第1章 足尾暴動の主体的条件
──原子化された労働者」説批判──
Ⅰ 治安警察法下での労働組合組織化の企て
1) 大日本労働同志会(1)
〔組織者・永岡鶴蔵〕
暴動にいたるまでの足尾銅山鉱夫の行動で何より注目されるのは,彼らが一度ならず二度,三度と労働組合の組織化を企て,その度にさまざまな妨害を加えられながら,それに成功していた事実である。治安警察法の下で労働組合の組織化がきわめて困難であった時期に,こうした企てがあったことは,それだけでも鉱山労働者を〈非結社形成的〉と規定することへの疑問を呼び起こさずにはいない。しかし,ここで早急な結論をくだすことは避け,まずはその組織化のあとをたどることから始めたい。
1903(明治36)年もおしつまった師走の28日,1人の坑夫が足尾銅山に現れた。仁義を切っては各飯場で一宿一飯の恩恵にあずかり,働こうともせずに〈労働者は団結せねばならぬ〉などとぶつ中年男に,変わり者には慣れている飯場の男達もあきれ顔をするだけであった。男の名は永岡鶴蔵(5),日本全国の鉱山労働者を打って一丸とする労働組合を組織するため,妻子を北海道に残して遊説の旅に出たところであった。
1ヵ月近く永岡は足尾4山の飯場をまわって労働組合の必要性を説いた。しかし,誰も本気で相手にせず,そのうちに友子同盟の〈浪人交際〉の期間も終わり,生活にも困ってきたので,坑夫として働きながら活動を続けることにした。16歳で手子となり,18歳で坑夫徒弟となってから20年余も鍛えた腕の良さはすぐに坑夫仲間に知れ,その語るところに耳を傾けさせた。飯場頭や帳付けなど人目の多い飯場とは違って,暗闇の坑内で一緒に働きながらの話は,聞くものの心を開かせ,日頃漠然と感じていた不満を口にさせた。
坑夫の不満はいろいろあったが,なかでも〈役員〉と呼ばれた職員に対する怒りは強かった。この役員と坑夫の間の関係は,足尾暴動を理解するにもきわめて重要な意味をもっているので,いずれ項を改め検討を加えたい(6)。ここでは,坑夫の最大の不満は,〈現場員〉など下級職制が賃金の査定をめぐり賄賂を強要する事実にあったことを指摘するにとどめよう。
こうした永岡の活動は,次第に坑夫の間に伝わり,毎晩7,8人の者が彼の話を聞きにわざわざ訪ねてくるようになった。力を得た永岡は2月11日に幻燈会を開いた。幻燈は,片山潜や西川光次郎らが労働問題演説会や社会主義演説会の余興として,1,2年前から使いはじめていたもので,娯楽に乏しい鉱山町ではかなりの客寄せになった。永岡自身,夕張で何回か幻燈会を開いている。この夜をかわきりに2月22日には小滝で相談会,同26日には本山レ組飯場で第2回幻燈会,3月5日には本山地区に隣接する赤倉町の料理屋日向野屋に150人余の聴衆を集めての演説会,同9日には第3回幻燈会と運動の範囲を拡げていった。そして3月下旬から4月頃,かねて準備を進めていた大日本労働同志会足尾支部(7)を結成し,その旗揚げの演説会を連続して開催した。すなわち,3月16,17の両日は赤倉の劇場いろは座で,3月19,20,21日には通洞の金田座で,5月8,9日には小滝地区に仮小屋を架け演説会を開いたのである。この一連の活動は大きな反響を呼び,毎回400〜500人もの聴衆を集め,同志会への入会者があいついだ。同志会の活動に専念するため坑夫をやめた永岡は,赤倉で足尾活版所を経営する山田菊三方の2階を借りて事務所とし,その他小滝に仮事務所を,通洞には労働倶楽部を設けた。会員は急速に増え,10月末までには1,400人余に達した。
〔同志会の意図〕
永岡らが大日本労働同志会をどのような団体にしようとしていたか,今ではその規約によって知るほかない。その全文は次の通りである(8)。
「第一条 本会は従来の弊習を除去し,互いに交義を深厚ならしめ,職務忠実品行方正にして国民の本文〔分〕を盡し,吾等の権利を伸張するを目的とす。
第二条 本会は労働同志会と称す。
第三条 本会の本部は東京市神田三崎町三丁目一番地労働組合の内に置き各地に支部を置く。
第四条 本会は互撰の上左の役員を置く,会長一名,幹事若干名,書記若干名,協議員若干名,会員拾名毎に部長一名を置く。
第五条 本会役員の任期は一ヶ年とし再撰するも妨げなし。
第六条 本会創立員及び特別の盡力したるものは永遠記録に記し置き,亦謝意を表する事あるべし。
第七条 本会員は謙遜を旨として決して疎〔粗〕暴の行為あるべからず。正義公道の為に戦ふものととす。
第八条 本会員にして体面を害する等の行為ある時は,総会の上除名するものとす。
第九条 本会員にして負傷疾病老衰等の為め労役に堪へ難きもの在る時は,会員恊〔協〕議の上金五拾円を救助するものとす。
但会員一千人以上に満たる時実行す。
第十条 本会は各支部において支部規則を設るものとす。
第十一条 本会規則改正を要する時は総会の決義〔議〕により変更するものとす」。
この規約で目を惹くのは,大日本労働同志会が,鉱山労働者だけを組織対象にせず,日本全国の労働者の組織化を意図していたことである。何故そうした意図をもったかといえば,永岡の背後に片山潜がいたからである。そもそも永岡が労働組合の組織者として活動する決意を固めたのは,1903年11月,北海道遊説中の片山が夕張を訪ね,永岡宅に泊まって夜を徹して語りあかした際のことであった。それから僅かに1ヵ月後,永岡は夕張を離れて東京に向かい,アメリカへ出発する直前の片山と再会し,すぐ足尾に来たのであった。同志会の本部所在地となっている東京市神田三崎町3丁目1番地は,ほかならぬ片山潜の居宅であり,彼の運動の本拠であるキングスレー館や雑誌『社会主義』の編集所・社会主義社の所在地でもあった。
