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《編集雑記》6 (2002年2月〜3月)

社会政策学会サイト開設5周年

 私が担当している社会政策学会のサイトが、この2月で開設5周年を迎えました。ということは、私がhtml文書を書くようになって、満5年が経過したことになります。主要ファイルのヘッダ部分に記録してある作成開始年月日を見ると、1997年2月2日となっています。この日にhtml文書の作成を開始したのです。ただし、実際に公開したのはそれからさらに3週間後の2月23日だったと記憶しています。
 あとで野村一夫さんに笑われましたが、愛用のワープロソフトの〈一太郎〉に主要なタグを覚えさせ、2年ほどはこれでタグづけしていました。多くの方はテキストエディターを使われていましたが、私は8インチのフロッピー時代から10年以上なじんだ一太郎が、いちばん使いやすかったのです。まだWindows3.1の頃でしたから、ファイル名は8文字以内、拡張子もhtmの3文字に限定されていました。それでも、社会政策学会のホームページを担当したおかげでhtml文書の作成方法を身につけることが出来ました。これがなければ、おそらく『二村一夫著作集』の刊行開始はもっと遅れていたでしょう。
 学会サイト開設の直接のきっかけは、1997年1月に開かれた幹事会でこの問題がとりあげられたからでした。「まず情報化委員会をつくろう」という意見もあったのですが、私は「ホームページは大勢で議論してつくれば良いものが出来るわけではない。頻繁に更新し、情報の新鮮さを保つのが重要なのだから、実務的にやりやすい態勢でなければだめだ。私に一任してくれるなら担当してもいい」と自ら買ってでたのでした。

 ホームページ作成を委員会システムですすめるのはダメだと主張したのには理由があります。実は、それより2ヵ月ほど前、法政大学大原社会問題研究所も新たにホームページを開設しました。こちらは、研究所がかねてから作業をすすめ、所内では実用段階に入っていた《社会・労働関係文献データベース》を広く一般に公開したいと考えて始めたことでした。せっかく作ったのだからと、大学のホームページにリンクしてくれるよう依頼したのですが、何とその返事が「3ヵ月後に開かれる委員会で検討した上で」というものでした。「リンク先をどこにするかといったことまで委員会で審議するのか」と呆れましたが、まだ多くの人がインターネットを使いこなしておらず、ホームページの役割についてもあまり理解していなかった時期だったからでしょう。なにしろこの大学は、サイト制作を委託する際に「1年間は変えずに済むようなものをつくって欲しい」と注文を出したということです。聞いた話ですから真偽のほどは定かではありませんが、事実に違いないと思います。おそらく、大学案内パンフレットの電子版くらいの理解で、予算額は決まっているのだから、頻繁に更新されその都度金をとられては困る、ということだったのでしょう。

 大原社研のhtml文書を書いていたのは奈良明弘氏でしたが、間もなく私が提案して《社会・労働関係リンク集》の作成を始め、その材料集めとコメントの執筆を私がやることになりました。初めのうちは、労働組合サイトを探し出し、そのURLを奈良氏に伝え、彼がリンク集への掲載許可を求めるメールを送り、OKがでたら追加するというやり方ですすめていました。しかし、これでは奈良氏とのやりとりに手間がかかる上に、彼はほかの仕事もかかえていましたから、私が組合サイトを発見してからリンク集に反映するまでに数週間もかかっていました。これなら自分でタグ付けした方がはるかに簡単で早く片づくと考え、ホームページの作り方といった本を何冊か買いこんで、勉強しはじめていたところだったのです。
 会則をはじめ最低限必要な情報のテキストは、前期まで私どもが本部を担当し、会則改正問題などにもとりくんでいたので、その時つくっていたデータを流用することで、あまり苦労せずにすみました。ただ、入会申込書の表組みは難航しました。表のタグについて十分な知識がなかった上に、各閲覧者のブラウザーのフォントサイズなどの設定によって印刷結果に大きな違いがでることさえ、まだ知りませんでしたから。これは現在ではPDFファイルを使うことで容易になりましたが。

