序章 暴動の舞台・足尾銅山
この研究の対象となる足尾銅山は鉱毒事件で著名な鉱山で,本書の読者にはいまさら説明を要しないであろう。しかし鉱毒問題ほどは,銅山自体については知られていないのではないか。よくご承知の方はすぐ次章に移っていただくことにして,簡単に暴動当時の足尾銅山の様子を見ておこう(1)。
立地・交通
足尾は,栃木県の中西部,群馬県との県境に位する標高1,273メートルの備前を中心とする地域である。行政的には上都賀郡に属する。観光地として有名な日光は中禅寺湖の南8キロ,峠一つ隔てたところにある山間の町といえばもっと分かりやすであろう。ちなみに当時,東京から足尾へ行くには,上野から東北線で宇都宮を経由し,日光線で日光に出るのが順路であった。日光駅からは大谷川沿いに細尾までさかのぼり,さらに細尾峠を越えなければならなかった。この間約25キロ,けわしい山道もあり,順路といってもけっして楽な道のりではなかった。日光から細尾までの11キロには牛車による軽便鉄道があり,細尾峠には日光側から足尾側にかけて2系統のロープウエイが通じていたが,これらは製銅の搬出とコークスなどの原料や食料などを運びこむための貨物用であった。
鉄索は細尾峠のほかにも沢入,京子内,小滝,銀山平などに全部で9本が架設され,コークス,石灰,木材,薪炭,廃石などの輸送に使われていた。
なお,いま廃線が問題になっている,群馬県側との連絡路の足尾線が開通したのは暴動から5年後の1912(大正元)年12月のことである。もっとも,鉄索で運搬可能な荷物の重量は最大100貫(375キロ)であったから,機械など重量物の運搬には日光街道は使えず,もっぱら沢入を経由して群馬県側の両毛線大間々駅に通ずる大間々街道が利用された。
なお,足尾山内には馬車鉄道27キロが敷かれ,神子内・渡良瀬・本山・通洞・小滝・沢入の間を,馬182頭,車両568両で結んでいた。なお,電車も使用されてはいたが,坑内の主要坑道と選鉱所・製煉所間の鉱石や資材の運搬に限られていた。
地 理
ごく大まかに足尾の地図を描くと,左を向いた人の横顔の形に近くなる(第1図参照)。もっとも鼻はほとんどないに等しいのっぺらぼうで,頭頂部も後頭部もいささか偏平ではあるが。
耳の上にあたる位置に備前鍎の山頂がある。この頂を挟む形で大小約1800本の鉱脈が北東から南西にかけ,つまり後頭部から目の辺にかけて延びていた。後にはカジカ鉱床と呼ばれる塊状鉱床も発見されるが,暴動当時にはまだその存在は知られていなかった。この鉱脈を採掘するための坑道の入口が坑口である。主な坑道の坑口の周辺に選鉱所をはじめ,鉱夫の住宅などが密集していた。
鉱山として一番早くから開け,鉱業所の管理部門があったのは本山地区である。町の北から北東にかけて,つまり頭頂の後半部にあたっている。ここは露頭から掘り進んだ旧坑の多いところで,古河はこうした旧坑の〈取り明け〉から再開発を始めた。その中で,富鉱脈にあたって主要坑道となったのが本口坑と有木坑で,その坑口がここにあった。このため,坑夫の住宅である飯場や長屋,選鉱所の他にも製煉所や鉱業所の事務所,倉庫など銅山の中心機能が備前鍎の北東の山裾をとりまいて,へばりつくように立ち並び,町の人口の3分の1はここに集まっていた。暴動が一番激しい形をとったのは,足尾銅山古河鉱業所の事務所があり,所長はじめ鉱業所幹部の社宅があった,この本山地区である。本口坑口で海抜約830メートルと足尾町内で高さはこの地区がもっとも高い。大部分が古河の所有地で,町屋はほとんどなかった。
