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J A P A N E S E T R A D E U N I O N I S M --- past and present--- BY IZUTARO SUEHIRO, LL.D. Chairaman : The National Labor Relations Board +++++ 0 +++++ 1950 Tokyo All rights reserved by the author |
まだ全部について、きちんと日本語版と照合していないので断言はできませんが、ざっと目を通した限りでは、内容はごく一部を除き日本語版と同じです。日本語版があるのですから、末弘さんが英語で書いたものではなく、誰かが翻訳したものでしょう。しかし、こなれた英文で、ほとんど翻訳調を感じさせません。これは私個人の勝手な臆測にすぎませんが、訳者は末弘会長のもとで中央労働委員会事務局長をつとめたことのある鮎沢巌〔あゆさわ・フレデリック・いわお〕氏ではないでしょうか。氏は1911年からアメリカで約10年学び、コロンビア大学を卒業した後は、ジュネーブでILO関係の仕事を14年間されていた方で A history of labor in modern Japan.をはじめ数冊の英文の著書があります〔注3〕。
さて問題は、なぜリッタウアー図書館にこの本が保存されているのかということ、つまり入手経路です。最初は、この図書館にある労使関係のスリクター・コレクションの1冊だったのではないかと想像していたのですが、そうではありませんでした。この本のもともとの表紙の上部中央に押されている印は、つぎのように読めます。
May 29 1950 Littauer Center Harvard University |
そしてこの印の上部には2行にわたって何か書かれていたようですが、そこは抹消されていて読めません。ただ印の下に鉛筆による手書きで「Gift of Author」と記されています。つまり、1950年の5月29日に著者から、リッタウアー・センターに寄贈されたというわけです。これもまだきちんと調査していませんから確実ではありませんが、このころ末弘氏はかつて留学したことのあるアメリカを再訪しており、この日にハーバード大学のリッタウアー・センターに誰かを訪ね、直接この本を寄贈したものと思われます。
このように推測するのは、1950年5月5日の執筆日付のある同書日本語版の「あとがき」に、つぎのように記されていることがひとつの根拠です。
「殊に昨年七月に筆をとり初めてまもなく、近いうちに渡米の機会を与えられるという内報に接した関係上、同じく書くのならば出発までに仕上げて向うの人にも読んで貰いたいという野望を起して、毎日の忙しい中労委の仕事のあと先きに昼夜兼行で仕事を急いだ関係上、歴史とはいうものの資料の蒐集検討にも不満足な点が多く、専ら前々から折に触れてノートして置いた覚書をもととして事の荒筋を記したに過ぎない。
もうひとつの根拠は、同年6月30日の日付のある、同書の宣伝パンフレットの「刊行の言葉」です。そこに「しかも人生六十年の坂を越え、いよいよ人間的な円熟味を加えられつヽある博士最近の進境は、特にアメリカから帰朝せられ、中労委の会長を辞任せられて以来、めざましいものがある」とあることから、この受贈日付はまさに末弘氏の渡米中であったと推測されるのです。
内容的な検討や紹介は、今後のこととして、とりあえず〈幻の書〉英語版・末弘厳太郎『日本労働組合運動史』発見の第一報まで。
〔2002.3.13〕
〔注1〕 私は、「企業別組合の歴史的背景」という小論で、この本のことを、「ウエッブ夫妻の『労働組合運動の歴史』の日本版といっては少しほめすぎでしょうが、戦後の労働組合運動が始まって4、5年の時点で戦前期からの通史を独力で書き上げ、しかも内容的にもすぐれた観察をおこなった力量は見事というほかありません」と紹介しています。
