二村一夫「戦間期日本の労働運動 ─ 1917-1940」、『二村一夫著作集』
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戦間期日本の労働運動 ─ 1917〜1940


はじめに

 第一次世界大戦から第二次世界大戦まで、戦間期の日本労働運動の歩みを概観すること、これが与えられた課題である。初めにごく大まかな時期区分をしておこう。第1期は第一次大戦中の1917年から1921〜22年ごろまで、日本の労働運動が本格的な発展をはじめた時期で、運動の高揚期である。第2期、これは実際は単独の時期というより過渡期と考えるべきかもしれないが1922〜23年から1926年までで、いわゆる「方向転換」の時代である。第3期は3回にわたる総同盟の分裂によって労働運動が左・右・中間の三派にわかれた1926年から、戦争の重圧によってすべての労働組合が解体されてしまった1940年までである。
 ここでの時期区分は、運動の流れをごく大まかに理解するための便宜的なものである。たとえば第1期と第2期をわけた基準からすれば、第3期は当然さらに細かい区分が必要だが、ここでは一括してとりあつかっている。



 I 独占資本主義の確立と労働運動の発展

労働運動の本格的発展とその基盤

 1917年以降の数年間が世界史的な大転換期であったことは年表を一覧するだけで明らかである。1917年ロシア革命、1918年第一次世界大戦終結、ドイツ革命、ハンガリー革命、1919年朝鮮三・一運動、中国五・四運動、コミンテルン結成とつづいている。日本もこの激動の例外ではなかった。1917(大正6)年は「ストライキ運動飛躍の年」といわれたように、ストライキが件数でも参加人員の点でも急増した。1915年まではストライキは年間50件前後でしかなかったし、参加人員も8000人に満たなかったものが、1917年には、いっきょに398件、5万7309人に達したのである。1918年、19年とストライキはふえつづけた。とくに造船所、製鉄所、軍工廠、大鉱山など日本資本主義の根幹をなす大経営で争議が頻発し、労働組合が結成された。
 この間、1918年には米騒動が日本全土にひろがり、約2ヵ月の間に38市、153町、177村で大衆行動が展開され、107市町村に軍隊が出動した。「冬の時代」は終わり、日本の労働運動は本格的な発展の時期を迎えたのである。
 このように、日本の労働運動が1910年代の後半に本格的な発展を開始したのは何故であろうか。理由はいくつかあげられる。たとえばロシア革命の影響、米騒動の衝撃、大正デモクラシイの展開、ILOの影響など。しかし、なによりも運動発展の基礎にあったのは第一次世界大戦を機に日本資本主義が急速な発展をとげ、これに伴って労働者階級が量的、質的に成長したことであった。
 1914年にはじまった第一次世界大戦は、イギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟という2つの帝国主義グループが世界の植民地と市場の再分割をめざして争った帝国主義戦争であった。日本はこの大戦を「大正新時代の天佑」として日英同盟を口実に参戦した。日本の主な狙いはアジア、なかでも中国における利権の獲得にあった。悪名高い対華2一ヵ条要求などによって、この狙いは一定の成果をあげた。しかも、日本は大戦の主戦場であったヨーロッパの戦闘にほとんど参加しないことで、中立国としての経済的利益をも確保した。大戦景気にわくアメリカヘの輸出の増大をはじめ欧米諸国からの輸出が減少したアジア市場への進出、ロシアなど交戦諸国への軍需品の輸出によって、日本資本主義は異常な発展をとげた。この日本資本主義の急速な成長こそ、労働運動の本格的展開の基盤を準備したのである。資本の蓄積は、必然的にプロレタリアートの蓄積をもたらしたからである。工場労働者数は開戦の年1914年に約85万4000人であったものが、1918年には140万9000人とわずか4年間で1・65倍に達している。この数字は民間の工場労働者だけの数字であるから、このほかに官営工場の労働者、運輸通信労働者、さらには鉱山労働者などを加えると、1918年、現在の労働者総数は250万から300万人に達していた。さらにその家族を考えれば、この時点で労働者階級は1000万人に近い勢力に成長していたとみられる。なかでも注目されるのは造船、鉄鋼、軍需工業などを中心とした重工業、それも大企業の男子労働者の比重がいちじるしく高まったことである(第1表参照)。


第1表 第一次大戦下産業別労働者推移
  1914年1919年 1919年の1914年
に対する比(%)
製糸 224,287 287,437128.2
紡績 124,637204,197 163.8
織物 159,606 273,614171.4
機械製造 29,71762,540 210.5
船舶車輌 29,15997,156 333.2
金属品製造 24,172 56,848 235.2
窯業 36,632 69,895190.8
製紙 14,473 29,160 201.5
染業など 944 6,491 687.6
人造肥料 2,517 10,269408.0
醸造 36,855 50,653 137.4
製茶 11,583 6,23953.9
精穀製粉 7,645 14,256186.5
金属精錬 3,63816,982466.8
その他とも総数 948,2651,520,466160.3

【備考】守屋典郎『経済史』(東洋経済新報社、) 原統計は「工場統計表」5人以上規模。

 これらの重工業男子労働者は、製糸女工、紡績女工のような農家の家計補充的な、出稼的な労働者ではなく、都市で独立の生計を営む労働者であった。第一次大戦後の大争議のにない手は、まさにかれらであった。もちろん労働者階級の数的増大、あるいは重工業男子労働者の増加それ自体は運動の客観的条件を準備したにすぎない。このことだけで第一次大戦後の労働運動の高揚を説明しつくすことはできない。しかし、なによりもここで指摘しておきたいことは、支配階級がいかに運動を弾圧しようとも、そしてそれがいったんは運動の空白な「冬の時代」をつくり出すことに成功しようとも、資本主義の発展そのものが必然的に新たな、さらに拡大した規模での運動の基盤を生みだす事実である。さきの言葉をくり返せば、資本蓄積の過程は同時にその墓掘り人である労働者階級の蓄積の過程なのである。この事実は、第二次大戦前夜に弾圧によって消滅させられてしまったかに見えた労働運動が、戦後ふたたび立ち上がったことによって再度実証されたのである。

