サンフランシスコからタコマに戻った直後の一八九二(明治二五)年三月七日、房太郎は東京の岩三郎に宛てて、一冊の本について、つぎのように書き送りました*1。
先頃から経済書の翻訳をしていましたが、このたび完成しました。ただ専門用語で、辞書には良い訳のないものがあります。そこで日本の経済学の本を参照する必要があり、たびたび経済書を送ってくださるようお願いしている次第です。古本屋の前を通りかかった折など、安い本があったらお買い求めの上、ご送付ください。
小生が翻訳しているのは、社会主義に反対し、経済学旧派のミル派に反対し、独特の洞察力で経済の大問題について結論をくだしているジョージ・ガントン氏の Wealth and Progress〔富と進歩〕です。給料(賃金)は需要供給の作用によって高低するものではなく、利益は給料が上がることで減るものではない。地代や利子も同様である。利益、地代、利子はいずれも給料が騰貴すれば、増加するものである。社会進歩は実物的より知識的さらに徳義的の順序で進歩するなど、いろいろ新しい説を帰納法的に余すところなく論究しています。これまで聞いたこともない新たな原理を論じています。もし貴弟もご覧になるお気持ちがあれば、原本をお送りいたします。
またずいぶんと惚れ込んだものですが、この経済書こそ他ならぬジョージ・ガントンの『富と進歩』でした。その原本、つまり房太郎がサンフランシスコで買い求め、翻訳にも使ったペーパーバックの廉価本が、今も残っています。冒頭に掲げた写真がそれで、表紙裏には、購入日が「一八九一年一一月二九日」、さらに「一八九二年三月一日、ワシントン州タコマにおいて終了、所要期間二ヵ月半」と英語で記されています〔英語原文は前回注記参照〕。最初これを見た時、「所要期間」は読了までの日数と思い込んだのですが、上の手紙で翻訳にかけた時間であることに気づきました。なんと本文三八二ページ、前付け二三ページ、計四〇〇ページを超える専門書を、僅か二ヵ月半で訳し終えているのです。それも、生活と仕送りのためフルタイムで働きながら、その余暇でなし遂げたことでした。翻訳作業だけに明け暮れたわけではないのです。しかもこの間に、サンフランシスコからタコマへ移転しています。あらためて房太郎の語学力の高さと、その並々ならぬ集中力と勤勉さを知った思いでした。
もうひとつ、この『富と進歩』翻訳の事実は、高野家に流れる「学問好きな血」をうかがわせてくれます。すでに何度か述べたことですが、房太郎の自覚的な〈人生の目標〉は、実業界における成功でした。それは渡米以来、その死にいたるまで、労働運動に打ち込んだ一時期をのぞき、ほぼ一貫していました。ただこの目標は、長崎屋の跡取りとして、周囲の期待を一身に背負って育てられたなかで否応なしに掲げさせられた、いわば後天的なものだったと思われます。彼のもって生まれた性格は、実業家よりも、学者・研究者向きだったのではないか、と私は考えています。ものごとについて徹底的に調べ、ことがらの原因を筋道をたてて追究せずにはおられない性向は、日本雑貨店の開店前後の動き、あるいは機械製材所設立計画の立案過程でも目立っています*2。
そうした「学問好きな血」を考えなくては、誰に頼まれたわけでもなく、出版するあてもない専門書*3の翻訳に熱中した事実は、理解不可能です。それも借金を返したり故国への送金のためには寸暇を惜しんで働かなければならないはずの時に、一文の得にもならない経済書の翻訳に厖大な時間を費やしているのですから。
おそらく岩三郎の生涯を規定したのも、これと同じ学問好きのDNAだったのでしょう。ただ次男に生まれた岩三郎は、兄からの仕送りにも助けられて最高学府にすすみ、ごく自然にその「学問好き」な個性を生かすことが出来ました。一方、兄の方は家長として家を支える義務を負い、長崎屋再興という周囲の期待にがんじがらめになっていたのです。
だが、はたして房太郎に実業家としての素質があったかどうかといことになると、ちょっと疑問です。壮大な事業計画をたてることには熱中しても、肝心の資金計画は大まかで、つねに他力本願的でした。日本雑貨店の時も、本気で事業の成功を望むなら、開業を急ぐよりも、他の日本雑貨店で働いて経験を積んだり、さらに借金でなく自力で資金をまかなう準備をすべきだったでしょう。また雑貨店の開業準備で忙しい時期に、『読売新聞』への寄稿という「二足のわらじ」を履いていることも、経営者としては甘い、と言わざるをえません。
機械製材所の起業企画も、その準備のための予備調査の計画までたてながら、実際に取った行動は商業学校での勉強でした。その入学理由も、なんと事業に失敗した時にアメリカ帰りとして恥ずかしくないだけの英語力をつける必要があるというものでした*4。
