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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)


Ⅶ 不熟練労働者の賃金水準をめぐって

相対的高賃金から全国平均水準へ

 最後に,足尾銅山における不熟練労働者の賃金水準の推移とその特徴について簡単に検討しておきたい。まず,これまで明らかになっていることを確認しておこう。
 1) 1880年代では,足尾銅山の不熟練労働者は,日傭人足の全国平均賃金より22%から50%近くも高い水準にあった。
 2) 1890年代は,足尾の賃金に関するデータを見いだし得ないでいるので,詳しいことは明かでない。ただ,1897年の鉱毒予防工事の際は,不熟練労働者にもかなりの〈高賃金〉を支払っていたことがわかっている。
 3) 1900年代になると足尾の不熟練労働者の日給は,増加傾向をたどり,足尾の熟練職種との賃金格差はいくらか縮小傾向をみせた。

 1880年代の〈高賃金〉は,なによりも足尾銅山の労働力需要が短期間に急増したことによるものであった。坑夫や製煉夫と違い,不熟練労働者の場合は,労働力の供給面で,小作農民の二三男を中心に大規模な給源が存在したから,その募集は比較的容易であったと思われる。しかし,足尾銅山の労働力需要は,その絶対量が,当時としてはきわめて大ききかった。その上,労働災害の危険性が高い暗黒の坑内における労働で,しかも囚人を使役している,といったマイナス・イメージが色濃い職場であった。こうした状況で必要なだけの労働者を集めるには,やはり相対的な〈高賃金〉を提示するほかなかったのである。
 1900年代における足尾銅山の不熟練労働者の賃金水準の上昇率は,足尾の他職種の労働者を上回っていた。しかし,この時期に賃金水準が上昇したのは,足尾の不熟練労働者だけではない。1890年代の後半から,全国的に,熟練,不熟練を問わず,各職種の賃金水準もまた急速に上昇していた。上昇率でいえば,〈日傭人足〉の全国平均の方が,足尾銅山の不熟練職種を上回っている。その結果,1880年代では足尾の雑役夫は全国の日傭人足を20%から50%近くも上回っる賃金を得ていたのに,1900年代になると,両者の賃金格差はほとんどなくなっている(第39表参照)。

第39表 足尾銅山雑役夫平均日給推移及び全国日傭との格差推移
年次名目賃金(銭)足尾雑役と全国日傭との格差
全国
日傭人足
(A)
足尾
雑役夫
(B)
足尾選鉱夫足尾
製煉夫
(D)
B/AC/AD/A
男(C)
1883(明16)19.028.3   45.5148.9 239.5
1884(明17)18.322.5  42.5123.0 232.2
1886(明19)15.422.022.0935.0142.9142.9227.3
1895(明28)22.1       
1896(明29)26.2       
1897(明30)28.6       
1900(明33)37.030.0  36.481.1 98.4
1901(明34)39.0 40.617.040.3 104.1103.3
1903(明36)40.0 37.01742.0 92.5105.0
1905(明38)41.0 39.717.145.9 96.8112.0
1906(明39)42.042.340.418.044.6100.796.2106.2

【備考】
1) 全国日傭人足の日給は『日本帝国統計年鑑』各年による。中等賃金の平均。
2) 足尾銅山の各職種日給については、第16表参照。

 なぜこのような変化が生じたのであろうか。まず予想されるのは,足尾銅山の不熟練労働者に対する需要の減少である。操業開始当初では,ほとんど機械力を用いることなく,すべてを人力によってまかなっていた。採掘した鉱石や廃石の運搬,選鉱関係の労働者,焼鉱夫,鞴人夫,さらには操業に必要な木炭,薪炭などの原料・製品の運搬,食料品など日常生活の必需品の運搬などに膨大な人員を要した。こうした問題を解決するため,さまざまな機械等の導入による,省力化がはかられた。たとえば,吹床への送風を人力から水車や蒸気機関などの動力に代えたことは,鞴人夫を不用にした。焼鉱を反射炉から回転炉やストール焙焼炉に代えて焼鉱夫を減らし,さらにベッセマー錬銅法の導入で焼鉱夫はゼロになった。水力発電所の設置,木炭に代えてコークスの利用,さらには生鉱吹きの導入は薪炭夫や運搬夫を不要にした。道路や橋の整備,鉄索の架設,馬車・牛車鉄道の敷設,さらには電車の導入などは,原料,廃石,製品,日用品関係の運搬夫を減少させた。そのほかにも,所要労働力量削減の努力はさまざまな分野で続けられていた。
 しかし一方では,採鉱地域の深部への移動により,掘子,車夫などの坑内運搬夫はたえず増加傾向をたどった。坑道の整備とそれにともなう鉱車の使用により,とりわけ主要坑道における馬車・電車の採用によって,坑内運搬の能率は向上した。しかし,1880年代では坑内に遺棄していた二番粗鉱を,1890年代になると坑外に搬出して,選鉱するようになったため,運搬量は激増した。また焼鉱夫がなくなると同時に団鉱夫,調合夫など新たな職種が生まれるといった例も少なくなかった。このため,足尾における不熟練労働者は,数・率ともいくらか減少はしたが,依然として労働者総数の過半を越えていた(第40表)。

第40表 足尾銅山非熟練労働者数・比率推移
年次不熟練
労働者
総数
総労働
者数
不熟練
比率
囚人選鉱夫
(男)
選鉱女焼鉱夫掘子車夫その他囚人を
含む総数
(比率)
1877(明10)74215 50 51     
1883(明16) 887 151  6    
1884(明17)1,9082,76669.0187100124300 1,3842,095(71.0)
1885(明18) 3,331 110754112828530  
1886(明19)2,4584,01561.298124151879911829232,556(62.0)
1895(明28) 7,318  4972561581,126237  
1896(明29)6,56810,92560.1 5884271391,4785833,353 
1900(明33) 6,571  435362872,104   
1901(明34) 9,247  496352911,359   
1902(明35)5,40710,07553.7 2452721001,2902863,214 
1905(明38) 10,247  113302 0   
1906(明39) 12,788  30127501,816 965 

 にもかかわらず1900年代になると,不熟練労働者の賃金に関する限り,足尾の相対的優位が失われたのは何故であろうか? 考えられるのは,労働力の給源の状況が1880年代とは異なったことである。おそらく,足尾程度の労働力需要は容易にまかい得るだけの労働力の蓄積が存在するようになったのであろう。足尾とその周辺にも,農作業などの余暇に銅山で働く人びとが生まれていた。さらに,富山,新潟,福井,石川の北陸4県を中心に,〈潜在的過剰人口〉が形成されており,同時にこれを現実に出稼ぎ労働者として足尾へ連れてくるネットワークが出来上がっていた(1)。足尾の賃金水準が,不熟練労働者に関する限り,全国の日傭労働者の賃金水準と連動するようになったのは,このように解釈できるのではないか。今のところは,一つの見透しにすぎないので,今後,機会があれば検討してみたい。



【注】


(1) 本書第2章補論1参照。




[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年8月25日]


【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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