 第一次大戦後の労働運動の特徴

 つぎに、第一次大戦後の労働運動の特徴を明治期のそれと比較検討しておこう。
まず第1の、そしてすぐ目につく相違は、その規模のちがいである。ストライキについてみれば、件数はもちろん、参加人員の点でも、継続日数の点でも飛躍的に増加した。このことは、運動の母体である労働者階級の数的増大と直接に関係していよう。
 第2の特徴は、ストライキと労働組合の結成とが密接に結びついていることである。明治期にも労働組合は存在したし、ストライキもあった。しかし日本鉄道のストを機に結成された日本鉄道矯正会を別とすれば、ストライキのあとに永続的な労働者組織を残しえた例はない。また明治期の労働組合は、鉄工組合にせよ活版工組合にせよ共済活動に重点をおいており、一度もストライキをしていない。
 これに対し第一次大戦後の特徴は、ストライキと前後して労働組合が結成される事例がいちじるしく増加していることである。また友愛会のようにもともとは労働者の修養・共済団体であってもしだいに労働組合化し争議にも関与するようになっていることである。労働者はストを成功させるためには、団結が不可欠であることを自覚しはじめたといえよう。同時に自分たちの要求をかちとるためには1回限りのストではだめで、日常的な団結、恒常的な組織が必要であることを学んでいったのである。
 ここで重要なことは、これらのストライキが治安警察法第17条という事実上の「ストライキ禁止法」の制約をのこえてたたかわれていることである。しかも労働組合に結集した労働者は、闘争のなかで次第にストライキを労働者の当然の権利と考えるようになっていったのである。また労働者が労働組合を結成して、労働条件の維持改善を要求することを当然の権利と考えるにいたったのである。1919年には友愛会を中心として全国で治警法17条撤廃運動がおこり、また労働組合の公認を政府や企業に要求している。1920年の第1回メーデーの中心スローガンの一つも治警法撤廃であった。また1921年には関西地方を中心に団体交渉権の獲得を中心課題とした労働争議があいついでいる。これらの要求は必ずしも貫徹しなかった。団結権、争議権、団体交渉権が確立したのは第二次大戦後のことであり、戦前においては労働組合法は資本家側の強硬な反対によって遂に成立しなかった。しかし、治警法第17条はあいつぐストのなかで事実上、適用が制限されるようになり、ついに1926年には廃止されるにいたっている。治警法17条撤廃と引きかえに労働争議調停法が制定されるという制約はあったが、労働者は事実上、争議権をたたかいとったのである。
 第3の特徴は、明治期の争議が個別的分散的であったのにたいし、第一次大戦後の争議は相互に関連をもった闘争としておこなわれるようになったことがあげられる。もちろん明治期においても、1907年の一連の鉱山暴動のように、事実上の関連をもった争議は存在した。別子暴動や幌内炭坑暴動には明らかに足尾暴動の影響が認められる。しかし、この場合でも事実上、関連をもって闘争が展開されたのであって、意識的に共同闘争をおこなったわけではない。まだかれらは自分たちの相手が資本家階級であることを認識していなかったのである。明治期の数少ない労働運動指導者の一人である永岡鶴蔵がつくった労働歌の一つに、「古河さんは御主人か いえいえあいつは違います 義理も情も知らぬ鬼」というのがある。ここで問題になっている相手は、古河なのである。それも古河潤吉が義理も情も知らないことが非難されているのである。個々の労働者の場合にはそこまでもいっていなかった。かれらは自分たちと遠くはなれている古河よりも自分たちにワイロを強要する職制や、ピンハネをする飯場頭こそが憎むべき対手と考えられていた。
 しかし、第一次大戦後になると明らかに違ってくる。たとえば、1919年の足尾銅山争議にたいして、東京のいくつかの労働組合、友愛会、信友会、小石川労働会、日本交通労働組合などはつぎのような共同声明を出している。「吾々労働団体は凡ゆる労働争議に対し、之れ単なる部分的問題にあらずして、吾人労働階級全般の消長に関するものと認め、今後一切の情実を廃して一致協力、もってこれが貫徹につとめんことを期す」
 単なる声明だけでなく、1919年の東京の16新聞社製版工ゼネスト、1921年の川崎・三菱両造船所争議では意識的に共同闘争が組まれている。なかでも後者は、川崎造船所と三菱神戸造船所という大工場の労働者3万人が友愛会神戸連合会を中心に単一の大争議団を結成し、団体交渉権の承認を要求して40日余もたたかった戦前最大の争議であった。友愛会をはじめ全国の労働組合から多数の組合員が応援にかけつけ、資金カンパをしている。一方、政府はこの争議に憲兵隊や軍隊までもくり出した。争議はもはや一工場の個別的な闘争ではなく、資本家階級とそれをたすける政府対労働者階級の闘争、階級対階級の闘争となり、それに参加した多数の労働者が、これを認識するにいたったのであった。