 学会サイトの制作維持を誰か一人が請け負う方式にもさまざまな問題があります。しかし最終的にタグをうちhtml化の作業をするのは一人ですし、いろいろ思いついたことをすぐ具体化できるのは、請け負い方式の良いところです。もしなにか問題があるなら、幹事会なり小委員会で検討し、担当者に訂正を求めればすむのではないでしょうか。インターネットの利点のひとつは、簡単に訂正できる点にあるのですから。それより、ホームページに掲載すべき情報が、どれだけ素早く担当者に伝えられるかどうかが大きな問題です。さいわいインターネットの利用者がふえ、メールが普及してきましたので、当初よりはずいぶん楽になりました。現に私はいまアメリカにいるのですが、ホームページの維持管理は日本にいる時とまったく変わらずにすすめています。メールが使えなければ、とてもこうは行きません。初めの頃は、データがフロッピー・ディスクで郵送されてくることもしばしばでしたから。
 社会政策学会のサイトでは「内外関連学会大会・研究会情報」を掲載しているので、ときどき他の学会のホームページを見るのですが、2年以上更新されていなかったり、半年も1年も前の会合が予告としてずっと掲載されているところがけっして少なくありません。こうしたサイトを見ると、おそらく実務者不在の委員会方式でやっているに相違ない、などと勘ぐってしまいます。
 しかし、満5年ともなるとマンネリ化してきますし、そろそろ交代の時期が近づいていることも確かです。さいわい社会政策学会には会員自身でホームページを制作されている方が48人〔さらに1サイト発見しましたから49サイトです、2002.2.7。本日さらに1サイト発見、ついに50人になりました。2002.3.1〕、ゼミのサイトをもっておられる方が20人もいらっしゃり、e-mailも会員の半数近い440人の方が使われるようになっているので、私がやると名乗り出てくださる方がすぐにも現われるに違いないと思っています。〔2002.2.6〕
〔e-mailアドレスも、新入会員を中心に、その後30近く追加しました。毎回数通はアドレス変更などで届かないのですが、それを差し引いても、現在私が把握しているe-mail 使用会員は460人をこえました。2002.2.24〕




発見! 英文版・末弘厳太郎『日本労働組合運動史』

 『嘘の効用』や『役人学三則』は今でも読まれていますから、末弘厳太郎の名を知る人は少なくないでしょう。ただ、名前は知っていても、その著書『日本労働組合運動史』を読んだことのある方となると、それほど多くはないと思います。この本が出版されたのは1950(昭和25)年と半世紀以上も昔のことで、今では手に入りにくい上に、内容文体ともやや古めかしく読みやすい本とは言えないので、いたし方のないところです。ただ、この本は、1951年の第5回毎日出版文化賞を受賞したことでもわかるように、当時は高い評価を得た本でした。また、日本の労働問題研究史の上では〈古典〉といってもよい労作です〔注1〕
 著者の末弘厳太郎すえひろいずたろう(1888-1951)は、東京大学法学部教授で、日本の労働法学の開拓者のひとりです。学者の多くがヨーロッパに留学した時代に、末弘はアメリカへ留学し、判例研究を日本に紹介したことでも知られています。また、早くから法社会学に関心をもつなど、問題関心の広いすぐれた研究者でした。戦後は労働組合法など労働立法の制定にかかわると同時に、中央労働委員会の初代会長として、2.1ストをはじめ戦後の主要な労働争議のほとんどに関与しています。この本には、そうしたすぐれた研究者であり、戦前戦後を通じて日本の労働行政、労働運動にさまざまなかたちで関わってきた人物による、鋭い観察がちりばめられています。それに、今となっては古めかしいと思われる内容も、日本の労働運動をもっとも良く知る立場にいた人物が、1950年という時点で、日本の労働組合運動の歴史と現状、それをとりまく政治・経済情勢をどのように理解していたのかを知る〈歴史的証言〉として読むと、それなりに興味深いものがあります。

