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《編集雑記》8 (2003年1月〜6月)

読者各位への年賀状

読者各位への年賀状




高野房太郎、アメリカからの手紙

 ようやく、在米中の高野房太郎から弟岩三郎に宛てた手紙27通の掲載を終えました〔別巻3 『高野房太郎関係史料──書簡と日記』 〕。分からないことばかりの彼の在米時代の言動を知ることができる貴重な記録です。しかも、いちばん近い目下の肉親に宛てたものだけに、率直な発言もあり、房太郎の肉声が伝わってくる数少ない史料です。
 ただ110年も昔の手紙ですから、やや古風な文章で、そのままでは若い読者にはとっつき難いと思い、現在執筆中の『高野房太郎とその時代』では、原則として現代語に直して引用しています。しかし、手紙を原文で読みたいと思う読者もいらっしゃるに相違ないので、翻刻したものを別ファイルとして掲載したのです。
 どの手紙も小さな字で書かれ、しかもくずし字も多用されているので、解読は容易ではありませんでした。ただ、大島清氏がすでに解読され、「労働組合運動の創始者・高野房太郎」(1)〜(3)(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.106、No.124、No.139、1965年1月、66年10月、68年4月)のなかで紹介してくださっているので助かりました。そうでなければ、もっと時間がかかったでしょう。ただし、解読結果は『資料室報』掲載のものとはかなり違いがあります。筆跡については一部ですが画像データで掲載していますのでご参照ください。画像データを掲げているのは、まだ初期の手紙だけですが、おいおい追加して行くつもりです。
 手紙の現物は、すべて受取人である、弟・岩三郎が大事に保管していたものです。同氏の死後は、一部が房太郎長女原田みよ氏の手元に、残りは岩三郎長男の高野一郎氏のお宅に保管されていたもののようです。これを発掘されたのは、『高野岩三郎伝』の著者であり、法政大学大原社会問題研究所元所長の大島清氏でした。大島氏は、高野房太郎の伝記についても執筆される計画で、着々と準備をすすめられていましたが、残念ながら病をえて、未完に終わりました〔未完の高野房太郎伝──大島清先生のこと参照〕。
 なお、書簡の現物は、その後法政大学大原社会問題研究所へ寄贈され、現在は同研究所の貴重書書庫に保存されています。
〔2003.1.18 記〕



HOLLISはすごい!──ハーバード大学図書館検索システムの変貌

 久しぶりにハーバード図書館のサイトを訪ね、オンライン検索サービスのHOLLISを使おうとして、その変貌に驚きました。かつてのHOLLISは、情報量は豊富でも、とても使い勝手が悪く、何とか改善して欲しいものだといつも感じていました。検索して1回で表示できる件数は限られていましたし、誰にでもメールで検索結果を届けてくれるサービスは大したものだと思う半面、1件1件について情報を保存しなければならず、最終的に送信させるまでには、何十回もマウス操作を要求され、とても面倒でした。早くからコンピュータ化が進んでいたことが、裏目に出ているという印象を受けたものです。ところがなんとなんと、久しぶりに見たHOLLISは、ほかのどんなOPACと比べてもこれ以上のものは無いと思わせるほど進歩していました。ハーバードに行くのがちょっと早すぎたようです。今ならずっと便利に使えたのにと思うことしきりでした。
 何よりすごいと思ったのは、多言語対応です。漢字やハングルでも検索出来るのです。以前はローマ字でしか調べられなかったエンチェン図書館の東アジア言語の本が、すべて漢字で検索出来るようになっています。しかも、ご承知のように「漢字」といっても、日本、中国本土、台湾、韓国では違いがあるわけですが、その違いもきちんと処理してくれ、日本語で「蒋介石」と入れても日本語の本だけでなく、簡体字、繁体字の本も出て来ます。
 以前は面倒だったメール送信の手続きも、必要な本にチェックを入れるだけで済みますし、送信させる書誌情報も、引用に必要な情報だけ、MARC用、全てのデータなど5種類のなかから選ぶことが出来ます。さらに便利になったのは、利用者がメールの見出しを自由につけられることで、何を件名にして検索した結果であるのか、すぐ分かるようにしておけます。
 まずは試してみてください。誰でも無料で使えます。どこかの国の国立研究所のように、国民の血税で維持されているデータベースなのに「利用者の資格」を制限するといった非常識なものではありません。何より1400万点の蔵書や所蔵雑誌などについての900万件の情報量を誇るOPACなのです。国立情報学研究所のWebcatPlus が250万件、国会図書館のNDL-OPAC が雑誌記事索引の550万件をふくめてようやく1020万件、図書だけだったら300万件であるのと比べれば、その規模の大きさが分かるでしょう。
〔2003.2.28 記〕