いずれにせよ、周囲から押しつけられた人生設計と、彼が本来もっていた資質のずれとが、房太郎の人生を辛いものにしたのではないか、と私は想像しています。仮に、房太郎が弟と同じ学問の道へ進んでいたなら、その抜群の語学力を生かしただけでも、かなりの成果をあげえたのではないかと想像するのですが、いかがでしょうか。
話がだいぶ横にそれてしまいました。もう一度『富と進歩』に戻りましょう。房太郎がこれほど惚れ込んだ書物は、どのような内容だったのでしょうか。『富と進歩』の最終章は「要約と結論」と題され、著者自身によって次のようにまとめられています*5。
一) 社会進歩は大衆の物的条件の改善に依存する。
二) 労働階級の富の増加は、他の階級の富を減らすことで達成しうるものではなく、富の総生産を増加させるほかはない。
三) 労働階級の所得を増加させ、その物的条件を改善することは、実質賃金の増加によるほかはない。
四) 賃金の上昇は、商品の価格を上げたり、利潤を減らしたり、地代を削減するものではない。
五) 賃金は労働の需給や生産物の量や価値、労働者の熟練、あるいは雇い主の恣意によって決まるものではなく、労働の生産費によって決定される。
六) 労働の生産費は労働者の生活水準によって決まる。
七) 生活水準は人びとの社会的性格によって決まる。したがって賃金は、最終的には大衆の社会的性格によって決まる。
八) 人びとの、あるいは階級の性格は、主に社会環境によって決まる。つまり彼らの社会関係が単純であるか複雑であるかに応じて、すなわち、彼らが有する社会的な機会の程度に応じて、その性格が決まるものである。したがって社会的な機会の増大こそ、産業的政治的道徳的改革の基礎である。したがって、いかなる改革案も、大衆の社会的機会を増大させることなしには、彼らの物的道徳的幸福を恒久的に改善することはできない。
九) 賃金制度のもと、とりわけ工場制度のもとで、大衆の社会的機会を拡大する主要で実現可能な手段は、労働時間の全般的短縮である。
一〇) これを効果的に達成するには、一律八時間労働制と一六歳未満の年少労働者に対する半日学校教育制度の導入が必要である。
著者によるこの要約そのものが一〇項目にもおよび、各項目の相互関係があまり明快でないのに加え、それをやや圧縮した上で翻訳していますから、分かり難いかもしれません。とくに全体のロジックがつかみにくいと感じられるでしょう。ガントン理論を一言でいえば、富の総生産を増加させることなしには労働階級の所得を増加させることはできない。労働時間の全般的短縮を実行すれば、労働者全体の実質賃金が上昇し、それによって社会全体の消費が拡大し、その結果富の総生産は増加する。したがって、実質賃金の上昇は、単に労働者階級にとってだけでなく、資本家にも地主にもプラスになり、社会全体を進歩させる、という主張です。
この時期以降、房太郎が書いた論文は、いずれもこのガントン理論に沿ったものとなっています。岩波文庫の『明治日本労働通信』日本文編、「『愛国』記者に与う」以降の論稿がこれに当たります。なかでも、一八九三(明治二六)年二月の『東京経済雑誌』に寄稿した「富国の策を論じて日本における労働問題に及ぶ」は、彼がガントン理論に依拠し、日本経済の発展をはかろうとしたことを明示しています。その骨子は以下のとおりです。
一 富国の策
一) 消費は生産の源泉であり、富国の要である産業の盛衰はその国の国民の消費力に依存する。
二) 消費力はその国民の生活程度に応じてきまる。生活程度は生活の繁閑に、生活の繁閑は日常必需品の多寡によってきまる。
三) 日常必需品は、衣食住のような肉体的必需品と、快楽宗教学術旅行などの社会的必需品からなる。前者は有限、後者は無限である。
四) 富国のためには社会的必需品の増進が重要である。
五) 必需品はその属する社会の習慣によって多寡大小の違いを生ずる。社会的習慣を形づけるのは社会環境である。国を富ませるためには、われわれを取り巻く社会環境を改善することが重要である。
二 日本における労働問題
一) 日本国民の大多数を占めるのは労働者である。国の富を増やすには、労働者の生活程度を向上させ、その消費力を増大させるほかない。
二) 欧米で労働者の救済策として提唱され、実施されているものは、分配策である。しかし全世界の富を全世界の人民に平等に分配しても、彼らを満足させる額には達していない。いかに巧みな分配方法を採用してもこれでは多数労働者の状態を改善することはできない。
三) 貧しい者を富ますには、労働者の消費力を拡大し、一国の産業を盛んにするほかない。
四) 労働者の消費力の拡大には労働者の生活程度をあげるほかない。それには社会環境を整備するほかない。
五) 労働者をとりまく社会環境を精良にするには、a)労働組合を組織して労働者の知識を開発すること、b)無償の義務教育により普通教育を普及させること、c)法律によって労働時間を制限すること、d)婦女、年少労働を制限すること、e)労働統計局を起こして労働者に関する一切の統計を収集すること。
