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《編集雑記》7 (2002年4月〜12月)

帰国のご挨拶

 すっかりご無沙汰いたしました。実は、4月1日に1年間暮らしたマサチュウセッツ州はベルモントの町を出発し、シカゴ郊外の娘の家に立ち寄った後、4月8日に帰国いたしました。すぐご挨拶をと思いつつ、さまざまな手続きや、留守宅の片づけなど、日本での生活に再適応するのに予想外に時間をとられ、無為に過ごしてしまいました。明日はもう5月なので、せめて月内に帰国のご挨拶だけは申し述べておかなければと、これを書き始めたところです。

 この1年間、9月11日の事件をアメリカ国内で直接見聞したのをはじめ、豊かな自然に囲まれたライシャワーハウスで生活する機会を与えられるなど、いろいろ得難い体験をいたしました。研究面でも充実した時間を過ごすことができたと感じております。また、MITの女性差別是正宣言やプリンストン大学を率いているのが女性コンビ〔総長(President)のシャーリー・ティルマン(Shirley Tilghman)と学長(Provost)のエイミー・ガットマン(Amy Gutmann)〕であることなど、アメリカのトップレベルの大学におけるジェンダー問題をめぐる最近の動向についても、いささか知るところがありました。また、こうした問題を詳しく調べる際に、インターネットが予想以上に力を発揮することも実感しました。いずれなんらかの形で、これらの知見をお知らせしたいと考えております。

 なお、私がアメリカを離れて間もない4月12日、この《編集雑記》で何回かとりあげたコーネル・ウエストが、ハーヴァード大学を去りプリンストンに移ることを決めたというニュースが報じられました。その直前にも、彼は、イスラエルのパレスチナ政策に反対するワシントンDCにおけるデモで、警官の命令に従わなかったとして逮捕され、罰金100ドルを払って釈放されたとのことです。前立腺ガンの手術を受けたばかりなのに、こうした行動をとるあたり、通常の学者の枠には嵌りきらないウエストの人物を伝えるエピソードではあります。

 今後注目されるのは、ハーバード大学アフロ・アメリカン研究学科の責任者で、1990年代に同学科をハーバードの看板学科に育て上げたヘンリー・ゲイツ教授の動向です。ゲイツは新聞記者の質問に答えて「アピアに続きウエストが辞職したことは、ハーバード大学アフロ・アメリカン学科にとって壊滅的な打撃だ。一時代は終わった。私もプリンストンに移るかどうか、夏までに決める、どうするかは今のところ五分五分だ」と答えています。しかし、4月15日に放送されたNPR(National Public Radio)のタビ・スマイリー・ショウでのウエストの談話によれば、ゲイツもプリンストンに移る気持ちでいることはほぼ確かなようです。
 1000人をこえる学生が、コーネル・ウエストのハーバード残留を求める署名運動をしたことも伝えられましたが、不成功に終わりました。どうやら、昨秋のサマーズ学長の一言は、ハーバードの看板学科のひとつを解体させる結果となったようです。さらに法学部の黒人教授もハーバード大学を去ることを考慮中と伝えられており、問題はまだまだ尾をひきそうです。そのサマーズは、4月12日に学長としての公式声明を発表し、「コーネル・ウエストのハーバード大学における功績を讃え、プリンストンにおける成功を願う」と述べています。こちらも、なかなかの政治家ではあるな、という印象です。

 この1ヵ月あまり本著作集の更新は怠っていましたが、社会政策学会のサイトの「内外大会・研究会情報」やリンク集は比較的まめにチェックして更新していますし、《談話室》の設置など新たなこころみを行っておりますので、お訪ねいただければ幸いです。また、1997年に労働組合期成会創立100周年を記念して、法政大学大原社会問題研究所のサイトに掲載した「高野房太郎と労働組合の誕生」も、野村一夫さんとリブロの定森孝子さんがリメークしてくださり、面目を一新しました。私が書いた元原稿の出来があまり良くないので、ぼちぼち手直しするつもりです。
 本著作集の方も、間もなく、1年間中断した『高野房太郎とその時代』の連載を再開したいと思っています。今しばらくご猶予ください。
〔2002.4.30記〕