イラク反戦関連サイト紹介

  ブッシュの戦争が始まってしまいました。国連安保理に武力行使容認の決議案を提出しておきながら、それが承認されないと分かると、過去の決議だけで武力行使は可能だと一方的に宣言し、先制攻撃に出たのです。しかも、大量破壊兵器の廃棄要求が、いつの間にかサダム・フセインの排除が主目的となっています。ラムズフェルド国防長官は、周到に選んだ目標をピンポイントで攻撃する「精密誘導兵器」を使っているのだから、過去の戦争とは違うこと強調しています。しかし、原爆のようなキノコ雲が立ちのぼる光景を見ると、とてもピンポイントなどとは言えない広範囲を破壊する兵器で、危害が罪のない人びとにも及び、今後も犠牲者が増えることは避けがたいと思われます。
  クエートを侵略したり、自国民に化学兵器を使ったサダム・フセインを擁護する気はまったくありません。しかし、他国の政権に対して一方的に先制攻撃を加え、武力で倒すことが正当化されるのであれば、世界は無法者の天下になってしまいます。いかに美辞麗句で飾っても、この戦争を法的、政治的、道義的に合理化することは不可能だと考えます。

  テレビ各局は、連日戦況を報じ、戦争に対する人びとの反応を報道していますが、戦況報道は主として関係各国政府や軍関係者の発表に依存せざるをえず、事実上両者のプロパガンダ合戦の道具となっています。報道統制の程度は湾岸戦争の時より著しく、FOXテレビやCNNの報道に象徴的に見られるように、アメリカのメディアの態度も9.11以降、愛国心を鼓吹する傾向が顕著です。ただ、湾岸戦争時との大きな違いはインターネットを介して、マスコミでは報道されない、さまざまな情報を入手し、さまざまな主張や分析を読むことが出来るようになっている点にあります。今回は、そうしたマスコミではあまり報道されない情報を入手できるサイトを中心に、イラク戦争関連のサイトのいくつかを紹介しようと思います。ただ、いずれも英語サイトなのですが。

 まずは、オールターナティブ・メディアの代表格で、NPOのひとつ独立メディア研究所(the Independent Media Institute)が運営するAlterNet.orgです。AlterNetのスタッフ・ライターが、バグダッドから爆撃直後の情況を伝え、あるいは世界各地のイラク戦争反対の抗議行動について、あるいはチェイニー副大統領が経営していた石油会社(Halliburton Co.)の数千人の従業員がトルコやクエートで働いていることを報道しています。サイト内にはイラク戦争に関するページhttp://www.alternet.org/waroniraq/があり、さまざまな情報を手に入れることが出来ます。
 つぎはThe Iraq Action Coalitionです。ここはイラクの民衆に対する戦争に反対する活動家にさまざまな情報を提供しているサイトです。サイト内にはイラク戦争やイラク制裁反対運動のリンク集があり、ここからさらにさまざまなサイトに行くことができます。
  同じくイラク関連サイトとしてはElectronic Iraqがあります。湾岸戦争などの参戦者によってこの2月8日に開設されたばかりのサイトです。ニュース、ニュース解説、意見表明などのほか、「イラク日記」は、イラク現地からの目撃情報を伝えています。
 後は、タイトルからある程度は内容がわかりますから、とりあえず、サイト名だけ並べておきましょう。