片山と再会した永岡は大日本労働同志会の設立について協議し,基本方針で合意していたに違いない。しかし規約そのものの起草に,片山は加わっていないと思われる。片山や彼の同志・西川光次郎等が起草したにしては,会員資格についての規定を欠くなど不備な点が多く,また誤字も少なくないからである。おそらくこの同志会規約は,永岡が片山・西川共著の『日本の労働運動』などを参考にしてまとめたものであろう。なぜなら,規約第1条から第3条までは労働組合期成会のそれとよく似ているからである。期成会の規約は「第一条 本会は我国労働者の権利を伸張し,其美風を養生し旧弊を除去し同業者相互に親睦する組合の成立を期するを目的とす。第二条 本会は労働組合期成会と称す。第三条 本会は事務所を東京市日本橋区本石町一丁目十二番地に置く」というのである。
ただ,期成会と同志会とでは大きな違いがあった。それは,同志会は労働組合であったが,期成会そのものは「労働組合の成立を期する」会であったことである。したがって同志会規約にある救助金制度は,期成会にはなかった。
この規約によれば,とうぜん定められていたであろう〈大日本労働同志会足尾支部規則〉が残されていないので,永岡の組織構想の細部について知ることはできない。しかし,第1条の目的や第9条の共済規定などからみれば,同志会は労働組合期成会や日本鉄道矯正会,さらには活版工組合など日清戦争後に生まれた労働組合,さらには初期友愛会までの多くの日本の労働団体と基本的に共通する性格の組織であったと思われる。すなわち,何よりも労働者の〈権利の伸張〉,〈社会的地位の向上〉を目標とし,そのためには労働者自身が「旧来の弊習を除去」し,「職務に忠実」で,「品行方正」を旨として,一般社会から受け容れられるように努めなければならない,とするものである。さらに,労働者の団結を固める手段としての相互救済の重視である。
〔構成員〕
大日本労働同志会が,その本来の構想では労働組合全国組織を企図していたとはいえ,実際は足尾銅山労働者の一部を組織したに過ぎないこともまた明らかであった。もっとも,北海道の夕張炭鉱には,永岡もその創立に加わった大日本労働至誠会夕張支部が存在し,その中心メンバーである南助松,早坂朝治,鈴木富衛,高橋俊六らが,夕張だけでなく周辺の幌内炭鉱,幾春別炭鉱,歌志内炭鉱等で演説会を開くなどしていたから,まったく孤立した努力というわけではなかった。しかし,大日本労働同志会としては,足尾支部が唯一の組織であった。その組織の実態を伝える資料は断片的であり,その信憑性にも問題がある。ただ,1)その会員数が1904(明治37)年10月には1,000人を超えたこと,2)その大部分は坑夫であったこと,この2点はほぼ確実と思われる。
まず,会員数が1,000人を超えていたことについては,『労働世界』の後継誌で『社会主義』8卷4号に永岡支部主幹談話として,「会員の数は一千四百余名に達し」とあるほか,『週刊平民新聞』第57号の西川光次郎の「足尾銅山遊説」報告に,「遂に一千名以上の会員あることとなりました」と記されている。また暴動事件の裁判の予審でも永岡は「盛ンノ時ニハ会員モ千四百名許リアリマシタ(9)」と述べている。ともすれば当事者による公称人員は誇大になりがちであるが,永岡の証言は一般にかなり正確のように思われる。
つぎに,会員の大多数が坑夫であったと推測する理由は以下の通りである。第1に,すでに一部を引用した『社会主義』での永岡談話は「同志会の有力者」として13人の姓名と4人の姓をあげている。姓名の明らかな13人中6人についてはその他の資料から職業がわかるが,5人は坑夫,1人は支柱夫徒弟である。第2に松崎源吉「足尾銅山遊説記(10))」には「足尾中最も会員の多数を有する小滝村の十号飯場」との記述がある。小滝十号は坑夫飯場であり,その山中委員・岸清は至誠会の演説会にしばしば出演している活動家である。第3に,同志会の会員であることを理由に「大野元〔音〕次郎の飯場で六十人程坑夫が解雇され(11)」た事実があるが,大野音次郎は坑夫飯場・通洞14号の飯場頭である。このように同志会会員で職業が明らかなものの大部分が坑夫であることは,会員の職業構成を反映しているとみて大過ないであろう。さらに,これは直接証拠ではなく,いわば傍証であるが,ある意味でこれまでの断片的な情報より確かなのは,同志会の後身である至誠会の会員のほとんどが坑夫であった事実である。これについて南助松は予審廷でつぎのように述べている(12)。
「問 坑夫ノ外ハ入会セシメヌ方針ナリシカ
答 左様デハアリマセヌ。労働者ハ何人デモ入会ヲ許ス積リデアリマシタガ実際入会シタノハ坑夫ノミデ坑夫以外ノ者ハ幾ラモナイト思イマス」。
なお,会員の圧倒的多数が足尾銅山の労働者であったことは疑問の余地はないが,町民のなかにも同志会の会員となった者がいた。その1人は同志会本部事務所の家主である山田菊三で,彼自身の証言によれば〈相談役〉(13)であった。もう1人は理髪業の泉安次で,会員には理髪料金を割り引きすることで同志会の会員拡大の便宜をはかっただけでなく,会の活動にも参加している(14)。
〔相互救済〕
同志会は相互救済を組織化の絆にしていた。しかしその共済活動の具体的な内容は必ずしも明らかでない。すでに見た規約第9条は「本会員にして負傷疾病老衰等の為め労役に堪へ難きもの在る時は,会員協議の上金五十円を救助するものとす」と定めていた。問題は,この規定がはたして足尾支部で実施されていたか,あるいは支部独自の共済規定を設けていたかである。足尾暴動事件公判廷での永岡の陳述は後者の可能性を示唆している。
「同志会では坑夫の救済と云ふて病気になって困るものを救ふ為め一日六銭はかかる。然るに一面の収入はと云ふと坑夫一名の会費は月五銭である。私の食費が一日二銭夫れに病者の救済をやるから到底収支償はぬ(15)」。
この記録で,同志会の会費が1ヵ月5銭であったことが判明する。一方,救済についての記述は明瞭を欠くが,病気等で収入のない者に対し1日6銭を支給したととるのが最も自然であろう。