西部,つまり目から鼻にあたる部分が小滝地区である。ここも旧坑の取り明けに成功したところで,鉱脈の南西端から本山地区に向けて延びる小滝坑の坑口があった。高さは坑口レベルで海抜730メートルである。足尾の外と直接つながる道がなく,地形も険しく交通不便で,ここだけが孤立した形となり,商店も少なく,劇場などの娯楽施設にも乏しかった。こうした立地のためだけではないが,暴動の際小滝だけは圏外となった。
南東部,つまり首から喉にかけてのあたりが通洞地区である。足尾では最も低い,海抜602メートルの渡良瀬川のほとりから,運搬・排水用の主要坑道として開鑿された通洞坑がある。有木坑,小滝坑が鉱脈を追って掘り進むいわゆる〈押し坑道〉であるのにたいし,通洞は鉱脈を串刺しにする形で掘られた〈立入り坑道〉で,備前鍎の頂の直下に向けて北西に延びていた。通洞地区は,銅山としては新たに開発された地域ではあるが,日光口から上州口への街道沿いで,もともと足尾の宿場のあった新梨子,赤沢をふくむ地域であり,本山と小滝の中間点でもあるため,鉱業所関係者だけでなく一般の商店も多かった。町役場,日光警察署足尾分署,郵便局,町立小学校など主な公共施設は皆この地域にあり,劇場,宿屋,料理屋,妓楼,寺院もあって,足尾一番の〈繁華街〉であった。
後頭部の上の部分,つまり本山地区の東端にある製煉所の対岸が赤倉町で,そこから松木川沿いに通洞方面に下ると
間藤町となる。間藤の南端には銅山で使用する機械の修理,製作などにあたる工作課の工場があった。また古河が設立した私立小学校や鉱毒除去のために設けられた沈澱池は,松木川の右岸,銅山側の向間藤にあった。赤倉や間藤も通洞と同じく商店や料理屋,劇場,宿屋もあり,鉱業所の施設と一般の町屋が混在していた。
通洞と間藤の間で松木川と神子内川は合流して渡良瀬川となる。その合流点の左岸が渡良瀬である。またここは日光街道の足尾入口でもあった。渡良瀬から神子内川に沿って遡ると神子内をへて細尾峠に達するのである。
人 口
1907年9月現在の足尾町の人口は3万4827人,戸数6133戸,栃木県では最大の都市,宇都宮市に匹敵する大きさであった。このうち銅山従業員とその家族が約2万3000人,文字通りの鉱山町である。町内の主要な地区別の戸数,人口は第1表の通りである。本山,小滝,通洞の1戸当りの人員が多いのは,1戸で30人から50人も寄宿させる飯場があるためである。
第1表 足尾町地域別戸数・人口(1907年)
地域 | 戸数 | 人口 | 一戸当
人数 | 備考 |
本山 | 1,718 | 12,496 | 7.3 | 鉱業所所属 |
小滝 | 694 | 5,255 | 7.6 | 鉱業所所属 |
通洞 | 540 | 4,093 | 7.6 | 鉱業所所属,簀子橋を含む |
新梨木 | 495 | 2,197 | 4.4 | 松原,通洞地区 |
赤沢 | 580 | 2,186 | 3.8 | 通洞地区 |
間藤 | 688 | 2,779 | 4.0 | 工作課所在 |
赤倉 | 531 | 2,108 | 4.0 | 本山地区に隣接 |
掛水 | 181 | 727 | 4.0 | 渡良瀬,田元,中原を含む |
その他 | 706 | 2,986 | 4.2 | |
足尾町
合計 | 6,133 | 34,827 | 5.7 | |
1906年6月現在の従業員総数1万1105人,そのうち女子は575人(5.2%)にすぎない。従業員の家族は1万1987人,うち女子が 8213人,学齢以下の子供が2773人であった。役員の大部分は家族持ちであるが,労働者は半数近くが単身者であった。