 最後に、ビデオ番組を観ることができるサイトを2つ紹介しておきましょう。ひとつはC-SPANです。C-SPANは、アメリカのケーブルテレビ会社の出資によって運営されている非営利会社で、ケーブルテレビを通じて、議会中継や記者会見などを流しているテレビ局です。 このサイトにはIraq-Related Linksとして、幅広くイラク関連の諸資料が網羅的にリンクされています。また、すでに放送した番組のビデオをオンラインで観ることが出来ます。このなかには、3月22日にワシントンのアメリカン大学で開かれたイラク戦争反対の5時間余のティーチインのビデオといった普通の局では観ることができない番組が含まれています。
 もうひとつはFree Speech TV on the Webです。Free Speech TV はアメリカで、放送衛星のDish Networkを使って、独立プロダクションが制作したドキュメンタリー番組などを配信している独立メディアです。ワシントンでの反戦デモなどのビデオのほか、写真やイラク情勢についての報道などを見ることができます。 〔2003.3.24 記、3.25補訂〕



追悼 隅谷三喜男先生、山住正己さん

  今日で3月も終わになります。この月は、2月に亡くなられたお二人の方とのお別れの会がありました。隅谷三喜男先生の告別式は氷雨降りしきる1日、先生がかつて学長をつとめられた東京女子大学の講堂で、〈山住正己先生とお別れする会〉は23日に日本教育会館一橋ホールで開かれ、どちらも心にしみ入る思いの集まりでした。
  隅谷先生の告別式はキリスト教式の葬儀、山住さんの「お別れする会」は告別の辞とともに「歌で送る」会というように、形式は違いましたが、どちらもお二人が優れた専門研究者であると同時に、種々の社会的活動に献身的に取り組んでこられた事実を反映してさまざまな分野の500人をこえる方々が参加され、告別の言葉もおざなりでなく、真情あふれるものばかりだったことが印象的でした。

 隅谷三喜男先生の告別式では韓国翰林大学校日本研究所の池明観所長、中国社会科学院の李薇さんが切々たる別れの言葉を述べられ、先生が東方学術交流協会会長、アジアキリスト教教育基金会会長といったお仕事を通じ、アジアの人びとと深く心を通わせてこられた事実を再認識させられました。
  会場でいただいた優子夫人のご挨拶状の一節に「私にとっては、聖書が着物を着て歩いていたような人でした」とあるように、敬虔なクリスチャンで、神のほかには恐れる者をもたず、世俗の権威や世評に屈しない信念の方でした。16年前に癌の告知を受けられた後にも、成田空港問題調査団議長をはじめ多くの役職の委嘱をためらうことなく引き受け、全力でこれらに取り組んでこられました。数年前、友人の中西洋が雑談のなかで「隅谷先生は年を追うごとに大きくなられた」という趣旨のことを言ったことがありますが、私もまったく同感でした。

 〈山住先生とお別れする会〉では、ゼミの報告中や教授会の討議の最中に居眠りしながら、最後には全部聞いていたようにコメントされる達人だったこと、お酒を酌み交わして談論風発する座を好まれたことなど、気さくな人柄が紹介されました。また、作曲家の林光さんが中心になってつくられた「国歌を考える会」主催の〈国について 歌について〉と題する列島縦断コンサートで、〈子どもの歌でつづる日本の近代史〉の構成とお話しを担当しただけでなく、「湖畔の宿」の替え歌を大いに楽しんで歌った、積極的な行動の人だったことも紹介されました。ちなみに、岩波新書の『子どもの歌を語る』は、この時の話がもとになって出来た本です。
  〈お別れする会〉では、この他にもシンガーソングラーターの横井久美子さんがギターを弾きながらの追悼の歌、作曲家・林光さんのピアノ演奏、こんにゃく座や音楽教育の会のコーラス、全員合唱の「ふるさと」など、日本のこどもの歌の歴史の先駆的な研究者であった山住さんにふさわしい会でした。
 隅谷夫人は、最後のごあいさつで「隅谷も、こんなに褒めて貰えるなんて、葬式もいいもんだなと言っているに違いない」とおっしゃいました。おそらく、山住さんも「君らだけで歌ってないで、僕にも歌わせろよ」と言っていらしたことでしょう。

