オーストラリア・ウロンゴング大学シンポジウム報告
第二次大戦以降の日本労使関係──1940〜1993
はじめに
わずか20年ほど前まで、日本人の多くは、自国が国際的に遅れていると感じていた。後進国日本はさまざまな分野で海外に模範とする国を求め、それに追いつこうとしていた。労使関係の分野では、それぞれの立場によって、また時代によってもモデルとする國は異なった。ある時はイギリスであり、ある人はアメリカ、そして人によってはソ連がモデルであった。しかし1980年代以降、事態は変化し、日本の労使関係こそ先進的であると論ずる人びとが増えている。日本国内だけでなく海外においても、労使関係の「日本化」、あるいはそれとほとんど同じ意味で「柔軟化」をテーマとする書物や論文が数多く現われている。いずれにせよ、多くの人が、日本は海外諸国とくらべて遅れていると感じていたのに、限られた分野ではあれ、日本を最先進国とみる人びとが生まれているのは、この半世紀における日本社会の変化の激しさを反映するものといえよう。
私がこれから検討しようとするのは、全体として変化の激しかった日本の近代史のなかでも、もっとも急激な変化をとげた時期についてである。1940年代の日本は政治、経済、社会、文化のすべての面で、今の日本とはまったく別の国といってよいほと異なっていた。労使関係の主な指標である労働組合員数だけをみても、1940年代はじめには労働組合はすべて解散させられ、組合員数はゼロであった。これに対し1992年現在の組合員数は1254万1000人である。労使関係の質的な側面からみても変化は大きい。1940年代後半から50年代の日本の労働組合運動は、いまの労使協調的な労使関係からは想像もできないほど対決的であった。
このように激しく変化した過程を紙幅の限られたこの小論で説明することは、ほとんど不可能である。そこで本報告ではこの50年間を4つの時期にわけて見ていくが、あまりに細かい変化を追うことはせず、日本労使関係の大きな変化とその特徴を述べ、そうした特徴の歴史的な背景について説明することとしたい。
あらかじめ結論を述べておけば、私は、日本とオーストラリアをはじめ欧米の労使関係との間に質的な違いがあるのは2つの要因によると考えている。第1は日本におけるクラフト・ユニオニズムの伝統の欠如、さらにいえば前近代社会における職人ギルドの自律性の弱さである。第2は工業化にともなって誕生した日本のブルーカラー労働者は「労働者階級の一員としての誇り」といった考えとはまったく無縁で、たえず労働者階級からの離脱を希望してきたこと、それが敗戦後の占領軍による「民主化政策」のもとで、ホワイトカラー労働者との平等な処遇を要求し、またある程度これに成功したことである。
1. 戦時下の労使関係(1940〜45年)
労働組合の解体と産業報国運動
1940年 7月、日本の労働組合における最大の全国組織であった日本労働総同盟(総同盟)が解散を決定した。そればかりか「日本主義」労働運動を提唱し、産業報国運動の先がけとなった超国家主義的な労働組合までもが解散を余儀なくされたのである。すこしでも自主的な性格をもった組織はすべて解散させられ、産業報国運動に合流させられた。
「産業報国運動」は内務警察官僚を先頭とした政府が主導し、上から労働者の組織化を企てた運動であり、労働者を組織的に戦争に協力させる狙いをもって展開された官製の運動であった。ただし産業報国運動発足の直接的契機は、日中戦争の終結後に労働運動が高揚することをおそれた「予防労働対策」としての性格をもっていた。日本の内務官僚は、第一次世界大戦のあと世界的に労働運動が高揚し「労働不安」を招いた経験から学んで、同じような事態を繰り返させないために産業報国運動を発足させたのであった。つまり国民の関心が戦争の勝敗に向けられている間は労働者の不満を抑えることは容易であるが、戦争が終わるとそれまで抑えられていた不満がいっきに爆発するおそれがある。そうした事態を防ぐには、戦時中に労働者の自主的組織を根絶やししておかねばならないと考えたのである。後に見るように、敗戦から1ヵ月半ほど労働運動の空白期があった事実は、この政策がある程度の効果をあげたことを示している。
各事業所には、社長や工場長を会長とする単位産業報国会が組織され、全従業員を戦争目的遂行のために動員した。もっとも産報運動は単に自主的労働組合を解散させただけでなく、それまで日本の労働者が抱いてきた不満を緩和するための措置もとっている。たとえば、それまで「労務者」「工員」などと呼んできたブルーカラーを、経営者やホワイトカラーと対等な、大日本帝国構成員として不可欠の存在であることを強調し、「産業戦士」などと呼んだのである。ここに見られるように、戦時下の労働政策は物的条件の改善より、精神的な側面を重視するものであった。だからといって、こうした措置がまったく無意味な、的外れな政策だったわけではない。明らかに労働者の心をとらえ、彼らを国家や企業に統合する上で有効であった。それは戦後の労働組合運動にも少なからぬ影響をもたらした。
この時期、政府はまた生産拡大と労使関係の安定を意図して、さまざまな法令を公布した。軍需産業に必要な労働力を確保するために労働者の移動を制限し、青壮年を工場に強制的に動員し、学生を集団で働かせることを定めた法令などがあいついで出された。それらのうち戦後の労使関係にとって重要な意味をもったのは、賃金制度に関するさまざまな政府の介入・統制であった。官僚たちは、賃金を一定時間の労働の対価であるとする考え方は非日本的であるとして、労働者家族の最低限の生活を保障する、いわゆる「生活給」の考え方を強調したのである。具体的には、賃金を単純な時間給や日給にせず、年齢に応じて上昇し、家族数に応じて手当を支給するといった方式である。この「生活給」の考え方は、企業にも受け入れられ、労働者にも支持されていった。後に見るように、戦後ブルーカラーに対しても月給制度が採用されたが、その背景には、この時期に、賃金が一定量の労働の対価としての性格を薄れさせていたことがあったのである。
2. 戦後労働組合運動の生成(1945〜55年)
労働組合運動の急速な展開
戦後日本の労使関係は、占領軍の命令による諸改革の結果、戦前とは大きく異なるものとなった。戦前期にはついに実現しなかった労働組合法がようやく成立し、労働組合の存在が法的に認められたのである。また労働基準法、労使関係調整法も制定された。労働組合法にもとづき、労働争議の斡旋・調停・仲裁を担当する機関として、行政官庁から独立した労働委員会が、中央および各都道府県ごとに創設された。いずれも労・使の代表と中立委員による3者構成のかたちをとった。また労使関係行政全般を担当する官庁としてあらたに労働省が設立された。こうした組織を介して、労働組合は労働政策についても発言する場を得たのである。これらの改革により、労使関係の法的枠組みは、欧米とくにアメリカの影響を強く受けたが、労使関係の実態は欧米とは異質な点が少なくなかった。
戦前期に労働運動を体験したことのある人びとは、敗戦と同時に労働組合再建にむけて動きはじめた。しかし最初の労働組合が誕生したのは1945年10月のことであり、敗戦からすでに 2ヵ月近く経っていた。長い間、労働運動家や社会主義者は迫害をうけてきたので、すぐに行動をおこす勇気をもてなかったのである。それ以上に、敗戦というかつて経験したことのない事態をまえに、多くの労働者はとまどい、占領軍の出方を注目していたのである。戦後最初の組合は、戦前に最大の組織勢力を擁していた海員組合であったが、彼らも占領下のドイツで労働組合の結成が許されたのを知って、はじめて公然と組織活動を開始したのである。続いて労働組合を結成したのは、1930年代に比較的強固な組織をもっていた主要都市の電車関係の労働者と、多数の労働者が特定地域に集住している炭鉱・鉱山であった。さらに新聞関係の労働者が経営者の戦争責任の追求をきっかけに各地で組合を組織し、他産業における組織化に大きな影響を及ぼした。こうして、1945年末までには、60万人近い労働者が、843もの組合に組織された。しかし、これは、まだその後の大きな高揚の、ほんの始まりに過ぎなかった。翌1946年末には440万人、47年 6月には570万人、48年 6月には670万人(組織率 53.0%)と増加を続けた。とくに1946年の前半の組織の伸びは著しく、1カ月平均50万人の組合員が新たに組織され、ピークの同年3月には、何と1カ月間に110万人もの組合員の増加が記録されている。
