高野房太郎 年譜 |
月日 満年齢 |
房太郎関連 | その他 |
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1868年(旧暦 慶応3年12月7日〜明治元年11月18日) | ||
10月13日 (旧暦 9月8日) |
慶応を明治と改元 | |
1869年(旧暦 明治元年11月19日〜明治2年11月29日) | ||
1月6日 (旧暦 11月24日) | 高野房太郎,長崎府彼杵郡長崎町銀屋町18番に,和服仕立て職人の父・高野仙吉,母マスの長男として生まれる。幼名・久太郎。 | |
1871年(旧暦 明治3年11月11日〜明治4年11月20日) | ||
9月16日 (旧暦 8月2日) 2歳8ヵ月 |
弟・岩三郎生まれる。 | |
1872年(旧暦明治4年11月21日〜明治5年11月31日〔12月2日〕) | ||
9月5日 (旧暦8月3日) | 学制を頒布。 | |
10月14日 (旧暦9月12日) | 新橋・横浜間鉄道開業式。翌日から旅客運転開始。 | |
12月9日 (旧暦11月9日) | 旧暦を廃止する太政官布告発布。 旧暦12月1日,2日を11月30日,31日とし,12月3日を明治6年1月1日とする。 日出・日没を基準とする不定時制を改め,1日24時間の定時制を採用。 | |
1873年(明治6年) | ||
11月10日 | 内務省を設置。 | |
12月? 4歳11ヵ月? | 長崎・磨屋町の啓蒙学校へ入学? | |
1874年(明治7年) | ||
12月18日 | 京橋・銀座・金杉間の街路にガス灯が点火される。 | |
1875年(明治8年) | ||
6月28日 | 讒謗律・新聞紙条例布告 | |
1876年(明治9年) | ||
10月24日 | 熊本県士族ら,熊本鎮台を襲撃(~風連の乱) | |
10月27日 | 旧秋月藩士ら,熊本に呼応して決起(秋月の乱) | |
10月28日 | 山口県士族ら,熊本に呼応し県庁を襲撃をこころみ鎮圧される(萩の乱) | |
10月 | 佐久間貞一,秀英舎を開業。 | |
1877年(明治10年) | ||
2月15日 | 西郷隆盛,政府に尋問の筋ありと,兵を率いて鹿児島を出立。 | |
このころ 9歳 | 高野家一家6人をあげて上京。父仙吉,神田・橋本町(のち久右衛門町に町名変更)で回漕店兼旅館・長崎屋を経営。日本橋・千代田小学校へ転校。同年末には本所・江東学校へ進学。 | 西南戦争に際し,長崎は政府軍の兵站基地となる。 |
9月24日 | 西郷隆盛ら,自刃し,西南戦争終わる。 | |
1879年(明治12年) | ||
4月 | 長崎屋,この月に出版された明治版ミシュラン『食類商業取組評』の「旅宿」の部で「東の大関」に格付けされる。 | |
8月26日 10歳7ヵ月 | 父・仙吉死去。房太郎が高野家の戸主となる。 | |
1881年(明治14年) | ||
1月26日 12歳 | 松枝町大火で長崎屋全焼。日本橋小網町に一時転宅し、11月9日本橋浪花町で旅館長崎屋再開。 | |
12月9日 | 後に妻となる横溝キク生まれる。 | |
12月? | 江東小学校を卒業。 | |
1882年(明治15年) | ||
1月? 13歳 | 横浜の伯父・高野弥三郎が経営する回船問屋兼旅館・絲屋の住み込み店員となり、かたわら横浜商法学校夜学に通う。 | |
12月29日 | 父・仙吉の長兄,高野亀右衛門(横浜弁天通りで旅館・高野屋を経営)死去。行年55歳。 | |
1884年(明治17年) | ||
1月 15歳 | 井上仁太郎(後の伊藤痴遊)ら横浜在住の青少年と横浜講学会を結成。図書の共同購入や講演会開催。 | |
1885年(明治18年) | ||
1月 16歳 | 祖母・カネ死去。 | |
10月 | 姉・キワ(貴和),唐津の井山憲太郎に嫁ぐ。 | |