 この本でもうひとつ注目される点はその執筆意図で、そもそもはアメリカ人読者を念頭において執筆されたものだったのです。著者は、「あとがき」の冒頭で次のように述べています。

「この本はもともと外国人、殊にアメリカ人に読んで貰うことを目的として書かれたものである。外国人のなかには、わが国戦後の労働組合運動の表面的な華々しさとその特異な様相に目を惹かれて、わが国のこの運動にも遠く戦前に苦難の長い歴史があったことを知らない人が多い。そのため彼らの多くが、運動の現状についても十分の理解をもち得ないように思われてならないのが、従来わたくしが彼らに接して得た偽らざる感想である。この本はそれらの人々に、わが国現在の労働組合運動を歴史とのつながりにおいて正しく理解して貰うことに多少とも役立つであろうことを期待して書かれたものである。そのため材料の取捨選択、叙述の繁簡、表現の方式等も専らその目的に副うよう考えられているから原文のままでは日本人の読み物としては不適当だと思われる節が少なくない。」

 「アメリカで英文版刊行」と記された、末弘厳太郎『日本労働組合運動史』宣伝パンフレット つまり本書の目的は、当時はまだ占領軍であり、支配者であったアメリカ人に向けて、日本の労働運動の歴史を教えようとしたものだったのです。日本語版刊行時の宣伝パンフレットには「アメリカで英文版刊行」と明記されていましたから、アメリカでも出版する計画があったものと思われます。しかし、英文版はけっきょく刊行されることなく終わりました。1954年、著者の死後に再版された日本語版の解説では、英語版の原稿は失われてしまった旨が記されていたと記憶しています〔燕京図書館には1950年の初版しかありませんので、この点は未確認です〕。いずれにせよ、われわれには、この本の元版ともいうべき英語版がどのような内容であったのか、分からずじまいでした。これは前から気になっていたのですが、ようやくハーバード大学のリッタウアー図書館(Littauer Library)〔注2〕で、その1冊を発見することができました。
英文版・末弘厳太郎『日本労働組合運動史』、本来の表紙英文版・末弘厳太郎『日本労働組合運動史』、Izutaro Suehiro Japanese Trade Unionism

 タイプ印字ですが、ページによって上下が不揃いですし、なかには斜めに印刷されているものがあり、かすれて読めない箇所があったりするので、タイプで原紙をつくり謄写版で印刷したものであることは、まず確実です。おそらく最低でも数十部はつくったものと推測されます。B5判のワラ半紙の片面だけに印字しているので、かなり大部な本に見えます。最終ページのノンブルは516と打たれていますが、よく見るときちんとした通しページではなく、目次などノンブルのない箇所もあり、序論は本文とは別建てのページだったり、ページがとんだり、後で追加した箇所があるなど、未整理の稿本といった印象です。数えてみると総ページで520ページほどになります。抜けているのは、マッカーサー書簡の全文を引用している部分で、日本語版の146〜153ページにあたります。現在は、きちんと製本されていますが、各ページの上部に綴じ穴が2つあいていますから、もともとは紐で綴じただけのものだったのだと思われます。左上に本来の表紙の写真を掲げましたが、文字などはっきり読めないので、次に記しておきます。IEでは寸づまりに、NNでは縦長になってしまいますが、これはブラウザーの問題ですので、上の写真と見比べてご覧ください。用紙の色は、写真では白っぽくなっています。色もブラウザーや機種によって違いますが、つぎの背景色は、なるべく本来の色に近くなるようにしたつもりです。半世紀前のものですから、ブラウザーで見るような鮮やかさがないことはもちろんですが。





J A P A N E S E T R A D E U N I O N I S M


--- past and present---




BY IZUTARO SUEHIRO, LL.D.