家族持ち鉱夫の平均所帯人員は2.6人,家族持ちといっても,夫婦だけか,せいぜい子供が1人か2人というのが大部分である。夫婦者は鉱業所の所有する1戸4.5坪か6坪の長屋に居住した。暴動を報じた『東京朝日新聞』は,「銅山にて建築したる通洞の長屋は稍新しきを以つて左程に不潔ならざる様なれど,其他に至りては軒傾き板はなれ,畳といふも名ばかりにて,一種の臭気を放ち萬年町の貧民窟といはんか,豚小屋といはんか,見るもいぶせき住居なり」とこの長屋を描いている。
独身鉱夫は飯場頭が経営する〈共同住宅〉ともいうべき150戸ほどの〈飯場〉に寄宿することになっていた。しかし,飯場居住者の比率は意外に低い。暴動2年後の1909年現在,坑部課所属の独身鉱夫2846人のうち,飯場に住むものは1147人,40.3%に過ぎない。むしろ長屋に同居するものの方が多く,1315人,46.2%に達している。残りは町部の貸長屋を借りたり,町屋に下宿していた。坑夫だけをとれば飯場居住者の比率は若干高いが,それでも3坑場を通じ1142人中519人で,45.5%に過ぎない。
学齢児童2400人のうち1393人が,古河が設けた2つの私立尋常高等小学校と4つの町立小学校に通っていた。職員の子供はほとんどが就学していた。しかし鉱夫の子弟の就学率は男子で59%,女子の場合は46%にも達しなかった。
銅山の従業員以外の町民1万余は,町役場,郵便局,警察などの官公署に勤務する者のほかは米屋,酒屋,魚屋,呉服屋,質屋,菓子屋,薬屋といった商人,あとは床屋,鍛冶屋,畳屋,石屋といった職人,それに旅館,料理屋,妓楼,仏教寺院といったサービス業の関係者である。
足尾銅山沿革
足尾銅山の正確な発見年次はさだかではない。一般には1610(慶長15)年の発見とされているが,実際はそれより早く1550年代であったという(2)。何れにせよ17世紀初頭にはすでに採掘されていたことは確かで,1684(貞享元)年には年産40万貫という,1山の産出高としては別子とならんで徳川時代の最高を記録している。しかしこの繁栄は長く続かず,1700(元禄13)年には年産4万貫に衰微してしまった。これが再び息を吹き返すのは1877(明治10)年に古河市兵衛が経営にのりだしてからのことである。この再生の過程は本論で詳しくとりあげるのでここではふれない。
ただ,古河操業開始後6年目の1883(明治16)年に足尾最大の富鉱脈・横間歩を発見し,1885年には4131トンと全国産銅の39.2%という驚異的なシェアを占めたこと,1906年,暴動の前年の年産額が6787トンで,全国産銅の約18%を占めていたことを指摘しておこう。産銅が増加しているのにシェアが下がっているのは,小坂,別子,日立などその他の鉱山が生産を増していたからである。
なお,足尾は日本最大の銅山で東洋一の大銅山と呼ばれたが,それというのも19世紀後半から20世紀初頭に最盛期を迎えたからで,今日の生産水準からすれば,とうてい大銅山とはいえない。村上安正氏の推計によれば,足尾銅山が発見から閉山までの間に産出した銅の総量は82万トンであるが,1984年の日本の銅製煉能力は144万トンを越える(3)。いまの日本は足尾規模の銅山を毎年2つ近く掘り尽くすほどの製煉能力をもっているのである。足尾銅山は1973(昭和48)年2月28日をもって閉山となり,採鉱は中止されてしまった。しかしその後も,製煉所だけは外国産の鉱石を使って〈ほそぼそと〉操業を続けているが,その製煉能力は年間5万トン,実に足尾最盛期の3.3倍である。
古河鉱業会社