1886年(明治19年) | ||
1月23日 17歳 | 横浜講学会,東京専門学校同窓会の同攻会横浜支会となり,房太郎は改組発起人に名を連ねる。 | |
1月 | 母・マス,長崎屋の廃業を決め,浪花町の家を売り,横浜在住の伯父高野弥三郎方に同居することとなる。 | |
4月22日 | 伯父・高野弥三郎死去。 | |
5月1日 | 全米各地で八時間労働日要求のスト(メーデーの起源)。シカゴヘイ・マーケット事件。 | |
11月25日 | 房太郎,アメリカ行き旅券の交付をうける。券面には「右ハ商業研究之為米国桑港ヘ赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要ノ保護ヲ与ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス」と記されていた。 | |
12月2日 | 房太郎,パシフィック・メール会社のニューヨーク号で横浜を出航しサンフランシスコへ向かう。 | この日,アメリカ労働総同盟結成。 |
12月19日 | 房太郎,サンフランシスコに上陸し,コスモポリタンホテルに止宿。 | |
1887年(明治20年) | ||
この年初め 18歳 | カリフォルニア州オークランドで「スクール・ボーイ」として働く。 | |
3月 | キングスランド夫人に英会話や英作文を学ぶ。 | |
6月末〜8月 | カリフォルニア州メンドシーノ郡ポイント・アリーナのガルシア製材所で働く。 | |
9月 | 弟・岩三郎,第一高等中学(第一高等学校の前身)予科三級に入学。 | |
10月以降11月以前 | 日本雑貨店開店準備のため一時帰国。同年末にはふたたび渡米。 この帰国中に『読売新聞』から通信員を委嘱される。 | |
1888年(明治21年) | ||
9月16〜17日 | 労働騎士団カリフォルニア大会,サンフランシスコで開催。 | |
5月 | 房太郎,サンフランシスコ・ストークトン街10番地で友人と共同で日本雑貨店を開業。半年ほどで経営は破綻し,夜逃げ同様にポイントアリーナに移る。 | |
9月 | 城常太郎渡米。コスモポリタンホテルで皿洗いとして働く。 | |
1889年(明治22年) | ||
3月 20歳 | 『読売新聞』に「米国桑港通信」を寄稿(4月26日掲載)。 | |
3月〜9月ころ | カリフォルニア州ポイント・アリーナのガルシア製材所で働く。この間に,ジョージ・マクニール編著『労働運動──今日の問題』を読み,労働運動への関心が目覚める。 | |
9月7日 | 「ヤンキー」を執筆し,『読売新聞』に寄稿(10月5日掲載)。 | |
10月以前 | ワシントン州シアトルに移る。シアトルはこの年6月に大火があり,その後の建築ブームで好景気であった。 | |
1890年(明治23年) | ||
3月頃 満21歳 | ワシントン州タコマに移り,タコマ・チョップハウスで働く。 | |
4月30日 | 『読売新聞』に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を寄稿(5月31日〜6月27日掲載)。 | |
5月1日 | 欧米諸都市で第1回メーデー。 | |
9月23日 | 『国民の友』、「労働者の声」を掲載。 | 9月30日 | タコマを離れ,サンフランシスコへ(10月3日到着)。 |
11月11日 | 日本で材木伐出場を設立する計画をたて、その準備のため各種の調査を岩三郎に依頼。 | |
12月 | 沢田半之助,渡米。 | |
1891年(明治24年) | ||
1月4日 | サンフランシスコ商業学校別科(昼間のクラス)に入学。コスモポリタンホテルの客引き,移民局の通訳などをしながら英語,簿記,商法,速記術,算数,商業通信文などを学ぶ。 | |
7月 | 城常太郎,沢田半之助らと職工義友会を創立 | |