  私が隅谷三喜男先生の名を印象づけられたのは、『日本賃労働史論』(1955年、東京大学出版会)の著者としてでした。この本はそれまで全く知られていなかった史料を発掘された上で書き上げられた日本労働史のパイオニアとしての記念碑的な労作です。これを読んで、それまで続けてきた日本労働史研究を断念し、他の分野に転進した研究者が出たほどインパクトのある作品でした。私もこれを乗り越えることを課題のひとつとして来ました。その後、社会政策学会でしばしばご一緒することになり、さらには先生の事実上の還暦記念論文集の1冊となる『日本労使関係史論』(1977年、東京大学出版会)を準備する研究会で直接お教えをうける機会がありました。また、アメリカでも、カリフォルニア大学バークレー校で先生が報告される研究会に出席し、奥様ともおめにかかる機会がありました。また、拙著『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』が日本労働協会の〈第12回労働関係図書優秀賞〉を受賞した際には、先生が審査委員長でした。
  先生の研究分野は幅広く、日本社会とキリスト教を中心とする社会思想史、労働経済論、石炭産業を中心とする産業論、韓国の経済などなど、多数の作品を残されています。その全容は、岩波書店から刊行される『隅谷三喜男著作集』全9巻で知ることが出来ると思います。刊行開始を目前にしての訃報でした。さぞ心残りだったことでしょう。
 私が専門とする労働史研究の分野では『日本賃労働史論』のほかにも『日本賃労働の史的研究』『日本労働運動史』などを執筆されています。しかしそれらより大きな業績と言ってよいのは、さまざまな史料の発掘紹介だったと思います。なかでも《労働運動史料委員会》の中心として、『日本労働運動史料』(全10巻、ただし第4〜6巻は未刊)を編集刊行されたことは、日本の労働史、いや労働問題研究全体にとって、どれほど大きな意味をもったか分かりません。隅谷先生が直接担当されたのは第1巻から第3巻、それに労働組合期成会機関紙ともいうべき『労働世界』でした。これらがななければ、兵藤釗、池田信氏らの労働史研究の古典的な仕事はありえなかったと思われます。もちろん私も、こうした隅谷先生のお仕事の恩恵を受けたひとりです。

  山住正己さんは、大学時代のコーラスの仲間です。どこで初めてお目にかかったのか、はっきりした記憶はありませんが、1953年中だったことは確かですから、半世紀近い知己です。山住さんは教育専門課程の大学院生、私は教養学部の学生でした。東京大学は教養課程と専門課程が駒場と本郷とに分かれていますから、すぐ上の学年とすぐ下の学年の学生とは知り合いになりますが、それを超えるとあまり接する機会がありません。まして学部の違う大学院生の先輩と知り合う機会はほとんどないのですが、山住さんや金子ハルオ氏など合唱団の仲間は例外でした。
  その後、お会いしたのは、音感の同窓会や忘年会など機会は限られていましたが、ご著書『子どもの歌を語る──唱歌と童謡』(岩波新書、1994年)を贈ってくださったり、1995年に『新版 社会労働運動大年表』を刊行した際には、推薦の辞を執筆してくださり、過分に褒めていただきました。家人が美津子夫人やお嬢さまの患者であるため、昨秋のうちに山住さんが癌に罹られたことを知り、回復を祈っていたのですが、思いがけない早さで旅立たれてしまいました。