1946年 8月には2つの労働組合全国組織があいついで誕生した。ひとつは戦前から労働組合運動に従事してきた社会民主主義系の活動家が中心として結成された総同盟で、85万人を結集した。もうひとつは左派の産別会議で、新聞放送、炭鉱など21の産業別の連合体が結集し、163万人を組織して活発な運動を展開し、戦後労働運動の主導権を握った。総同盟は日本社会党の支持母体となったのに対し、産別会議の指導部はほとんどが日本共産党員かその同調者によって占められ、共産党の指導のもとに活動した。
GHQは、一方の経営者団体については、あまりに強力な組織ができると労働運動の発展を妨げ、日本の民主化にマイナスの影響が生ずることを危惧して、すぐには全国組織の結成を認めなかった。このため、はじめは地方別あるいは産業別に経営者団体がつくられ、1947年になってそれらの連絡組織を認め、1948年になってようやく全国組織、つまり日経連(日本経営者団体連盟)の結成を認めたのである。
労働組合運動発展の諸要因
つぎの問題は、敗戦からわずか3年たらずという短期間に53%もの高い組織率に達するほど多数の労働者が組合に参加したのは何故か、ということである。これにはさまざまな要因がからんでいるに違いないが、何よりも大きかったのは政治的要因であった。つまり、新たに日本の支配者となった占領軍が労働組合育成方針をとったことの意義が大きい。連合国は日本が再び軍国主義の道を歩むのを阻止する歯止めとして労働組合をとらえ、その結成を奨励したのである。しかも労働問題を直接担当したGHQ労働課のスタッフのなかには労働組合の活動家だった人が多く、彼らは工場や鉱山をまわって労働組合の結成を働きかけたのである。この政治的要因こそ、戦後の労働運動の急激な発展を可能にしたものであった。それをはっきり示しているのは、次の事実である。占領軍が労働組合の育成を日本政府に指示したのは1945年10月のことであった。その方針を受け日本政府が労働組合法を制定したのが1945年12月、同法が施行されたのは46年3月のことであった。これに対し労働組合の結成は45年10月に始まり、12月以降急速に進展し、そのピークは1946年3月だったのである。
もちろん、労働者が経済的に窮迫していたことも労働運動の促進要因となった。戦争中からはじまっていたインフレは、敗戦とともに急速に進んだ。とくに1946年には物価は前年比で6倍にも達した。とうぜんのことながら賃上げはすべての労働者の切実な要求であり、その解決のためには労働組合の存在が重要であることは、誰にも容易に理解できることであった。
さらに、このように短期間に多数の労働者が組織化された背景には、社会的な要因も強く働いていた。この時期の組織化は、通常時のように労働者ひとりひとりを説得して組合に加入させる形で進んだのではなく、職場ごとにそこで働く従業員のほぼ全員によって、あらたな組合を結成する形をとった。そこでは、労働組合結成の中心となった人びとは別として、多くの労働者にとって、組合への加入は各人の主体的な決断を要するものではなく、世間の「大勢」に従ったに過ぎない。いかなる社会でも、仲間と異なった態度をとることは抑制力が働くが、日本社会では、とりわけ仲間との同調を強要する力が強い。こうした人間関係のなかでは、労働組合に関心がない人びとも、またある場合には反対でも、大勢が組合結成に動いている状況では、加入を拒否しがたい力として機能したのである。短期間に、驚くべき多数の組合員が組織された理由のひとつはここにある。
こうした精神的風土は、ひとつの職場内だけでなく、社会全体としても作用していた。他の職場、他の企業で労働組合があいついで結成されたことは、残された職場・企業の労働者はもちろん、経営者にも影響を及ぼした。まごまごしていては、組合結成という世間の「大勢」に乗り遅れてしまう。とりわけ占領軍が労働組合の育成を望んでいることが明瞭になると、企業経営者は、長年とり続けてきた労働組合否認方針の維持が不可能であることを否応なしに認識させられ、経営者側でコントロール可能な労働組合の結成に奔走したのである。
戦後日本の労使関係の特質
戦後の労使関係の骨格は、この時期に形成された。なかでも、特徴的なのは、労働組合の組織形態の独自性である。すなわち、職能別組合(クラフト・ユニオン)や産業別組合はごく少数で、ほとんどの組合は工場ごとに組織された事業所別組織であった。もちろん産業別労働組合もつくられたが、多くは工場別組合のゆるやかな連合体で、加盟組合に対する指導力はきわめて弱かった。また、これら産業別連合体が結集して全国組織もつくられたが、運営の主体はあくまでも事業所別の組織にあった。役員人事、財政、組合の方針決定などについては、この事業所単位の組合がもっとも強い権限を有していたのである。
もうひとつの特徴は、多くの組合がブルーカラー労働者だけでなく、職長やホワイトカラー上層までも含むほとんど全従業員を組織したことである。なかには工場長だけは非組合員であったが、あとの従業員は全員が組合員である事例さえ存在した。ブルーカラーとホワイトカラーが同一の組合に組織されるというのは、戦前の日本でもまったく例のないことであり、他の国でもほとんど見られないことである。
さらに言えば、職員層は単に労働組合に参加しただけでなく、組合の結成過程で重要な役割を果たしたのである。組合の委員長や書記長など主要な役員ポストホワイトカラーが占め、組合運営の主導権をとった事例も少なくない。こうした事実から、戦後日本の労働組合はその出発の時点から労使協調的な御用組合だったと推測される方があるかもしれない。しかし実際には、ホワイトカラーのリーダーシップのもとに賃上げや経営民主化を要求し、戦闘的な活動を展開した組合も少なくなかったのである。
もっとも戦後のごく早い時期には、ブルーカラーだけの労働組合も少なからず設立されている。とくに鉱業、造船業、都市交通などでは、工員と職員が別個の組合を組織した例が多い。いずれも企業規模が大きく、男子ブルーカラー中心の職場で、戦前期に労働組合運動の経験をもつ労働者が残っていた産業分野である。しかし、このようにブルーカラーとホワイトカラーが別個に組合を組織した企業でも、数年間で両者が合同し、混合組合となったものが多い。例外は鉱業で、ここではブルーカラー組合とホワイトカラー組合は合同せず、別個の組織として存続しつづけた。また、ホワイトカラー労働者が多数を占める産業では、当然のことながら、ホワイトカラーだけの組合がつくられた。教員を含む公共部門や金融関係などがそうした産業分野であるが、これらの部門の組合組織率はブルーカラー中心の産業よりも高かった。
一方、企業が労働組合にさまざまな便宜を供与したことも、戦後日本の労使関係を理解するうえで重要な点である。経営者は労働組合の事務所用に会社の施設を無償で貸与し、あるいは組合費を会社側が給与から差し引く〈チェックオフ〉制度を認めた。こうした慣行は今なお日本の労使関係に広くみれれるが、この時期にはさらに多くの便宜供与がおこなわれていた。たとえば会社から賃金を得ていながら仕事は全くせず組合活動に専念する役員、いわゆる〈在職専従〉が多数存在したのである。また、就業時間内に組合大会を開くことも広く認められていた。
工場別組合・工職混合組合となった理由
戦後の労働組合の多くが、職能別組合や産業別組合にならず、工場単位の事業所別組合 となったのは何故であろうか。それにはさまざまな要因があるが、何よりも戦後、労働組合が結成された時の状況に規定されたものであろう。つまり戦時中に労働組合組織は国家によって完全に解体させられており、結集すべき拠り所がまったくない状況のもとで占領軍により労働組合の結成促進方針がとられたのである。この際、日本の労働者は賃上げや経営民主化など、差し迫った諸要求をもっていたが、それを解決するには個々の経営者に要するほかはなかった。そうした状況では、同一経営者に雇われ、毎日肩を並べて働いている仲間と団結するのは、ごく自然なことであった。また日本の経営者は、伝統的に企業外の者を交渉の相手とすることを好まず、労働組合が企業内組織となるよう、さまざまな働きかけをおこなっていた。さらに、無視できないのは歴史的な条件である。詳しくは後で論ずるが、日本には欧米のようなクラフト・ユニオンの伝統がなく、企業の枠をこえて労働条件を規制する慣行が存在しなかった。工業化以前の日本では、職人組織はいずれも徴税のための組織として上から作られ、西ヨーロッパの自由都市におけるクラフト・ギルドのような自律性をもたなかった。
では、戦後日本の労働組合の多くが、工員と職員が同じ組合に参加したのは何故であろうか?