Chairaman : The National Labor Relations Board


+++++ 0 +++++


1950
Tokyo

All rights reserved by the author




 まだ全部について、きちんと日本語版と照合していないので断言はできませんが、ざっと目を通した限りでは、内容はごく一部を除き日本語版と同じです。日本語版があるのですから、末弘さんが英語で書いたものではなく、誰かが翻訳したものでしょう。しかし、こなれた英文で、ほとんど翻訳調を感じさせません。これは私個人の勝手な臆測にすぎませんが、訳者は末弘会長のもとで中央労働委員会事務局長をつとめたことのある鮎沢巌〔あゆさわ・フレデリック・いわお〕氏ではないでしょうか。氏は1911年からアメリカで約10年学び、コロンビア大学を卒業した後は、ジュネーブでILO関係の仕事を14年間されていた方で A history of labor in modern Japan.をはじめ数冊の英文の著書があります〔注3〕

 さて問題は、なぜリッタウアー図書館にこの本が保存されているのかということ、つまり入手経路です。最初は、この図書館にある労使関係のスリクター・コレクションの1冊だったのではないかと想像していたのですが、そうではありませんでした。この本のもともとの表紙の上部中央に押されている印は、つぎのように読めます。

May 29 1950
Littauer Center
Harvard University

 そしてこの印の上部には2行にわたって何か書かれていたようですが、そこは抹消されていて読めません。ただ印の下に鉛筆による手書きで「Gift of Author」と記されています。つまり、1950年の5月29日に著者から、リッタウアー・センターに寄贈されたというわけです。これもまだきちんと調査していませんから確実ではありませんが、このころ末弘氏はかつて留学したことのあるアメリカを再訪しており、この日にハーバード大学のリッタウアー・センターに誰かを訪ね、直接この本を寄贈したものと思われます。
 このように推測するのは、1950年5月5日の執筆日付のある同書日本語版の「あとがき」に、つぎのように記されていることがひとつの根拠です。

「殊に昨年七月に筆をとり初めてまもなく、近いうちに渡米の機会を与えられるという内報に接した関係上、同じく書くのならば出発までに仕上げて向うの人にも読んで貰いたいという野望を起して、毎日の忙しい中労委の仕事のあと先きに昼夜兼行で仕事を急いだ関係上、歴史とはいうものの資料の蒐集検討にも不満足な点が多く、専ら前々から折に触れてノートして置いた覚書をもととして事の荒筋を記したに過ぎない。

 もうひとつの根拠は、同年6月30日の日付のある、同書の宣伝パンフレットの「刊行の言葉」です。そこに「しかも人生六十年の坂を越え、いよいよ人間的な円熟味を加えられつヽある博士最近の進境は、特にアメリカから帰朝せられ、中労委の会長を辞任せられて以来、めざましいものがある」とあることから、この受贈日付はまさに末弘氏の渡米中であったと推測されるのです。
 内容的な検討や紹介は、今後のこととして、とりあえず〈幻の書〉英語版・末弘厳太郎『日本労働組合運動史』発見の第一報まで。
〔2002.3.13〕


注1〕 私は、「企業別組合の歴史的背景」という小論で、この本のことを、「ウエッブ夫妻の『労働組合運動の歴史』の日本版といっては少しほめすぎでしょうが、戦後の労働組合運動が始まって4、5年の時点で戦前期からの通史を独力で書き上げ、しかも内容的にもすぐれた観察をおこなった力量は見事というほかありません」と紹介しています。

注2〕 リッタウアー図書館は、ハーバード大学行政大学院(Graduate School of Public Administration)の図書館としてつくられたものです。大学院の方は、1976年に、ケネディ行政大学院(the John F. Kennedy School of Government)と改名して別の場所に移転しましたが、リッタウアー図書館は労使関係のスリクター・コレクションを吸収し、文理学部経済・行政学科の大学院プログラム用図書館(in support of the Graduate Studies programs in the Departments of Economics and Government)として現存しています。