もし,以上のような解釈が正しいとすれば,同志会足尾支部の共済事業には多くの問題があったと言わざるを得ない。うなわち,(1)1日の給付金6銭では,米4合買うのがようやくで(16),とうてい一家の生活を支えるには足りない。なお,永岡が彼自身の食費を1日2銭としているのは20銭の誤りであろう。いずれにせよ,1日6銭の共済給付では〈組織化の絆〉としての力はなかったと思われる。当時,足尾には〈共救義会〉と呼ばれる共済組合があり,鉱夫は毎月10銭の会費を払い,負傷のため5日以上働けない時,病気で10日以上働けない時には,勤続年限に応じて1日10銭から15銭の〈療養日当〉を受けた。同志会の給付金はこの〈共救義会〉の給付の上乗せとして,はじめて意味をもっていたと言えよう。
第2に,共済活動を行うには,会費があまりに低かったことである。1日6銭の給付に1ヵ月5銭の会費というのは,おそらく共救義会の会費や給付金との対抗上設定されたものであろう。しかし,共救義会は会費だけでなく古河家からの寄付金や鉱業所の補助金,さらには職員の年俸1000分の3に加え,足尾銅山に来る行商人や見学者から半強制的にとりたてる寄付金によって賄われていたのである(17)。しかも共救義会の場合,1類夫は加入義務があり会費は賃金から差し引かれたのに,同志会は任意加入であり,会費も個別に徴収するほかなかった。その破綻は目に見えていたというほかない。
〔宣伝啓蒙活動〕
大日本労働同志会足尾支部がもっとも力を入れたのは口頭での宣伝啓蒙活動である。読み書きの訓練を十分受けていない者の多い鉱夫が対象であってみれば,これは当然であった。すでに見た通り,1904年2月から5月はじめにかけての3ヵ月間に8回の演説会と2回の幻燈会を開いている。また同年11月から1905年1月には,東京の平民社から西川光次郎と松崎源吉を招き,6 回の演説会を開催している。5月中旬以降10月までについての記録はないが,おそらく月平均3回程度は演説会を開いていたのではないか。
今ではとても考えられないことであるが,演説会はいずれも有料であった。1904年11月に〈平民社〉の社会主義者,西川光次郎と松崎源吉が出演した際には1人5銭の入場料をとっている(18)。東京から呼んだ弁士ということで高くしたものであろう。通常は1人3銭であった。もっとも人が集まりそうな場合は高くしており,後の大日本労働至誠会の演説会も,初めは3銭,つぎに4銭,最後には5銭まで値上げしている(19)。西川らの演説会は入場料5銭にもかかわらず,会場の劇場に「立錐の余地なし千人以上なりとぞ云はる」ほどの聴衆を集めている。演説会には〈娯楽〉としての意味合いもあったのである。
では,これらの演説会でどのような呼びかけがなされたのであろうか。西川,松崎の演説内容については簡単な記録がある(20)。
「労働者団結の力によりて古河に向ては先ず鉱業法の励行を迫る事,相互扶助の一方法として消費組合の如きを起す事,及び足尾の町は鉱夫ありての町故鉱夫も其の代表者を足尾町会へ入るゝの方法を講ずる事,其の上に普通撰挙の請願を為して労働者の代表を国会に入れ,徐々法律の改正を計り,日本全国労働者の位置を高むる為めに力を致すの必要なる事等を,出来る限り平易に話」
した,というのである。鉱業法の励行はともかく,消費組合にせよ,町会や国会への鉱夫代表選出にしても,この時点で足尾銅山労働者に対する有効な運動方針の提起であったとは思えない。しかし,東京から来た弁士が労働者の地位の向上を呼びかけたことで聴衆の多くは満足したのであろう。西川の見たところ,鉱夫らは「大分解ったと見えニコニコ顔の連中多かりき」。
では,同志会の組織者・永岡鶴蔵はどのような主張を展開したのであろうか。演説そのものではないが,彼が中央の〈社会主義者〉に演説会への出演を依頼するため上京した際,片山の留守をあずかり『社会主義』を編集していた山根吾一に語った談話の要旨が残っている(21)。
「主張 吾等は常に弱者の身方です。如何に難儀を致しましても,憐れなる鉱夫に同情するのです。鉱夫に同情すると申しても,直ちに資本主義に抵抗するといふ意味ではありませぬ。鉱山の実況を調査すれば資本主の方針とか勢力とかは我々では実際分りませぬ。鉱夫を直接苦しむるものは,役員と頭役です。資本主の方針でもないに,権威を振ひ,暴慢を極むるものは彼等です。彼等に改悛の心を起さしむるは,直接鉱夫に利益を見ることになります」。
この永岡発言は,はたして彼の真意を伝えているであろうか。資本主の方針を役員や飯場頭がねじまげ鉱夫を苦しめていると永岡は本気で信じていたのであろうか。その後の彼の主張からみると,そのようには考えがたい。むしろ,永岡が言いたかったのは,鉱夫と日常的に接している職制や飯場頭の横暴・不公正によって鉱夫等がいちじるしく苦しめられている事実であり,その横暴・不公正は資本主といえども認めざるを得ないほどのものである,というにあったと思われる。
いずれにせよ,この発言は『社会主義』記者に対するものであって,労働者相手の演説会で述べられたものではない。実際に同志会時代の永岡が鉱夫にどのような議論を展開したかは明らかではない。しかし,その2年後の至誠会時代に永岡が演説した内容はかなり詳細に記録されており,これによって永岡の考えを知ることができる。なかでも,1906年12月5日,通洞金田座における至誠会発会式で,〈強盗殺人ト資本家ト何レガ罪悪多キカ〉と題しておこなった演説は2人によって筆記され,両者を比較すれば,その内容がかなりよく分かる。永岡の年来の主張をよく示していると思われ,彼が労働運動の組織者としての道を歩むようになった動機も知ることができるので,多少長くはなるが2つの記録の全文を紹介しよう(22)。なお,各項冒頭の数字は2つの記録で演説内容が共通する箇所を示すために,引用者が付したものである。