この問に答えるためには、その前に、これまで労働組合など組織したこともない職員層が労働組合運動に参加したのは何故か、という問題を考える必要がある。その答は、敗戦後のインフレと食糧難、それと空襲による被害などで、ホワイトカラーもブルーカラーと同様に経済的に困窮し、その解決を求めて運動する必要を感じたからであろう。
さらに、ホワイトカラーの下層、つまり中等学校卒業以下の者は、大学卒業者との間の身分的差別に強い不満をもっていた。企業民主化の呼びかけは、ブルーカラーだけでなく、彼らも励ましたのである。また、いずれは経営者となる可能性をもった大学卒業者の場合には、賃金の低さもだが、なにより企業の前途に危機感を抱いていたためであった。彼らは、ブルーカラーよりも、企業の将来に自分の未来を賭けていた。また彼らは、企業の現状や将来展望についての情報を得やすく、また理解しうる立場にあった。多くの企業は軍事生産に関わっていたから、敗戦とともに生産はストップし、賠償として機械設備などが没収も予想されていた。彼らは現経営者の戦争責任を追求したり、敗戦によって自信を失っている経営者の退陣を望んだのである。彼らの多くは1920年代後半から30年代にかけて大学で学んだ人びとであったが、その頃の日本の高等学校、大学では、マルクス主義の影響が強かった。このことも戦後、この層から、労働組合運動に積極的に参加し労働運動の指導者となる人びとが相次いで生まれた理由のひとつである。加えて、戦争の体験は彼らの社会的関心を高め、社会変革をめざして行動に立ち上がらせたのである。
では、ブルーカラーは、なぜホワイトカラーが同じ組合に参加することを認めたのであろうか。またなぜ、ホワイトカラーの指導を受け入れたのであろうか。
第1は、日本のブルーカラーの間における労働者主義(labourism)の伝統の弱さである。「奴らと俺達」といった意識は日本の労働者には無縁な考えであった。戦前の労働組合運動でも、その組織者・指導者の多くは、大学卒の知識人であった。知識人の指導に反対する運動は、皆無ではなかったが、きわめて少ない。なぜか? おそらく、日本の労働者は、労働者であることに誇りをもつことはなく、労働者階級から離脱したいと思っている人びとであったからであろう。第2には、戦前戦時の労働運動に対する弾圧によって、運動の伝統が断ち切られたこと。その結果、ブルーカラーの間に、労働組合についての知識・経験をもつ人が少なく、組合結成にあたって、書物を通じて労働問題に関する知識をもつホワイトカラーへ依存せざるをえなかった。また、ホワイトカラーは企業内情報をえやすい立場にあるうえに、弁がたち、ブルーカラーに対しても説得的な議論を展開しえた。
ホワイトカラーも生活に困っていることは容易に理解し得た。しかも、その解決のためには、賃金引き上げなど両者に共通する要求を実現するほかなく、そのためには別個に運動するより、両者が共同一致して当たるべきであるという主張は説得的であった。
また、事業所全体で組織をつくるとなると、ブルーカラーの場合は、企業内全体の支持を得にくい立場にあった。彼らは細分化した職場を越えて人に知られる立場にはないのに対し、ホワイトカラー、とくに課長などは、多くの従業員を部下にもち、多数の人に知られやすい立場にあった。課長の中で信望のある人がいれば、その人を担ぐことで多数の支持が得やすかった。ブルーカラーの間で、労働組合結成の話がはじまった場合でも、途中から課長クラスのホワイトカラーの参加を求めた事例が少なくないのは、このためであろう。
生産管理闘争
組合数、組合員数の大きさにくらべると、敗戦直後の日本における労働争議は予想外に少ない。すなわち、1946年1年間で、810件、参加人員63万5000人に過ぎない。これは、敗戦にともなう経営陣の混乱、権威の失墜によって、多くの労働組合が、ほとんど経営者の抵抗を受けることなく組合の存在を認めさせ、要求を獲得していたからであった。
注目されるのは、争議形態としてストライキの452件、参加人員延べ41万5000人に次いで、生産管理(workers' controle of production)が、167件、13万6000人と多かったことである。これは、インフレが高進する中でストライキを実施しても、経営者は原料などの値上がりで利益を上げ、効果をあげえない事例が少なくなかったのに対し、生産管理は経営者の権限を無視しておこなわれる闘争であり、経済的な打撃ばかりでなく、経営者なしでも生産が可能であることを示すことによって、心理的にも大きな衝撃となったからである。一方、消費物資が圧倒的に不足し、社会全体がモノ不足に苦しんでいる状況においては、ストライキよりも、生産復興をかかげる生産管理戦術の方が、社会的な支持をえやすく、労働者自身も何等のうしろめたさなしに取り組むことができた。私有財産制度の根幹にふれる生産管理戦術に対して、日本政府や占領軍が、ただちにこれを違法とすることを避けた背景には、彼らのなかにも、ストライキより生産管理の方が建設的な戦術だと考える人びとがいたからであった。
なお、生産管理を可能にした前提条件として、労働組合が工場単位に組織され、しかも shop floor の労働者から、技術者や課長などホワイトカラー上層まで、ほぼ全従業員を組織していたことを見落としてはならない。
「経営民主化」要求の意義
この時期の労働争議で、その後の日本の労使関係にとって重要な意義をもったのは、「経営民主化」要求であった。この要求は組合員全体から強く支持されたが、その意味するところは、組合員が職務序列のどこに位置するかによって、異なった。ブルーカラーの場合は、学歴によるさまざまな差別の撤廃を意味した。この要求は、長年の間、彼らの間で強い憤懣として欝積していたのであった。ホワイトカラーの下層、つまり中等学校卒業以下の事務職員や技手などの場合は、同じ職員といっても、大学卒業者との間にある、さまざまな差別の撤廃を意味した。課長レベルの職員にとっては、戦争中に経営の任に当たっていた経営者の対陣要求であり、経営参加、とくに人事への参与が主であった。
戦前の日本企業では、企業により多少の違いはあるが、一般に従業員の学歴によって次のような会社内の身分が定められていた。社員になれるのは、大学卒・高専卒の者だけであった。中学卒業者は、准社員と呼ばれ、彼らと社員との間では、給与の金額はもちろん、ボーナスの金額や社宅の大きさなどに著しい差があった。この他、義務教育を卒業しただけの給仕や用務員などは、雇と呼ばれ、ブルーカラーなみの処遇が普通であった。職長はブルーカラー労働者の間から抜擢されたもので、通常は中卒の職員と同格の准社員であったが、ホワイトカラーからは軽蔑されていた。工員は小学校卒業以下の学歴の者だけが採用され、それに対する処遇は、ホワイトカラーとはさまざまな点で異なっていた。とくに大きな違いは、准社員以上は月給制であったのに対し、工員は日給制だったことである。月給の場合は1日や2日欠勤しても直ちに給与が減らされることはなかったが、日給者は欠勤すればそれだけ減収となった。当然のことながら、日給者に対しては出欠勤の管理が厳しかった。工場への出入は工員専用の門を通らざるをえず、退出の際には製品や材料を持ち出していないかがチェックされた。年2回前後支給されるボーナスも月給者だけであった。工員はこうした処遇の違いを身分的な差別と感じ、公衆の面前での身体検査の際に守衛が高圧的な態度をとることに対し強い怒りを抱いていた。
占領下では、民主主義が最高の価値となり、さまざまな日本社会の慣行が、封建的、前近代的、非民主主義的であるとして批判の対象になった。こうした中で、ブルーカラー労働者は、企業内における工員・職員の差別は非民主的であるとして、その撤廃を要求したのである。