足尾銅山は1877(明治10)年から暴動直前の1905(明治38)年3月まで古河家の事業として経営されていた。当初は,旧相馬藩の相馬家も,家令である志賀直道(志賀直哉の祖父)の名義で資金を出し,さらには渋沢栄一も出資し,三者による組合経営であったが,直接経営を担当していたのは古河であった。1886年に志賀が共同経営から手を引き,88年には渋沢も脱退して,以後古河家の単独経営となったのである。
1903(明治36)年に市兵衛が死去したあと,養嗣子・古河潤吉のもとで,ようやく個人経営から〈合名会社に準ずる法人〉としての古河鉱業会社に改組された。しかしこの時,潤吉は病気療養中で,このため実兄の陸奥広吉と相談の上,実父・陸奥宗光の〈子分〉にあたる原敬を副社長に迎え,新会社の中心に据えた。会社設立後わずか9ヵ月の1905年12月潤吉は死去し,市兵衛の実子・虎之助が社長に就任した。だが虎之助はまだ未成年であり,しかもアメリカ留学中であったから,社長といっても実権はなく,原敬が実質上の主宰者たることを期待されていた。しかし彼は,副社長就任後1年も経たない1906年1月に,西園寺内閣の内務大臣となり,古河を辞めている。
このため暴動前後の古河鉱業会社は,小野組時代から市兵衛の〈右腕〉として終始行動をともにしてきた木村長七が代表社員・監事長として経営の任に当たり,近藤陸三郎と岡崎邦輔の2人が監事として木村を助けている。近藤は工部大学校鉱山学科を1880(明治13)年に卒業し,阿仁銅山の払い下げに際して古河に加わった人物で,古河最初の大学出の技術者の1人である。また古河派遣の最初の海外留学生として,前後2回,通算2年半,欧米に学んでいる。技術者としてだけでなく,経営者としても市兵衛や木村長七から信頼され,本店にあって絶えず市兵衛の相談相手となっていた。とくに古河家存亡の危機であった第3回鉱毒予防工事命令を受けた際は足尾鉱業所長となっている。また足尾暴動後も,その事後処理のため足尾鉱業所長に復帰するなど,古河の,また足尾銅山の経営に実権を握っていた。岡崎邦輔は陸奥宗光の従兄弟で,1887年陸奥がワシントン駐在の特命全権公使として赴任した際これに同行し,ミシガン大学で学んだ。なお,この折渡米した一行中には古河潤吉,近藤陸三郎もおり,相互に旧知の間柄であった。岡崎は,1897年,足尾鉱毒事件の際,請われて古河に入った。もっとも彼は郷里の和歌山県選出の代議士として,その主な活躍の場は政界にあり,経営内部を担当するより,〈渉外係〉的立場にあった。
第2図は古河鉱業会社の組織図である。理事は中田敬義(元外務省通商局長,陸奥宗光の子分),小田川全之(1883年工部大学校土木工学科卒業),井上公二(慶応義塾卒業後アメリカ留学,1888年渋沢栄一の紹介で古河に入る。古河最初の学校出の事務屋),福岡健良(渋沢栄一の同郷,冶金技術者)の4人,本店の商務課長は木村長七,鉱務課長は近藤陸三郎,会計課長は井上公二,庶務課長は昆田文次郎(東京専門学校出身,弁護士,鉱毒事件の際古河入り)であった。
古河鉱業株式会社『創業100年史』189ページ。
足尾鉱業所
古河鉱業会社の中心的事業である足尾銅山には〈足尾鉱業所〉が設けられ,所長の下に庶務課,坑部課,製煉課,工作課,電気課,調度課の6課が置かれ,業務を分担した。
鉱業所長の南挺三は鉱毒事件の際の東京鉱山監督署長で,予防工事命令は他ならぬ彼の名で出ているのである。それから3年も経たない1900年1月二等支配人として古河家に入り,1903年9月足尾鉱業所長に就任し,一等支配人に昇格している。前職が鉱山監督署長であったとはいっても鉱山技術には全くの素人で,1898年に東京鉱山監督署長に就任する前は大蔵省の役人で石川,福岡,愛媛,兵庫等の諸県の収税吏であった。