この論稿で房太郎が主張したのは、労働者をとりまく社会的環境を整備することが労働者の消費力の増大につながり、国を富ませるもとになる。社会環境を整備するには、a)労働組合の組織化、義務教育の徹底によって労働者の知識程度を向上させる、b)法律で労働時間を短縮させ、女性・年少労働を規制する、などの方策をとる必要がある、といったことでした。
こうした主張が、基本的にガントン理論に依拠していることは明らかです。ただ、ガントンの場合は、労働時間の全般的短縮と、労働者の実質賃金の上昇は資本家など他階級にもプラスとなることに力点がおかれていたのに対し、房太郎の場合は労働組合の組織化などにより労働者の知的発展をはかることが労働者をとりまく社会的環境を改善し、富国につながるという点を強調しているという違いがあります。
ガントン理論に接する前から、房太郎は、労働組合の存在がアメリカの働く民衆の豊かさを支えているとみていました。したがって、日本の働く人びとの生活を豊かにし、その社会的地位を向上させるためには、有識者が先頭にたって労働組合を組織化する必要があると考え、そのように主張していました。ガントン理論に接した彼は、労働組合の組織化が労働者にとってプラスになるだけでなく、日本経済全体を発展させる、つまり〈富国〉のもととなることを確信させたのでした。明治初年に生まれ育った青年に共通するナショナリズムが、こうした〈富国策〉につながる理論を受け入れさせたと言えましょう。
私は、房太郎がガントン理論に惚れ込んだのには、もうひとつ理由があったのではないかと考えています。それは、『富と進歩』が経済の「法則」を明らかにしていると主張した書物だったことで、これは房太郎が一連の論稿において強調している点なのです。
「一物品の価値はその製産に要せる原価に依って定まるとは、これ経済的価値の原則にして製造品においてはその要せる原料労力及び地代等これが元価たるものにして、労力においては労働者の生活の費用これが原価たり」(「『愛国』記者に与う」)。
「それ給料と〔は〕労力の価値にして物価と同じくその価格はその生産に要せる元価によりて定めらるてふ法則に支配せらるるものなり」(「『愛国』記者に告ぐ──労働問題の一端」)。
「産業振起のの策たるや、経済学上已に動かすべからざる法則のあるありて存す。もし吾人にしてこの法則に基づいて深く考慮する所あらば、富国の道これを遂ぐる甚だ易々たる者あらん」(「富国の策を論じて日本における労働問題に及ぶ」)。
房太郎は、この世界を動かしているものは、経済であり、それを支配する「経済学上の法則」の存在を確信していたものと思われます。彼の経済学への関心は、ガントンの著作に接したことによってさらに強まりました。それをはっきり示しているのは、これ以降、房太郎が経済学の書物をあいついで購入している事実です。
法政大学大原社会問題研究所の高野岩三郎文庫のなかには、房太郎の旧蔵書が含まれていますが、その一冊にジョン・スチュワート・ミルの『経済学原理』(Principles of Political Economy)がありますが、これには一八九二年五月二八日にタコマで購入したことが記されています。このミルの『経済学原理』は『富と進歩』が批判の対象とした主要な書物です。さらに五月三一日にはリカードウ『経済学および課税の原理』をニューヨークの書店へ注文し、さらにマカロック『経済学原理』、マルサス『人口論』、ソーントン『労働論』など、多数の経済学書の価格を問い合わせています*6。その多くは、『富と進歩』の脚注に記されている本なのです。
正確な時日は分かりませんが、房太郎は早くから経済学になみなみならぬ関心をいだいていたように思われます。それを窺わせる手紙が残されています。それは、岩三郎が第一高等中学校の本科に進学するときに、政治学科を選択したことに不満の意を表したものです。すでに「タコマ・チョップハウス」の項で紹介済みの、一八九〇年八月八日付の手紙ですが、関連箇所だけを、もう一度見ておきましょう。
第一高等中学〔予科〕の卒業試験の結果はどうでしたか? もちろん立派な成績で合格されたこととは思いますが、十六日付のお便りでふれておられなかったので、念のためにお訊ねいたします。また、お選びになった科目などについては、私から特に申し上げるべき意見はありません。また、学校のことについて良く知らない私には、分からないことばかりです。しかし、君が政治科に進学されようとしていることについては、ちょっと不満がないわけではありません。もちろん君には君の考えがあることですから、将来どのような方向に進もうと考えておられるのか聞きたいと思います。そうすれば、私としてももう一度考える材料を得ることになると存じます。
