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二村 一夫
大原社会問題研究所の100年

はじめに

 本日はこのように大勢の皆さまが,それも倉敷や北海道など全国各地からお集まりくださり,まことに有難く,関係者のひとりとして心からお礼申し上げます。私のような一介の歴史研究者の話に「記念講演」と銘打たれては,ちょっと気恥ずかしいのですが,創立100周年・合併70年の記念の集まりですから,ご容赦ください。一歴史研究者としては,自分が長い間かかわってきた研究所の歴史でも,出来るだけ客観的に論じたいという思いがあります。ただ,そうなると,諸先輩の活動について批判的に述べざるを得ないこともあり,ためらいがあります。しかし今日は,なるべくそうした気持ちは抑えて,大原社会問題研究所100年の歩みをふり返ってみようと思います。


1 大阪時代の大原社会問題研究所

★大原孫三郎が「心血を注いで作った」研究所

まず最初に取り上げなければならないのは,研究所を創設した大原孫三郎のことです。ただ,彼はたいへん複雑な性格の持ち主で,とても一筋縄で論じうる人ではありません。それだけに,話し始めると,この方だけで時間を使い切ってしまいそうです。実は,私はこれまで何回か大原孫三郎のこと,あるいは研究所の創立をめぐる諸問題について論じています。また,その記録はすべて,私の個人サイト=《二村一夫著作集》に収録してあります。大原孫三郎と私の名を入れて検索してくださればすぐ出て来ますので,詳しくはそちらに譲ります(1)。今回は,大原孫三郎にとって,大原社会問題研究所はどのような意味をもっていたのか,この点についてのみお話しいたします。
 ご承知のように,大原孫三郎は社会問題研究所だけでなく,農業研究所,労働科学研究所,あるいは大原美術館など,いくつもの社会文化施設を設立しています。実は,その中でも大原社会問題研究所は特別な存在でした。彼自身の言葉を借りれば「心血を注いで作った」(2)ものだったのです。実は,大原孫三郎は,大原社会問題研究所を創立する4年も5年も前から,小河滋次郎や安部磯雄の話を聞いて,防貧問題の解決策を科学的に追究する研究所の設立を考えていました。彼はまた企業経営者でしたから,労使関係を円満に維持する方策を求めており,その点でも役に立つ研究所の創立を考えていたと思われます。こうした二つの希望が大原社会問題研究所の創立につながったのでした。
 孫三郎は,さまざまな社会文化事業に寄付をしています。その数は130件を超え,総額では480万円を超えています(3)。そのうち大原社会問題研究所には185万円,全体の4割近くを費やしています。彼がいかに大原社会問題研究所を重視していたかは,この金額だけでも分かります。はじめは孫三郎自身が所長となり,研究所を運営することも考えていたようです。しかし高野岩三郎と会ったことにより,この男に一任しようと考えたのでした。


★高野岩三郎 ─ 研究所の個性を決めた人物

 大原社会問題研究所の個性を決めたのは高野岩三郎です。岩三郎の兄は,日本の労働組合運動の生みの親である高野房太郎です(4)。岩三郎は,この兄がアメリカで出稼労働者として働き,その仕送りで帝国大学法科大学まで学ぶことが出来たのです。さらに大学院へも進み,母校の教授となりました。この間に社会政策学会の創立にもかかわっています。
 実は,大原研究所の設立準備段階では,東京帝大より,むしろ京都帝大の河田嗣郎や米田庄太郎らが大きな役割を果たしていました。高野岩三郎も社会問題研究所の創立総会に参加してはいますが,そのときは3人の「委員」のひとりに過ぎませんでした。ところが研究所創立から半年も経たないうちに〈ILO労働代表事件〉が起き,高野は東大教授を辞職します。さらにその直後には,高野の弟子で東大助教授だった森戸辰男・大内兵衞の二人が〈森戸事件〉で有罪判決を受け失職しました。また高野の周辺に集まっていた講師や助手 ─ 櫛田民蔵,権田保之助,細川嘉六ら ─ も,森戸事件に対する東大経済学部教授会の対応に抗議し,辞職する事態になったのでした。
 高野岩三郎が東大教授を辞めたことを知って,孫三郎は彼に研究所の所長になるよう懇請します。この請いを容れて,高野が大原社会問題研究所の所長就任を決断したのは,〈森戸事件〉で職を失った弟子たちに研究の場を与えようと考えたからだと思われます。「高野岩三郎日記」の1920年1月13日の項には,高野を中心に組織されていた研究者集団=「同人会」としての「〈森戸事件〉への対処方針」が記されています。次のような文章ですが,これは,そのまま大原社会問題研究所の方針になった,と考えられます。