労働組合運動と社会主義運動の結合

 このように、労働者が労働者階級としての共通の利益を意識し、全階級的な闘争を開始したことは、必然的に労働者階級独自の政治行動を発展させた。単なる経済闘争にとどまらず、労働者階級の解放をめざすたたかいにたちあがったのである。
 はじめ労働者をとらえたのは普通選挙運動であった。1919年初頭には、友愛会、とくにその関西の地方組織が中心になって治警法17条撤廃とともに普選獲得を要求してデモや労働者大会などの大衆行動を展開した。普選運動そのものは以前からあったが、労働者階級が独自に政治的要求をかかげて大衆行動をおこなったのは、これが最初のことであった。翌1920年2月、政府が普選法審議中の議会を解散したことによって、普選運動は挫折した。これにかわって社会主義が労働運動をとらえた。1920年の日本社会主義同盟の結成がそのメルクマールである。社会主義同盟はその創立宣言で、「われわれは現代の資本制度を根本的に破壊せんとする。……われわれは……階級のない社会、すなわち、すべての人が労働して、すべての人が衣食住の安全をうる新社会の実現を期する。……われわれはこの階級闘争におけるわれわれの主要な実力が、各種の労働者階級にあることを信じ、その覚醒と団結と訓練に努力する。(後略)」と主張した。社会主義同盟の参加者の思想的立場はさまざまで、アナーキストもあれば、マルクス主義者もあり、「広き意味にて一切の社会主義者を包括」(日本社会主義同盟趣意書)していたから、実践運動の主体としては強力なものとはなりえなかった。しかし、社会主義同盟には明治以来の古参社会主義者だけでなく、第一次大戦後の労働運動のなかで育った活動家が多数参加していた。社会主義運動はようやく思想運動の枠をこえて労働運動と結びつきはじめたのである。
 1922年秋の総同盟大会における綱領改正は、労働運動と社会主義とが結びついたことを明瞭にしめした。問題の部分は次のとおりである。
「(二)我等は断固たる勇気と有効なる戦術とをもって資本家階級の抑圧迫害にたいし徹底的に闘争せんことを期す。(三)我等は労働階級と資本家階級が両立すべからざることを確信する。我等は労働組合の実力をもって労働者階級の完全なる解放と、自由平等の新社会の建設を期す。」
 社会主義同盟の複雑な構成に見られるように、この時点では一口に社会主義者といっても、無政府主義者もマルクス主義者もギルド社会主義者も未分化のまま混在していた。はじめ労働運動をとらえたのはギルド社会主義であったが、普選運動の挫折、1920年の反動恐慌を経て「サンジカリズム」が急速に影響力を増していった。さきに引用した総同盟の改正綱領にも、サンジカリズムの影響がはっきりあらわれている。周知のようにサンジカリズムは労働組合(サンジカ)こそ純粋の労働者階級の組織であり、サンジカの直接行動=ゼネラル・ストライキこそ階級社会廃絶の手段であると主張し、一切の政治行動を否定するものであった。
 この時期のサンジカリズムが明治社会主義の革命的伝説を「冬の時代」をこえてつたえ、労働運動を労資協調の路線から脱却させる上で一定の積極的役割りをはたしたことは否定できない。しかし、サンジカリズムが啓蒙の段階をこえて労働運動の実践理論となったとき、その観念的急進主義としての限界はただちに明らかになった。労働組合の組織勢力が弱少な当時の日本では、労働組合の直接行動=ゼネストは問題にならなかった。直接行動はその本来の意味とはちがってまったく矮小化され「警官と小ぜり合いして一晩警察に泊められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩く」(棚橋小虎)ようなものになってしまった。実際には、サンジカリズムの理論が労働組合をとらえたというより、普選運動反対、議会行動否定、ILO否認、知識階級排撃などのスローガンが普選運動に挫折し、反動恐慌の下で困難なたたかいを強いられていた活動家の急進的な心情をとらえたのである。
 この間、ロシア革命の影響は年を追って広がりと深みを増していった。ロシア革命とレーニン主義への理解が進むにつれて、サンジカリストのなかからボリシェヴィキに改宗する者があいついだ。かれらは運動の主導権をめぐってサンジカリストと対立し、その抗争のなかできたえられ、自己の立場を確立していった。未分化だった社会主義運動は大杉栄を中心とするサンジカリストと山川均、堺利彦らを指導者とするボリシェヴィキの二派にはっきりわかれていった。
 1921年、日本社会主義同盟は禁止された。もはや合法的運動の余地はない、運動を進めるためには秘密組織、非合法組織をつくる必要があるとの認識がボル派の間でたかまった。一方、コミンテルンも日本の社会主義者に積極的に共産党の結成を働きかけていた。かくて1922年、モスクワで開かれた極東民族大会を直接のきっかけとして、日本共産党が結成された。生まれたばかりの共産党は実際には「前衛党」というにはほど遠く、山川均らの水曜会、堺利彦らの無産社、高津正道らの暁民会、野坂参三、山本懸蔵らの総同盟系、渡辺政之輔ら南葛労働会、赤松克麿、佐野学らの新人会系といった既成マルクス主義グループの連合体的存在であった。思想的にもサンジカリズムから抜けきっていない者が多く、なかには赤松克麿のように新カント派的色彩の濃い者まで含んでいた。



 II 労働運動の方向転換

アメとムチ──支配階級の労働運動対策

 初期の共産党を事実上指導した理論家は山川均であった。彼が共産党の創立とほぼ同時に『前衛』誌上に発表した「無産階級運動の方向転換」は党の指導理論となった。この論文は、少数の前衛の孤立化の危険を指摘し、「大衆の中へ!」を運動の新たなスローガンとして掲げた。またサンジカリズムの政治否定の傾向にたいしては「ブルジョアの政治をただ思想的に否定しただけで、一切の政治上の問題に無関心であるならば、それは政治の戦線におけるブルジョアジーとの闘争を回避しているものである」と批判し、「ブルジョアの政治に対して無産階級の政治を対立させ」ることを呼びかけた。
 この「方向転換論」はサンジカリスト山川均の自己批判でもあったが、運動全体に衝撃的な影響を及ぼし、以後、運動は急速にサンジカリズムの影響から脱却していった。
 一方、支配階級はこのような運動の発展を手をこまねいて見ていたわけではない。とくに1923年には、いくつかの新たな対応策をとってきた。やり口は例の「アメとムチ」であり、これによって労働運動の内部に分裂をひきおこさせることであった。「アメ」は何かといえば、一つは山本内閣による普通選挙実施の公約であり、もう一つはこれまで天降り式に決めていた国際労働会議(ILO)の労働代表の選出を組合員1000人以上の労働組合の公選に改めたことである。
 普選実施の公約は、サンジカリズムの政治闘争排撃から脱却して「政治的対抗」へと進みつつあった運動を議会主義の枠内にひきいれる狙いをもっていた。またILO代表の労働組合による公選は、労働組合を政府が事実上公認したものと考えられた。
 「アメ」はたいへん小さかったが、一方の「ムチ」が強烈であったことによって充分効果をあげた。「ムチ」とは何か。第一は、1923年6月の「第一次共産党検挙事件」である。結党して一年もたたないうちに、スパイによって共産党の機密書類が警察の手にわたり、80余人が検挙され、29人が起訴された。事件の余波がまだおさまらない同年9月には大震災が関東地方を襲い、その混乱のさなかに亀戸事件、大杉事件、さらには数千人の朝鮮人虐殺事件がひきおこされた。この3つの事件では、多数の人びとが共産主義者や無政府主義者、あるいは朝鮮人であるというだけの理由で殺され、しかも加害者の責任はほとんど追求されなかった。震災下の白色テロル、これが第2の「ムチ」であった。また、のちの治安維持法につながる過激社会運動取締法案もすでにこの前年、1922年議会に上程されていた。