注3〕 鮎沢巌(1894 - 1972)氏は、1911年にthe Friend Peace Scholarship(クエーカーの奨学金)を得てハワイに渡り、ついでハーヴァフォード大学(ペンシルバニア州)、コロンビア大学で学んだ。1920年にコロンビア大学を卒業した時の博士論文のテーマは国際労働法規であった。卒業後はスイスのジュネーブに行き、1934年までILO日本代表団やILO本部のために働いた。戦前最後のILO東京支局長、戦後最初の中央労働委員会事務局長を歴任したあと、1952年に国際基督教大学教授となった。氏がニューヨークで学生時代世話になったマーガレット・トマス夫人に宛てた手紙類が、現在、ハーヴァフォード大学に保管されている。詳しくは、Ayusawa, Iwao Frederick, (1894-1972) Papers, 1918-1964 参照。



小さな報告書の大きな波紋──MITの女性教授差別是正宣言

 「なんで、コーネル・ウエストのことなどに興味をもっているんだ?」と小さなパーティの席上で、高名な歴史家にたずねられました。どうやら同業者の間では、コーネル・ウエストの評判はあまり良いとは言えないようです。「労働争議研究の応用ですよ。つまり、何か紛争がおこると、いつもは水面下に隠れている矛盾や対立が表に出てくるでしょう。そうした問題の起き方や、その処理の仕方が日本とアメリカの大学ではいろいろ違うことなど、ふだんなら見過ごしてしまうような事実がよく分かると思うから。」
 「それならサマーズとウエストの喧嘩なんかより、もっとずっと大きなテーマがあるよ。数年前にMIT(マサチュウセッツ工科大学)で、すでにテニュアをとっている女性教授たちへの差別が問題になり、それに関する有名な報告書が出ている。同じ調べるならその方が意味があると思うけど」と言われてしまいました。ご本人はいまだに原稿を書くのにもパソコンを使わない方ですが、同席していたMITの、これも日本研究で著名な同僚教授が、翌日にはE-mailでその報告書のPDFファイルを送ってくれました。

 報告書は A Study on the Status of Women Faculty in Science at MIT と題するもので、すでに3年前の1999年3月に発表されていました。報告書の題名は「MIT理学部〔注〕における女性教員の地位に関する調査」とでも訳せばよいのでしょうか。全体で17ページですが、ほとんど同じ内容の表紙が2枚ついていたり、目次や2次にわたる委員会メンバーの一覧、それに添付資料、しかもそのうち1枚は「このページは意図的に空白にしてある」という中味がまったくないものまであるので、実質は10ページにも満たない短い報告書です。内容も、委員会の審議経過をたんたんと述べているという感じです。正直のところ、最初これを読んだ時には「これがなんでそんなに重要なのだ」と思ったほどでした。
 それに、こちらはサマーズとウエストの喧嘩とは違って「事件」ではありません。そもそも対立関係が明確ではないのです。ことの発端は、1994年に理学部の女性教授数人が、建前上はないはずの女性差別が、現実にはさまざまな形で存在していることを問題にし、学内の同僚の女性教授たちを対象にアンケート調査を実施したことでした。ところが、これを大学側が──というより理学部の学部長がと言った方が正確なようですが──前向きに受け止め、女性教授や各学科の責任者からなる小委員会を設け、5年近くもの歳月をかけて調査検討を重ねてきた結果をとりまとめたのが、この報告書だったのです。内容は、MIT理学部の女性教授と男性の同僚との間には、給与やオフィスのスペースの広狭、研究資金、各種の賞、責任ある地位につけることなど、さまざまな側面において、意図的ではないにせよ、差別が存在することを公式に認め、その是正策をとることを宣言したものです。