英文小著のサンプル・ページ

 すっかりご無沙汰いたしました。前回につづいて、まったく同じ「ごあいさつ」から始めなければならないとは、まことに申し訳のない次第です。前回はそれでも1ヵ月間のご無沙汰でしたが、今回はなんと3ヵ月も間をあけてしまいました。この間、『高野房太郎とその時代』の執筆を再開し、こちらはなんとか月2回掲載のペースを守っています。連載も30回を超え、どうやら予定の半ばには達したようです。

 さて、今回ご紹介するのは、私の英文の小著 The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan(Duke University Press, 1997)のごく一部分がオンラインで読めるようになったことです。「読める」というのはやや不正確で、「眺める」ことが出来ると言う程度ですが。
 これは例のオンラインショップAmazon.comのサイトのサービスで、表紙、目次、本文のごく一部、索引のすべて、裏表紙など全部で20ページ分を見ることができます。URLはつぎのとおりです。http://www.amazon.com/exec/obidos/asin/0822320185/qid=1028250257/sr=1-1/ref=sr_1_1/104-2338712-6653563
 このファイルの一番下に「Look Inside This Book!」とあり、その下にある「See all pages.」をクリックすると20ページ分のサムネール画像が出てきます。このサムネールをクリックすれば、なんとか読めるだけの拡大画像になります。お試しください。
〔2002.8.2記〕



刊行開始5周年

 このたび『二村一夫著作集』は刊行開始5周年を迎えました。皆さまがたのご愛読に心からのお礼を申し上げます。この5年間で、予定していた既発表論文の掲載はほぼ終わりました。一部未掲載の論稿は、加筆修正の上で掲載しようと考えているものです。なお、市販中の著書、とくに品切れになっているものについては、出版社側の同意が得られ次第、本著作集に収録したいと考えています。
 また5周年を機に、外国語論文や編集著作なども加えることとし、全巻の構成を改めました。すなわち本巻を11巻から15巻に増加すると同時に、編集著作は別巻として、これも3巻から5巻に増やしました。さらに詳細目次は、これまで「既刊」と「刊行中」に2分割していましたが、分かりやすさを旨として、次のような分野別に再編成いたしました。1)比較労働史研究、2)鉱業労働史研究、3)高野房太郎研究、4)史料研究、5)大原研究所をめぐって、6)外国語論文、7)編集著作物および8)雑文集。外国語論文は、今後さらに日本語論文のなかから翻訳掲載を考えており、巻数はさらに多くなると思います。
 ほんとうはデザインも一新したかったのですが、今回は時間切れで、小幅な修正にとどめました。また初めての試みですが、本雑記にBGMを入れてみました。最初はトップページに入れようとしたのですが、BGMは人による好きずきがあり、その時の気分によってはうるさく感じることもありますので、まずはこの《編集雑記》から試みることにいたしました。無料の音楽素材を提供してくださったWindy氏にお礼を申し上げる次第です。
〔2002.9.25記〕




国会図書館の変貌

 ご承知の方も多いと思いますが、国立国会図書館のサイトが大きく変わりつつあります。ほんの数年前までは、これでも一国の中央図書館かとあきれるほど貧弱なものでした。トップページで画像を多用し、私が〈アダルトサイト〉型ナビゲーションと呼んでいる、必要な情報に辿り着くのに何回もマウスをクリックしなければならない、使い勝手のわるい代物でした。「内容がない、重たい、使いにくい」の3拍子揃ったサイトのひとつで、評論的コメントを付した《学術研究関係リンク集》では、「見かけより、国の中央館にふさわしい内容の充実に力を入れて欲しい」と要望していたものでした。
 それが2002年3月に和書200万件、洋書20万件の検索ができる《Web-OPAC》をはじめ、《貴重書画像データベース》などが加わり、さすがは国会図書館と思わせました。それが今回は10月に関西館が発足したのを機に、明治期の図書約3万冊をオンラインで読むことが出来る《近代デジタルライブラリー》や《国立国会図書館オンライン蔵書目録(NDL-OPAC)》などの事業がが始まったのです。
 《近代デジタルライブラリー》は、国会図書館が所蔵する明治期刊行図書のマイクロフィルム化が完了していたことが、大量の図書を一気にデジタルデータに変換することを可能にしたようです。今はまだ人文・社会科学分野だけですが、順次、他分野についても追加し、全16万冊をオンラインで読めるようにする計画だとのことです。この《近代デジタルライブラリー》についてのとりあえずの感想は、Academic Resource Guide の No.145(2002年11月5日発行)に「電子図書館時代の幕開け」と題する小文を寄稿しましたのでご参照いただければ幸いです。