課長はいずれも大学か高等工業学校,高等商業学校の卒業生であった。たとえば,坑部課長の木部一枝,製煉課長の浅野幸作,工作課長の高橋本枝は何れも東京帝国大学出の工学士であり,庶務課長の川地喜三郎は同じく東大出の法学士であった。いずれも大学卒業後10年足らず,30代の若者である。
1906年現在,6課を通じて319人の役員がいたが,彼等は原則として工手学校以上の卒業者であった。その各課別の人数は庶務課97人,坑部課86人,製煉課11人,工作課36人,電気課21人,調度課68人であった。これとは別に,現場の労働者から登用された準員が387人いた。役員は1級から8級に分かれ月給制,准員は9級または10級で日給制であった(4)。
坑部課
暴動の参加者の多くは坑夫を中心とする坑内労働者であった。その坑内を統括していたのは坑部課である。開坑,採鉱はもちろん選鉱も坑部課の担当であった。坑部課はさらに主要坑道の坑口及び選鉱所の所在地ごとに本山(本口坑,有木坑),通洞(通洞坑,簀子橋坑),小滝の3坑場に分かれていた。
坑場長は課長とほぼ同格で,本山坑場長の田島猶吉,通洞坑場長の小島甚太郎はともに東京帝国大学工科大学採鉱・冶金学科出の工学士であった。小滝坑場長の江刺重樹は例外で,現場員から登用された者である。各坑場は開坑,採鉱にあたる採鉱掛と坑外の選鉱所を担当する選鉱掛および雑務方から成っていた。坑内は地域毎に7〜8の区に分けられ,1〜2区毎に見張所が置かれていた。各区には現場員の中から選ばれた区長がおり,その下に採鉱方と見張方がいた。区長や採鉱方等の現場員は工手学校卒業者および現場労働者から登用された者が相半ばしていた。どのような労働者が登用されたかを示す資料はないが,個々の事例から見れば坑夫では友子同盟の山中委員をつとめるような者で,坑夫としての経験を積み,統率力のある者が選ばれている。職種別では支柱夫が相対的に多かったことが知られている。
坑部課の坑内関係の職制の坑場別内訳は第2表の通りである。
第2表 坑部課所属職制坑場別人数
地域 | 本山 | 通洞 | 小滝 | 計 |
坑場長 | 1 | 1 | 1 | 3 |
採鉱方 | 30 | 53 | 26 | 109 |
見張方 | 6 | 12 | 7 | 25 |
計 | 37 | 66 | 34 | 137 |
坑内労働者の職種別人員は第3表の通りである。
第3表 坑部課所属労働者職種別人員
| 本山 | 小滝 | 通洞 | 合計 |
坑夫 | 1,150 | 1,094 | 1,076 | 3,320 |
同徒弟 | 135 | 77 | 75 | 287 |
支柱夫 | 950 | 123 | 160 | 3,737 |
同徒弟 | 248 | 281 |
線路夫 | 27 | 160 |
石 工 | 23 | 14 |
車 夫 | 71 | 128 |
手 子 | 120 | 469 |
沈殿夫 | 68 | 56 |
運転夫 | 16 | 125 |
同徒弟 | 10 | 54 |
機械夫 | 10 | 7 |
雑 夫 | 46 | 29 |
請負手子 | 276 | 343 |
進鑿夫 | | 34 |
同徒弟 | | 16 |
坑内小計 | 2,235 | 2,209 | 2,900 | 7,344 |
選鉱夫 | 248 | 73 | 122 | 598 |
車夫 | 16 | 105 |
運転夫 | 3 | 5 |
沈殿夫 | 1 | 1 |
雑夫 | 12 | 12 |
女工 | 90 | 81 | 121 | 292 |
坑外小計 | 338 | 186 | 366 | 890 |
合 計 | 2,573 | 2,395 | 3,266 | 8,234 |