この身分差別撤廃要求に対し、露骨な、目にみえる差別は早期に撤廃された。具体的には、通用門を職員と工員で区別することや、身体検査などは廃止された。また職工、労務者といった呼称は廃止され、従業員あるいは社員などと呼ばれるようになった。しかし、筋肉労働とデスクワークという仕事そのものの違いを変えるわけにはいかず、作業職、事務職といった実態的な区別は続いた。また、大学卒業者は本社で採用し、高等学校卒業以下の学歴の者は工場ごとに採用すること、昇進の早さや上限も学歴によって異なるといった仕組みも続いた。工員に対する月給制度の適用は、出来高賃金の比重が高い産業や企業ではその採用が遅れたが、1950年代までにはほとんど全ての企業で採用するようになった。さらに、1960年代に、ブルーカラーの採用母体が中学卒業者から高等学校卒業者に変化するとともに、ブルーカラーとホワイトカラーの昇進経路の一本化がすすみ、ブルーカラーの昇進の上限を撤廃した企業が増えた。
このブルーカラーとホワイトカラーの処遇の一元化は、長年の間、日本のブルーカラー労働者が抱き続けてきた差別に対する憤懣を解消するものであった。この憤懣は、日本の労働争議一般に、とりわけ激しい形をとった大労働争議に端的に示されている。これらの争議の多くは、単に賃金などの経済問題をめぐる争いではなく、経営者や監督者が労働者を侮蔑したり、あるいは人情を無視した行動をとったことに対する怒りなど、道徳的あるいは感情的な対立をともなうものが多かいのである。ただ、見落としてはならないのは、日本人は、差別に対して敏感に反応し、人並みに処遇されることを要求した。しかし、彼等の差別反対は人権とか人間としての平等に基づくものではなかった。彼等は単に、彼等が属している社会において、彼等にふさわしい処遇を要求したので、必ずしも差別そのものを否定しなかったことである。こうした日本人の人間関係の特質を明瞭に反映しているのは、日本語の会話である。日本人は、他の人と話すとき、つねにその人と自分との相対的な関係を判断し、一人称や二人称をはじめ、使う言葉をきちんと選んで話すことを社会的に要求されている。職業、地位、年齢、男女の違いなどを無視した話し方をしては、人間関係が保てないのである。あえて誇張した言い方をすれば、日本人には、自分以外に、自分と対等な人間は存在しない。平等な人間関係が存在しないところに、差別があるのは当然ということになる。ただ、その差別はカースト制度のように固定的なものではなく、接する相手との相対的な関係で決まるから、流動的でたえず変化するものである。しかも、その相対的な関係を律する基準は単一でなく、職業、地位、年齢、性別などが複雑にからみあっている。
このように、人間関係を、常に、他者との相対的な位置の違いに応じて規律している社会では、人は、不当な差別(不当と感ずる差別)に敏感である一方、当然な差別は認めることになる。そこで問題となるのは、何が不当であり、何が当然かを判断する社会的な基準である。このいわば〈公正基準〉は、時代により、そのおかれた場によっても変化する。明治維新以前の身分制社会では、職業と密接に結びついた身分がもっとも重要な要因であった。明治維新以後、身分制度は廃止されたが、人びとが、他者との社会的関係で自らの位置を判断するという慣行は解消しなかった。ただ、〈公正基準〉は変化した。新たに整備された学校制度の影響もあって、しだいに学力など、能力を重視する傾向が強まった。つまり能力がすぐれていれば、高いランクの職務につくことは当然であり、高い賃金を受けることも当然であると考えたのである。ただ、戦前のブルーカラー労働者のなかに学歴に応じた処遇に不満をいだく者が生まれたのは、当時の学歴は、本人の能力だけでなく、親の経済力が大きな意味をもっていたからである。
各企業が、ブルーカラー、ホワイトカラーの処遇を一元化すると同時に、中卒ブルーカラーからホワイトカラーへの登用、あるいは高卒従業員からエリートコースへの登用に、試験制度を導入したのは、こうした能力主義的な考えが一般に強いからであった。また、さきに説明したことを若干補足すれば、日本人は、ランキングの決定が完全に能力だけでおこなわれれば〈公正〉であると考えているわけではない。能力と同時に努力が、また年齢あるいは年功(勤続年数)が、ランキングの決定に加味されることも当然であると考えている。あえていえば、日本の職場社会におけるランキングの基準は、勤続年数と能力と努力の組み合わせによるものとなっている。
経営者側の変化
労使関係のもう一方の当事者である経営者側の性格も、敗戦によって大きく変化した。それまで日本企業の意志決定は、最終的には、資本家とその縁故者が握っていた。しかし、占領下で、これら戦前からの経営者の多くは、戦争責任を追求され、役職から追放された。2、210人もの大企業のトップ経営者が、いっきょに職を失い、かわって従業員のなかから抜擢された若手の専門経営者が進出したのである。これ以後、日本の大企業の経営者は、大学を卒業し直後にその企業に就職し、約30年前後の長期にわたって継続勤務し、さまざまな部署を経験しつつ、career ladder をのぼりつめ、取締役会の一員に抜擢されるというコースをとるようになった。そのキャリアの初期の10年から15年は、彼らは労働組合員であり、労働組合の役員を経験した者も少なくない。1981年現在の日経連調査によれば、日経連に加盟している会員会社で調査に応じて回答した313社のなかで、かつて労働組合の執行委員を経験した者が会社の取締役となっている企業は、232社(74.1%)にも達し、取締役総数 6121人のうち、労働組合の執行委員を経験したことがある者は 992人(16.2%)であった。
ただし、公共部門についてはこうしたキャリア組とノンキャリア組が同一組織に属することはなかった。採用時におこなわれる公開試験によって、最初からキャリア組は決まっており、彼らは、はじめから労働組合に加入しないからである。また、非キャリア組が局長以上に昇進することはほとんどない。民間労働組合が労使協調的傾向が強いのに対し、スト権をもたない公共部門の労働組合の方が非協調的である理由のひとつはここにある。
占領政策の転換と、経営者の反撃
しかし、労働組合が攻勢にでて成果をあげえた期間は短かった。敗戦直後の労働運動のピークをなした1947年 2月 1日のゼネストが、占領軍の命令で禁止され、さらにその翌年、同ゼネスト計画の中心であった公共部門の労働者が、これもマッカーサーの命令で、争議権を剥奪されたことを境に、労働運動はいっきょに後退をはじめた。さらに、戦後労働運動の中心であった産別会議内で、日本共産党の指導をめぐって対立が激化したことも、さらに運動を後退させることとなった。
経営者側は、こうした占領軍の政策転換に励まされ、これまで労働協約で、組合の承認なしには人事異動をおこなわないとの労働協約を破棄するなど、反撃に転じた。また、経営者側は、管理職が組合員となっている状態は不正常であるとして、これに反対した。たとえば、1948年に日経連は、「非組合員の範囲の明確化」「経費援助排除の明確化」などを主張している。彼らの要求は、1949年の労働組合法の改正において、「使用者の利益代表者」の範囲を詳細かつ具体的に規定することによって実現した。これによって、課長クラスの従業員はあいついで労働組合から脱退した。しかし、係長以下のホワイトカラーや職長層は依然として残り、組合の主導権は、しだいに、現場の労働者を掌握している職長層に移行していった。
1950年には、占領軍の働きかけで、総同盟および共産党の指導に反対して産別会議から離脱した単産によって、新たに国際自由労連への加盟を志向する総評が結成された。しかし結成された総評は、まもなく占領軍の意向に反する方針を打ち出した。すなわち再軍備に反対し、アメリカの軍事基地の提供に反対し、中国などを除く講和条約の締結に反対し、中立を堅持することを主張した平和4原則などを運動方針として正式に採択したのである。それと歩調を合わせるように、労働運動も再活性化していった。このような占領軍が予想もしなかった事態がおきた背景には、当時の総評のリーダーであった高野実のリーダーシップによるところが大きい。だが、そうした高野を支えたのは、日本国民の多くが、憲法改正による再軍備という占領軍の方針に強い危機感を抱いていたことであった。その背景には、深刻な戦争体験があった。そもそも、日本人は、自国内で、外国との戦争を体験したことがほとんどなかった。ところが第二次世界大戦では、日本本土が、連日の空襲を体験したのである。とくに原子爆弾の惨害は、日本人にとって、忘れることのできない社会的記憶として焼き付けられている。1950年代の日本では、その記憶はいまよりさらに鮮明であった。また、日本が朝鮮戦争の前線基地となっていたことは、核戦争の恐怖を幻想とは感じさせないものがあったのである。