共産主義と「現実主義」の分裂

 このような「アメとムチ」の政策は労働運動、社会主義運動の「方向転換」に大きな影響を及ぼした。その一つはサンジカリズムの後退が決定的となったことである。急速に進行した政治的反動にたいし、労働組合は三悪法反対運動などの政治行動にたちあがらざるをえず、サンジカリズムの政治行動否認の主張は力を失っていったからである。さらに、大正アナーキズムの「一等俳優」であった大杉栄の死がサンジカリズム衰退に追いうちをかけた。
 「アメとムチ」の効果はこれだけではなかった。より大きな意味をもったのは、共産主義と「現実主義」=労資協調主義との対立を表面化させたことである。もちろん、協調主義は以前から労働運動の内部で一定の勢力をもっていた。しかしいわゆる「アナ・ボル対立」の時期には、「現実主義者」と共産主義者は共同してサンジカリズムと対抗していた。しかし、サンジカリズムの衰退と共産主義者の影響力の増大につれて、「現実主義者」と共産主義者との対抗が激化していった。松岡駒吉らの本来の組合主義・反共主義者だけでなく、赤松克麿のように「ムチ」におびえ「アメ」につられた人びとが、労働運動から共産主義勢力を追放するための意識的な活動を開始した。
 「現実派」と「共産派」の対立のきざしは、1924年2月の総同盟第13年大会での大会宣言をめぐる論争に見られた。「画時代的」な「方向転換の大会」と呼ばれたこの大会は、従来のサンジカリズム的な政治行動の否認の方針を克服し、普選実施後の選挙権行使、国際労働会議の利用といった「現実政策」を採用した点で重要な意味をもっていた。この「現実政策」の採用については両派は一致していた。ただ、その「方向転換」の基礎にある考え方で、両者ははっきりちがっていた。右派は「方向転換」を過去の誤った極左方針の清算、「労働組合主義」の確立と評価していたのにたいし、左派はこれまでの運動が「潔癖と生硬」であったことを認めながらも、それは日本資本主義の後進性に規制されたものであり、誤りではなかった。ただ最近の情勢の変化が「方向転換」を不可避にしたのであって、階級的立場の堅持という根本精神は変えるべきでないと主張したのである。このような対立を底にはらみながらも、両派は具体的政策では一致していたため大会宣言は左派の主張をほぼ認めた形で成立した。
 大会直後、これまで総同盟外にあった関東地方の左翼組合があいついで総同盟に加盟した。渡辺政之輔らの東部合同労働組合(旧南葛労働会)をはじめ杉浦啓一らの関東機械工組合などの6組合である。労働組合総連合運動、大震災の罹災者救援、亀戸事件の真相究明などで総同盟とこれら左派組合の統一行動が積みあげられていたことが、合同の背景にあった。また総同盟第13年大会の宣言が、分立する組合の合同を主張していたこと、総同盟の主事が右派の松岡駒吉から中間派の加藤勘十に代っていたこと、総同盟関東同盟会で反松岡の勢力が増大していたこと、などが、合同を容易にした条件としてあげられる。いずれにせよ、この合同は総同盟内、とくに関東同盟会内の左派の比重を高め、右派は危機感を強めた。
 1924年4月、関東鉄工組合大会で両派の対立は公然化した。右派の土井直作にかわって左派の河田賢治が同組合の主事に選出されたからである。ついで同年10月の関東同盟会大会で、右派の内田議長の一方的な議事運営に怒った渡辺政之輔ら左派代議員の一部が会場から退席するという事件がおこった。この退席事件は左派の排除をねらっていた右派に絶好の口実を与えた。大会直後の関東同盟会理事会は規約を無視して左派指導者6名の除名を決定した。しかも、この除名処分を、関東鉄工組合が認めないとみるや、右派の内田藤七組合長らは自ら組織を割って出て東京鉄工組合を結成した。さらに関東同盟会理事会は左派五組合の除名を強行するにいたった。
 その後、除名された左派組合は、関東同盟会とは別に、総同盟関東地方評議会を結成し、独自の機関紙『労働新聞』の発行を認められて、いったんは妥協が成立した。しかし、多数をたのむ右派は依然として左派を排除する機会をうかがい、翌1925年3月、総同盟第14年大会直後の中央委員会で関東地方評議会の解散、機関紙の発行停止処分を決定、さらに4月には西尾末広会長代理の名で関東地評を除名した。追い込まれた左派は「日本労働総同盟革新同盟」を結成して、全国的に総同盟刷新運動を展開した。こうなっては両派の妥協の余地はほとんどなかった。ついに5月16日、総同盟中央委員会は9対2の多数で革新同盟に参加した全組合を除名し、次いで5月24日には、革新同盟の全国大会が「総同盟ノ除名ヲムシロ光栄トスル」として、日本労働組合評議会の結成にふみ切ったことによって分裂は確定した。