 3月24日の『朝日新聞』夕刊には、このお二人に対する惜別の記事が並びましたが、ともに素敵な笑顔の写真が付されていました。
〔2003.3.31 記〕




カタカナ語好きなNHK

 国立国語研究所第1回「外来語」言い換え提案が発表されました。第1回分の最終案として62の外来語の言い換え案を提起しています。まことに時宜を得た提案だと思います。「アウトソーシング」だの「アジェンダ」などというより、「外部委託」や「検討課題」の方が、目で見ても、耳から聞いても、はるかに分かりやすい表現です。言い換え語のなかには「第二診断」のような造語もあり、落ち着きの悪い言葉も少なくありませんが、かなりは慣れの問題でしょう。その昔、NHKが呼び捨てを避けるため、人名の後に「容疑者」をつけ始めた時はずいぶん違和感を感じたものでしたが、今ではそれほど聞き苦しい感じはしませんから。
 念のためにいえば、私は〈カタカナ語・外来語追放論者〉ではありません。日本語が漢字、カタカナ、ひらがな、romaji を混用できる言語であることは、私たちの表現の幅を広げ、柔軟なものにしています。漢語、カタカナ語抜きで日本語はなりたちません。しかし、「こんなところで、こんなカタカナ語を使って良いのかな?」と思うことも、しばしばです。とくに話し言葉の日本語標準を提供する立場にあるNHKが、一般の人がほとんど使わないカタカナ語や和製英語を乱用していることには、疑問をもっています。
  たとえば、「ラジオ深夜便」の担当者を「アンカー」と称していますが、これは日本語を豊かにするものとは言えないでしょう。英語の「アンカー」あるいは「アンカーマン」は、ABCテレビのピーター・ジェニングスのようなニュース番組の総合司会者を呼ぶ言葉です。リレーの最終走者をアンカーと呼ぶのと同様、大黒柱、頼りになる人、といった意味から来た言葉のようです。しかし「ラジオ深夜便」はニュース番組ではありませんし、その担当者は総合司会者ではなく、毎回一人で番組を受け持っています。これを「アンカー」と呼ぶのは日本独自、いやNHK語としか言いようのない、おかしな用法です。言っている本人も、あまり意味を考えずに使っているのではないでしょうか。おそらく、引退したアナウンサーなどが番組を担当することが多いので、「アナウンサー」とは呼べず、かわりに「アンカー」などという言葉を探し出してきたものでしょう。
  NHKが、番組名や番組内の用語に、カタカナ言葉を多用しているのも気になります。総合テレビの番組一覧表を見ると、まさにカタカナ語の氾濫です。生活ほっとモーニング、スタジオパークから今日は、首都圏ネットワーク、クローズアップ現代、歴史スペシャル、プロジェクトX、人間ドキュメント、爆笑オンエアバトル、ミュージックボックス、サンデースポーツ、ポップジャム、ホリデーインタビュー、英語でしゃべらナイトなどなど、番組名の半数以上でカタカナが使われています。たしかに、他とは違う個性的な番組名を打ち出そうとすると、一般には使わない、日本語とカタカナ語を混用するのが手っ取り早い解決策であることは事実です。でも、言葉遣いの専門家集団としては、いささか無神経で、智恵のない話ではないでしょうか。なかには、明らかに日本語ではない言葉を、そのまま使うものさえあります。たとえば、朝の番組のなかの「アジア & ワールド」です。みかけは英語ですが、これを日本語的発音で臆面もなく大声を出しています。ハイビジョンだのテレマップ、プレマップなどといった和製カタカナ語を氾濫させているのもNHKです。日本語に対する影響力がきわめて大きな組織だけに、NHKには、もっと分かりやすく、美しい響きの日本語を使ってほしいと思います。
〔2003.4.30〕