〔小滝見張 巡視 山本久筆記〕
1) 冒頭ニ曰ク 自分ハ幼時四十四歳迄カ生キナイコトヲ知リ得タ。然ルニ去〔明治〕三十六年ノ或日夢ヲ見テ早四十四ニ成テ頗ル悲観シタ処ガ夢デアッテ三年命ヲ拾ッタ。当年四十四デアルガ未ダ死ナヌ。来年カラハ命ガ無イ身デアルカラ思フ存分本問題ノ解決ニ努メタイ,トテ或意味ヲ暗示セント試ム。
2) 之ヨリ本問題ニ入リ,是迄同人ガ各地ニテ再三演ジタル各坑内及ビ坑外軌道ニ於ケル傷死等ヲ一々列挙シテ,由来理由ヲ細説シテ敢テ資本家ノ遣方ハ強盗殺人以上ナリト叫ブ。
3) 進ンデ曰ク。資本家ノ強盗ハ財物ヲ奪フナリ。足尾ノ坑夫三千人ガ銅七百本(一本九貫目)ノ富ヲ出ス。乃チ一日一人ノ坑夫ガ七円三十五銭産出スルノニ自ラ其ノ得ル処ハ幾何ゾ。実ニ言フニ忍ビヌデハナイカ。南京米モ喰兼ネ,節季ニ餅モ搗ケヌトハ情ナイ限リデアル,云々トテ,今日ノ古河ホド資本主デモ労働者ニ冷酷ナルハナイト云ヒ。
4) 次デ小島甚太郎氏ノ米国坑夫状況談批評ヲ為シ。
5) 転ジテ頭役ヲ攻撃シ,鉱業所ハ今回坑夫募集ヲ頭役等ニ命ジタガ,斯カゝ〔ル〕生地極〔獄〕ヘ来ルモノモアルマイ。若シ騙サレテ来ルモノモアッタル〔ラ〕,吾々ハ流行歌(自ラ作リシモノ)デ追払フ考デアルト云ヒ。
6) 実〔次〕ニ進ンデ忠勤坑夫錠清吉ノコトニ就テ曰ク。清吉ノ会社ニ忠実ニ働キタル模範坑夫ナルコトハ自他之ヲ認メイタリ(同人ニ與ヘタル賞状ノ写ヲ読ム)。然ルニ彼清吉ガ先年死スルトキハ何デアルカ,五十円ノ借金ガ残ッタノミデアル。忠実ニ働キ爾カモ二十年モ其余モ居タルモノガ借金ガ出来テ死ヌ。何ト心細イデハアリマセンカ。ソレデ会社ガ此ノ坑夫ニ対シテ何トシタ。三十五円賞与シタ。唯之レ丈ケ見ルト聞エガ良イガ,全体彼レ清吉ガ二十年モ稼イデ会社ノ為メニドレ丈ノ金ヲ産ミ出シテ居ルカヲ考テ見ヨ。彼ハ実ニ二万七千七百二十円カヲ会社ヘ利益ヲ與ヘテ居ルデハナイカ。其レノ特別賞与ガ三十五円トハ何タル目腐レ金デハアルマイカ云々トテ,資本主ノ目ハ欲ノ為メニ労働者ノ困難ガ映ラズト口ヲ極メタリ。
7) 尚同人ハ,是迄一再演ジタル,労働者ノ月計ヲ説明シテ同情ヲ惹ケリ。
〔武田綱五郎筆記〕
2A) 社会ハ富ノ分配ガ不均デアルカラ色々ノ罪ガ出来ルトノ冒頭ニテ。
2B) 強盗殺人ハ悪ヒト云フコトハ皆様ガ云ッテ居ラルゝガ,資本家ガ 〔ハ〕夫レ以上ノ罪悪ヲ犯シツゝアルノデアル。殺人ニハ合口ヲ以テ突キ,或ハ毒薬ヲ用ル等色々ノ方法ガアルガ,資本家ノ殺人ハ夫レトハ違フ。皆サンガ御承知ノ通リ,本山,小滝,通洞各方面ニアルトロー車デアル。彼等ハ賃金ガ安ク銭ニナラナイカラ走ル。走ルカラ怪我人ヲ出ス,ト云フ様ナ訳デ,会社ハ一体無理ナ仕事ヲサセルカラデアル。足尾ノ老人ヤ小児ノ内不具者ハ十中ノ八九マデハトロー車ノ為メノ怪我デアル。夫カラ花柄平ト文造〔象〕トノ間ノ橋デモ二人死亡。昨年大日久保〔窪〕ノ橋デ人夫亀ナル男ガ死ンダノモ鉱業所デ電極運搬ノ為メ橋ノ手摺ヲ外シテアッタ為デアル。本年ノ春ハ本山鷹ノ巣デ糞汲女ガ死亡セルノモ会社ハ規則通リノ設備ヲシナカッタカラデアル。其他枚挙ニ遑アラヌ程デアル。次ニ六年前ノ洪水ニ何十人死ンダカ知レヌ。内務省ヘハ三十七人ト届テアルソウダガ簀橋斗リデモ三十人ヤ三十五人ハ必ズ死ンデ居ル。是ハ皆会社ガ機〔起〕業費ヲ惜ンダ結果デアル。亦来年モ鷹ノ巣デ人ガ死ナゝケレバ能ヘ〔イ〕ト思ッテ居ル。簀橋デモソウダ。之ハ豫メ豫定シテ置ク。次ハ坑内ノ人殺シデアル。三十八年二月一日,通洞四号坑夫山下五郎松ガ坑内デ死ンダノモ其場所ニ留木ヲ一本モ付ケナカッタカラデアル。夫レハ死体ヲ掘リ出スニ,留木ヲ二本附ケテ漸ク掘リ出シタノデモ判明ル。
2C) 其死人ガ負傷シテ入院後死亡シタ様ニナッテ居ルトハ怪シカランデハナイカ。第二号ノ坑夫谷本孝次郎ナルモノハ過般通洞坑内デ電気ニ触レテ死ンダガ,病院ノ佐藤ハ病死ノ診断書ヲ与ヘテアル。診断書ニハ心〔神〕経震蕩病トシテ,飯場デ死ンダコトニシテアル。一体鉱業規則ニ依ルト,坑内ニハ安全ナル人道ヲ設ケネバナラヌコトニナッテ居ル。夫レヲ会社デ設ケヌカラデアル。設ケヌカラシテ車道ヲ歩行ク。車道ハ迚モ歩行ケヌカラ電車ニ乗ルノデアル。電車モ役員ノ乗ルノハ空車ニシテ乗セルガ,坑夫ハソウデナイカラ危険ナノデアル。
2D) 是迄ハ直接ノ分ダガ,今度ハ間接ノ人殺シ,兵糧攻ノ点ヲ述ベヤウトテ,坑内空気ノ不完全ノ処ニテ長時間働ク坑夫ガ病気ノ際,米ヲ貸シ出サヌトノ点及ビ南京米等ノ点ヲ指的〔摘〕シ,夫レガ為メ坑夫ハ六十年ノ寿命ハ大概四十前後デ死ヌト論ジ。
6A) 次ニ資本家ガ純益金ヲ吾々坑夫ニハ少シモ配当セズ,自分ノミ贅沢ヲ盡シ,酒池肉林トハ非道ナリト罵倒シ。
7) 次ニ坑夫ノ収入ト支出ト項ヲ挙ゲテ説明シ,差引勉強スル坑夫ニテ一ヶ年十八円余ノ借金ガ残ルト痛論シ。
5) 今度足尾デ坑夫ヲ募集スルソウダガ,諸君ハ足尾ノ生地獄ヘ吾々ノ同朋ヲ導ク勿レト警告シ,労働ノ頭ハ,中ノ能ヘ〔イ〕処ハ皆資本家ニ取ラレ,尾ト頭ノミヲ得ル丈ダカラ全クノ尾頭ダ,ト冷笑的ニ論ジ
6B) 次ニ本山元坑夫錠清吉ニ対シ金員ヲ給セシ件ニ付会社ヲ罵倒シ。
8) 最后ニ赤沢銅山ノ同盟罷業ノ拙ナリシヲ論難シ,足尾ノ坑夫ハ五百人や千人ノ坑夫ハ何時下山セラルモ毫モ差支ナキ準備アレバ,赤沢銅山ノ轍ヲ踏マズト結論セリ。
同じ演説についての2つの記録を,繁をいとわず引用したのは,出来るだけ永岡の肉声に近づくことを意図したからであるが,同時に要点筆記の場合は記録者によって重点の置きどころにこれほどの違いが生ずることを示したかったからでもある。たとえば山本巡視が「各坑内及ビ坑外軌道ニ於ケル傷死等ヲ一々列挙シ」とたった1行で片付けているところは,永岡が最も力を込めて語った,まさに演説の〈さわり〉であることが,武田綱五郎筆記によって浮かび上がってくる。何故そうなったかといえば,山本巡視はこれまで何回も永岡の演説を記録しており,その話は余りに耳慣れたものであったからである。「是迄同人ガ各地ニテ再三演ジタル」という1句がそれを明示している。これに対し,武田は永岡の演説にいささかならず関心を抱いて筆記しているかに見える。