〔注2〕 リッタウアー図書館は、ハーバード大学行政大学院(Graduate School of Public Administration)の図書館としてつくられたものです。大学院の方は、1976年に、ケネディ行政大学院(the John F. Kennedy School of Government)と改名して別の場所に移転しましたが、リッタウアー図書館は労使関係のスリクター・コレクションを吸収し、文理学部経済・行政学科の大学院プログラム用図書館(in support of the Graduate Studies programs in the Departments of Economics and Government)として現存しています。
〔注3〕 鮎沢巌(1894 - 1972)氏は、1911年にthe Friend Peace Scholarship(クエーカーの奨学金)を得てハワイに渡り、ついでハーヴァフォード大学(ペンシルバニア州)、コロンビア大学で学んだ。1920年にコロンビア大学を卒業した時の博士論文のテーマは国際労働法規であった。卒業後はスイスのジュネーブに行き、1934年までILO日本代表団やILO本部のために働いた。戦前最後のILO東京支局長、戦後最初の中央労働委員会事務局長を歴任したあと、1952年に国際基督教大学教授となった。氏がニューヨークで学生時代世話になったマーガレット・トマス夫人に宛てた手紙類が、現在、ハーヴァフォード大学に保管されている。詳しくは、Ayusawa, Iwao Frederick, (1894-1972) Papers, 1918-1964 参照。
「なんで、コーネル・ウエストのことなどに興味をもっているんだ?」と小さなパーティの席上で、高名な歴史家にたずねられました。どうやら同業者の間では、コーネル・ウエストの評判はあまり良いとは言えないようです。「労働争議研究の応用ですよ。つまり、何か紛争がおこると、いつもは水面下に隠れている矛盾や対立が表に出てくるでしょう。そうした問題の起き方や、その処理の仕方が日本とアメリカの大学ではいろいろ違うことなど、ふだんなら見過ごしてしまうような事実がよく分かると思うから。」
「それならサマーズとウエストの喧嘩なんかより、もっとずっと大きなテーマがあるよ。数年前にMIT(マサチュウセッツ工科大学)で、すでにテニュアをとっている女性教授たちへの差別が問題になり、それに関する有名な報告書が出ている。同じ調べるならその方が意味があると思うけど」と言われてしまいました。ご本人はいまだに原稿を書くのにもパソコンを使わない方ですが、同席していたMITの、これも日本研究で著名な同僚教授が、翌日にはE-mailでその報告書のPDFファイルを送ってくれました。
報告書は A Study on the Status of Women Faculty in Science at MIT と題するもので、すでに3年前の1999年3月に発表されていました。報告書の題名は「MIT理学部〔注〕における女性教員の地位に関する調査」とでも訳せばよいのでしょうか。全体で17ページですが、ほとんど同じ内容の表紙が2枚ついていたり、目次や2次にわたる委員会メンバーの一覧、それに添付資料、しかもそのうち1枚は「このページは意図的に空白にしてある」という中味がまったくないものまであるので、実質は10ページにも満たない短い報告書です。内容も、委員会の審議経過をたんたんと述べているという感じです。正直のところ、最初これを読んだ時には「これがなんでそんなに重要なのだ」と思ったほどでした。
それに、こちらはサマーズとウエストの喧嘩とは違って「事件」ではありません。そもそも対立関係が明確ではないのです。ことの発端は、1994年に理学部の女性教授数人が、建前上はないはずの女性差別が、現実にはさまざまな形で存在していることを問題にし、学内の同僚の女性教授たちを対象にアンケート調査を実施したことでした。ところが、これを大学側が──というより理学部の学部長がと言った方が正確なようですが──前向きに受け止め、女性教授や各学科の責任者からなる小委員会を設け、5年近くもの歳月をかけて調査検討を重ねてきた結果をとりまとめたのが、この報告書だったのです。内容は、MIT理学部の女性教授と男性の同僚との間には、給与やオフィスのスペースの広狭、研究資金、各種の賞、責任ある地位につけることなど、さまざまな側面において、意図的ではないにせよ、差別が存在することを公式に認め、その是正策をとることを宣言したものです。
