二 村 一 夫 著 作 集
The Writings of Kazuo Nimura



高野房太郎とその時代(74)

二村 一夫
期成会大運動会を禁止した警察を風刺した『労働世界』第10号の挿絵。左上が警官で「汝等は毎日十三時間づつ働きて満足すべし」と記されている。

6. 労働運動家時代

期成会大運動会
     への禁止命令


 農商務次官、農商務大臣を歴任した金子堅太郎が期成会の演説会に出演したように、官界のなかにも労働運動に理解をしめす人はいました。しかし警察官僚は、民衆の自発的運動に対し伝統的に強圧的な姿勢をとり続けてきただけに、労働組合期成会に対しては初めから強い警戒心をいだいていました。房太郎ら主立った活動家には「要注意人物」のレッテルが貼られ、巡査が尾行し、その身辺を嗅ぎまわりました。さらに警察は、会員の名簿提出を要求したり、演説会場を貸さないよう貸席に圧力をかけるなど、ひそかに運動を妨害して来ました。しかし政府が労働運動に対しどのような方針を抱いているのかは、かならずしも明確ではありませんでした。それが自由放任ではなく、抑圧干渉にあることが明らかになったのは、1898(明治31)年4月1日、警視庁が労働組合期成会の大運動会に対して発した禁止命令でした*1

 この労働組合期成会の大運動会は、4月3日に、期成会の事務所にほどちかい呉服町永楽町原から上野公園まで行進し、博物館脇で花見をかねて食事をともにし、運動会を開くという娯楽的な色彩の強い計画でした。大人30銭、子供5銭の会費を徴収し、揃いの帽子やバッジを着用し、隊伍を組み、楽隊を先頭に、幟をひるがえして行進することになっていたのです*2。以前紹介した鈴木純一郎作の労働歌「天にそびえる富士の山も 一の土の塊りぞかし」は、この日のために準備された歌でした*3
  娯楽的色彩の強い企てとはいえ、主催者側がメーデーを意識し、これを模した集会を日本で開く意図をもっていたことも、また確かです。『労働世界』はこの運動会を「大労働記念日」と呼び、英文欄では「The Labor Day」と伝えているのです。
  4月3日は「神武天皇祭」、つまり「初代の天皇」神武天皇が亡くなった日を記念する国家的な祝日でしたから、陸軍工廠はじめ多くの工場は休みで、これを利用して会員の親睦をはかり、その勢力を誇示することを企てたのでしょう。この計画を『労働世界』第8号(1898年3月15日)と『労働世界』第9号(1898年4月1日)は、以下のように報じています。 

鉄工組合の運動会
 労働組合期成会鉄工組合は、新春、風正に暖かに、四方の景色ようやく艶ならんとするきたる四月三日を期し、労働組合の運命を春の草木になぞらへて、大運動会を上野に催さんとす。当日の集合場は日比谷にて、ここに先ず勢揃をなし、何れも徽章を附け列を正し、夥多あまたの旗を推し〔押し〕立て、楽隊を率ゐ、爽快なる奏楽の響きと共に練兵場を繰出して上野に向ひ、清閑幽壮せいかんゆうそうなる東叡山とうえいざん〔寛永寺=上野公園〕に於て日本大労働者の大活劇を演ぜんとす。余興には種々の嗜好〔趣向〕をらし、遊戯又すこぶる趣味多き者なりと云へば、当日の見事の程ぞ思い遣らる。会費三十銭にして、此盛会に集まる者総て三千人程なりと云ふ。
大労働記念日
 労働組合期成会の大運動会は来る四月三日に催されんとす、其順序手続き等は詳細広告欄内に在るが如し。四月三日は実に我国労働運動の一大祭典にして永く史上に記録せらるべき記念日ならんとす。会員の意気込定めし盛んなるべし吾人労働世界は会員諸氏の奮って起たれん事を希望す。

 どうやら最初にこの計画を立てたのは鉄工組合で、結局は労働組合期成会全体として取り組むことになったようです。「四月三日は実に我国労働運動の一大祭典にして永く史上に記録せらるべき記念日ならんとす」との一文に、その意気込みの程がうかがえます。