8月6日 | 房太郎に宛てて,労働騎士団の John Hayesから,機関誌誌代が切れたが購読を続けるよう勧める手紙が届く。 | |
8月7日 | 『読売新聞』1面に,社友・高野房太郎名で「日本における労働問題」掲載(〜10日)。 | |
11月29日 | ガントンの 富と進歩 Wealth and Progress を購入。感銘を受け,翻訳を試みる。この後,間もなくタコマへ戻る。 | |
1892年(明治25年) | ||
5月 | サンフランシスコ商業学校別科を卒業。通常課程 59人,別科生 123人の計182人が卒業。 | |
5月20日 | 金井博士及添田学士に呈す」を『国民新聞』に発表。 | |
5月23日 | 岩三郎の大学入学費用として50ドルを送金。経済状態改善。 | |
7月 | 弟・岩三郎,第一高等中学校本科を卒業。 | |
6月 | ホームステッドで鉄鋼労働者のストライキ。 この年中にアメリカ全土で起きたストライキは1200件に達した。 | |
9月 | このころ,経済学の書物を買い集めている。 | |
9月 | 高野岩三郎,帝国大学法科大学に入学。 | |
12月 | 2度目の一時帰国。岩三郎への仕送り義務を免れる。 | |
1893年(明治26年) | ||
1月 | 城常太郎ら,加州日本人靴工同盟会を結成。 | |
5月1日 | シカゴ万国博覧会開催(〜10月30日)。 | |
6月ころ | タコマを離れ,サンフランシスコを経て,シカゴに向かう。 | |
7月〜10月31日 | シカゴ万博の日本商品即売所で働きながら博覧会見学。 | |
11月 | マサチュウセッツ州グレイト・バーリントンでドラッグストアを経営するホワイティング家で働く。 | |
1894年(明治27年) | ||
3月6日 25歳 | アメリカ労働総同盟のサミュエル・ゴンパーズ会長に宛てて初めて手紙を書く。 | |
4月下旬 | ニューヨークに移る。 | |
5月2日 | アメリカ海軍補給艦 ヴァーモント号の水兵(食堂勤務員・給仕)となる。契約期間ははじめ1年,すぐ3年に延長。 | |
5月11日 | プルマン・ストライキ | |
6月〜11月 | ジョージ・ガントンが主宰する社会経済学院(College of Social Economics)で経済学を学んだ。 | |
労働省,葉巻工組合,機関士組合,機関車火夫組合などに手紙を出し,組織のあり方,共済制度の実態などについて教えをこう。 | ||
7月25日 | 日本艦隊,清国軍艦を砲撃。8月1日,日本政府,清国に宣戦布告(日清戦争)。 | |
8月25日 | 労働騎士団に手紙を出し,組織の実態についての情報を求める。9月1日付でジョン・ヘイズより返信。 | |
9月4日 | アメリカ労働総同盟のサミュエル・ゴンパーズ会長とはじめて面会。その後も数回会う。 | |
10月1日 | ヴァーモント号から砲艦・マチャイアス号乗り組みに配属替え。 | |
11月20日 | マチャイアス号,極東に向け、ニューヨークを出航。 | |
1895年(明治28年) | ||
3月6日〜4月21日 | 香港,アモイに各数週間滞在。 | |
4月25日〜27日 | 長崎に寄港。この間に義兄の井山憲太郎と面会 | |
5月1日〜13日 | マチャイアス号,芝罘に寄港。以後中国の各港をまわる。 | |
7月 | 岩三郎,東京帝国大学を卒業。 | |
7月28日 | ゴンパーズ,この日付の手紙で房太郎を翌年のアメリカ労働総同盟の大会へ招待。 | |
9月 | 岩三郎,帝国大学法科大学大学院に籍をおき,金井延教授の指導で「労働問題を中心とする工業経済学」を専攻。 日本中学で西洋史,日本史,ドイツ語などを教え,自活。 | |
9月26日〜10月14日 | 房太郎搭乗のマチャイアス,南京ほか揚子江流域の各地をまわる。 | |
1896年(明治29年) | ||