 総同盟分裂の問題点

 総同盟第一次分裂を積極的にすすめたのは松岡駒吉ら右派であったことは否定できない。規約を無視した関東同盟会による個人除名、関東鉄工組合の分裂にそのことは明瞭にあらわれている。しかも、その除名や分裂の主たる理由は主義・思想の不一致であった。右派が東京鉄工組合結成にあたって発表した声明書は、分裂の理由をつぎのように述べている。
 「右の如くして除名否認をなしたる関東鉄工組合は彼等小児病的運動者を支持したるものであり、我等と全々相容れざるものである。我等はこの根本精神に相一致せざる以上茲に涙を呑んで、関東鉄工組合より分離し、飽くまで総同盟の精神に依って進まんことを決意するの止むなきに至った。」(傍点引用者)
 なお、分裂について右派が一貫してこれを肯定的に評価していることも見落とせない。
 これにたいし、左派指導者であった渡辺政之輔は、周知のように、この分裂が失敗であったことを率直に認め、その原因として「左翼前衛の組織がなかった」こと「前衛分子の闘争の経験が不充分であった」ことをあげて自己批判している(『マルクス主義』46号)。「左翼前衛の組織がなかった」というのは、1924年3月ちょうど分裂の発端となった総同盟第13年大会の直後、共産党が残務整理のための「ビューロー」(事務局)を残しただけで解党してしまったことをさしている。共産党の解党は、検挙による打撃も一因であったが、同時に個人を中心としたグループのよせあつめといった組織的弱点、赤松のような非マルクス主義的分子をかかえていたという思想的弱点によるところ大であった。思想的弱点といえば、党の指導理論家であった山川イズムにも問題があった。かれの協同戦線党論では「組織されたプロレタリア」=労働組合こそ「前衛」であると考えられていたからである。周知のように山川は総同盟第一次分裂に賛成したがその根拠にはこの労働組合を前衛と見る考え方があったと考えられる。
 「前衛分子の闘争経験の不充分」という点についていえば、しばしば指摘されている関東鉄工の主事選任問題にみられた「右翼幹部の排撃戦術」がある。また、渡辺政之輔らが関東同盟会大会から退席した問題も同様の批判をまぬがれないであろう。なお、渡辺政之輔が大会会場からの退席問題に関係したのは実はこれが最初ではない。1921年7月の総同盟東京連合会大会の席上、サンジカリスト渡辺の率いる黒色労働会が規定の人数に満たないため代議員選出を認められなかったときも一部代議員の退席事件がおこっている。棚橋小虎はこの議場混乱の責任を負って議長を辞任するとともに、東京連合会主事も辞任した。関東同盟会大会での退席に、3年前のこの経験が影響していたと考えられないであろうか。幹部排撃戦術にせよ、退席問題にせよ、あるいは山川イズムにせよ、ボル派がまだサンジカリズムから完全に脱却しえずにいたことをしめしている。
 総同盟第一次分裂から間もなく、総同盟は第二次、第3次と分裂をくり返した。麻生久、河野密、加藤勘十らのいわゆる「中間派」が、「ヒステリーのようにいがみあっている左右両翼……を切断して、無産階級運動の正道を樹立する」と称して日本労農党を結成するとともに、自己の支持基盤である労働組合、農民組合をつくるために、総同盟や日本農民組合の分裂をはかったのである。かくて、その後の日本の運動を三分した左、右、中間の三派が形成された。各派はそれぞれ自己の政党とそれに直結する労働組合をもつ形をとった。このような運動の分裂が、ただでさえ弱体な労働組合の力をさらに弱め、今日にいたるまでマイナスの遺産として残されていることは否定しがたい。



III 大企業における会社組合の発生


 総同盟分裂に先だって、もう一つの分裂がひそかに進行していた。大企業労働者と中小企業労働者との「分裂」である。自主的な労働運動が次第に大企業からしめ出されていったのである。明治以来、1920年代初頭までは、日本の労働運動は主として大経営を基盤としていた。日清戦後の労働組合運動にせよ、日露戦後の労働争議にせよ、第一次大戦後の労働運動にせよ、いずれも造船所、軍工廠、大鉱山を中心に展開されている。ところが、1920年代の後半になると事態は明らかに変化した。左派、右派、中間派を問わず自主的労働組合運動は大企業からしめ出され、中小企業労働者のみを組織するようになっている。労働争議も同様であった(第2表)。

第2表 労働争議参加人員数別件数比
 件数1〜14人   5〜99人 100〜299人300〜999人1,000人以上
1921年24611.057.819.18.93.2
1926年49527.051.915.93.61.6
1930年90730.953.411.03.61.1