ですから、この問題を手がかりに争議研究的な大学研究をすすめることは、ちょっと難しそうです。もちろん、一女性教授の問題提起からこの報告書の発表にいたるまでに、5年の歳月が経過していることから推測すると、実際にはさまざまな対立・葛藤があったに違いありません。しかしこの報告書からは、そうした対立関係の存在を読みとることはできません。個人的にインタビューするなどして調べれば、もう少し詳しいことが分かるでしょうけれど、まだ現在進行形の問題だけに、つっこんだ調査は容易ではないと思われます。ただ、この小さな報告書で目を惹いたのは、テニュアのある古参の女性教授たちが差別の存在を強く意識しているのに対し、若手の女性教員は、gender bias(性別による偏見)があるとは考えていない、むしろ育児など家族的な負担の問題が大きいと答えている事実でした。
しかし、この報告書について、インターネットのサーチ機能を使ってちょっと調べたところ、実は、これがとてつもなく大きな広がりをもつ問題であることが、すぐ分かりました。Google のAdvance Searchを使って「MIT、women、faculty、status、 study」の5つのキィワードすべてを文中にふくむファイルを検索してみたところ、なんと14,100もの結果が出てきたのです。その検索結果をすべてを直接それぞれのファイルに遡ってチェックすることはほとんど不可能ですからあきらめましたが、上位にでた結果をざっと見ただけで、アメリカ中の大学、とりわけ有名大学でこの報告書が問題になっていることが分かります。MITにならって委員会をつくり、女性教員の地位について調査をおこなっている大学も少なくないようです。この問題は、とても《編集雑記》などで、ちょこちょことご紹介といってすますわけには行かないことがよく分かりました。これに首を突っ込んだら、今やりかけている仕事などはほっぽり出さなければなりません。
ちなみに検索結果の冒頭は、1999年3月発行のMIT faculty newsletter 特別号のオンライン版です。そこには問題の報告書 A Study on the Status of Women Faculty in Science at MITの全文がhtml版で収録されています。また、PDF版も、ここでダウンロード出来るようになっています。
この報告書の影響をきちんと調べることは、どなたかにお願いしたい気分ですが、ただ確かなことは、MITが女性教員の差別是正に、その後も本気で取り組んでいることです。2001年の1月には、ハーバード、スタンフォード、プリンストン、カリフォルニア大学バークレー校など全米トップレベルの9つの大学の学長や25人の女性教授らをMITに集め、この問題をめぐる会議を主催し、一致してこの問題について取り組むことで合意しています。さらにまた、つい数日前のことですが、今度は理学部だけでなくMIT全体として、この問題について取り組むことを宣言した The Status of Women Faculty at MIT を公表しました。その内容については同報告書の概要をご覧ください。その全文も、この概要のファイルからダウンロードできるようになっています。
いま私に予想出来るのは、今後10年もたたないうちに、世界中のトップレベルの女性研究者がMITに集まるに違いない、ということです。おそらくMITも、そうした長期戦略をもってこの問題に取り組んでいるのではないでしょうか。ほかの国々の大学も、いまのうちに手をうたないと、女性の頭脳流出が大きな社会問題になるおそれがあります。
また、日本の若い女性のなかで世界のトップレベルの研究者をめざす方がいらっしゃったら、同じ勉強するなら日本はやめて、アメリカ、なかでもMITに来ることを、本気で検討されるようお勧めします。現在の勉学の環境も違いますが、なにより将来の研究者としての展望が、はるかに大きく開けているのですから。もちろん、世界中の女性がここをめざして来るでしょうから、競争も激しくなるに違いありません。とうぜん、それなりの才能と意欲、それに持続力がなければ無理ですが。
〔2002.3.24記〕
★ MITの School of Scienceは、日本の理学部にあたるといってよいでしょう。物理、数学、化学、生物学、地球・大気・天体科学、脳および認知科学、土木・環境工学および生物学の7学科から成っている学部です。
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