【備考】 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』による。
もっとも多いのは開坑・採鉱作業に従事した坑夫である。
ついで多いのが鉱石を切羽から主要坑道まで担いで運搬する手子(掘子)で,通洞では坑内夫の28.0%を占め,小滝でも17.9%と坑内労働者中の一大勢力であった。次は坑道の保守作業に当たる支柱夫で,当時はその不足が感じられていたと見え,支柱夫徒弟が親方労働者を上回っている。このほかではトロッコを押して鉱石や廃石の運搬にあたる車夫,電車などの運転夫と,運搬関係の労働者が多い。線路夫は坑内の軌道を敷設する労働者,機械夫は捲上げ機,電車,排水ポンプなど種々の機械の運転・保守にあたる者,沈澱夫は沈澱銅の採取にあたる者であった。進鑿夫は鑿岩機を操作して坑道の開鑿に当たるであるが,これは比較的少数であった。
坑外には,坑部課所属では選鉱夫,製煉課には製煉夫や錬銅夫,電気課には発電所関係の労働者,工作課には諸機械の製作修理にあたる労働者がいた。この他には,鉱石や廃石,製品である銅,あるいは製煉で使用するコークスや石灰石などの原料,食料品などの運搬,管理にあたる労働者が多数いた。これは主として,調度課の管轄であった。庶務課にも事務員の他,鉱毒除去用の沈澱池や脱硫塔で働く労働者がいた。これら労働者のうち直接雇用で働く坑夫,選鉱夫,製煉夫などは一類夫と呼ばれ,間接雇用者は二類夫と呼ばれた。
参考までに坑外労働者の監督についても表示しておこう。各課ごとの職制とその人員はつぎの通りである(第4表)。
第4表 坑外関係各課別職制数
| 坑部課 | 製煉課 | 工作課 | 調度課 | 電気課 | 庶務課 | 計 |
課長 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 6 |
坑場長 | 3 | - | - | - | - | - | 3 |
係長 | 3 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | 9 |
役員 | 19 | 28 | 24 | 100 | 25 | 6 | 202 |
組頭 | 5 | 8 | 25 | 27 | - | - | 65 |
夫頭 | 2 | - | 3 | 13 | 3 | 4 | 25 |
計 | 33 | 38 | 55 | 142 | 30 | 12 | 310 |
飯場制度
坑夫の日常生活を管理・監督していたのは飯場頭である。頭役とも呼ばれた。飯場制度は第3章の主要なテーマであるからここでは,松原岩五郎が描く飯場の光景を紹介するにとどめよう。暴動より10年あまり前のルポであるが,他の資料からみて大筋で変わるところはないと思われる。
「飯場は坑夫の休養班にして目下其数二十八組に班たれ,各飯場には炊事場と休眠所を設け,坑内労働者の為めに朝暮の賄を為す。是れ専ら独身者の便宜を図りて設けたるものなり。〔中略〕扨て飯場の構造は大抵バラック風の板付長屋にして各製煉工場の附近に散在するものあり又数十棟の飯場のみ別に一区画を為して砿山の半腹,谿間若しくば懸崖に列りて立つものあり,長屋の四壁は皆粗造の板を打付て造り屋根を覆ふ瓦に替へて大小の石を駢べて家の重心を取り一棟の長さ十間余,一棟を以て一飯場となし一飯場に三十人以上四五十人の坑夫を宿す。而して飯場に一人の頭領あり飯場内の事は一切この頭領の管する所にして此所に寓する坑夫は賃銀の内より日に食料,屋根代を納るゝこと猶他の労働仲間の如し。坑夫の休養を叙るに先立ちてまづ其住所よりいはん。