3. 経済成長期(1955〜74年)
20年間の高度経済成長
日本の実質GNPは、1955年から59年にかけては年平均7.6%、さらに1960年から70年には年平均11%と高い成長を続けた。1955年に1742万人であった雇用労働者数は、1975年には3444万人と、ほぼ倍増した。とくに1955年から65年までの10年間は、毎年約100万人づつ増加した。一方、農林漁業関係の自営業者と家族従業者は1955年には1505万人であったものが、1975年には690万人に減少した。
1955年では、工業生産の59.3%は繊維産業をはじめとする軽工業が占めていた。しかし1960年には早くもこの比率は逆転して、重化学工業が工業生産の55.2%となり、1973年には71.4%にも達した。とくに自動車、電機など機械工業の伸びが著しく、1955年では工業生産全体の13.5%に過ぎなかったが、73年には37.4%に達した。
この高度成長期に労働生産性は急速に上昇した。1960年を100とする指数でみると、70年には284.4になっている。このように短期間で生産性が向上したのは、各企業がマーケットシェアの拡大をめざして互いに激しく競争し、膨大な設備投資をおこなったからであった。
合理化反対争議
この時期の前半、1950年代から60年代初頭へかけて、各産業で、大規模な労働争議があいついだが、その多くは各産業における合理化の進展とかかわっていた。1952年の電産争議、1953年の日産自動車争議、1957年の鉄鋼労連の11波におよぶスト、1958年の王子製紙争議、1960年の三池炭鉱争議、1964年の三菱長崎造船所争議など、いずれも各産業におけるトップ企業で争議が相次いだ。もちろん、それぞれの争議の争点は一様ではなく、それぞれ固有の問題をめぐる争いであったが、そこには共通する条件もみられる。
それは、1)業間競争の激化にともない、それまで相対的に優位な労働条件を認めていたトップ企業の収益が悪化し、合理化を迫られたことである。すなわち、一般に成長産業において、後発企業は拡大するマーケットに向け、新鋭機械を導入し、また相対的に低い労働条件を利して、競争力を強め、先発企業のマーケットシェアを減らしていった。それまで、トップ企業の組合は、その企業の支払能力の高さを利して、高い賃金水準をかちえてきた。その実績に支えられ、先発企業の組合は、組織力や交渉力が強く、合理化に反対の態度をとったものが多い。
2) そこで、どの争議でも、経営側は、合理化に反対する組合の指導者・活動家の排除に力をいれた。その過程で労働組合は分裂し、第二組合が形成された。いかに強力な労働組合でも、企業別組合の場合は、単独で長期のストライキは続け難い。なぜなら、ストを続けている間に、同業他社によってマーケットシェアをくいあらされて企業業績が悪化し、最悪の場合には雇用削減に追い込まれる危険があるからである。また労働組合が企業別に組織されていることで問題となるのは、かりに将来は経営者となることを自他ともに認めているようなエリート社員でも、入社後約10〜20年は組合員となり、しばしば組合役員にさえなる。彼らは、賃上げや合理化に対しても企業経営者的な考えを抱いていることが多い。つまり、労働組合の内部に、経営者と考えを同じくするグループが生まれがちである。
労働組合が分裂したとき、戦闘的な第一組合から最初に脱退しのはほとんど職員層、ついで職長層であったのも、このことと関わっている。大学卒のホワイトカラーのなかには学生運動の経験者もあり、組合運動で指導的な立場にたった者が少なくない。彼らが短期間で、組合運動から離れれば、彼の組合経歴は、すぐれたリーダーシップの持ち主である証明となり、企業内での昇進にプラスに働くであろう。しかし、もし企業と非協力的な立場を続ければ、彼は、社内の出世コースからはずされるに違いない。ブルーカラーの場合でも、昇給や昇格、あるいは人の好まない職場への異動など、さまざまな差別を覚悟しなければならない。最後まで第一組合にとどまったのは、共産党員や左派社会党員などであったが、彼らも、職場で孤立させられ、最後は第二組合に移るか、退職に追い込まれていった。このように、労働者側が敗北した原因のひとつは、労働組合がいずれも企業単位に組織されていたことと関わっている。
戦闘的な労働組合を企業から追放する際に、一部の産業(造船、電機など)や企業(東芝、日立など)では、経営者と密接な連携をとって労働組合から左派活動家を排除することを目的とする「インフォーマル・グループ」が形成された。彼らは、いわば「会社党員」で、「会社党員」だけで組合役員を独占する仕組みを作り上げていった。この時期以降、民間大企業の労働組合の指導権は、しだいにこうした労使協調的な勢力が握るようになった。その組合政策の基本は、激しい企業間競争に負けないよう、労働組合は企業に協力し、得られた成果の配分を受けようとする〈パイの理論〉に基づくものであった。
ただ、これらの争議は労働者側の敗北に終わったとはいえ、労働者側に何の成果も生まなかったわけではない。これらの争議を経験した経営者は、労働争議のコストは高いを知り、また分裂組合間の対立が、その後の職場の志気の低下をまねくことを理解したのである。これ以後、経営者側は、組合の分裂を企てるより、組合をまるごと会社に協力させる方向で働きかけることを選ぶようになった。そこで経営側が払った代価のひとつが「終身雇用」の事実上の「権利」化の承認であった。ただ、これは団体協約のうえで明文をもって承認された「権利」ではなく、あくまで企業と労働者との暗黙の了解に基づく「事実上の権利」、あるいは「権利に近い」ものであるにすぎなかったのだが。また、こうした雇用保証を可能にした背景には、長期にわたって続いた高度成長により、人手不足が続いたことがあった。もっともその反面で、企業内にありながら正規の従業員のような雇用保障をもたない臨時工や、形式上企業外の従業員である社外工(親会社の構内で働く下請会社の従業員)を、景気の調節弁として不可欠の存在にし、好景気の時は長時間の残業を余儀なくされることになった。
春 闘
この時期に日本の労働組合が確立した独自の闘争方式は〈春闘〉である。これは、毎年春に、あらかじめ作成したスケジュールにもとづいて、産業ごとに、多数の労働組合が同時に賃上げ等の諸要求を提出し、要求が認められなければ一斉に短期間のストライキを何回か繰り返す戦術である。同一産業に属する多数の組合が同時にストを実施すれば、各組合は、その間に他の企業にマーケットシェアを奪われる心配をせずにすむし、短期間のストなら企業がつぶれる心配もない。要するに企業別組合の場合、単独ではなかなかストライキが出来ない弱さを補う戦術である。春闘で重視されたのは、どの産業が最初に闘争に入るかである。通常、先頭に立つのは、その年に高い収益をあげ、賃上げの余裕のある産業で、それによって高い賃上げを獲得し、他の産業の組合はその成果をめざして運動をすすめるのである。春闘の中盤では、もしストライキが実施されれば社会的に影響が大きい鉄道産業の労働組合が一斉ストをかまえる。そうなれば、当然中央労働委員会が仲裁にのりだす。その結果は、「公平な第三者機関の公平な裁定」として、他の産業の賃金引き上げの基準として機能する。
春闘がはじまった1955年以降、高度成長にともない、各企業が全体として高い収益をあげ、賃金を上げる余裕があったこと、また、長期間の経済成長にともない人手不足が深刻化したことに助けられ、春闘はかなりの成果をあげた。さらに、春闘に参加した組合員は全雇用者の一部に過ぎなかったが、ここで決定された賃金水準は、未組織分野におよぶ仕組みが作られ、日本の賃金水準は全体として大幅に上昇した。
