《編集雑記》20 (2011年1月〜 )
例年の年賀状はサインペンで大きな署名、それに宛名も手書きだったのに、去年の賀状は宛名は印刷、署名はペン字で、それも本人の筆跡ではなかった。また、いつもなら「今年もお互い元気で行きましょう」といったひと言が書き添えられていたのに、去年は何も記されていなかった。ちょっと気にはなったが、現役を退いたと他所から知らされており、「残務整理にでも追われているのだろう」くらいに簡単に考えていた。前年秋の同期会に顔を出していたと出席した人から聞いていたこともあって、重い病で苦しんでいるとは予想もしなかった。それだけに、昨年5月末に、会社名で届いたファックスの訃報はショックだった。しかも、葬儀は本人の意向もあり、すでに家族だけで済ませたと記されていた。「そんな別れを選んだのか、なんだか小野寺らしくないな」と感じたが、私が知っている小野寺正臣は60年前後も昔の少年・青年時代の彼である。その後の人生をどのように生きてきたかは、先年贈られた『60年安保 ─ 6人の証言』(同時代社、2005年刊)で大筋を知っただけである。顔をあわせたのは5、6年前の同期会、声を聞いたのは、2年ほど前に頼みごとの電話した時が最後だった。先ごろ奥さまが追憶会にお招きくださり、故人を偲ぶ機会を得て、いくらか心が晴れた。この場をかりて、追憶の席を設けて下さったことに対し、改めてお礼を申し述べたい。
いつ小野寺と親しくなったのか定かな記憶はない。私は中学時代に2度も転校しており、東京都立大泉高等学校併設中学校へ転入したのは3年の2学期だった。何年もの疎開生活で孤立し肩肘張って生きてきたこともあって、決して人当たりが良いとは言えない転校生の私に、最初に声をかけてくれたのは、同じ駅から通っていた高橋健三である。家族のほとんどがまだ疎開先で、父親と2人だけで暮らしていた少年にとって、友人ができたのは嬉しかった。たぶん高橋を介して小野寺とも親しくなったのであろう。高橋、小野寺の2人はともに英語部の中心メンバーで、英語劇に出演したり、英語弁論大会でも花形だった。ちなみに、大泉高校の英語教育、とりわけ発音教育の水準は、当時としては抜群に高かった。生徒の立場では知る由もなかったことだが、卒業後さまざまな機会にその事実に気づかされた。その理由のひとつは、両角英運校長が英語教諭出身で、英語科に優秀な先生を集めていたからであろう。われわれが卒業した1952年に、大泉高校は第2回「パーマー賞」を受賞している。「パーマー賞」と言っても知る人は少ないだろうが、戦前に文部省英語教育研究所の初代所長として日本の英語教育に尽力したハロルド・パーマーを記念して設けられ、「外国語教育の改善発展のために顕著な成果を収めた個人,学校,または団体」を表彰する制度である。学校として表彰されたのは、大泉高等学校が最初であった。「パーマー賞」受賞は、先生の質が高かっただけでなく、小野寺や高橋のように力のある生徒がいたからでもあったろう。英語劇や弁論大会の成績など、英語部の活躍も大きく評価されての受賞だったに相違ない。
高校時代の小野寺について記憶に残っているのは、英語劇でのガウン姿であったり、英語弁論大会での型破りな演説だったり、卒業直後の一夜を、同級の悪ガキ仲間10人前後で学校の宿直室に泊まり込んで開いた祝宴など、些事ばかりである。彼の英語スピーチのタイトルはうろ覚えだが「How to be late for school」だった。つまり、自分の遅刻の多さをネタに皆を笑わせる内容だった。他の人のスピーチは覚えていないのに小野寺の話だけ記憶に残っているのは、題材のユニークさに加え、私も遅刻常習組だったからであろう。高校1年の時の「成績通知表」 ─ 粗悪な薄い紙に謄写版で印刷したもの ─ に、1年間で15回遅刻したと記録されている。たぶん小野寺はもう少し多く、ことによると倍くらいあったのではないか。