2月18日 | 同日付けで,ゴンパーズより高野に宛てて発信。オルグとしての再任辞令を送付。 | 城常太郎帰国。 |
6月18日〜8月1日 | マチャイアス号,横浜に寄港。房太郎,この間に脱艦して帰国。 | |
9月以前 | 房太郎,横浜にある英字新聞『デイリー・アドヴァタイザー』社で翻訳記者として勤務。 | |
10月31日 | ゴンパーズ,この日付の房太郎宛書簡で,機会があれば労働運動を始めるよう勧告。 | |
12月11日 | 房太郎,ゴンパーズ宛の手紙で「アドヴァタイザー社」を退職し,労働運動をはじめる決意を固めたことを伝える。 | |
1897年(明治30年) | ||
1月16日 | 『和英辞典』の編集を終える。弟岩三郎およびヘラルド記者山崎要七郎との共著として同年12月に大倉書店から刊行。 | |
1月26日 | 横浜から東京に移転。途中で、城常太郎,沢田半之助を訪ねる。 | |
2月7日 | 神田今川小路の玉泉亭で開かれた社会政策学会に出席し、入会を認められる。 | |
3月6日 | 学士会事務所で開かれた社会政策学会の席上で佐久間貞一の知遇を得る。 | |
3月12日 | 佐久間貞一の私宅を訪れて面談。 | |
3月22日 | 佐久間貞一より、4月6日の東京工業協会総会の席上での講演を依頼する手紙をうけとり、すぐ承諾する。 | |
3月29日 | 佐久間を訪ね、『職工諸君に寄す』の印刷を依頼。 | |
4月6日 | 神田錦輝館で開かれた東京工業協会の総会で、房太郎「米国における職工の勢力」と題して演説。また席上で『職工諸君に寄す』を配布。 | |
6月25日 | 神田のYMCA青年会館で,職工義友会主催の労働問題演説会を開催。終了後、房太郎、労働組合期成会設立について来会者に呼びかける。 | |
7月5日 | 日本橋区北槙町池の尾で,労働組合期成会の発起会開催。高野房太郎,城常太郎,沢田半之助が仮幹事に選任される。 | |
8月1日 | 労働組合期成会の第1回月次会で幹事に選出される。 | |
11月14日 | 鉄工組合創立相談会 | |
12月1日 | 午後6時より、神田青年会館で、労働組合期成会鉄工組合の発会式。実弟の高野岩三郎も演説。
同日,『労働世界』創刊,編集長・片山潜。 | |
12月31日 | 高野房太郎・岩三郎・山崎要七郎著『和英辞典』大倉書店から刊行される。 | |
1898年(明治31年) | ||
1月16日 | 高野房太郎著『実用英和商業会話』,大倉書店から刊行される。 | |
3月23日 | 房太郎,日本橋警察署に呼び出され,期成会大運動会の中止を勧告される | |
4月24日 | 期成会,会費を15銭から10銭に引き下げることを決定。 | |
春 | 横溝キクと結婚。 | |
6月15日 | この日付の『労働世界』に消費組合のモデル規約を発表。 | |
6月26日 | 労働組合期成会月次会で幹事に再選される。 | |
7月15日 | 房太郎,労働組合期成会幹事長となる。 | |
7月23〜31日 | 房太郎,片山潜らと東北遊説に出発。大宮,福島,一関,盛岡,青森,尻内,盛岡,仙台,宇都宮などで演説し,日鉄矯正会会員と交流。 | |
9月23日 | 期成会15回月次会で工場法案修正の陳情委員に選任さる。 | |
11月1日 | 労働組合期成会,『工場法案に対する意見書』を作成し農工商高等会議の議員に配布。 | |
11月6日 | 佐久間貞一死去、享年50歳。 | |
11月20日 | 金子堅太郎「職工の前途」と題し、労働運動応援の大演説。 | |
11月29日 | 房太郎,期成会および鉄工組合の常任を辞任。 | |
12月 | 妻キクとともに横浜へ移住。 | |
12月22日 | 横浜鉄工共営合資会社を開業し,その業務担当社員となる。 | |
1899年(明治32年) | ||
3月4日 | 長女・美代誕生。 | |
6月5日 | 弟・岩三郎,欧州留学に出発。 | |