【備考】労働省「統計から見たわが国の労働争議」

 たしかに軍工廠や一部の大経営には労働組合は存在していたが、その実体はILO労働代表選出の母体であることが主な役割で、とうてい自主的労働組合とはいえないものであった。
 多くの大経営では、労働組合にかわるものとして共済組合や工場委員会、あるいは両者を兼ねた「会社組合」が組織されていた。造船所などでは労働委員会制をとるものが多く鉱山ではほとんどが「会社組合」であった。工場委員会や「会社組合」の主な機能は、「労資の意思疎通」であった。工場委員会といっても、欧米のように労働組合の存在を前提にして労資が「対等」の立場で協議・決定する機関ではなく、労働者と会社側との懇談の場に過ぎなかった。要するに労働者の不満のはけ口、安全弁であり、自主的労働組合運動が企業内に侵入するのを阻止する防波堤であったのである。これを明瞭にしめす三井鉱山の会社組合「共愛組合」の事例を見ておこう。「共愛組合」は会社組合の模範として有名であったが、その組織化のきっかけは1919年暮に本店から各事業所に出された一片の指令であった。その指令は、各事業所に共愛組合を設置することを指示して次のように述べていた。
第二、組合ハ労資協調ノ主義ニヨルコト
 凡テノ事項ハ会社役員側及ヒ職工鉱夫側ヨリ選出セル十名内外ノ相談役ノ懇談熟議ニヨリテ解決スルヲ本旨トシ多数決ニヨラズ評議熟セザル間ハ何回ニテモ調査審議懇談ヲ尽ス、比ノ間会社側相談役ハ充分会社ノ意志ヲ照合シ職工鉱夫ヲ諭示緩和セシメ、万一到底懇談ヲ以テ解決シ難キ場合ニハ仲裁調停ヲ発議スルノ余地ヲ存スルモノトス
第三、事業
 一、共済
 二、改善
 各種ノ申合ヲ作リ職工鉱夫ノ自発ニヨリテ責任ヲ以テ共済、衛生、貯金、勤勉、取締其他ヲ励行セシムルト同時ニ雇用条件及ビ会社ノ施設ニ対スル希望等ノ一定ノ順序ヲ経テ腹蔵ナク開陳セシメ、不穏ノ心事ニ対スル安全弁タラシムルト共ニ制規ヲ以テ節制シ懇諭ヲ以テ諒解ヲ得シム
第七、各種労働団体ニ対スル方針
 一、社外労働団体ニ対シテハ加入ヲ禁ズル方針ヲ以テ本組合成立後厳重ナル申合ヲ作ラシムルコト
 二、社内ノ各組合ハ漸次本組合ニ併合セシムルコト(傍点引用者)
 会社組合は、意思疎通だけでなく、共済制度や購買会などによって労働者を企業へまるがかえにする役割もになっていた。このほか企業内養成施設や年功的賃金体系によって大企業労働者の主要部分は企業に忠実な従業員となり、自主的な労働組合運動から無縁な存在と化したのである。かくて独占資本は、その利潤のごく一部をわけ与えることによって、労働組合運動を企業内から追放することに成功したのである。
 会社組合による労働運動の追放、これこそのちの産業報国運動の原型であった。普通、産業報国運動は日中戦争開始後の1938年以降の問題と考えられている。1938年、協調会の時局対策委員会が「労資関係調整方策」を決定し、これにもとづいて「産業報国連盟」が創立されたことが産報の出発点と見られている。しかし、実際には各企業ごとに設けられた単位産業報国会は会社組合とほとんど同じものであった。要するに大企業に関する限り、産報の基本路線は1920年代末までには確立していたのである。全産連(全国産業団体聯合会)に集まっていた大資本家たちが、はじめの頃、産報運動にそれほど積極的でなかったのは当然であった。会社組合で充分目的は達していたからである。また、企業内の問題に外部から介入されることを好まなかったことも一因であった。したがって、産報運動のおもな狙いは、会社組合や工場委員会をもたない中小企業に「産業報国会」という名の意思疎通機関を設け、これによって労働争議がおこるのを未然に防ぐとともに、自主的労働組合の存在の余地を完全になくしてしまうことにあったといえる。
 ただ一つ、会社組合と産報とでちがっていた点は、その「指導精神」であった。会社組合が労資協調を「指導精神」としたのにたいし、産報は「労資一体」「産業報国」を原則としていた。産報の推進者たちは、会社組合を批判して、つぎのように主張した。「労資協調というのは、労資の利害が対立するものであることを前提にしている。ただ協調することによって、互の私的利益が満たされる限りで協調するにすぎない。これでは、いつかは対立するときがくる。しかし日本の産業は日本の国家のためにあることを前提とすれば、労資は互の私的利益を考えるのではなく、国家の繁栄のために一致協力しなければならない。そこでは、労資は協調ではなく、一体とならなければならぬ」。国家利益を前面におし出すことによって、労資が対立関係にあることを否定したのである。
 ここで注目する必要があるのは、このような理論を提唱し、産報運動を推進した人びとが、いずれも金鶏学院の安岡正篤の門下生であった事実である。たとえば、日本における産報運動の先駆は石川島造船所につくられた石川島自彊組合を中心とする日本主義労働運動であったが、その指導者、神野信一は安岡門下であった。自彊組合の会合はしばしば金鶏学院でおこなわれている。また、1938年に産報運動が急速に展開したとき、その中心になったのは協調会専務理事、町田辰次郎であり、彼も安岡門下であった。安岡はとくに内務官僚を中心としたいわゆる「新官僚」に強い影響力をもっていたが、産報運動の全過程でかれらは陰に陽に重要な役割を果たしている。総同盟解散の際の厚生大臣、吉田茂(ワンマンとは同名異人)などはその代表的人物である。しかも、かれらの共通の師安岡正篤は戦後二十数年を経た今日でも支配階級の間に強い影響力を持っている事実を見逃すことはできない。ごく最近もかれは全国師友協会会長として、明治百年祭準備会議委員となり、明治百年祭キャンペーンの中心人物であった。
 この点に関連してもう一つ注目されるのは、昨年春の日経連創立二0周年記念総会での湯浅佑一地方部会議長のあいさつである。それは、まさに産報運動の基本理念が再現されている。問題の発言の一部を引用しておこう。
 「このきびしい変革期においては、従来のごとき、労使協力といったなまやさしい考えではおさまらないのではないか、食うか食われるかの国際競争にうちかつにはより次元の高い『労使一体化』が必要である。労使全員が一体となって、知恵を出しあい力を結集してゆかねば本当の戦力とはならないのである。……私は日経連の新しい使命は、この『労使一体化』の推進にあると思う」



 