実際,ここでの永岡演説は,労働災害の犠牲者の名を挙げ,彼らの死亡原因を具体的に指摘し,その古河批判には迫力がある。それというのも永岡にとって,資本家が鉱夫の命を軽視していることは,彼がかねがね問題にしてきたところであり,いわば永岡の労働運動者としての原点ともいうべきことであったからである。『社会新聞』に連載された永岡の自伝(23)には,彼自身の親分の死に始まり,脚気による多数の坑夫仲間の死,クリスチャン坑夫の事故死,夕張炭鉱でのガス爆発による26人の非業の死など,2万字にも満たない小伝のなかに実に多くの事故死や病死の記述があり,人命の軽視に対する永岡の怒りが語られている。一般に,労働災害による死亡・負傷等は,賃金問題以上に労働者が自身の置かれている立場を深刻に考えさせ,労働運動への参加のきっかけとなることが少なくない。永岡もそうした1人であった。ちなみに至誠会の中心的な活動家となった山本利一〔本名 山本利一郎〕も,労働災害により左手を失い(24),それが運動参加のバネとなっている。
永岡の主張でもう1つ注目されるのは,自己の正当性の根拠を国の法律に求めている点である。戦前日本の労働運動において〈権利〉が説かれた時,〈天賦人権〉といった自然権に基づく主張が展開された例はほとんどない。多くの場合,明治憲法第29条によって団結権が保障されていると指摘するなど,制定法に基づいて〈権利〉が主張されている。永岡の場合も例外ではない。彼は演説会の度に「古川鉱山主が坑夫殺害の目録を読み上げ,鉱業法例を実行せざる事実を列挙し,古川は日本の法律を蹂躙せる大悪人なることを證明」し続けたのである。とくに彼が拠りどころとしたのは鉱業条例,鉱業法,鉱業警察規則などである。1889年に制定され,92年から施行された鉱業条例には,労働者保護に関する条項が含まれていた。とくに第5章の鉱業警察は,現在の用語でいえば鉱山保安に関するもので,「鉱夫ノ生命及衛生上ノ保護」の監督を農商務大臣の権限とし,省令で「鉱業警察規則」を定め得ること,この監督業務を一般の司法警察でなく鉱山監督署が担当することを定めていた。鉱業警察規則は1892年3月に制定され,同年6月,鉱業条例と同時に施行された。同規則には安全柵や人道など坑内の保安設備の設置を義務づけていた(25)。資本家側が法律に違反し,そのため多数の仲間が命を失い不具になっているとの永岡の指摘は,日々さまざまな危険にさらされながら働いている労働者(26)の胸に強く響くものがあったに違いない。
それと同時に,鉱業条例,鉱業警察規則の励行を要求する永岡の主張は,足尾鉱業所の弱点を突くものでもあった。鉱業条例第59条にもとづく鉱毒予防工事命令の記憶はまだ生々しかった。何よりも,予防命令を発した当の東京鉱山監督署長・南挺三が他ならぬ足尾銅山の最高責任者であった。これまでの生涯を官僚として過ごしてきた南挺三にとって,法律遵守の要求をまったく無視するわけにはいかなかった。永岡が足尾に着いて間もない時,南所長が永岡の要望に対し〈善処〉を約束する「立派な書面」を送っている(27)ことも,こうした背景を考えれば理解できよう。
〔同志会の成果〕
こうした活動はどのような成果をあげたか。その第1は少数ではあるが熱心な活動家を育て上げたことであった。後に運動が大日本労働至誠会足尾支部として再興した時,組織の中心となって活動したのは,大部分が同志会以来,永岡と行動をともにした人々であった。具体的に名をあげれば,井守伸午,早瀬健二郎,林小太郎,岸清,山村角次,加藤栄松,滝川八郎,武田誠之助,山本利一,本多信次,山崎猪之平らである。彼等の経歴の詳細は明らかではないが,職業は4人を除きすべて坑夫である。なかでも岸清,山村角次,加藤栄松,滝川八郎,井守伸午らはいずれも友子同盟で飯場ごとに2人づつ選ばれていた山中委員(山中惣代とも呼ばれた)であった。年齢は30歳代が多く,坑夫として15年前後の経歴をもつ者であったと推定される。坑夫以外の4人のうち武田は支柱夫,山本が選鉱夫,本多,山崎は不明である。
第2の成果は,同志会の力で,坑夫の不当解雇を撤回させ,逆に飯場頭や役員を辞めさせたことである。永岡の談話によれば,「これまで足尾では鉱夫は頭に勝てぬものと定まり,ドンナに不当な解雇をされても鉱夫は何んともすることが出来なんだのを打破せんとし,長吉といい鉱夫が不当な解雇をされかかった時,同志会から所長に向って談判を始め,其の結果長吉が勝って頭が反て解雇されました(28)」という。また,彼は別のところで「所員の六人は免職と成り,頭役二人は下山致しました(29)」とも語っている。
この談話が真実か否か,にわかには信じ難いところである。しかし,すでに指摘したように,南所長と同志会とは,永岡の足尾入山直後では接触をもっていたことは確かである。それは後に永岡が「斯ノ如ク立派ナ書面ヲ送リナガラ三年後ノ今日何ノ改善モシナイ」と演説会で手紙を読み上げながら所長批判を展開したことからも明らかである。またこの時期,古河は経営政策を転換し,その一環として職員定数を定め,冗員を解雇する方針をとっていた(30)。同志会の要求が,たまたまこうした方針を実行するのに利用された可能性は皆無ではなかろう。現にその1年余り後には,「資本家へ忠議〔義〕立てのツモリにて吾人の運動を妨害せし,足尾銅山の小役人及巡視中の五六十名は,今回銅山に役員改革ありて忽ち失業することゝなりたり(31)」といった事態が生じている。こうしたことを考え合わせれば,永岡らが,同志会の力で飯場頭や役員を解雇させたと受けとめる事実は確かにあったと見てよいのではないか。
〔同志会の分裂と共和会〕