スピーチのなかには、準急停車駅の石神井公園で降りて走ると、普通しか止まらない大泉学園駅に停車する次の電車を待つより早く着くといった「裏技」の伝授もあった。もちろん遅刻すれば注意され叱られもしたが、門を閉鎖して生徒を校内へ入れない、といったことはなかった。そもそも閉鎖しようにも校門そのものがなく、どこからでも自由に出入りできた。敗戦直後の学校は開放的で、今ほど管理主義的ではなかったのである。というより、まだ新たな制度が確立せず、何でもありの時代だった。物理の授業中に『キュリー夫人伝』を読み聞かせてくれた先生や、授業をまるまるつぶして雑誌『世界』1951年10月号(〈講話問題〉特集号)の内容を紹介し、全面講和を説いた先生がいた。とはいえ、朝礼のときお喋りしたというだけで、いきなりビンタを張られたこともある。新しさと古さが入り交じった時代だった。
小野寺、高橋は英語が得意だっただけでなく、ともに文学少年で『パピルス』という名の同人誌を出していた。私も誘われたが参加しなかった、と思う。実はこの辺りの記憶は定かではない。ことによると「名ばかり同人」になっていたのかもしれないが、本人の意識では一読者だった。読むだけなら、小学生のころから改造社の円本の文学全集から姉たちの少女小説、さらには母がとっていた雑誌まで、活字ならなんでもの、文字どおりの乱読型だった。しかし、文章を書くのは大の苦手だった。それに私はどちらかといえば「体育会系」で、軟式庭球に夢中だった。後に本格的なテニスコートができたが、中学時代はまだ専用コートがなく、校舎に囲まれた砂利だらけの中庭で球を打ち合っていた。その練習中に、校内放送が東京裁判の実況中継を流し、「デス・バイ・ハンギング」という裁判長の判決が聞き取れた。そんな時代だった。
小野寺のことで最も忘れがたいことは、 ─ おそらく多くの友人に共通する体験だと思うが ─ 卒業前後の彼の自宅での集まりである。私は『パピルス』院外団か応援団といった役回りだったにもかかわらず、桜台の小野寺家にはたえず出入りしていた。二階の彼の部屋は、われわれのサロンであり、梁山泊であった。小野寺の周りには常に人がおり、話し声が絶えなかった。彼は人を集め、人を動かす力に秀でていた。私が今なお、家族員全員の顔を思い浮かべることが出来る友人の家は、小野寺家だけである。晩年の小野寺によく似たお父上、誰にでもやさしいお母さん、いつも絵を描いていた1つ年下の妹・蓉子さん、それに確か都立の農業高校園芸科に進学した弟さん、それにご本人を含めての五人家族である。いま考えると、よくご両親があんな野放図なことを許してくださったものだ。なにしろ彼は浪人中だった。受験勉強では決定的に重要な時期だったはずである。高校を卒業したのが1952年3月、『アサヒグラフ』の原爆被害写真の特集が出たのが1952年8月6日だった。4月に講和条約が発効したので、占領下では禁止されていた被害写真の公表がようやく可能になったのである。そのキャプションを英訳し、それを付して『アサヒグラフ』を海外へ送る活動を思い立ち、その中心になってのが小野寺、高橋の英語部出身者だった。そんな活動に自宅を自由に使わせてくれたのが小野寺家である。そんなことが出来たのは、「お兄ちゃん」に対する家族の信頼が厚かったからに違いない。小野寺家の人びとの「お兄ちゃん」への信頼は、いろいろな機会に実感しているが、なかでも第三次砂川闘争で彼が逮捕されたとき、お母さんが「お兄ちゃんが間違ったことをするはずがない」と何回も言われたことを鮮明に記憶している。
思い出のなかの小野寺正臣はニコニコといつも笑顔である。笑顔が似合う天衣無縫の男であった。口をとんがらせて文句を言う顔も覚えているから、ただ笑っているだけの人格円満居士ではなかったが。
2010年5月22日、肺癌のため逝去。享年76歳。
一周忌に間に合わせるため、少数の友人の寄稿によって、私家版で制作された『正臣君の想い出』に寄稿。
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