この時期になると賃上げの要求方式であったベース・アップ方式に対し、若い労働者の間で不満が増してきた。運動の結果として表示される平均賃上げ額と、自分たちが実際に受け取る賃上げ額があまりにかけ離れるからであった。平均賃上げ額は、企業にとっての賃金コストの増加分をあらわすだけで、個々の労働者に対する配分を規制しないからである。平均2000円の賃上げなのに、自分の給料は500円しか上がらないのでは、不満も当然であった。とくに技術革新にともない、若い労働者が最新鋭の機械を操作して生産性をあげている状況のもとで、彼らの不満は、会社も組合も無視し難かった。そこで賃上げ要求にあたって、いわゆる一律プラス・アルファ方式が広く採用されるようになっていった。この方式によれば、一律部分は全組合員が同額であるから、若い労働者でも最低この金額は確保できる。この方式が、毎年つづけられていった結果、若年労働者と中高年労働者の間の賃金格差は縮小していった。また、ブルーカラー、ホワイトカラー間の賃金格差も縮小した。賃金プロファイルを描いたときに、日本のブルーカラーがホワイトカラーの昇給曲線ときわめて近似した曲線を描くことが知られているが、これもブルーカラーとホワイトカラーが同一の組合に組織され、同一の賃上げ要求を出してきたためである。賃金の面でもブルーカラーのホワイトカラー化ともいうべき傾向が強まったのである。
また、春闘が制度的に定着したことと関連して、この時期に、労働組合組織の基礎単位が変化した。つまり、労働組合としての意志決定が、それまでの工場別組合から、企業別組織へ移っていったのである。賃金をはじめボーナス、退職金などの主要な労働条件が、工場単位でなく企業全体として決定されることに対応した変化であった。
一部の産業、たとえば鉄鋼では、春闘における賃金決定が、しだいに企業よりも同一業種における経営者間の合意によって行われるようになり、企業レベルの団体交渉は空洞化して(形式化し無内容になって)いった。企業レベルでは、団体交渉よりも、経営側と組合との事前協議が重要性を増していったのである。もともと、日本の企業レベルの労使関係では、経営協議会と団体交渉の境目が明瞭でなく、経営協議会で労使の意見が一致しない問題が団体交渉に移される傾向が強かったが、それがさらに強まったのである。なぜ団体交渉と労使協議の境目が明瞭でないかといえば、ドイツのように産業別組合が存在した上で、各事業所ごとに労働者代表が選出されて、労使間の協議がおこなわれるわけではないからである。企業別組合であるため、労使協議も団体交渉も、双方とも同一人物が担当することになる。しかも、労使の間における対立意識が希薄であるため、経営協議会では、主として経営者側が生産計画、設備計画などについて説明し、組合側は意見を述べるだけである。
4. 低成長期(1975年〜現在)
柔軟な生産組織の採用
1973年の〈石油危機〉で日本の製造業は、製品コストの高騰に直面した。そこで、経営者はさらに大規模な設備投資をおこなって、市場動向に応じて絶えず生産品目や数量を変化しうる〈柔軟な生産組織〉をつくりあげ、コストの削減に成功した。日本の労使関係が効率的な制度であるとして注目されるようになったのはこの時期以降のことである。それまでは、日本の競争力は相対的に低い労働条件によるものとされ、研究者はもちろん、経営者も、日本の労使関係は前近代的で、遅れているとみる傾向が強かった。このような評価の逆転が生じた背景には、この頃から、マイクロ・エレクトロニクス技術が急速に進歩し、製造業でも広く採用されるようになったことがある。これによって、生産現場における技術の変化が日常化した。たとえば、トヨタが開発し他社にも広まったジャスト・イン・タイム・システムでは、生産工程は頻繁に再編成され、それに応じて労働者はしばしば配置がえされ、したがって労働者一人一人がおこなう作業も変わらざるをえなかった。このような生産方式を採用するのに不可欠の条件は、特定の職務に固執せず新たな技術に柔軟に対応する労働者の存在である。日本企業の生産効率が注目され、それを支える「日本的労使関係」が注目されるようになったのは、このためであった。
また、この頃から日本製品の品質の向上が注目され、それを可能にしているものとして、QCサークルなど小集団活動が注目されるようになった。日本のQCサークルは高度成長期に始まっていたが、それは単なる製品の質の向上、コスト切り下げを目指すだけでなく、この運動を通じて、経営者は従業員の一人一人を企業に協力的な集団に組み込むことを目指していたのである。この、活動の特異性は、労働者自身が、「自発的」に企業に協力して仕事のやり方を再検討し、生産コストの削減につとめることにある。自分たちの仕事の場を減らすおそれのある活動に労働者が自発的に協力することは、おそらく世界の労働史で、あまり例のないことであろう。なぜ、そのようなことが起こったのか。これに答えるには、逆に、なぜそのような例は少ないのか、を問う方がわかりやすい。
その答えは、欧米の労働運動の原型はクラフト・ユニオンがつくりあげたものだからであろう。その歴史的背景としては、クラフト・ギルドの伝統がある。ギルドの基本的な方針は、徒弟制度や就業時間の制限などによって、労働市場を自分たちで支配しようとすることである。その成員にとっては、自分が身につけている熟練こそ、自分たちの財産であった。こうした考えは、クラフト・ユニオンにも受け継がれ、組合は新たな技術の導入には強く抵抗した。新技術の導入が、組合員の財産である熟練の価値を低下させる結果となるからである。また、組合は企業の外に組織され、その職業全体の労働条件を支配することを目的としていた。したがって、ひとつの企業が新たな技術を導入することは、その企業で働く労働者だけの問題ではなく、その職業に携わる労働者全員の問題とうけとめられ、組織全体でこれを阻止することになったのである。
では、なぜ日本の労働者は、新技術の導入に反対しないばかりか、時にはこれに協力さえしたのか? その歴史的な背景にはつぎのようなことがある。工業化前の日本では、ヨーロッパのような自由都市は存在せず、職人は領主が直接支配する城下町に集められていた。そこでは、自律的・自治的なヨーロッパ型のギルド組織は存在せず、職人の組織は税負担の組織として上からつくられた。こうした歴史的な条件から、日本ではクラフト・ユニオンの伝統が育たなかったのである。これと関連して、労働者相互の競争についての考え方も、日本と西欧とでは異なった。西欧のギルド慣行では、労働時間や作業量、賃金など、相互の競争の制限こそ基本であった.ところが、日本では、能力が高く、努力する者は高い報酬をうけて当然であるとする考え方が根強いのである。こうした考えが、クラフト・ギルドの欠如を結果したのか、クラフト・ギルドの欠如が、こうした考えを一般化したのか、どちらが原因で、どちらが結果であるかを判断するだけの材料はない。しかし、こうした違いは、ギルド的な慣行が社会全体に承認されているか否かと関わっていよう。日本の労働運動の歴史には、出来高制に対する反対運動の事例が少ないのも、このことと無関係ではない。また、クラフト・ギルド、クラフト・ユニオンにとっては、職種概念が社会的に確立することが重要であるが、日本ではこの点も弱く、熟練労働者と半熟練労働者、非熟練労働者の区別はあいまいである。日本の労働者が伝統的に、職種間移動に抵抗力をもっていないのも、このためといってよい。
労働者自身が生産性向上のため企業に協力したもうひとつの理由は、20年にも及ぶ経済の高度成長の過程で、日本の労働者は、パイを大きくすれば自分たちへの分け前も増えることを実感したからである。彼らは、かりに短期的には犠牲を払うことになっても、企業の発展に協力すれば、将来はより大きな配分を期待できると考えたのである。
