高野房太郎とその時代 (39)4. アメリカ時代(17)節目の年、1891年話の順序からするとやや時間をさかのぼることになりますが、1891(明治24)年1月6日、房太郎は満22歳の誕生日を迎えました。今の若者なら大学卒業前後で、社会人として出発点に立つか立たないかの年齢です。しかし35歳と2ヵ月という高野房太郎の全生涯からみると、ちょうど3分の2が過ぎ去った時点でした。実はこの年は、年齢だけでなく人生体験の内容からみても、彼の生涯にとって大きな節目の年でした。1年間を通じアメリカの学校で教育を受け、夏には歴史に名が残る職工義友会創立の中心となっています。さらに大きな意味をもったのは、ジョージ・ガントン著『富と進歩』との出会いでした。この年11月29日、サンフランシスコ市役所の向かいにある、マーケット街の本屋 West Coast Book で、この本を偶然目にし、買い求めたのです*1。彼は、この本を2ヶ月半かけて熟読し、深い感銘を受けています。高野房太郎の労働組合論というと、サミュエル・ゴンパーズの影響とされることが多いのですが、実際は、ジョージ・マクニール編『労働運動──今日の問題』と、このガントンの『富と進歩』こそ、彼の労働運動論の基礎をつくった書物でした。実は、この本の基本的な考えは、「アメリカにおける労働時間短縮運動の父」とか「8時間狂」と呼ばれたアイラ・スチュヮードによるもので、ガントン個人の著作というより、アメリカの労働運動が、労働時間短縮運動を通じて生み出した経済学理論だったのです。この問題については検討すべき点が少なくないので、回を改めて述べることとし、その前に、この節目の年に、房太郎が置かれていた情況についてお話ししておきたいと思います。 前にも少しふれたのですが、全日制のサンフランシスコ商業学校に通うことは、ろくな蓄えがなかった房太郎にとって、かなり無理な企てでした。毎日毎晩、暗い灯りのもとで懸命に勉強した甲斐があり、学業成績は上々でした。しかし、自分自身の生活を支えるだけでなく、故郷への仕送りの負担を負いつつ、毎日昼間の学校へ通うことは、肉体的も経済的にも厳しく、辛いものがありました。病気のため、あるいは良い仕事が続かなかった時など、仕送り不能の事態に追い込まれることも一度や二度ではなかったようです。その上、日本雑貨店時代の借金もまだ残っていたので、この時期、房太郎の生活は、また東京の高野家の家計も、逼迫の度を加えていました。職工義友会創立のころ、眼病を患った時の苦境はすでに紹介しましたが、秋になっても事態はいっこうに改善しませんでした。1891(明治24)年10月8日付の弟宛の手紙*2に、その一端がうかがえます。 このところ2回ほど郵便船が出たのに、学校の勉強で忙しく、手紙も出せず申しわけありませんでした。眼病もすっかり治りましたのでご安心ください。なにぶんにも昼間は学校やアルバイトがあるので、宿題などは夜やっており、目も、いつもはっきり見えるというわけではないのですが、とにかく医者の手だけは離れました。 つぎに紹介するのは、上の手紙からちょうど2ヵ月後の12月9日付の岩三郎宛書簡*3の一部です。いま紹介したばかりの「商売上の貸借」が、どうやら日本雑貨店を始めた時の借金か商品の未払い代金であること、貸し主は、伯父・弥三郎が創業した回漕店兼旅館の「糸弥」や、横浜在住の高尾秀太郎らで、高尾は、東京の高野家にも返金するよう催促の手紙を出していたことが分かります。 11月19日にお出しになった手紙を拝見しました。10ドルの郵便為替を同封いたしますので、ご査収ください。実は、今月は少しは増額してお送りしようと思っていたのですが、奉公先が給料をまだ払ってくれないので、出来ませんでした。郵便船が出る2、3日前には為替を組まなくてはと思い、3回ほど給料を受け取りに出向いたのですが、いつも先方が不在などでかなわず、ようやく今日になって為替を組んだ次第です。もっとも郵便局員の話では、明日出発の郵便船で送るとのことでした。 職工義友会の創立という歴史にのこる企ての一方で、房太郎は経済的にはかなり追いつめられた情況にあったのでした。それが主な原因で、房太郎は卒業をまたずに商業学校への通学をやめます。もっともこれは、本来なら前年暮には卒業のはずだったのに、学校側の都合で卒業式が延期されていたからでもありました。その間の事情は、つぎの手紙*4でよく分かります。 学校は去る1月4日で学期を終えました。その後、ある生徒の話に、「同級の某は退校したけれど、5月の卒業式には参列して卒業免状を受け取ることになっている」と言うのです。私は、「それはたいへん良いことを聞いた。もともとわれわれのクラスは昨年の暮に卒業する筈だったのに、サンフランシスコ市の学務局が経費を節約するため、今年の5月に式を延期したもので、今後5ヵ月間の授業の多くは復習にすぎない。私も校長に談判して、同じようにしてもらおう」と言ったことでした。
間もなく彼はサンフランシスコを去り、タコマへ戻っています。それは、1892年2月12日付の手紙*5がワシントン州タコマ市 C Street 1317番地から発信されていることから判明します。手紙の本文では、「ここはサンフランシスコに比べずっと寒さがきびしく、しばらくサンフランシスコの穏やかな気候に馴れていたので、ほとんどたえがたい思いをしています。また市中の景色はサンフランシスコに比べると田舎同然ですが、ただ給料がずっと高いのでそれで良いと思っています。」と書いています。 【注】*1 この房太郎が買い求めた本の現物が、現在、法政大学大原社会問題研究所の蔵書として残されている。裏表紙に West Coast Book / 1203Market ST Opp.City Hall, S.F. とのゴム印が押されている。発行所は New York の D.Appleton and Co. 初版が出たのは1887年であるが、房太郎が入手したのは1890年のPopular Edition(ペーパーバック)で、価格は 50 セント。本の表紙裏には、Fusataro Takano Nov.29,1891とあり、裏表紙の内側には、Finished March 1, 1892, at Tacoma, Wash. Time taken , about 2 months & half と記入されている。 *2 1891年10月8日付、高野房太郎より岩三郎宛書簡。ここでは現代語訳して引用している。以下同様。原文はこちらを参照。 *3 1891年12月9日付、高野房太郎より岩三郎宛書簡。原文はこちらを参照。 *4 1892年1月13日付、高野房太郎より岩三郎宛書簡。原文はこちらを参照。 *5 1892年2月12日付、高野房太郎より岩三郎宛書簡。原文はこちらを参照。 *6 1892年5月30日付および1892年9月23日付、高野房太郎より岩三郎宛書簡参照。原文は次を参照。1892年5月30日付、1892年9月23日付。 |
|
||
|
||
Wallpaper Design © あらたさんちのWWW素 材集 先頭へ |