目的─最モ合理的ナル社会ノ構成
 手段─漸進
 場所─真理探究ノ府タル大学
 時期─研究未ダ積マズ同人少ナキ時,尚早
 今回ノ問題ニ関シ同人離散防止ノ必要,刻下ノ急務トシテ森戸君ヲ擁護セザルベカラズ,ソノタメ一旦復職セシメザルベカラズ,但シ森戸君ハ大原研究所ニテ研究ヲ続ケ時機到来ヲ待ツ コト。コノタメ必要ナラバ余ハ講師ヲ承諾シ又復職スベシ,且研究所ノ完成ニ力ヲ尽スベシ。

 つまり高野岩三郎は,学問研究の目的は,「最も合理的なる社会」を「漸進」的に構成することにあると考えていました。これは,大原孫三郎が求めていた,「防貧研究」ともあい通ずるところがあります。所長としての高野は,東大経済学部統計研究室での「同人会」メンバーによる研究活動の延長線上に,研究所のあり方を構想したと思われます。その結果,大原社会問題研究所は,研究員が各自の研究関心にもとづいて選んだテーマを自由に研究する場となったのでした(5)
 もちろん研究所としての業務はありました。『日本労働年鑑』『日本社会事業年鑑』『日本社会衛生年鑑』の編集,あるいはウエッブ夫妻の著作の翻訳,さらには和洋図書や資料の収集などです。しかし研究員は,これら業務の責任者にはなりましたが,実務を主に担ったのは,助手や職員・嘱託でした。研究員の任務は,自分の関心あるテーマについて研究し,その成果を『大原社会問題研究所雑誌』や『研究所パンフレット』『研究所叢書』に発表することでした。
 研究員は,それぞれの分野で先駆的な業績をあげました。統計学では高野岩三郎,大内兵衞は財政学が本領ですが,統計学の分野でも高野の後継者です。マルクス経済学の櫛田民蔵,久留間鮫造,宇野弘蔵ら,社会思想史や教育問題の森戸辰男,児童問題研究の高田慎吾,娯楽研究の権田保之助,社会調査では大林宗嗣と権田保之助,米騒動研究の細川嘉六らです。注目されるのは,森戸辰男をはじめ,大林宗嗣,大内兵衞,高田慎吾らがいずれも「婦人問題」に関心を示し,女性学研究の先駆的業績をあげていることです。これは,所長の高野岩三郎の「婦人職業問題」重視の姿勢が影響したものと思われます。1925(大正14)年に,高野は「本邦に於ける婦人職業問題」と題する講演を行っていますが,そこで彼は「現代社会の二大問題は労働問題と婦人問題である」と指摘した上で,婦人問題の解決には,「同一労働には男子と同じ報酬を,政治上には婦人参政権,教育上には男女機会均等を要求し,根強い堅塁を覆すより外にない」と論じているのです。
 大阪時代の大原社研の活動として注目されるのは,多額の資金を費やして,外国語の図書を購入したことです。労働科学研究所や農業研究所なども洋書を買い集めていますから,孫三郎の意向も働いていたのでしょう。収書だけを目的に櫛田・久留間の二人がヨーロッパに派遣されています。もちろん日本語の本も集められました。さらに重要だったのは,各種年鑑の材料を集める意味もあり,資料室を設けて,労働組合や無産政党・社会運動に関する原資料を収集したことです。大原社会問題研究所というと,すぐ引き合いに出されるものにマルクス署名入りの『資本論』初版があります。これはもちろん貴重な本ですが,マルクスの署名入り『資本論』初版は,世界中に15冊も残っているそうです。貴重ですが,稀少ではありません。図書は印刷部数が多い上に,図書館や個人の蔵書家が保存するので,残りやすいのです。それにくらべ,手書きのメモや謄写版印刷のビラなどは,作成される数が少ない上に,その時点では誰も貴重とは考えていなかったので,これらを保存する機関は皆無でした。そうした中で,大原研究所の資料室は,『年鑑』執筆材料の収集とともに,ビラやポスターなど「原資料」の収集保存にも力を入れました。第一次普選の際には,「無産政党」の候補者を中心に選挙ポスターを集め,なかには新聞紙に赤インクで名前を書いただけのものでさえ,それも電柱から剥がしてまで保存する眼を,資料室の担当者はもっていました。司書や資料室主任が,業務はそのまま「研究員」として処遇されたことも,専門職の重要性を認識していた所長の見識を示しています。