IV 戦前の労働運動の敗北の条件

 次に検討されなければならないのは、労働運動が大企業からしめ出され、ついには産業報国運動のもとで完全に圧殺されてしまったのは何故かということである。いいかえれば、戦前の日本労働運動が敗北した原因はどこにあったかという問題である。
 これについては、すでにいくつかの答がある。運動の主体的条件についていえば、労働組合が政党系列別に分裂し互に対立しあっていたことがあげられ、その根拠についても労働組合に政党的任務が負わされていたことなど、いくつかの問題点が指摘されている。また、運動における、とくに左翼の側におけるさまざまな理論的誤り──資本主義急速没落論、社会ファシズム論等々──についても数多くの批判がある。
 しかし、従来の運動史研究においては、運動がおかれていた客観的条件について、充分な検討がなされていないように思われる。主体的条件の検討が運動の客観的条件との関連においてなされず、しかも今日の理論上、実践上の達成点に立って過去の方針の誤りを批判するといったものが少なくない。なかには、運動の後退や敗北の原因を方針の誤りだけに帰するものさえ見られる。運動がおかれた客観的条件が労働者階級にとって不利な場合には、正しい政策に導かれて闘争が進められたとしても運動が後退し、あるいは敗北することもあり得る。戦前の日本労働運動を見るときに、そのおかれていた客観的条件がきわめて困難なものであったことを見落としてはならない。
 すでに見たように、日本の労働運動が本格的に展開する条件をえたのは、第一次大戦前後であった。友愛会が労働組合へ転化しはじめたのは創立5周年の1916年のことであり、労働争議の高揚のなかで組合結成があいついだのは1918年、19年のことであった。それからわずかに1年後の1920年には、戦後恐慌がおこり、幼弱な労働組合運動は非常に困難な状況に追い込まれた。しかも、恐慌はこれだけではなく、1923年の震災恐慌、27年の金融恐慌、29年の大恐慌と、日本資本主義は「恐慌から恐慌へよろめいた」のである。
 ところで、戦後恐慌の影響が最も深刻にあらわれた産業は造船業、金属鉱業、鉄鋼業などであった。そして、まさにこれらの産業部門こそ日本労働運動の主力部隊が存在したところであった。1910年代後半から20年代初頭にかけての大争議はこれらの部門に集中している。
 1917年 日本製鋼室蘭、三菱造船長崎、大阪鉄工因島、浅野造船鶴見
 1918年 浦賀船渠、三菱造船神戸
 1919年 大島製鋼、石川島造船(2回)、東京砲兵工廠、川崎造船神戸、大阪鉄工、神戸製鋼、浅野造船鶴見、足尾銅山、釜石鉱山
 1920年 八幡製鉄、尾小屋鉱山
 1921年 足尾銅山、藤永田造船、川崎・三菱両造船所、横浜船渠、浅野造船、石川島造船
 組織労働者の中心が金属労働者であったことはよく知られている。組合員数のなかで金属労働者の比重が高かっただけでなく、労働者出身の指導者、活動家を多数出した点でもそうである。
 戦後恐慌が造船業、金属鉱業などに及ぼした影響をもう少し具体的に見ておこう。まず造船業であるが、汽船の造船量は1919年の63万6000総トンをピークに、1921年には21万6000総トン、22年には10万2000総トン、そして最低の1925年には4万8000総トンとわずか6年間で13分の1以下に減少した。さらに、恐慌の影響が比較的少なかった軍艦についても1922年にワシントンで海軍軍縮条約の調印がおこなわれ、不況に拍車をかけた。造船所の閉鎖があいつぎ、1918年から1925年までに造船所数は57ヵ所から23ヵ所に、船台数は157台から79台に半減している。
 金属鉱業、とりわけ産銅業は軍需の減少に加え、チリ、コンゴにおける大鉱山の開発と浮遊選鉱法などの新技術で低品位鉱を大量処理した低価格のアメリカ銅の流入によって大打撃をうけた。
 恐慌が労働運動に与えた影響を最も端的に示しているのは、労働者数の減少である。造船業では1918年の9万7000人から1925年には3万5000人へと約3分の1に減少している。金属鉱業ではピークの1917年に16万5000人であったものが、1922年には4万人と4分の1以下になってしまった。
 この数字が労働組合運動にたいしてどのような意味をもっていたかは、1959年以降の三池闘争を頂点とする炭鉱労働者の困難なたたかいを考えるだけで明らかである。労働基本権が憲法上の権利として認められ、十数年間の先進的な闘争の過程できずきあげた強固な組織をもち、数百万の組織労働者の援助をうけながらも、首切り「合理化」反対のたたかいに勝利することは容易ではなかった。まして、戦前の場合は、労働組合結成後わずか一、2年で恐慌におそわれ、大量の人員整理が強行されたのである。しかも、労働組合にたいする法的保護はまったくないばかりか、ストライキを禁止する治安警察法が厳として存在していた。国家権力と独占資本が一体となって組合しめだしを決意して攻撃をかけてきたとき、これをはね返して組織を維持することは、いかに正しい方針をもってしても不可能であったというほかはない。



 