 ですから、この問題を手がかりに争議研究的な大学研究をすすめることは、ちょっと難しそうです。もちろん、一女性教授の問題提起からこの報告書の発表にいたるまでに、5年の歳月が経過していることから推測すると、実際にはさまざまな対立・葛藤があったに違いありません。しかしこの報告書からは、そうした対立関係の存在を読みとることはできません。個人的にインタビューするなどして調べれば、もう少し詳しいことが分かるでしょうけれど、まだ現在進行形の問題だけに、つっこんだ調査は容易ではないと思われます。ただ、この小さな報告書で目を惹いたのは、テニュアのある古参の女性教授たちが差別の存在を強く意識しているのに対し、若手の女性教員は、gender bias(性別による偏見)があるとは考えていない、むしろ育児など家族的な負担の問題が大きいと答えている事実でした。

 しかし、この報告書について、インターネットのサーチ機能を使ってちょっと調べたところ、実は、これがとてつもなく大きな広がりをもつ問題であることが、すぐ分かりました。Google のAdvance Searchを使って「MIT、women、faculty、status、 study」の5つのキィワードすべてを文中にふくむファイルを検索してみたところ、なんと14,100もの結果が出てきたのです。その検索結果をすべてを直接それぞれのファイルに遡ってチェックすることはほとんど不可能ですからあきらめましたが、上位にでた結果をざっと見ただけで、アメリカ中の大学、とりわけ有名大学でこの報告書が問題になっていることが分かります。MITにならって委員会をつくり、女性教員の地位について調査をおこなっている大学も少なくないようです。この問題は、とても《編集雑記》などで、ちょこちょことご紹介といってすますわけには行かないことがよく分かりました。これに首を突っ込んだら、今やりかけている仕事などはほっぽり出さなければなりません。
 ちなみに検索結果の冒頭は、1999年3月発行のMIT faculty newsletter 特別号のオンライン版です。そこには問題の報告書 A Study on the Status of Women Faculty in Science at MITの全文がhtml版で収録されています。また、PDF版も、ここでダウンロード出来るようになっています。
 この報告書の影響をきちんと調べることは、どなたかにお願いしたい気分ですが、ただ確かなことは、MITが女性教員の差別是正に、その後も本気で取り組んでいることです。2001年の1月には、ハーバード、スタンフォード、プリンストン、カリフォルニア大学バークレー校など全米トップレベルの9つの大学の学長や25人の女性教授らをMITに集め、この問題をめぐる会議を主催し、一致してこの問題について取り組むことで合意しています。さらにまた、つい数日前のことですが、今度は理学部だけでなくMIT全体として、この問題について取り組むことを宣言した The Status of Women Faculty at MIT を公表しました。その内容については同報告書の概要をご覧ください。その全文も、この概要のファイルからダウンロードできるようになっています。
 いま私に予想出来るのは、今後10年もたたないうちに、世界中のトップレベルの女性研究者がMITに集まるに違いない、ということです。おそらくMITも、そうした長期戦略をもってこの問題に取り組んでいるのではないでしょうか。ほかの国々の大学も、いまのうちに手をうたないと、女性の頭脳流出が大きな社会問題になるおそれがあります。
 また、日本の若い女性のなかで世界のトップレベルの研究者をめざす方がいらっしゃったら、同じ勉強するなら日本はやめて、アメリカ、なかでもMITに来ることを、本気で検討されるようお勧めします。現在の勉学の環境も違いますが、なにより将来の研究者としての展望が、はるかに大きく開けているのですから。もちろん、世界中の女性がここをめざして来るでしょうから、競争も激しくなるに違いありません。とうぜん、それなりの才能と意欲、それに持続力がなければ無理ですが。
〔2002.3.24記〕

【注】

 ★ MITの School of Scienceは、日本の理学部にあたるといってよいでしょう。物理、数学、化学、生物学、地球・大気・天体科学、脳および認知科学、土木・環境工学および生物学の7学科から成っている学部です。





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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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