★8年に及んだ研究所存廃交渉

研究員各員が自由にテーマを選んで研究するといった研究所の運営方針は,創設者の孫三郎からすると,やや想定外というか,期待を裏切られたと感ずることもあったと推測されます。孫三郎は,もっと具体的な貧困対策や労働問題解決策の案出を研究所に期待していたと思われます。しかし彼は,いったん高野に任せた以上文句は言わず,「金は出しても,口は出さない」態度を貫きました。
 ところが1928年におきた〈3・15事件〉の際に,大原研究所が官憲の捜索を受けたことを機に,孫三郎は研究所の廃止を考え始めます。この事件で,世間は,大原社会問題研究所を〈アカの巣〉とレッテルを貼り,「資本家の大原孫三郎が資金を出して,アカを養っている」といった話が広がり,孫三郎の経営にも悪影響を及ぼしました。もうひとつ,孫三郎が研究所廃止を考えざるを得なくなった背景には,1920年代に,大原家が,またその経営する倉敷紡績が,財政的にきわめて厳しい状況に陥っていたことがありました。1927年の金融恐慌では,孫三郎が取締役をつとめていた近江銀行が破綻し,大原家は私財55万円の提供を余儀なくされています。また第一次大戦中に空前の利益をあげ6割配当までした倉敷紡績も,1920年代になると,反動恐慌,金融恐慌,大恐慌と,経営環境は悪化を続け,1930年下期の決算では139万円もの営業赤字を出してしまいます。株式は無配となり,人員整理・賃下げに追い込まれ,労働争議も発生しました。こうなると,株主はもちろん倉紡関係者の間でも,孫三郎が研究所に多額の資金を出していることへの批判の声があがりました。
 この問題が最終的に決着したのは,研究所廃止問題が浮上してから8年余も経った1936年(昭和11年)7月のことでした。このように時間がかかったのは,大原孫三郎と高野岩三郎が,かわるがわる大病を患ったという偶然の出来事もありましたが,何よりも孫三郎が,一方的に資金提供をストップすることなく,合意による解決を求めたからでしょう。最終的に決まった条件は,研究所の土地建物のすべてと図書の一部を大阪府に売却した代金20万円と,さらに大原家からの支援金10万円で,いったん研究所を整理し,規模を縮小して東京に移転し,存続を図ることでした。