V 戦争と労働運動

 1920年代後半までに、労働組合は大企業を追われた、といっても、そこで労働運動が消滅してしまったわけではない。「分裂」というたいへんなマイナスを負いながらも労働者階級のたたかいはつづけられた。だが、ここで分裂後の運動を経過を追って述べている余裕はないので、ただ一つの問題点に限ってふれるにとどめたい。
 それは、各派が戦争にどのように対応し、行動したかということである。
 1927年の金融恐慌、29年以降の世界恐慌とあいつぐ恐慌に日本資本主義の危機は深まった。しかも、中国革命の進展、第一次五ヵ年計画(1928−32年)の遂行によるソ連の経済力、軍事力の増大は危機を一層深刻にした。支配階級は、国内では「産業合理化」の名のもとに首切り、労働強化をおこなう一方、海外では中国への軍事侵略をエスカレートさせることによって危機からの脱出をはかった。1927年、28年の三次にわたる山東出兵を手始めに、31年9月にはついに公然と中国にたいする軍事侵略、いわゆる「満州事変」を開始した。1945年の太平洋戦争の敗北にいたる15年戦争の幕が切っておとされたのである。戦争にいかに対処するかは、この時期の日本労働運動にとってまさに決定的な問題であった。
 日本帝国主義の軍事侵略に一貫して反対したのは左翼であった。第一次山東出兵に際し労農党をはじめ評議会、日農などは「対支非干渉全国同盟」を結成して出兵反対の闘争をおこなった。その背後には、再建されたばかりの共産党があった。
 左翼は、中国革命は「世界無産者階級解放の最も重要な一環」であり、「日本帝国主義は日支両国民衆の共同の敵」であると主張した。また左翼は、単に「出兵反対」を要求しただけでなく、同時に「満蒙を含む在支日本軍隊の即時撤退」「一切の帝国主義的利権、不平等条約撤廃」を要求してたたかったのである。この主張は、当時においては国民の大多数の容易にうけいれうるものではなかった。かれらは永年にわたってくり返し、強力におこなわれてきた軍国主義的宣伝のとりこになっていたからである。満州は日本の「生命線」であり、満州にある日本の権益は日清・日露戦争以来の「父祖の血によって」得られたものである。満蒙の権益が失われることは日本の存亡にかかわる問題である。中国側によってこの権益が侵害されたので日本は止むなく自衛にたちあがったのだというのがその論理であった。このような排外主義的宣伝に国民が熱狂しているなかで、一切の帝国主義的利権の撤廃という階級的立場を堅持した主張をおこなうことは容易ではなかった。これだけでも左翼の孤立化は避けがたかった。
 この対支非干渉運動のさなかに三・一五の共産党にたいする大弾圧が加えられたのである。つづいておこなわれた四・一六をはじめとする狂暴な弾圧は左翼から多数の指導者、活動家を奪いさった。左翼の側に福本イズムという教条主義、社会民主主義者をすべて社会ファシストと規定するセクト主義、あるいは極左冒険主義といったいくつかの誤りがあったことは明らかである。これらの誤りが左翼の孤立化に拍車をかけ労働運動全体にとって大きなマイナスとなったことも事実である。しかし、そのことから左翼が一貫して帝国主義戦争反対の立場を守ったことの意義まで否定することはできない。
 中間派、日本労農党と組合同盟、この系統は結成後も無産政党の各派と離合集散をくり返し、ついには右派の社会民衆党と合同して唯一の無産政党=社会大衆党を結成し、その主導権をにぎったのであるが、かれらの主張は戦争の進展にともなって大きくゆれ動いた。
 山東出兵にたいしては、中間派も出兵反対を主張し、わずか一ヵ月間ではあったが左派との統一行動をおこなった。ただ、かれらの出兵反対の論理のなかには中国革命支持の立場からする階級的側面と同時に、出兵は排日運動をひきおこし対中国貿易に打撃を与えるから出兵すべきでないという民族的利益擁護の矛盾する側面がふくまれていた。
 満州事変にたいしても中間派は反対の立場をとり、全国労農大衆党の内部に対支出兵反対闘争委員会を設けて帝国主義戦争反対の方針をうちだした。しかし、中間派の内部には満蒙の権益を日本の労働者農民のために擁護せよと主張する者があらわれていた。さらに戦争の進展にともなって、中間派の指導者麻生久らは、軍部を反資本主義勢力と評価し、これと結ぶことが「日本の国情においては、資本主義打倒の社会改革」の道であると主張するまでにいたったのである。かれらは右派に先んじて戦争協力への道をつっぱしった。
 総同盟および社会民衆党を中心とする右派もまた山東出兵には反対であった。ただ、その理由は出兵は排日運動をまねき「我国勤労階級の生活に悪影響」を及ぼすためであった。中間派にも見られたこの論理は、日本国民の多数が満州を日本の「生命線」と考えている状況では、「一切の帝国主義利権の撤廃」を主張する左派より「現実的」であり、支配階級をも説得しうるかのごとくである。しかしこの立場は、満蒙にある日本帝国主義の利権を「日本の利権」として擁護することを意味していた。かれらは「現実主義者」であることを誇りとしていたが、その「現実」とは「既成事実」とほとんど同一であった。周囲の情況=「現実」が熱狂的な軍国主義、排外主義に進んでいくにつれ、かれらはつぎつぎと「現実」に妥協してゆき、とどまるところを知らなかった。かれらにとっては総同盟という組織体の維持そのものが最高の目標となった。そのためには、「罷業絶滅宣言」さえあえてしたのである。さらに産業報国運動の展開にたいしても「産業報国は我等の一大理想である」(「労働国策と総同盟」)として、この理想実現のためには労働組合の存続が必要であることを訴えた。かれらは労働組合の存続理由として(1)社会不安に対する安全弁である、(2)共産主義の防波堤であることを主張し、さらに(3)労働組合があればストライキはなくなり、労働紛議はおこらないとさえ述べたのである。
 かれらは主観的には、やむを得ず「スト絶滅宣言」をおこなったと考えていた。そして、中間派が率先して産報運動に挺身したのにたいし総同盟の主流派が積極的にはこれに参加せず、一番最後まで組織を維持したことを軍部や警察にたいし「抵抗」したものと、これを誇っている。1940年の総同盟解体が、松岡駒吉らにとって不本意なものであったことはおそらく事実であろう。しかし、かれらが「スト絶滅宣言」をおこない、「産業報国運動は我等の一大理想である」と強調してまでおこなったことが「抵抗」の名に値するであろうか。
 もしかりに、総同盟の主張がいれられて、産業報国会と労働組合とが「並進」し、また産業報国会に「下意上達・上意下達の機関としての労働部」が設けられていたならば、労働者階級の利益はまもられたであろうか。否、であると考える。産報運動成立の過程で、また成立後も、しばしば問題となったのは産報の空洞化であった。官製運動であることによる自発性の欠除であった。もし総同盟の構想がいれられていたならば、このような事態は多少なりとも避けられたであろう。この場合には、産業報国、滅私奉公、「欲しがりません勝つまでは」が、労働者自らの発意でおこなわれる結果をもたらしたにちがいない。「産業報国は我等の一大理想」とうたう組織が、「労働条件の維持改善」を主張することはとうてい不可能であったというほかはない。


初出は、「戦前における労働運動の本格的発展と敗北」のタイトルで、『労働運動史研究』第50号(1969年6月)所収。


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法政大学大原社会問題研究所              社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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