しかし,同志会の発展は短期間で終わった。その転換点となったのは1904年11月3日のことであった。この日,これまで同志会足尾支部の相談役として永岡に力を貸し,また自宅の一室を永岡の住居兼同志会事務所として提供してきた山田菊三が,同志会を脱退するとともに,突如として永岡に対する人身攻撃を始めたのである。山田によれば「永岡ハ本会設立後酌婦ヲ妻トシ,品行ヲ乱シ,同志会ノ主義目的等ヲ違反スル行為少ナカラザル(32)」ものがあったという。この攻撃はある程度事実であった。永岡は何時のころからか,彼自身の言葉によれば「私の飯焚き(33)」と同棲するようになっていたのである。当の女性は取調の予審判事に「永岡鶴蔵内縁の妻(34)」であることを認めている。その福田フヨは足尾銅山の役員の妻であったが夫に死別していたといい,単に永岡の〈飯焚き〉をしていただけでなく,「菓子石鹸杯ヲ背負フテ毎日売リニ歩」いて生活を支え,あるいは女工として働いており,二人が共同生活を営んでいたことは確かである。これだけであれば,別に「品行ヲ乱シ,同志会ノ主義目的」に反すると攻撃されるようなことではない。だが問題は永岡には妻子があり,その7人の家族の犠牲の上に彼の足尾での活動が可能であったことである(35)。しかも永岡が同志会員に「会員之心得」として要求していたのは「労働者之品位を高むること」であり,「正義公道を踏んで弱者を救ひ世の罪悪と戦ふこと(36)」であった。山田菊三の非難も一理はあったというべきであろう。
しかし,山田が永岡攻撃に動いた原因は,これだけではない。山田活版所は1903年までは「足尾唯一にして銅山の用達たり。分工場を宿に設け和洋の製本を兼ぬ。所主山田菊三氏は多年東京に於て斯業を研究し,業に巧みにして常に繁忙を極む(37)」る存在であった。ところが,1904年に別の印刷所が営業を開始し,山田活版所は「足尾唯一にして銅山用達」たる地位を脅かされていたのである。このまま同志会への協力を続けていれば,経営が困難となることは目に見えていた。
ところで,山田が「自分方楼上デ演説会ヲ開キ仝人ノ行為ヲ攻撃シ私行上仝人ノ仝居ヲ謝絶シ」た1904年11月3日は,同志会が「五十人の代表者」を招集し,協議会を開いた日であった。50人中永岡側に集まったのは29人である。残る21人全員が山田側についたか否かは不明だが,おそらく多くは同志会を脱会し,山田が飯場頭と結んで組織した共和会に加盟したのではないかと想像される。
共和会は,それ自体の活動力,組織力はそれほど強くはなかった。東京から弁士を呼んできて人身攻撃的演説をさせたり,「新聞通信員をして讒謗の記事を書かせたり」するのが関の山であった。永岡が急遽上京して西川光次郎らを招いて演説会を開いたのは,これに対抗するためであった。この西川,松崎の演説会に1,000人を超える聴衆が集まった事実は,共和会の結成がすぐには同志会に決定的な打撃となったわけではないことを意味していよう。それから1カ月後の演説会の聴衆は大幅に減少したが,それでも150人から350人を集めている。飯場頭が公然と反対にまわったにもかかわらず,同志会がしばらくは組織を維持し得たことは注目される。足尾における飯場頭の坑夫統轄力が弱体化していたことの証左とみてよいのではないか。しかし,飯場頭による反対運動が同志会に打撃となったことは確かである。1904年11月初めの1,400人をピークに会員数は減少傾向をたどり,翌年1月には1,000人を割っている。会費収入の減少,演説会の聴衆の減少は,もともと弱体だった同志会の財政を危機的なものとした。
〔予戒令発動〕
さらに警察の干渉がこれに追い打ちをかけ,同志会の衰退を決定的づけた。1905年5月7日,日光警察足尾分署は栃木県知事名で永岡に予戒命令を発動したのである(38)。この命令の法的根拠である予戒令は1892(明治25)年1月緊急勅令として公布されたもので,もともとは選挙干渉で名高い第2回総選挙に先立ち,選挙取締りのために制定されたものであった。予戒令にはその対象として次の4つのケースがあげられている(39)。①一定ノ生業ヲ有セズ平素粗暴ノ言論行為ヲ事トスル者 ②総テ他人ノ開設スル集会ヲ妨害シ又ハ妨害セントシタル者 ③公私ヲ問ハズ他人ノ業務行為ニ干渉シテ其ノ自由ヲ妨害シ又ハ妨害セントシタル者 ④第2号又ハ第3号ニ掲ゲル妨害ヲ為スノ目的ヲ以テ第1号ヨリ第3号マデニ記載シタルモノヲ使用シタル者。
はたして,永岡がこの4号のうちどれに該当するとされたかは明らかでない。しかし,永岡は予審廷で,予戒命令の執行を受けたその同じ月に3日の拘留を受けたことを陳べている(40)。〈拘留3日〉は予戒令違反の処罰としては最も軽いもので,第1号の該当者のみに科せられるものである。永岡は「一定ノ生業ヲ有セズ平素粗暴ノ言論行為ヲ事トスル者」とされたに違いない。この第1号該当者に対する〈予戒命令〉の内容は次の通りであった。①一定ノ期間内ニ適法ノ生業ヲ求メテ之ニ従事スベキ事ヲ命ズ ②総テ他人ノ開設スル集会ニ立入リ妨害ヲ為スベカラザルコトヲ命ズ ③如何ナル口実ニ拘ハラズ財物ヲ強請シ不当ノ要求ヲ為シ強テ面会ヲ求メ脅迫ニ渉ル書面ヲ用ヒ勧告書ヲ送リ又ハ如何ナル方法タルヲ問ハズ暴威ヲ示シテ他人ノ進退意見ヲ変更セシメントシ其他他人ノ業務行為ヲ妨害シ又ハ妨害セントスルノ所行ヲ為スベカラザルコトヲ命ズ。
本来はいわゆる〈壮士〉取締りのための法令が,ここでは労働運動者取締りに利用されたのである。もはや永岡は同志会の活動に専念する訳にはいかなかった。労働運動者では〈一定の生業〉とは認められないからである。また,安全施設の充実を要求するため鉱業所長に面会を求め,あるいは書面を送るといった行動も処罰の対象となる危険があった。そこで彼は「此処暫時は静穏の態度を取り,更に捲土重来の策」をとり,雑貨行商をその生業とし,「豆類ヲ車ニ載セテ売リニ歩イ」た。しかし,常時,巡査の監視つきでは商売にはならなかった。「室内射的ヲ営業シ側〔傍〕ラ氷屋ヲ開イタ」りもしたが,これも同じことであった。