2 東京移転 ─ 戦中戦後の研究所

★ 東京・柏木時代

 再建された研究所の移転先は,東京市淀橋区柏木4丁目896番地でした(6)。私も,資料整理のために,柏木の土蔵には何回も通いましたから,ちょっと懐かしい場所です。中央線大久保駅南口から「大久保通り」を小滝橋方向へ10分ほど歩くとなだらかな下り坂になり、左側に低い石垣積みの台地があり、そこに焼け残った土蔵が建っていました。道路をはさんで斜め向かいに,東京薬科大学の校舎が見える位置でした。
 柏木時代の研究員は高野,森戸,権田,久留間,大内,鈴木鴻一郎の6人でした。鈴木は1935年に助手として入所したばかりの新人でしたが,他はいずれも創立直後からの研究員でした。このほか司書の内藤赳夫,資料室主任の後藤貞治ら2,3人の職員がいました。「柏木時代」はずっと戦時体制下で,大原社会問題研究所にとっては,厳しい時代でした。研究所の看板ともいうべき『日本労働年鑑』も,東京移転後3冊目の〈昭和15年版〉を出したのを最後に,内務省の「内命」で刊行出来なくなりました。この時代の研究所の主たる事業は《統計学古典選集》13巻の翻訳出版でした。ほかには,ナチスドイツの労働戦線に関する書籍を翻訳したり,『決戦下の社会諸科学』などを刊行して,〈冬の時代〉を凌いでいました。この期の研究所をどう評価すべきか,難しいところがあります。
 ただ思想弾圧が厳しく,研究所の解散命令さえ取り沙汰されたこの時代(7)を,研究所が何とか乗りこえたからこそ,この100周年も迎えることが出来たわけです。柏木時代の研究所は財政的にもきわめて厳しい状態で,1942(昭和17)年度の予算は、前年の65パーセント弱に切り下げざるを得ず,蔵書の処分も検討されました。本の売り先について相談を受けた東洋経済新報社の三宅晴輝が散逸を惜しみ,鮎川義介の財団《義済会》から年3万円の支援をとりつけてくれて,急場を凌ぐことが出来たのでした。
 しかし戦争は,研究所にさらなる打撃を与えました。米軍の空襲で研究所がほとんど丸焼けになってしまったのです。1945年5月24日・25日のことでした。東京大空襲というと3月10日が良く知られていますが,これは人的被害の大きい下町大空襲でした。しかし,5月24,25日は,B-29が500機ずつの2波に分かれて山の手を襲い,20数万戸が焼かれました。法政大学も,この空襲でほぼ全焼したのです。大原研究所は,事務所と10数万冊の図書・資料をおさめた書庫を焼失し,土蔵だけが焼け残りました。この研究所焼失のようすは,当時,研究所に住み込んでいた大内兵衞が「大原社会問題研究所炎上記」(8)に,詳しく書き残しています。大内家は,研究所の隣町である大久保百人町にあったのですが,空襲に備えて火除地をつくるための〈強制疎開〉にあい,研究所を住居としていたのです。疎開先から研究所へ戻っていた森戸辰男も,この空襲にあっています。焼失後,研究所は高野所長の自宅に仮事務所を置きましたが,所員はそれぞれに疎開し,開店休業状態でした。その状況は,戦後もしばらく続きました。


★大原社会問題研究所と戦後日本

 敗戦は,大原社会問題研究所をとりまく状況を大きく変えました。戦前の研究所は体制に批判的な〈少数派〉的存在で,戦時中はひっそりと,辛うじて生き延びていた有様でした。しかし敗戦によって,事態は一変しました(9)。研究員の多くは,各方面からその学識や才能を評価され,引く手あまたの状態でした。大内兵衞は東大経済学部に復帰し,その再建の中心となり,森戸辰男は社会党の衆議院議員となり,片山内閣と芦田内閣で文部大臣をつとめました。高野岩三郎は日本放送協会の会長に選任され,権田保之助も高野のもとでNHK専務理事として働きました。細川嘉六も共産党から出馬し参議院議員になりました。
 大原社会問題研究所を歴史的に評価するとなれば,この時代における研究員各人の社会的活動も視野に入れておく必要があるでしょう。良く知られているのは,日本国憲法制定時に,高野岩三郎や森戸辰男らが果たした大きな役割です。高野岩三郎の呼びかけで,戦後日本の再建について意見をかわす「日本文化人連盟」がつくられ,森戸はその事務局長に就任しました。日本文化人連盟は,その活動の一環として「憲法研究会」を設立しましたが,その創設を提唱したのも高野でした。憲法研究会には森戸や大内も加わり,1945年12月に「憲法草案要綱」を策定しています。この憲法研究会の「憲法草案要綱」が日本国憲法制定にあたって大きな影響力をもったことは,映画《日本の青空》でご存知の方も多いと思います。高野が憲法問題を重視した背景には,ウエッブ夫妻の影響があります。高野はウエッブ夫妻の著作を何冊も翻訳させていますが,その中にA Constitution for the Socialist Commonwealth of Great Britain(『大英社会主義国の構成』)があります。高野は自らの「日本共和国憲法私案要綱」を発表した論稿の最後でこの本にふれ,「私もまたいささかこれにならって我が国についての同種の企図を考慮している」と記しています。つまり高野は「日本共和国の構成〔憲法〕」を纏めたいと述べているのです。なお,この本は,高野の指示によって丸岡重堯が翻訳し,1921年に《大原社会問題研究所叢書》第10冊として出版されました。さらに戦後の1948年にも,大原社会問題研究所訳として第一出版から再刊されています。さらに1979年には,岡本秀昭兼担研究員の発意で,岡本自身がこれを『大英社会主義社会の構成』として改訳し,研究所創立60周年記念として木鐸社から刊行しました。原著が生まれた経緯やその意義については,改訳版に付された訳者解説に詳しく記されています。
 日本国憲法の制定過程では,森戸辰男が衆議院における審議に際して積極的に発言し,憲法25条の生存権条項を書き加えさせたことも良く知られています。また,評価は人によって分かれるでしょうが,森戸は片山内閣・芦田両内閣の文部大臣として,義務教育を3年延長する新たな学校制度「6・3制」をつくったほか,高校の定時制や通信制を設け,公選制の教育委員会を新設するなど,戦後日本の教育制度刷新に大きな役割を果たしています。その後も森戸は,中央教育審議会の初代会長をはじめ,教育関係を中心に数多くの役職を歴任し,戦後教育に大きな影響を及ぼしました。その背景には,森戸が大阪労働学校講師として労働者教育に尽力し,大教育家文庫の『オウエン・モリス』を著すなど,教育問題,とりわけ成人の社会教育に強い関心を抱いて研究していたことがあったのです。
 大内兵衞もまた,敗戦前の1945年4月から,渋沢敬三日銀総裁に招かれて,日銀調査局顧問となり,戦後に備えて,第一次大戦後のドイツのインフレや,国際通貨協定の研究を進めていました。さらに敗戦直後の1945年10月17日には,NHKラジオで「渋沢蔵相に与う」と題して放送しています。大内は,「渋沢さん」と呼びかけた上で「戦争の必要上行った政府の約束などは,事情が変わった今日,そのまま守る必要はありません。これを実行する上に一部の人の非難を恐れてはなりません。そういう意味で,大蔵大臣には蛮勇が必要であって,この蛮勇がなくては,国民を戦争責任者のつくった借金から,また来たるべき飢餓から免れることはできません」と語りかけました。この演説は大きな反響をよび,政府の財政政策にも影響を及ぼしました。『日本放送史』は,この演説のことを「名放送として,今も語り草に残っている」と記しています。大内はまた,吉田内閣の成立に際し,吉田茂から入閣を懇請され,これは断ります。しかし統計制度改革を一任されて〈内閣統計委員会〉委員長に就任し,戦後日本の統計制度を作り上げました。さらに〈社会保障制度審議会〉の初代会長となり,「社会保障制度に関する勧告」を行うなど,戦後日本の社会保障政策にも影響を及ぼしています。