さらに、経営者が1950年代の大争議に学んで、合理化に際しては正規従業員の雇用を保障する方針を明示したため、労働者は、新技術が導入されても失業のおそれをほとんど感じなくてすんだのである。もちろんロボットなど新鋭機械の導入により、労働者は、それまでに獲得している熟練の価値を失う可能性は高い。ただ、日本企業の正規従業員は、もともと特定の職務についての技術の持ち主であることによって企業に採用されたのではなく、職務を特定しない一人の労働者として採用されていた。つまり、日本の企業では、特定の技術をもたない労働者を採用し、職場や職務をかなり頻繁に異動させながら、on the job training によって技能を習得している。したがって、異動により昇進することが多いので、職務の異動に強い抵抗感をもたない。とくにホワイトカラーの場合はそうである。ブルーカラー労働者はホワイトカラーほど頻繁に勤務場所が変わることはないが、彼らも限られた職務に固定的に従事するわけではなく、勤続年数が増すにつれて、しだいに熟練度の高い職務に移っている。また、ある一時点においても、おなじ職場内の複数の職務を交代しながら従事することは、ごく普通におこなわれている。したがって、特定の職務を自分の財産と考えることはほとんどない。また、かりに異動によって熟練度が低い作業に移されても、日本の年功的賃金制度のもとでは、賃金が下がるおそれは小さい。
また日本の労働組合が企業別組織であることは、新技術の導入に労働組合が反対することが少ない理由のひとつである。なぜなら、もしある労働組合が新技術の採用に反対した場合は、自分たちが働いている企業が他の企業との競争に負ける恐れがある。そうなれば、賃金は切り下げられ、最悪の場合には企業そのものの存続が危うくなって、組合員は全員失業といった事態をまねくことになるかもしれないからである。先に、日本の労働者には「奴等と俺達」いった考えはなかったと述べたが、製品市場において企業間競争が激しい産業では、他の企業の人びとは「奴等」となり、同じ企業の従業員すべてが「俺達」となっている、といっても過言ではなかろう。
もちろん、個々の労働者にとってみれば、職務の異動によって不利益となる場合は少なくない。とりわけスクラップ・アンド・ビルドによって、勤務地を変更させられ、移住を迫られる場合などは、家族もふくめ大きな影響を受けることになる。そうした場合に、その不利益をどこまで減少させられるかは、かなりの程度、労働組合の力にかかっている。いずれにせよ、こうした場合でも、労働組合が絶対反対を主張した事例は多くはない。
年功制度の修正=能力主義的管理の強化
日本の経営者は、日本的労使関係の特質のうち、企業別組合についてはつねにこれを高く評価し、その維持存続に力をいれてきた。しかし、終身雇用制や年功制については、全面的にこれを支持し、維持存続させようとしてきたわけではない。「終身雇用制」を成立・維持させたのは、むしろ労働組合の圧力によるところが大きい。経営者は、むしろ条件さえ許せば、景気の変動に応じて雇用量を自由に増減できる制度を好むことは明らかである。
また、勤続年数に応じて昇給、昇進させる年功制度も、経営者側にとっては常に好都合なわけではない。定年まで解雇されるおそれがなく、勤続年数に応じて自動的に昇給、昇進するとなれば、一生懸命働かない人が増えるに違いないからである。1950年代後半から60年代のように、就職を希望する若者が大勢いた時期には、企業は年功賃金制によって優秀な労働者を安い賃金で雇用できる利点があった。また、労働者の側も、敗戦直後の皆が窮乏していた時期には、勤続年齢が増えるにつれ賃金が上昇する年功賃金制度は、労働者のライフ・ステイジごとの生活の必要に応じて昇給する制度として、受け入れられていた。
しかし、高度成長が続いて労働力需要が急増した結果、新規学卒者の初任給は急上昇した。年功制度のもとで初任給の上昇は、全従業員の賃金水準を押し上げる結果となり、賃金コスト全体の急増を招いたのである。これが、1960年代後半ころから、企業が年功制度を見直す必要があると主張するようになる背景であった。多くの経営者は年功制度を修正し、かわって能力主義を強調するようになっていった。一方、労働者の側でも、若年層は年功制に不満を抱くようになった。こうして、純粋な年功制度でなく、従業員の成績を査定し、その成績に応じて昇給、昇進させる制度が導入されはじめた。これ以後、勤続年数に応じて上昇する年功賃金部分が賃金全体のなかでしだいにその比重を低め、代わって各人の能力や業績などを査定してきめる「能力給」の比重が増大していった。
この時期になると、こうした能力主義志向は、経営内だけでなく、日本社会全体に広がっていた。1970年代以降、進学率は劇的に上昇していった。高等学校への進学率は1950年代初めには40%台であったが、60年代には70%台、70年代には80%台、80年代には90%台に達し、現在は95%で、高校教育はほとんど義務教育と同じ状態になった。大学への進学率も1960年には10%であったが、73年には30%を越え、現在は38%である。このような進学率の急上昇の背景には、経済の高度成長にともなう家計所得の増加があり、家族計画の普及による一世帯あたりの子供数の減少があった。進学率の上昇と大学間の格差の存在は、入学競争の激化となった。かつてのように、家庭の経済条件が直接学歴の有無を規定するといったことはなくなった。入学試験では、学業成績だけがものをいったから、〈能力〉のある者はその能力にふさわしい待遇を受けるべきであるという、文字どおりの〈能力主義〉が日本社会の支配的な価値となっていったのである。
昇進についても、勤続年数だけでなく能力を重視する企業がふえていった。もともと終身雇用制度と年功昇進制度は矛盾する側面をもっている。役職の数は上になればなるほど減少するから、勤続年数がたてば自動的に昇進させるといったことはできない。それでも、企業が急成長をつづけ経営規模を拡大していた時期には、役職の数も増えたから、こうした矛盾はあまり目だたなかった。しかし、70年代以降の低成長期になって、こうした問題が一気に表面化した。ここにも年功より能力を重視するように変わった要因のひとつがある。職務と直接の結びつきのない資格(ranking)制度が導入されたのも、こうした矛盾を解決しようとしたためである。ただ、見落としてはならないのは、学校教育での能力は、試験の点で表される、一面的ではあるが客観的な評価に基づくものであるのに対し、企業内において査定の対象となる能力は、単なる業務上の力量だけでなく、年功的な要素も加味し、さらに他のメンバーとの協調性や企業への忠誠心といった主観的な評価によるところが小さくないことである。
こうして年功制度が変質すると同時に、終身雇用もしだいに変質していった。たとえば、大学卒のエリート職員の場合は、取締役へ昇進の見込みのない者は、定年の10年以上も前から子会社へ出向させることがふつうになった。そればかりか、1973年の石油危機以降、日本企業は〈減量経営〉方針を打ち出して余剰従業員の削減をはかり、それまで以上に能力主義を強調するようになった。これによって、従業員間の昇進・昇給をめぐる競争はさらに激化した。〈減量経営〉の名の下に、定年までは雇用を保証するというの暗黙の約束が破られたのである。多くの組合は、これに対抗する有効な手段をもたなかった。こうした労働組合の無力化した状況を目にして、組合員の組合への信頼度は低下した。そのことを端的に示しているのは組織率の推移で、最高時の1949年には55.8%であったが、1953年以降は35%前後で横ばい状態が続き、1975年からは17年連続して低下し、1992年現在 24.4%である。しかし、この数字さえ過大である。というのは、日本の労働組合の多くはユニオン・ショップ協定を結んでおり、労働組合が存在する企業に就職した人は、たとえ組合の方針に反対でも組合に加入せざるをえない。したがって、形式的には組合員であっても、組合員としての意識をもたない人が多数この中に含まれており、組合の実際の組織勢力は、この数字をさらに下回っている。
むすび 日本の労使関係の現在と未来
私は歴史家であって、未来学者ではない。ただ、このシンポジウムのテーマからして、また未来にもっとも近い時期を担当する者としては、この点に全くふれないわけにはいかないであろう。