6月20日 | 鉄工組合,本部建物を買い求め,日本橋区本石町1丁目12番地に移転。労働組合期成会もここに移転。 | |
6月25日 | 房太郎,鉄工組合および期成会の常任役員に復帰。今回は,有給となり,一家をあげて本部に住み込む。 | |
7月31日 | 神戸の「清国労働者非雑居期成同盟会」の演説会で応援演説。城常太郎と再会。 | |
8月1日 | 東京洋服裁縫業組合の創立演説会に出演。 | |
9月 | このころ、鉄工組合の組合費納入率低下し始める。 | |
11月 | 日本鉄道大宮工場で組合員の解雇問題発生。 | |
11月1日 | 京橋区本八丁堀二丁目四番地で消費組合「共営社」を経営。
同店2階に石川島造船所労働者のための労働倶楽部を設置。 | |
12月上旬 | 東京砲兵工廠の組合活動家・馬見江金太郎、高橋定吉、解雇される。 | |
12月 | この月、鉄工組合の組合費納入率急激に悪化し、在籍2500人中わずかに1000人程度となる。 | |
1900年(明治33年) | ||
1月30日 | 鉄工組合,財政問題を検討するため臨時本部委員総会を開く。財政難解決のひとつの方策として,房太郎,有給常任委員を辞職し,無給で活動することを申し出る。 | |
3月10日 | 高野房太郎,幸徳秋水らとともに普通選挙期成同盟会の幹事に選任される。 | 治安警察法公布。 |
5月 | ドイツ留学中の高野岩三郎、帝国大学法科大学助教授に就任。 | |
6月9日 | 鉄工組合本部委員総会、死亡救済をのぞく全ての救済制度の停止を決定。 | |
6月20日 | 義和団,北京の公使館区域への攻撃を開始。翌21日,清朝,列強に対し宣戦布告。 | |
8月14日 | 8カ国連合軍,北京侵攻。 | |
8月24日 | 高野房太郎,片山潜・安部磯雄らと大宮の演説会に出演し、日本鉄道大宮工場の経営を批判。これが房太郎の日本における運動の最後。 | |
9月1日 | 同日付『労働世界』第65号に,「高野房太郎氏はいよいよ清国へ渡航せらるるよし」との短信が掲載される。また同号の英文欄では,高野が城常太郎と天津で商店を開く計画と伝える。 | |
9月25日 | 労働新聞社社員総会、『労働世界』の経営をを片山潜個人の責任で刊行することを承認。 | |
11月1日 | 同日付『労働世界』に房太郎が天津から一時帰国した旨の短信。 | |
1901年(明治34年) | ||
1月1日 | 同日付『労働世界』英文欄に,房太郎が天津から北京に移動した旨の短信。 | |
1月15日 | 同日付『労働世界』英文欄に,房太郎がイツ軍におり,用務のため一時帰国し馬関(下関)にいるとの消息。 | |
4月3日 | 同日付『労働世界』第75号英文欄,高野房太郎が北京に滞在中と報道。 | |
7月1日 | 房太郎,北京を退去し,青島に赴く。 | |
1902年(明治35年) | ||
房太郎,サンフランシスコ時代からの友人・竹川藤太郎と貿易業に従事していた模様。日本の石炭を青島に運ぶなどしていたらしい。 | ||
1903年(明治36年) | ||
1月18日 | 次女ふみ(富美)誕生。 | |
4月 | 高野岩三郎、留学を終え帰国。翌月法科大学教授に任ぜられる。 | |
11月23日 | 同日付片山潜より高野マス宛の手紙から,房太郎がすでに病床にあることがわかる。 | |
1904年(明治37年) | ||
3月12日 | 清国山東省青島のドイツ病院で肝臓膿腫のため死去。享年35。 | |
5月4日 | 横山源之助、この日と同9日の『毎日新聞』に「労働運動率先者の死」と題して房太郎の死を伝える。 | |
6月26日 | 東京・駒込吉祥寺で納骨式。 | 横山源之助,『東洋銅鉄雑誌』第1巻第1号に「高野房太郎君を憶ふ」を掲載。 |
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