★ 政経ビル時代

1946年5月,研究所は,駿河台の政経ビル(旧東亜研究所ビル)の一室で業務を再開しました。この激動の時代における研究所についても,検討すべき課題は多いのですが,今回は省きます。創立70周年の折に関係者に集まっていただいて開いた「座談会《政経ビル時代の思い出 ─ 戦後初期の大原社研》」(『大原社会問題研究所雑誌』363・364号,1989年2月・3月)に当時のことが語られていますのでご参照ください。『日本労働年鑑』戦後特集の2.1ストの記録は,後に東京三菱銀行の初代頭取となる高垣佑が,学生アルバイトとして執筆したことなど,敗戦直後ならではの興味深い事実が回想されています。
 こうして事業は再開されましたが,研究所の財政は悪化の一途をたどりました。1943年に始まった義済会の年3万円の助成は1946年で終わりました。同年暮には大原総一郎から3万円の寄付,文部省から年7万5000円の補助があり,栗田書店から年鑑編集費として月5000円を貰いました。しかし,激しいインフレの前に,どれも〈焼石に水〉で,職員の人件費さえ払えない状況に陥っています。戦後当初の責任者は森戸辰男常務理事でしたが,森戸が文部大臣に就任したため,久留間鮫造が後を継ぎました。当時を,久留間は次のように回想しています。

 もともとわたしは,こういうマネージメントのようなことをやる柄ではないのですが,終戦後高野先生は放送協会の会長になり,森戸君は代議士に当選,ついで文部大臣に就任する,また大内君は東大に復職して社会的にも大活躍するといった有様で,一番無能なわたしがやむなく研究所の責任を背負うことになっていたのです。そこでわたしは,次第に経営が困難になってくるにつれて,二つの方法を考えた。一つは蔵書の一部を処分して当分の資金を捻出すること,いま一つは有給者の大部分を一時解雇して事務所を私の家に移し,おもむろに時期を待つこと(「学究生活の思い出(続) ─ 大原社研とともに」,『思想』350号,1953年8月)。

 どちらの方策も,先の見透しは明るいものではありませんでした。売る蔵書には限りがあり,時期を待つとしても,打開策なしでは,ジリ貧状態になることは目に見えていました。こうした危機を乗り越え得たのは,法政大学と合併したからでした。