まず、近い将来、日本の労使関係に影響を及ぼすであろう要因を、いくつかのキーワードで見ておこう。高齢化、高学歴化、女性化(女性の職場進出)、経済のサービス化、マイクロエレクトロニクス化、国際化などである。これらは現在すでに、かなりの程度まで進行しつつある問題で、未来の予測というより、現在の日本の労使関係を理解する上でも重要な要因である。その多くは、先進資本主義諸国に共通するものであるが、これらの諸要因が及ぼす影響は、国によって異なるであろう。そのなかで、日本の労使関係を変える可能性を秘めているのは、国際化と女性化であろうと、私は考えている。
国際化はすでに日本商品の輸出や原料の輸入として、また海外への直接投資として進展しつつあり、日系企業によるいわゆる〈日本的経営〉は、進出先の労使関係にも影響を及ぼしつつある。フレキシビリティの強調、QCサークルの導入、単一身分制度の導入などがそれである。
一方、この数カ月の間に急速に進みつつある円高は、日本の労使関係に、近い将来において、無視し得ない影響を及ぼすであろう。輸出産業、とくにこの20年来、日本経済を牽引してきた自動車産業は、価格競争力を弱め、大きな打撃をうけている。この問題についての対策の、ひとつの選択肢は、日本国内から、海外へ生産拠点を移動させることであろう。これは、日本経済の脱産業化を招き、日本もアメリカが進んだ道を歩むことになろう。ただ、労働組合や政府はもちろん、経営者さえ、これには強い警戒感をもっており、全面的にこうした方向に転換することは考えにくい。この選択肢をとれないすると、国際競争力維持のためには、いっそうのコストダウンを図るほかない。ただ、すでに製造部門での合理化は、下請け企業まで含めて、これまでも「乾いたタオルをさらに絞る」といわれるほど続けられており、コストダウンの余地は小さい。予想されるのは、間接部門の合理化であろう。もともと、日本の事務部門は日本独特の下から積み上げる意思決定などもあって、製造部門にくらべ生産性が低いことが指摘されている。しかし、今やコンピュータ技術の急速な進歩もあって、事務部門の合理化は今後いっそうすすめられるであろう。近い将来、ホワイトカラー、それも中高年ホワイトカラーの大量失業がおこる可能性は高いであろう。
ここで問われるのは、すでに弱体化している日本の労働組合が、これに対抗して、「終身雇用制度」を維持できるか、ということである。これにイエスとは答え難い。
国際化にともない、日本の労使関係を変化させる可能性があるのは、外国人労働者の日本への移動であろう。これは実際、1980年代後半以降、円高とかかわって、急速に進みつつある。注目されるのは、1990年に施行された改正入国管理法が、日系外国人(日本人の血をひく外国人とその配偶者)の日本国内での就労が自由になったことをうけて、日系ブラジル人、ペルー人が急増し、92年現在17万人に達している。今や「不法滞在者」などを含めれば、戦前からの移住者である朝鮮人、中国人以外のいわゆるニュー・カマーの外国人労働者は50万人を越えている。今後確実に進む人口構成の高齢化を考えれば、外国人労働者の増加は避けがたいであろう。日本企業は、今までのところ、これら外国人労働者を正規従業員としては受け入れておらず、単に臨時労働者としてのみ雇用しており、一方、労働組合は、さまざまな理由から、臨時労働者の組織化にあまり積極的ではない。このままでは、日本の労働組合はさらに組織率を低下させることになろう。今までのところ日本の労働組合は、移民労働者の問題については、受け入れ反対の姿勢を示しているだけで、積極的な対策をほとんど打ち出していない。
労働力の女性化の進展も、このところ目立った傾向である。とくに、1980年代には女性の雇用者(employee)は500万人近く増加し、現在では2000万人弱、雇用者総数の40%近くを占めている。しかし、最近急激に増加した女性労働者の多くは、パート労働者、臨時労働者、派遣労働者など、いわゆる〈非正規労働者〉で、ある。もともと女性労働者は、正規従業員であっても、企業内における二級市民として扱われてきた。すなわち、女子労働者の場合は、結婚するまでの短期就業が多く、同じ仕事をしていても男子より賃金は低く、管理職への昇進の機会もほとんどないといった、差別を受けていた。しかし、1986年の男女雇用機会均等法の施行を機に、多くの企業で女子正社員にも男子と同様な昇進の機会を認めるようになった。ただし、制度の上で同様な機会を認めることと、現実に昇進させることとの間にはまだ距離があるのではあるが。
この半世紀の日本の労使関係の歴史を見てきてきた今、改めて気づくのは、この短期間に日本の労働組合が達成した成果の大きと、それに比べての現在の労働組合の力の著しい弱化である。成果の面でをみると、第1はこの半世紀での実質賃金の大幅な向上である。もちろん賃金の上昇は労働組合の力だけではなく、なにより日本経済の急成長に助けられ、また労働市場が売り手市場であったことに助けられたものである。しかし、労働組合の運動、とくに〈春闘〉がなければ、これだけの向上はありえなかったこともまた確かであろう。第2に、労働組合員の雇用保障を事実上の権利として確立するのに貢献した最大の力は、労働組合であった。第3に、ブルーカラー労働者の企業内における地位を向上させ、かつては日本社会の最下層に属していた人々を、自ら中流階級の一員と考えるまでに上昇させたのも、戦後日本の労働組合がかちとった大きな成果であった、といってよいであろう。
だが、今やこうした成果が、逆に労働組合運動の著しい衰退の原因となっていることも明らかである。日本の企業が世界でも無視しがたいほど大きな力をもつようになっているのに対し、労働組合の力は逆に低下しているのである。組織率の一貫した低下傾向に示されている労働者への影響力の弱まり、さらには組合員の間における組合への無関心あるいは不信の増加は著しい。労働者個々人が、組合がいざというときに頼れる存在であると感じていないのである。最近大原社会問題研究所が実施したユニオン・リーダーに対する調査でも、組合役員が、最近の労働組合は組合員に対する影響力を低下させていると考えていることが明らかになった。ほかの調査の結果も、多くの人が、労働組合はその影響力を弱めていると考えていることを示している。
それでは、日本の労働組合は、はたしてこうした状況を脱却し、ふたたび活性化できるであろうか。私自身は、近い将来には、そうした事態はおこりそうもないと考えている。ただ、長期的に見た場合、労働組合運動が再活性化する可能性が、皆無ではない、とも考える。
これまでの日本の労働運動の歴史をみると、労働者は、絶えず、企業内における第2級市民としての地位に抗議し、自分が属する企業における正規の構成員(フル・メンバーシップ)を要求して運動してきた、といってよい。このことから将来を考えると、おそらく現在の日本の労使関係を変化させる力をもち、弱体化した労働組合を再活性化する可能性をはらんでいるのは、女性労働者であろう。そうした変化がいつ、どのような形でおこるかは分からない。ただ、男性をしのぐ高学歴化、にもかかわらず企業社会では依然として第2級市民である現状は、すでに一部の女性の間に不満を欝積させつつある。いつの時代でも、どこの国でも、労働運動をはじめ諸社会運動の動因として大きな力をもっているのは、差別に対する怒りである。こうしたことを考えあわせると、今の日本で、社会を大きく変える力をもっているのは、女性のほかにはないであろう。彼女らの憤懣を行動に移すうえでの促進要因として重要なものは、国外からの影響であろう。たとえば、世界的なフェミニストの運動の発展であり、それと関わっているが、国際的な圧力による日本政府の政策の変化である。
いずれにせよ、将来、日本の労働運動がふたたび活性化するとすれば、おそらくその場合は、単に現在の企業別労働組合が再活性化するのではなく、これまでとは異なった新らしい組織をともなった運動となるのではないか。
本稿は、1993年7月13、14の両日、オーストラリア・ウロンゴングで開かれたDevelopment and Future of Industrial Rerations in Australia aand Japan に関するConference のために準備した報告の日本語原稿。本著作集が初出。
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