 新しいオンライン蔵書目録のNDL-OPACは、Web-OPACが図書だけの検索だったのに対し、新聞雑誌や雑誌記事索引など各種の目録、索引などを同時に検索できること、さらには資料の配置場所や利用の可否を確認することができるとのことです。また、この検索機能と同時に、あらかじめ利用者登録をしておくと、OPACから直接コピーを依頼し、郵送して貰うことも出来るようになるとのことです。これまで国会図書館でコピーをとろうとすると、実際に本を借り出すのに待たされ、さらにコピーの依頼書に細かく記入し、行列をつくって待たなければならなかったことを考えると、こうしたシステムは夢のようです。大学の紀要など一般の図書館にはあまり所蔵されていない雑誌に発表された論文でも、このサービスを利用すれば、簡単に手に入るようになるわけです。このOPACからの郵送によるコピー制度が実際に動き出すのは来年の1月7日だそうですが、一般利用者に対するサービスという点では、明治期刊行図書に限定された《近代デジタルライブラリー》より、大きな意味をもつと思われます。

 このほか国会図書館のサイトでは、《インターネット資源選択的蓄積実験事業(WARP=ウエッブ・アーカイビング・プロジェクト)》、《 データベース・ナビゲーション・サービス(Dnavi)》も始まりました。カタカナ漢字ローマ字の羅列で、もうすこし誰にでも分かるネーミングを考えてはどうかと思うのですが、いかがなものでしょうか。どちらもまだ実験段階で、社会政策学会のNewsletterが、「社会科学」ではなく「社会」に分類されているなど、形式的にも疑問点は少なくありませんし、採録対象もわずかで、実用にはほど遠い印象です。しかし、これまで活字メディアに集中していた日本の中央図書館が、ようやくインターネットにも目を向けるようになったことを象徴する出来事で、今回の国立国会図書館の改革は、日本の図書館史に残る重要な〈事件〉といえるでしょう。
〔2002.11.20記〕




この一年──追悼一束

 今年も残すところ、あと僅かとなってしまいました。帰国してからまだ8ヵ月しか経っていないのに、異国での1年は、はるか遠い昔のことのようです。遊歩道を一周すると45分もかかる広い自然保護林の縁に位置し、緑の大樹に囲まれた住まいでの暮らしと、今の、マンションという名のコンクリートの巨木の林のなかでの暮らしとの、その落差の大きさによるものかもしれません。9.11以降、異常な出来事がつぎつぎと起きたことも、経過した時間を長く感じさせているのでしょう。

 この歳になればいたし方ないことですが、この1年というより半年たらずの間に、先輩、友人、知己の逝去の知らせが相つぎました。お通夜や告別式に参列する機会だけでも4、5回ほどになります。今朝の新聞も松島栄一さんの訃を報じ、数日前の新聞は旧知の内山尚三さん、佐藤秀夫さんの逝去を伝えていました。

 松島さんとは一二度お会いしただけですが、内山さんとは法政大学法学部でごいっしょした時期がありました。もっともこちらは助手で内山さんは教授でしたが。学者としてだけでなく、「世界平和アピール七人委員会」事務局長や札幌大学学長としても活躍された方です。法社会学の立場から建設業の労働関係について研究され、『法学志林』に「家父長制労働関係の法社会学的考察」といった論文を発表されていました。私の処女作「足尾暴動の基礎過程」も同誌に載ったのですが、これをいちはやく読んで評価してくださったことは忘れられません。個人的に親しいという訳でもない私に、四十数年間、毎年欠かすことなく年賀状を送ってくださった律義な大先輩でした。
 日本教育史の佐藤秀夫さんは、大学の一年後輩で、兄の佐藤誠三郎氏を介して互いに顔見知りだったという程度の知り合いです。肝臓癌だったとのこと。同世代の人の死は、さまざまな感懐を呼び起こします。
  親しくおつきあいいただいた方の訃報も続きました。6月には鈴木徹三さん(79歳)と藤本武さん(90歳)、7月にロイドン・ハリソンさん(75歳)、8月には大羽奎介さん(67歳)が亡くなられたのです。