予戒令発動を機とした警察の取締りの強化は,同志会員の離脱を招いた。少数の活動家を除き,ほとんどの労働者は永岡のもとに寄りつかなくなた。1905年の暮れに,永岡が旧知の西川光次郎らに寄せた手紙(41)は,この間の窮状をよく伝えている。
「資本家と警察との圧制が甚しきより,常に大言壮語せしものも腰を抜かし胆を潰し,甲は去り乙は退き,吾人が迫害せられて苦しむ時の如きは誰一人近寄る者なく,全く雇主より兵糧攻めに襲はれて断食することも屡々,知人より南京米五合或は一升貰ひ全く乞丐の如き生活を百五十日間此の銅山で送りました」。
こうした経験を経てからの永岡の一般労働者に対する評価はきわめて醒めたものがある。公判廷で同志会の衰退理由について問われた彼は,財政の赤字をあげた上で,つぎのように述べている。「一体労働者などには実際会の必要なる事を感じて入会する様の者は極めて尠ない。只進〔勧〕めらるれば這入る。全然御祭り騒ぎを遣るのみで先き先きの事などは考がひ〔へ〕ぬ(42)」。
この時期,永岡は行商と運動を結びつける形で,当時流行っていたラッパ節などに自作の歌詞をつけて歌いながら,飴などを売り歩いた。その1つ〈足尾銅山労働歌〉(43)にも,彼の労働者仲間に対する気持ちが現れている。
「生存競争の烈しさに,気絶をしたかタマゲタカ,眠って居るか死でるか,我友人の有様は。
見るも気の毒蒼ざめて,痩せ衰へて骨枯れて,ボロボロ着物に垢染みて,額に苦痛あらはれて。
妻子も碌に喰わせずに,終日終夜働きて,甘味は他人に吸とられ,我友人のはかなさや」。
足尾暴動の主体的条件Ⅰ注
(5) 永岡鶴蔵については,中富兵衛『永岡鶴蔵伝──犠牲と献身の生涯』(お茶の水書房,1977年)を参照。なお,足尾での永岡の活動については,主として同時代の社会主義運動の機関誌紙,『社会主義』『週刊平民新聞』『直言』『光』によった。その多くは労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第2巻,175ページ以降に収録されている。
(6) 本書ページ参照。
(7) 会の名称については資料によって〈労働者同志会〉〈日本労働同志会〉など,いくつか異なった名が使われている。 しかし,『社会主義』第8巻第14号(1904年12月3日)に「会員章の雛形」が記載されており,それには〈大日本労働者同志会〉と記されている。
(8) 「労働者同志会」(『社会主義』第8年第7号,1904年5月3日)。原文は句読点を全く欠いているが,ここでは適宜加えた。
(9) 「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』234ページ)。
(10) 『直言』第2巻第2号(1905年2月12日付)。
(11) 『下野新聞』1907年8月3日付。
(12) 『栃木県史』史料編・近現代二,602ページ。
(13) 「山田菊蔵聴取書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』291ページ)。
(14) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其四」(『栃木県史』史料編・近現代二,575〜576ページ)。
(15) 『下野新聞』1907年8月3日付。
(16) 1906年上半期の足尾銅山における,並白米1升の価格は13銭5厘であった(「大河原三郎実習報告書」9ページ)。
(17) 『鉱夫待遇事例』(九州産業史料研究会復刻本)175〜176ページ。
(18) 西川〔光二郎〕生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)。
(19) 「問 演説の傍聴料ハ何程取リシカ。
答 始メハ三銭,次ギニ四銭,一番終リニ五銭取リマシタ。
問 一回ノ演説デ何程位ノ収入アルカ。
答 二三十円ヨリ五十円位アッタコトアリ,又〔2字不明〕等ノ時ハ一円五六十銭ノコトモアリマシタ」(「被告南助松第五回調書」『栃木県史』史料編・近現代二,622ページ)。
(20) 西川生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)。
(21) 永岡鶴蔵「足尾銅山」『社会主義』第8年第14号(1904年12月3日)。
(22) 山本久「明治三十九年十二月五日通洞金田座に於ける労働演説会々況」,武田綱五郎「明治三十九年十二月五日至誠会発会式労働問題政談演説会大要」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』 第2巻,185ページ,187〜188ページ)。
(23) 永岡鶴蔵の「坑夫の生涯」は,労働者の自伝としては,もっとも早い時期のものの1つとして注目される。これは,足尾暴動の後,片山潜が主筆であり,永岡自身も社員となった『社会新聞』の第38号(1908年3月8日)から第51号(1909年1月15日)に,8回にわたってとびとびに連載されたものである。『労働運動史研究』第20号(1960年3月)に筆者が紹介したのをはじめ,『近代民衆の記録 2 鉱夫』(新人物往来社,1971年),中富兵衛『永岡鶴蔵伝』(お茶の水書房,1977年)などに復刻されている。
(24)「自ラ左手ヲ失ヒタルコトニツキ当時ノ状況ヲ告ゲ,之ニ就テ会社ハ何等顧ル所ナシ。未ダ若キ身体ヲ会社ガ不注意ノ為メニ不具者トナリ爾後妻ヲ迎エ家庭ヲ作ルコトモ出来サルカト思ヘハ,実ニ血涙ニ咽バザルヲ得ナイノデストテ満場ニ訴エタリ」(「十二月十六日労働至誠会演説会々況」,『日本労働運動史料』第2巻,190ページ)。