おそらく房太郎は、岩三郎が政治学でなく経済学を専攻することを望んでいたのであろうと思われます。しかし岩三郎は、第一高等中学でも、東京帝国大学法科大学でも政治学科に進みました。実は法科大学にはまだ経済学科がなかったのです。経済学科が政治学科から分離独立したのは、それから一五年も後の一九〇八(明治四一)年のことだったのです。しかし岩三郎は、自分の専攻を決める際、房太郎の考えにしたがったことは明らかです。なぜなら、大学院では「労働問題を中心とする工業経済学」を専攻しているのですから。もっとも最終的にはポストの関係もあって、統計学の教授に就任したのですが。
東京帝国大学に経済学部が誕生したのはそれからさらに後、一九一九(大正八)年のことでした。この経済学部の創立に際し、その口火を切り、独立運動の中心となったのは、ほかならぬ高野岩三郎でした。この運動が進捗せず挫折しそうになったとき、岩三郎は大学に辞表を提出し、以後講義のほかは大学へ出ないという形で抗議し、ついにこれを成立させたのでした。
いま日本の主要大学の多くは経済学部を設けていますが、その先例となったのは東京帝国大学経済学部でした。その創立に際して高野岩三郎が果した役割は、決定的といってもよいほど大きなものでした。このように見てくると、高野房太郎がガントンの書物に接したことは、日本の労働運動だけでなく、日本における経済学の発展にも、思いのほか大きな影響を及ぼしたと言えるのではないでしょうか。
*1 一八九二年三月七日付、高野房太郎より高野岩三郎宛書簡
*2 日本雑貨店の創業前後については、「米国桑港通信」第一回、同第二回、同第三回など参照。機械製材の計画については、本稿第三三回「材木伐出場」起業計画参照。
*3 どうやらこの翻訳原稿は刊本にはならず、日の目をみることなく終わったようである。また残念ながら、訳稿も残っていない。
*4 一八九〇年一〇月九日付、房太郎より岩三郎宛書簡参照。
*5 George Gunton Wealth and Progress: A Critical Examination of the Labor Problem , D.Appleton and Co., New York, 1890. pp.378-382.
*6 一八九二年五月三一日付で Ricards Political Economy and Taxation を発注(代金として二ドル前払い。本は一ドル五〇セント。五〇セント預け)すると同時に、多数の経済学書の価格を問い合わせていることが、同年六月八日付の G.P.Putnam's Sons(ニューヨークの書籍商)から、タコマの房太郎宛ての返事によって分かる。問い合わせた書物の著者名、書名と価格は以下のとおり。
Walker,F.A.Politil Economy $2.50
Jevons,W.S. Theory of Polit. Economy $2.50
Cairnes, J.E., Some Leading Principle in Politil Economy $2.50
Thornton,W.T. On Labor, $5.60
McCullock,J.R., Plinciple of Politc. Economy $2.50
Perry,A.L. Political Economy $2.50
Malthus, T.R. An Essay on the Principle of Population $2.00
Senior,U.W. Treaties on Political Economy published London 1852, now out of print
Sidgwick, H. Principles of Political Economy $4.00
Carey, H.C. Manual of Social Science $2.25
この他、G.P. Putnam's Sons から一八九二年八月一二日付送り状、同年八月一五日付の手紙などが残っており、上記の書物の他、多数の経済学書について問い合わせたり発注していることが判明する。
また、一八九二年九月二三日付の岩三郎宛て書簡では、つぎのように述べている。
「経済書は今では二〇冊以上所蔵しています。二、三日前にさらに二〇冊ほど注文しましたので、経済書の蔵書という点では恥ずかしくないものだと思います。実は、月々2,三冊ほど注文するつもりでしたが、一〇冊以上まとめて注文すると2割引になるとのことで、その方が得だと考え、余剰金があるときは貯金しておいて一度に注文しました。小生が帰国する際に貴弟への土産物としては、ただ経済書とエンサイクロペディア・ブリタニカ二八冊があるだけです。