 鈴木徹三さんは法政大学経済学部の先生でしたから、早くからお顔は存じあげていたのですが、親しくしていただくようになったのは、1975年はじめのことでした。戦前、内務省と財界が共同でつくった財団法人協調会の資料を大原社研で購入したいと考え、当時大学の財務理事であった鈴木さんにお願いしたのがきっかけです。鈴木さんの専門は経済政策だったのですが、ご父君の鈴木茂三郎の伝記をまとめたいとのお気持ちが強く、それだけに「協調会資料」の意義をすぐ理解され、当時としてはかなり多額の予算支出を認めてくださったのでした。「協調会資料」は、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する多くの資料のなかでも、利用度がもっとも高いもののひとつですが、それを入手できたのは鈴木財務理事のおかげでした。
 大学の理事をやめられた後、本腰をいれて茂三郎伝執筆の準備を始められました。目指されたのは息子の立場で父を描く回想記ではなく、社会主義運動の歴史のなかに鈴木茂三郎を位置づける、本格的な社会運動史研究でした。そのため、広く関連史料や研究書を集め、多くの関係者に会い、あるいは電話でインタビューして問題点をただす努力を重ねられ、1982年に『鈴木茂三郎(戦前編)──社会主義運動史の一断面』を刊行されました。そのもとになったのは、1977年10月から30回にわたって『月刊社会党』に連載された同名の論稿でしたが、その執筆期間中、月に1、2回は電話がかかってきました。内容はいずれも研究の現状や史料の所在についての質問でした。最初は初歩的な疑問もあったのですが、次第に即答できない難問がふえ、「調べてからご返事します」と答えることもしばしばでした。鈴木さんから電話がかかると、最低でも30分、平均1時間はかかりましたから、まず「ちょっとお待ちください」と断って、椅子を電話のそばにもって来て応答しました。今のように、子機をもちあるいて家のどこからでもかけられる時代ではなかったからです。おそるべき〈電話魔〉でした。〈魔〉といえば、私に「学界きっての〈資料魔〉」という栄誉あるあだ名をつけてくださったのは鈴木さんですが、実際に〈資料魔〉だったのは彼の方で、つぎつぎと新しい資料を発掘し、これを「鈴木茂三郎文庫」として大原社研に寄贈されました。

 藤本武さんは労働科学研究所の社会科学部門を長年にわたって支えてこられた研究者でした。社会政策学会の大会の時にお目にかかる程度のおつきあいでしたが、「足尾暴動の基礎過程」で飯場制度の分析をした際には、藤本さんの「組頭制度の研究」に多くを学びました。
 驚異的な筆力の持ち主で、還暦までに執筆した著書や論文、調査報告書は378点、総計1万3000ページにおよんだと記録されています。さらにその後30年間、旺盛な執筆活動をつづけられ、80歳台になっても毎年のように単行書を出されましたから、最終的にはその2倍にはなるだろうとのことです。労研で藤本さんと机を並べた研究者は皆、たえず隣席から聞こえる「カリカリ」というGペンを走らせる音にせき立てられたといいます。疲れた夜は執筆する気にならないので、横になってフランス語の雑誌を読んだといったエピソードとともに、藤本さんのおそるべき気力、勤勉さをつたえる逸話として、仲間内ではよく知られた話です。大学紛争の影響もあって、社会政策学会の本部校を引き受けるところがなく、機関誌の刊行も滞りがちだった時に、藤本さんが代表幹事に就任され、労研が本部となって、学会の建て直しに貢献されたことも忘れてはならない事実です。

 ロイドン・ハリソン(Royden Harrison)は、かのE.P.トムソンが設立したイギリスはウォーリック大学の社会史研究センター(The Center for the Study of Social History, Warwick University)の2代目所長です。研究所といっても大学院的性格が強く、そこで数多くの研究者を育てた教育者でもあります。その愛弟子のひとり、〈秘蔵っ子〉が慶応義塾大学の松村高夫さんです。
 知日派、親日家として知られ、ハリソン一家の世話になった日本人研究者は相当な数にのぼります。シェフィールド大学の社会人講座で労働者教育を担当されたあと、ウォーリックに移られました。夫人のポーリン(Pauline)もシェフィールド大学の分子生物学の教授として教えておられました。私が1976年から77年にかけて留学した際には、社会史研究所の訪問研究員として受け入れていただきました。私だけでなく、一家4人がシェフィールドのハリソン家に何回か泊まりがけで招かれ、ご夫妻だけでなく、2人のお嬢さん、フィオーナとシーラを含めた家族全員の暖かいもてなしを受けました。イギリスの料理はまずいという定評がありますが、その例外があることをポーリーン夫人の手料理で知りました。郊外のムーアへの散歩やシェフィールド・ウェンズデーのサッカーの試合で大声で声援した時のことなど、忘れがたい思い出です。