 ところが、この計画が『労働世界』に公表されると、3月23日、日本橋警察署は高野房太郎を呼び出し、「警視庁は今度の計画に対し不認可の意向であるから、今のうちに中止した方が得策であろう」と説諭を加えたのでした。驚いた房太郎は「われわれは何も不穏なことを計画している訳ではない。それを禁止するとは」と、その足で佐久間貞一を訪ねて事情を説明し、支援を依頼したのでした。東京市議会議員でもある佐久間は、翌24日警視庁に赴いて川田正根警視*4に面会し「労働組合期成会の性質を述べ、その運動を圧制するが如きは全く不得策なり」と説いたのでした。これに対し川田警視は「佐久間君にして今回の運動会に関し、一切職工の気炎を高むる様の結果を将来に来さヾらしむと云ふ保證を与ふるならば、今回の運動会を許可せん」と答えたと言います。
  おそらく佐久間の示唆によるものでしょう、翌25日、今度は房太郎が直接警視庁に出向いて川田警視に面会し、期成会の性質について説明すると同時に「何が問題なのか、どこをどのように変更すれば認可していただけるのか、お示しくだされば、如何様にでも変更するから」と申し入れたのでした。それに対する川田の答は「警視総監に尋ねた上、追って沙汰すべし」というものでした。
  期成会はその警視総監の回答を待っていたのですが、3月末まで何の沙汰もありませんでした。そこで、警察が懸念している点は「職工の気炎を高める」ことにあるとすれば、大勢の労働者が隊伍を組んで市中を練り歩くことが問題視されているに違いないと推察し、万一行列行進の禁止を命令された場合には、三々五々上野公園に集まった上で運動会を開くよう、二段構えの準備を進めたのでした。そして4月1日に麹町警察署に出頭し、口頭で3日に運動会を開く旨を届け出たところ、直ちに禁止を命令されたのでした。しかも命令は、単に行進を禁ずるだけでなく、運動会のために上野に集合することさえ禁止するものでした。
  このため、せっかく準備した1500人分の辨当や依頼した3つの楽隊との契約、帽子やバッジは無駄になりました。しかし房太郎らが恐れたのは、そうした経済的損失よりも、労働組合は不穏分子の集まりであるとの印象を世間に与えることでした。なるべく、問題を穏やかに受け流したいと考えていたのではないかと推測されます。『労働世界』第10号は「労働運動の衝突」と題する社説を掲げたのをはじめ、各所でこの問題を論じていますが、そのひとつ「労働組合期成会大運動会禁止の顛末」は、その最後に「警察の圧制に対して労働組合期成会の取るべき今後の態度」と題して、次のように記しています。

 〔期成会は〕徹頭徹尾平和主義を取るの覚悟にして、今後飽く迄此主義を以て凡ての困難に耐へ遂に社会をして自ら仝会のえん〔ぬれぎぬ〕を認視せしむるの決心を以て進む者なりと云ふ。

   ちなみに、冒頭に掲げた絵は、この号の巻頭を飾った挿絵で、期成会の大運動会禁止を風刺したものです。左上が警官で「汝等は毎日十三時間づつ働きて満足すべし」と記されています。楽隊を先頭にした行列が、「労働組合期成会」の幟を立て、鉄工組合事務所を出発して行進している絵柄です。右端の文字は「四月三日の外は休日なし」と記されています。

奠都30年祭

 ところで、いったんは禁止されたこの期成会の大運動会は、当初の計画から間もない4月10日に実施されています。実はこの日は首都が京都から東京へ移転したのを記念する奠都てんと30年祭が挙行され、その祝賀行列などが開かれたのでした。
  期成会は、その機会を利用して街頭行進をおこない、運動会も開いて、先に禁止された集会の憂さを晴らしたのでした。これについて、『労働世界』第11号は、次のような小さな記事でこれを伝えました。