『食の自分史』の連載開始にあたって

 このたび新たに『食の自分史』の連載を始めました。食をめぐる私的体験をエッセイ風に書きつづって行くつもりです。この著作集は、どちらかといえば無味乾燥な論文が中心ですから、読み物として気軽に眺めていただける小品を加えてみようとの新企画です。ひとつひとつは短く、なるべく頻繁に追加できればと考えています。
 いまはまだ「前口上」だけですが、まずは幼時の食体験、つまり「おやつ」の話から始めようと思っています。ご愛読のほどお願いいたします。
 なお、これを第12巻ということにしましたので、これまでの12巻以降を、すべて1巻ずつ繰り下げました。
〔2003.5.24〕




祖父の日記

  『食の自分史』の参考にしようと、母方の祖父・佐藤豊助(1874〜1945)の日記に目を通しています。1903(明治36)年に始まり、死の直前まで43年間書きつづけられた日記です。最初は英語で、途中からある日は日本語、ある日は英語、後半になるとすべて日本語で、ほとんど毎日のように記録されています。
  英語で書き始めたのは、もちろん英語学習が目的でした。長野県の〈通弁巡査〉で、毎日2時間の英語学習が義務づけられていたからでもありました。〈通弁巡査〉とは、軽井沢が宣教師らを中心に夏の避暑地として評判になり、外国人が大勢集まるようになったので、長野県警察部内に新設された職務でした。1913年から17年にかけて軽井沢分署長をつとめたほか、上田、上諏訪、岩村田、高遠など県内各地の警察署に勤務の際も、毎夏1ヵ月は軽井沢に出張しています。
  日記は、祖父の唯一の息子だった叔父が亡くなった後、私のところにまわって来たものです。その時、英語の部分はメモを取りながら読みましたが、日本語の箇所はざっと眺めただけでした。今回は、私の両親が結婚した1928(昭和3)年以降を読み通しました。
  私が生まれた1934年から1939年までの5年余、わが家は祖父と同じ上諏訪町に住んでいましたから、この日記には、私個人についてもなかなか興味深い記述が出てきます。幼児時代のことは、おぼろげながら記憶している事実もありましたが、この日記で初めて知ったことも少なくありません。たとえば、次のような記述です。

1935(昭和10)年5月11日 晴
 今日ハ二村デ味噌仕入ト大掃除ヲシタ故ニ、一夫ヲ家ヘ連レテ来テ、終日遊バセテ置タ。一度モ泣カナカッタ。本当ニ泣カナイ子デアル。

1938(昭和13)年2月10日 晴
 十一時頃葉書ヲ出シニ出タ序ニ、二村ヘ行テ正ト一夫トヲ家ニ連レテ来テ、日当リノヨキ室デ遊バシテ置タ処、一夫曰ク、コンナ暑イ家ハイヤダ、俺ラ家ハ涼シイト。昼食ニ餅ヲ安倍川ニシテヤリ、食シ終レバ家ヘ帰ルト云フカラ、涼シイ家ヘ帰シテヤッタ。

  1歳と3ヵ月の私が「泣カナイ子」だったというのは、健康だった証拠なのでしょう。それにしても、満4歳の私が、真冬の信州で、日当たりの良い部屋は暑すぎて嫌だと言ったとは、ずいぶん寒冷地に適応していたものです。寒がりの今の私からはちょっと想像がつきません。

  この祖父のことは、『食の自分史』(2) 玄米食と高圧釜の最後でちょっとふれましたが、一言でいえば「信念の人」でした。熱烈なクリスチャンであり、禁酒運動家で、どちらも警官としての立場とは矛盾することも間々あったのですが、頑固にその主張を貫いたようです。もともと農家の跡取りで結婚して子供までいたのに、25歳で家や田畑を弟に譲り、長野県巡査になった理由が、「キリスト教を布教し、禁酒運動を広めるには、百姓ではダメだ。いま募集している巡査になれば、より多くの人を導ける」と考えたからでした。いずれこの祖父のことは、明治キリスト教史の一齣として、書いておこうと思っています。
〔2003.6.26〕



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法政大学大原社研                  社会政策学会



 高野房太郎研究            比較労働史研究            鉱業労働史研究


  史料研究            大原研究所をめぐって            雑文集   



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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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