 大羽奎介とは大学院や労働運動史研究会でいっしょでした。日本の労働運動史研究には方法がないと気炎をあげ、研究会のなかに小委員会的な集まりをつくった時の相棒でもありました。私がなんの気なしに吹いていた口笛を、「フランクのバイオリンソナタでしょう」と聞きとがめたことから、我が家に連れて来て、ジャック・ティボーとアルフレッド・コルトーの名演を聴かせ、それを機に急速に親しくなりました。彼がユーゴに留学した時には、横浜まで彼のお母さんも乗せて私が車で送りました。小柄なお母さんが「これの父も風来坊でしたから」と、もう二度とあえないことを予感したような口調で話されたことを印象深く覚えています。1974年、39歳のとき現地で外務省に採用され、セルボ・クロアチア語を駆使するバルカン半島スペシャリストとして活躍しました。ユーゴ崩壊後、初代のクロアチア大使に就任しましたが、現地採用者で大使となったのは彼が最初だったそうです。
 大使退任後のことは知らずにいたのですが、新聞の訃報にれば脳腫瘍のためフィリピンのセブ市の自宅で亡くなったとのこと。「葬儀・告別式は遺言により行わない」と報じられていたのもいかにも大羽らしいと思ったことでした。また、ごく最近知ったところでは、「死後は愛着あるユーゴスラビアの地で眠りたい」との遺志によって、9月27日、その遺骨がベオグラードの中央墓地に、家族や友人たちによって葬られたといいます。大使として赴任中に、クロアチアに来るよう招かれたのですが、大使館を訪ねるのはなんとなく気が重く果たせなかったので、せめてお墓参りくらいはしなければと思っています。
 みなさまのご冥福を祈って、合掌。
〔2002.12.19記、12.22〜12.24追補〕



『社会政策学会年報』総目次のこと

 風邪をひいてしまいました。あまり熱は出なかったのですが、身体がだるく、節々も痛みましたからインフルエンザだったのでしょう。今月はじめから2週間近くぶらぶらしてしまいました。おかげで『高野房太郎とその時代』の執筆は進まず、「労働者の声の筆者は誰か?」を書いてから1ヵ月半近く経ってしまいました。もっとも間で第22回「アメリカへ」を「伯父弥三郎の死」と改題し内容も一部訂正し、第23回の「三等船室の旅」は「ニューヨーク号の船旅」と改題して、全面的に改稿しましたから、まったく進行しなかったわけではありませんが。

 その代わりというわけでもありませんが、私がボランティアで担当している社会政策学会のサイトの方で、懸案だった『社会政策学会年報』全42号の総目次を掲載しました。これは、インターネット上でよく見かける他の総目次のように、単に筆者名とタイトルだけを記したものではなく、論文の細目、つまり節の標題まで明記した詳細目次です。細目まで入れると論文のおよその内容が分かりますし、全文検索をデータベース的に使って論文を探す際に、件名的な役割も果たすでしょう。とりあえずは一覧性を重視して、10年分を1ファイルにまとめましたが、折を見て1号1ファイルに分割したものも作り、全文検索で探しやすくしようと考えています。
 データそのものの入力はリブロ電子工房にお願いしましたが、論文と細目の関係を一目見ただけで分かるようにするのにひと苦労しました。モニターの解像度が異なりブラウザーの違い、そのバージョンの違いによっても、タグの解釈が異なるので、こちらが考えているようには行きませんが、IEやネットスケープの新しいバージョンなら、かなり見やすいものが出来たと思っていますが、いかがでしょうか? 
 社会政策学会の機関誌としてはこの他にも、秋の研究大会のテーマを中心に編集した『社会政策叢書』があり、さらに1999年からは年報と叢書を統合した『社会政策学会誌』が出ていますが、この2誌の総目次も近いうちに掲載の予定です。
〔2002.12.27記〕

【追記】
 その後、2003年1月に入ってから、『社会政策叢書』総目次『社会政策学会誌』詳細目次とも掲載を終えました。また社会政策学会機関誌一覧の各集、各号からも詳細目次に入れるようにしてあります。ご一覧いただければ幸いです。〔2003.1.23記〕



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法政大学大原社研                  社会政策学会



 高野房太郎研究            比較労働史研究            鉱業労働史研究


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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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