坑夫の部屋は前記の通り至ッて粗造なるものにて東京市内の貧人街などよりも更らに陋穢不潔を極め,其大躰は仮屋の少しく進歩したるものにて上に天井なく下に床なく土間に囲炉裏を囲みて麁造の筵を敷き唯寝る所のみ僅かに湿気を防ぐ為め,数本の木材を横へ,其上に簀の子を世べ上敷に薦を用ゆるのみ。決して畳など敷く事にあらず。此の如く天井なく,畳なく,建具を用ひざる家の内部は常に塵芥を以て満たされ,食器などの不潔なるは元より夜具布団の類は煤と垢に塗みれて黒光りに光り,始めて見舞たる者は一見して其の汚穢に驚き,早速言語も出でぬ位なり」。
次に坑場ごとの飯場頭等の人数を掲げておこう(第5表)。なお,〈組頭〉は車夫,手子などについての飯場頭,〈夫頭〉はその他の職種の労働者中より選任された者で本来の業務のかたわら同じ職種の労働者の監督にあたった者である。頭役,組頭はすべて飯場を経営していたが,夫頭は飯場を所有していたとは限らない。また,坑夫等はすべて飯場頭の支配下に属してはいたが,全員が飯場に寝起きしていたわけではなく,家族持ちは長屋に住み,独身鉱夫でも長屋や町屋に住んだ者もいたことは,すでに見たところである。
第5表 坑場別飯場頭人数
| 本山 | 通洞 | 小滝 | 計 |
頭役 | 21 | 25 | 21 | 67 |
組頭 | 10 | 10 | 9 | 29 |
夫頭 | 8 | 9 | 4 | 21 |
計 | 39 | 44 | 34 | 117 |
友子同盟
当時の坑夫は,友子同盟と呼ばれる徳川時代からの伝統をもつ自主的な同職団体に組織されていた。友子同盟は坑夫のクラフト・ギルドともいうべきもので,この正規の成員となるには,すでに一人前の成員である特定の坑夫の徒弟として〈取り立て〉られ,3年3月10日の間修行する必要があった。この間に坑夫としての技能はもとより,友子同盟の成員に要求される作法を修得したのである。
友子の機能のうち,技能伝習と並んで重要であったのは,相互救済である。失業した友子の成員は〈浪人〉と呼ばれ,どの鉱山でも,一定の〈仁義〉を切って友子の仲間であることを示しさえすれば,その鉱山の友子同盟から〈一宿一飯〉の恩恵に預かることができた。もしその山で働くことを希望し,欠員があれば鉱山主に紹介され就職できた。欠員がなければ,友子仲間から〈わらじ銭〉を与えられ,他の鉱山に行ったのである。また,一生働けないほどの病気や怪我の時は〈奉願帳〉,一時的な場合は〈寄付帳〉といういわば〈寄付金募集の承諾書〉を与えられ,これをもって各鉱山を回り,救助を仰ぐことが許された。
もともとは金属鉱山の坑夫の組織であったが,北海道や常磐など,金属鉱山から移動した坑夫が多い炭鉱にも組織がつくられた。足尾の友子同盟は単一組織ではなく,本山,小滝,通洞および簀子橋の4坑の連合体であった。
もともと友子同盟は慣習的な存在であるが,暴動当時の足尾の友子同盟は明文の規約をもっていた。いま残っているのは暴動のちょうど1年前に改正された小滝坑の「足尾鉱山坑夫一般規則条例」(5)である。冒頭に,いわば総則的規定として,次のような規定がある。
「職務章程(〈つとめのことがら〉とルビが振られている)
一 山中大当番タル者ハ山中一般ニ関スル百般ノ事務ヲ総理スルモノトス
一 各飯場委員ハ大当番ノ召集ニ応シ百般協議ニ与カリ其飯場坑夫ノ進退届出等ノ事ヲ務ムルモノトス」。
これに続いて本則8章52條,最後に罰則6條が定められているる。各章の標題は次の通りである。1)坑夫職程及坑場ノ達予備金ノ件,2)選挙法,3)議会法,4)他鉱山ニ関シ及坑夫職務上ニ係シ並ニ袁彦道,5)鉑賊及休業日入坑,6)坑夫取立及浪客,7)交際並ニ恵与,8)更正法及祭典となっている。
