japan |
Age / Years | 22-5 |
Occupation | Waiter |
Eye, Hair, Complexion | Japanese |
Height feet inch | 4 - 11 1/2 |
これを日本語で表記すれば次の通りです。
名前 | タカネ・ヘンリー |
現点呼簿記入時の等級 | 食堂勤務員 |
入隊年月日 | 1894年5月2日 |
入隊地 | ニューヨーク |
服務期間 | 1年 |
乗船地または転属元の船 | 乗船 |
乗船または転属年月日 | 1894年5月2日 |
出生地 | 日本 |
年齢 | 22歳5ヵ月 |
職務 | ウエイター |
眼・髪・肌の色 | 日本人 |
身長 | 4フィート11インチ半 |
この点呼簿の記載事項には、名前のほかにもいくつか問題になる点があります。そのひとつは入隊年月日です。それは、ヴァーモント号のLog(航海日誌──といっても係留されたままの船ですから実際は単なる「日誌」ですが)の1894年5月4日の項に「Enlisted for 1 year, special service, Henry Takane (Mess Att.)」つまり「ヘンリー・タカネ、服務期間1年の特別業務で入隊(食堂勤務員)」と記されているのです*9。わずか2日の違いですから、それほど目くじらをたてることはないかもしれませんが、気になります。あえて推測すれば、5月2日は高野房太郎が入隊を申し込んだ日で、5月4日は身体検査などを済ませて、正式に入隊が承認された日であり、最終的には申込日が入隊日とされたのではないでしょうか。
もうひとつの問題は年齢です。房太郎は1869年1月の生まれですから、入隊時の年齢は実際には25歳4ヵ月でした。もっと端数が4ヵ月でなく5ヵ月となっているのは、房太郎が自分の誕生日、旧暦明治元年11月24日を西暦では単純に1ヵ月遅らせた1868年12月生まれと考えていたからでしょう。22歳の方は、わざと3歳若くサバを読んで申告したものと思われます。ことによると年齢制限があったのかも知れないと考えましたが、同じ頃入隊した日本人のなかには25歳11ヵ月の人もいますから、単に若く見せたかっただけではないかと思います。
「服務期間」も、この最初の点呼簿では1年ですが、その次の9月の点呼簿では3年に変更されています。これはこの間で、契約期間を延長したものでしょう。
ちなみに、この点呼簿で初めて判明した事実があります。それは房太郎の身長です。彼が小男だったことは、すでに紹介した『遠征』の記事でも分かっていましたが、正確には4フィート11.5インチ、つまり151センチ強だったのでした。弟の岩三郎も背が低かったことは、陸軍幼年学校に入学を希望したのに、身長が基準に満たなかったため不合格に終わったというエピソードで知ることができます。大原社会問題研究所の記念写真でも、並んで立っている人たちにくらべると、高野所長の小柄な姿は目立ちます。
アメリカ海軍の水兵となった房太郎は、同年10月1日にマチアス号に配属されるまでは基地内には寝泊まりせず、基地に近いゴールド・ストリート126番地に宿をとっています。また、出航までの約半年間は、時々点呼があるだけの待機期間で、点呼以外には仕事らしいことはなく、自由な時間がたっぷりあったようで、かねて希望していた計画をつぎつぎと実行に移しています。それについては、次回以降で、詳しくお話しすることにしましょう。
*1 房太郎とゴンパーズの交流を最初に紹介した隅谷三喜男氏は、このニューヨーク到着の日を、5月上旬のことと推測しています。(隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompersとの関係を中心に」『経済学論集』第29巻第1号、1963年4月)。しかし、5月2日にはニューヨークで新しい仕事を見つけている事実から推測すると、ニューヨーク市には、もう少し早い時点で着いていたのではないかと思われます。
*2 アメリカ国立公文書館所蔵、Muster Roll of the Crew "Machias", 30 June 1896.〔1896年6月30日の米軍艦マチアス号乗員点呼簿〕 による。
*3 1890年代はじめに、ニューヨーク・ネイビーヤードで日本人水兵の募集が行われており、その事実が在米日本人の間で知られていたことは、『在米日本人基督教五十年史』につぎのように記されている。
「当時ブルツクリン海軍鎮守府所営米国軍艦ヴアモント号に多数の同胞学生の乗り組みおるを聞き、十月の頃であった、ごみだらけの麦藁帽を冠り、粗服にて至り、乗組邦人に熱心伝道し、謄写版の刷物を頒布せり。岡島氏は所持金なく、活動の余地なきより、軍艦乗組の料理人高見豊彦氏の世話で、支那人伝道に従事しつつあるスコツト人系キャンベル嬢の働を助ける事となり、又浸礼教会派デクソン牧師を説きて補助を受け、ブルツクリン市コンコード街十七番に家を借れり、これブ市青年会の前身にして、紐育方面に於ける邦人基督団体の発端なり」(同書pp.82-83)。
なお、本文中の岡島とは、岡島金弥、メソジスト派の伝道師河辺貞吉によって洗礼をうけたばかりの一青年であった。関連して、100 years of Christian Work among the Japanese in New York By Fujio Saito参照。
*4 高野房太郎より高野岩三郎宛て、1891年10月20日付書簡
*5 ヴァーモント号については、 Vermont on the Civil Warによる。
*6 分かっていたのは、岩三郎の回想(「兄高野房太郎を語る」『明日』1937年10月号)に記されていたつぎのような事実だけでした。
「それからどういう縁故かで、某砲艦のコック兼ボーイに乗り込んで、遠く欧州をめぐりインド、アジアを通って、二十九年二十九歳の時日本へ帰って来た」
*7 点呼簿に記載されている日本人の名前の表記には、同様な転記ミスと思われるものが少なくない。たとえば、Iwamura Kulatara(Kurataro?)、Matahashi Mishida(Nishida?)、Kinsaku Tabaia(Tabata?)など。
*8 アメリカ国立公文書館所蔵、Muster Roll of the Crew of the USS Vermont, 30 June 1894. 〔1894年6月30日の米軍艦ヴァーモント号乗員点呼簿〕 による。
*9 アメリカ国立公文書館所蔵、Log of US R.S Vermont, 4th May 1894.〔『合衆国補給艦ヴァーモント号航海日誌』1894年5月4日の項〕 による。
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