  労働組合期成会奠都祭
 労働組合期成会にては去月三日の大運動会を禁止せられ、諸般の計画全く無駄となりしは誠に残念の次第なるが労働組合期成会はその後十五日上野に於て奠都祭を祝したり。会衆凡そ八百人在り。盛会にして一同歓を尽して散会したり。会員皆静粛にして一人として酩酊暴行の挙を演じたる者なし。是れ素より当然の事にして世人若し労働組合期成会を見て以て例の乱暴無頼の徒の寄合と見たらんにはそれこそ非常の間違いなるべし。

 この記事ではちょっと事情が飲み込み難いところがあります。しかし、1898年4月30日付で房太郎がゴンパーズに宛てた手紙を読むと、いくらかこの間の事情が分かります。日付や人数に『労働世界』記事とは、若干の食い違いはありますが*5

 労働組合期成会の野外での示威集会が今月3日に開かれることになっていましたが、警察当局によって禁止され、中止を余儀なくされました。労働者の権利に対する著しい侵害が、治安維持の名のもとに行われたのです。私たちは、なぜこの集会が治安を乱すことになるのか理解できなかったので、その理由を明らかにするよう当局に強く要求しましたが無駄でした。われわれが受けた印象では、当局は労働運動そのものを治安を乱す要因とみているようです。彼らは、こうした誤った考えを変えることはにべもなく拒否する一方、もしもわれわれがその専制的な命令に服従しない場合には、どうなると思うかと脅すのです。
 今のわれわれは、警察に対しては無力な立場にありますから、仕方なしに彼らの命令にしたがい集会をとりやめました。しかし、今月10日には、遷都30年祭の祝賀があり、これには全市民が参加しました。この機会をとらえて、われわれは先に中止した集会を開く準備をすすめ、当日は遷都祝賀の名のもとに集会を開きました。1000人をこえる会員が参加しました。われわれは上野公園まで街頭行進をおこない、公園の運動場でスポーツなどを心ゆくまで楽しみました。それはまことに楽しいひとときでしたが、われわれは警察当局がジレンマに陥っていたことに気づきました。天皇の健康を祝賀するこの集会を妨害すれば、彼らは不忠の臣となるので、不本意ながら当局はこの集会を許可したのです。こうして、われわれは警察当局と衝突することなく目的を達成しました。



*1 1898(明治31)年4月21日付『万朝報』「論壇」欄で、蝦州生(柳内義之進)は次のように論じている。

 労働者に対する政府の方針、自由放任にある乎、将た抑圧干渉にある乎は、是れ余輩が久しく聞かんと欲して而して聞くを得ざる所なりしに、頃者けいしゃ〔=近ごろ〕偶然の出来事は、事実上に於て政府の方針前者にあらずして後者にあるを示すに似たり。聞くが如くんば、都下唯一の労働団体を以て目せらるヽ労働組合期成会は、本月三日上野公園に於て会員の運動会を催ほさんとの計画を為したるに、政府は故なく之を認可せざりし為め、遂に其計画を中止するの已むを得ざるに至れりと、若し其れ之をして事実ならしめば、労働者に対する政府の方針は、言ふまでもなく抑圧干渉にあるものヽ如し〔後略〕。


*2 『労働世界』第9号に、3月13日の委員会で決められた大運動会の詳細な計画と参加者に対する注意事項が掲載されている(復刻版91ページ)。

*3 この日本最初の労働歌については第68回「鈴木純一郎のこと」を参照。

*4 川田正根は『警視庁職員録』(明治30年1月)では、総監官房第一課の課長で、正七位、高等官六等となっている。なぜか『警視庁職員録』明治31年にはその名が見当たらない。

*5 『労働世界』第11号の記事では、開催日は4月15日、房太郎からゴンパーズ宛ての手紙では4月10日となっている。これは『労働世界』の記事が間違いで、10日が正しい。また参加者数は前者では800人、後者では「1000人を超える」となっている。しかし、実際に会費を払って参加した会員とその家族は602人で、うち114人は子供であった(『労働世界』第14号、復刻版139ページ)。支部別の参加人員も分かるが、鉄工組合で最大の組織人員を擁する東京砲兵工廠の労働者の参加がきわめて少ない。おそらく同日は砲兵工廠は休日ではなかったからであろう。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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