冒頭の規定のように,友子の運営にあたったのは〈大当番〉である。なぜか,この規約には肝心の〈大当番〉選出についての規定がないので正確なことはわからない。ただ,1ヵ月交代で特定の飯場が〈箱元〉となり,その飯場の山中委員が〈大当番〉に就任し,会計や山中委員の会合の召集などに当たったものと推測される(6)。友子同盟の基礎単位は飯場で,各飯場から2人の〈山中委員〉(または〈飯場委員〉)と呼ばれる代表者を選出し,この山中委員の集会〈山中議会〉で友子の運営方針を決定した。注目されるのは〈鉑賊〉に関する規定である。〈鉑〉とは鉱石のことで,〈鉑賊〉は他人の採取した鉱石を盗んだ者で,除名の上,その旨を他鉱山に通知して友子仲間から追放することが定められていた。坑夫は採取した鉑を各人毎に番号を焼印した木札を附した叺に入れて搬出したが,もし叺が破損した場合は飯場の立会いなしには入れ替えを許さず,勝手に入れ替えると〈鉑賊〉と見なされるなど,厳しい手続きが定められていた。〈鉑賊〉についての認定が困難な場合は,山中議会が招集され,その費用は加害者の飯場が負担することとされていた。これまでの友子同盟研究ではほとんど問題にされていないが,こうした〈鉑賊〉に関する裁判規定は,友子同盟が単なる共済団体でなく,坑夫の自治団体であったことを明示している。
序章 注
(1) 本章執筆には多くの文献を参照しているが,ひとつひとつ注記していると煩瑣となり,わかり難くなるおそれがあるので,省略する。主として参照したものはつぎの通りである。大河原三郎『足尾銅山冶金報告』(1906年8月の足尾銅山実習報告,東京大学工学部金属工学科図書室所蔵)『栃木県史』史料編・近現代九(1980年),日本経営史研究所編『創業100史』(古河鉱業株式会社,1976年),王孫子『足尾案内 銅山大観』(萬秀堂,1908年),蓮沼叢雲『足尾銅山』(公道書院,1903年),農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(1908年)。
(2) 村上安正「近世足尾銅山考」(同『鉱業論集』ⅡII,1986年)所収 。
(3) 村上安正前掲書および資源エネルギー庁長官官房鉱業課監修『鉱業便覧 昭和59年度版』(通商産業調査会,1985年)。
(4) 1897年の規定によれば1級役員の月給は300円以上,2級が200円以上,3級100円以上,4級70円以上,5級50円以上,6級30円以上,7級20円以上,8級10円以上であった。9級の日給は1円以上,10級は40銭以上である。高等工業学校卒業者であれば,直ちに6級程度に格付けされた(星野理一編『日光電気精銅所史』巻の一・二,45ページおよび中田敬義「古河鉱業会社は如何にして社員を採用するか」『実業の日本』1907年7月15日号)。
(5) 東京大学経済学部図書室所蔵。
(6) 規定第51條には「当リ箱元委員ハ一ヶ月中ノ事務取扱手数料トシテ予備金中ヨリ金五円ヲ以テ報酬トス」とあり,第52條は「箱元月割規定は満弐年ヲ以テ更ニ抽籤ヲ行フ者トス」とある。〈大当番〉が 2名以上であることは規定第29條に「取立施行観察ノ為大当番弐名出張スル者トス」とあることから明かである。小滝坑の飯場の数は23であり2年間で全飯場が箱元を担当することになる仕組みであったのではないかと思われる。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
[本著作集掲載 2003年10月8日]
【最終更新:
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