(25)鉱業条例,鉱業警察規則については,さしあたり通商産業省『商工政策史』第22巻,鉱業(上)第2章を参照。なお,永岡が,鉱業条例や鉱業警察規則の労働者保護の規定のもつ運動上の意義に気づいたのはきわめて早く,その施行とほとんど同時であった。当時,彼は同じ古河が経営する院内銀山で働いていたのであるが,数十人の仲間と鉱業条例の研究会を組織し,そこに「鉱夫ノ生命及衛生上ノ保護」がうたわれていることに強い印象を受けている。しかも,単に条例の内容を検討しただけでなく,院内鉱山がその規則を守っていないことに気づき,1893年2月にその是正を要求して3日間のストライキを行い,「請願の七分まで」認めさせた経験をもっていた。その後も,彼は山形県の朝日鉱山で山内に医師を置くことを要求しているが,その際も,鉱業条例中の「鉱夫ノ生命及衛生ノ保護」をその根拠にしている。こうした国法を拠りどころにしたことで,彼らは資本家や警察に対しても,自己の正当性を確信し,権利として主張することが出来たのである。またこうした確信は,彼らの闘争形態も規定した。院内銀山のストライキについて永岡が次のように述べていることは示唆的である。「然し我ら坑夫は彼等の見る如く野蛮乱暴な者ではない。鉱業条例をたてとしつ請願するのであるから,合法的に秩序的にやるのである」。
(26)この時期の足尾銅山における労働災害について『玉木二五三九実習報告書』は,次のような数字を記録している。1905年中の業務上の死者は28人,負傷者は1,722人。死亡者の原因別では,〈誤ッテ竪坑又ハ坑井ニ顛落〉が11人ともっとも多く,ついで〈火薬使用ノ際〉および〈磐石,土石ノ墜落マタハ崩壊ノタメ〉が各5人,〈機械器具ニ接触〉3人,〈転倒又ハ顛落〉2人,〈電車等脱線,衝突等〉,〈感電〉が各1人となっている。負傷者では〈磐石,土石ノ墜落,又ハ崩落〉が最も多く1,030人に達している(同報告書168ページ)。なお,1905年下半期,足尾銅山の労働災害による死者は17人であるが,このうち鉱山病院が〈職務変死〉として記録しているのは10人だけである(『大河原三郎実習報告書』168ページ)。永岡が批判するように,会社の経営する病院が,労働災害を記録上で少しでも減らすために,作意的な処理をしていた可能性は高い。
(27)「明治四十年一月廿六日労働問題政談演説大要」(労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第2巻201ページ)。
(28)西川〔光二郎〕生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)
(29)永岡鶴蔵「足尾銅山」(『社会主義』第8年第14号,1904年12月3日)。
(30)本書第3章第 節(ページ)参照。
(31)「鉱夫の友」『光』第1巻第5号(1906年1月20日)。
(32)「山田菊蔵聴取書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』291ページ)。
(33)『下野新聞』1907年8月4日付。
(34)「参考人福田フヨ調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』284ページ)。
(35) 永岡鶴蔵が夕張を発つ時,片山潜に送ったつぎの手紙は,この家族の犠牲がどれほどのものであったかを明らかにしている。 「拝呈毎々御書面被下有難く存候。愈々本月七日当地出発致す考へにて準備中に御座候。何分共同店の事業にて長らく困難して又ぞろ失敗を重ねたる身の随分の苦戦に有之,貧困の点丈けはカールマークスに近く相成候。小生は一大覚悟を以て日本数万の坑夫の為めに一身一家を犠牲にするも顧みず候。……七名の家族を北海の雪中に投じ。一家の諸道具を売飛ばし旅費として出発可致候。主義の為めに己が身命を賭して掛る位は当然の事と承知致居り候。然し一家の処分に就ては大略左の如く相定め申候
一,四歳になる児は養女に遣る
二,八歳の子は二歳の児の守をなす
三,十歳の子は学校より戻りて菓子売りをなす
四,十三歳の子は朝夕の御飯焚きを引き受け通学す
五,十五歳の子は昼は機械場に労働し夜は甘酒を売る
六,妻は昼間停車場に出て荷物運搬をなし夜分は甘酒を売ること
右昨日より実行致居り候,愈々之れよりは大いに天下に遊説して主義の為めに殉する心組みに御座候」。
現実には,この後、永岡の家族は文字通り一家離散に近い状態になってしまった(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』参照)。
(36)大日本労働同志会は会員証の裏面に,〈会員之心得〉として,この2項をふくむ4項目を印刷していた(『社会主義』第8年第14号,1904年12月3日)。
(37)蓮沼叢雲『足尾銅山』(公道書院,1903年)72ページ。
(38)「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』233ページ)。なお,『直言』第2巻第17号(1905年5月28日)にも関連記事がある。
(39)『新聞集成明治編年史』第8巻,201〜202ページ。
(40)「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』233ページ)。
(41)永岡鶴蔵「足尾銅山より」(『光』第1巻第4号,1906年1月1日)。
(42)「第二回公判傍聴記」(『下野新聞』1907年8月3日付)。
【初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行】
【本著作集掲載 2003年10月9日】
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