3 法政大学との合併

★合併にいたる経緯

 今日の会合は,創立100周年記念であると同時に,法政大学への合併70周年記念です。大原社会問題研究所は法政大学の付置研究所になることにより,ようやく生き延びることが出来たのですが,そのいきさつは『研究所五十年史』にも,あまり詳しく記録されていません。そこで今日は,この間の経緯について詳しくお話ししておきたいと思います。
 大原社会問題研究所が法政大学と合併したのは,ある意味では,自然の流れでした。当時の法政大学総長・野上豊一郎と高野岩三郎とは姻戚関係でした。野上豊一郎・弥生子夫妻の次男・茂吉郎が,高野岩三郎・カロリナ夫妻の三女で末っ子の正子と結婚しており,両家は日常的に交流していました。野上弥生子の日記や書簡には,正子についてはもちろん、岩三郎についても「高野のパパさん」として、頻繁に言及されています。1947年3月に野上豊一郎が法政大学総長に就任すると,岩三郎はすぐに法政大学の〈学事顧問〉に迎えられています。久留間鮫造が1946年10月,法政大学経済学部教授となったのも,この野上・高野の縁故によるものでしょう。
 さてここからが合併のいきさつです。話は研究所側から出たことではなく,大学側から出たものでした。発案者は,野上総長のもとで〈校友理事〉として,法政大学を取り仕切っていた中野勝義です。中野という人は,飲んべえで,酔うとよく殴り合いの喧嘩をすることでも有名だったようです。しかし,彼は,その企画力と実行力において飛び抜けた存在でした。学生時代には,法政大学に新聞部や航空研究会を創立する中心となり,卒業後は朝日新聞社の航空部に入り,法政大学の学生によるヨーロッパ訪問飛行を計画し,実現させています。敗戦後は,占領下で仕事を失った航空関係者の生活を助けるため,社団法人〈興民社〉を設立し,その専務理事として活躍しました。講和後は,興民社を母体に〈日本ヘリコプター輸送会社〉をつくり,さらにはこれを全日本空輸株式会社,つまり「全日空=ANA」へと発展させた中心人物です。大内兵衞は中野に対していつも,「君は第二の岩崎弥太郎になれ。岩崎は海運で三菱をつくったが,君は〈全日空〉で日本の航空業の王座に座れ」と言っていたそうです(10)。その道なかばの1960年,中野は故郷の北海道で,搭乗していた自社の小型機が墜落して亡くなりました。まだ56歳になったばかりでした。
 今ではあまり知られていないことですが,法政大学は,東京六大学の中でも,戦争の被害が最も大きかった学校です。他大学では,東大の安田講堂,早稲田の大隈講堂,立教のチャペル,慶應の図書館旧館,明治の記念館など,戦前からの建物が焼け残っています。しかし法政大学は,空襲によって主な校舎をほとんど焼失していたのです。中野勝義は,こうした丸焼け状態の法政大学を,野上豊一郎・大内兵衞両総長のもとで再建するのに大きな功績がありました。彼は先見性のあるアイディアマンでした。法政大学通信教育部は,戦後日本における最初の大学通信教育部で,早くも敗戦2年後には,文部省の認可手続きを終え,発足しています。また法政大学出版局も,大学出版部のなかではごく早い1948年暮に設立されました。この通信教育部も出版局も中野勝義が発案し,周囲を説得して実現させたものでした。通信教育は,教室が小さな大学でも,多くの学生を集めることが出来ます。また大学出版部は,通信教育の教材だけでなく,一般書も出して,大学の智を社会に開放することで大学のイメージアップを図る狙いがありました。
 この中野が酒の席で,久留間鮫造に,「先生,もっと法政大学のために力を貸してください」と言ったそうです。久留間は「僕は大原研究所があるからダメだ」と答えたのに対し,中野は「そんなら研究所をそっくり大学の中へもって来たらどうです」と説いたといいます。これが70年前,大原社会問題研究所が法政大学と合併することになるキッカケでした(11)。財政的に行き詰まっていた研究所側からすれば願ってもない話で,関係者相談の上,合併の運びとなりました。1949年7月29日,両者は「合併覚書」を取り交わし,研究所は8月23日に法政大学図書館の一室に移転しました。同年10月16日,財団法人大原社会問題研究所としては最後となる委員会が大内兵衞宅で開かれ,財団法人の解散と法政大学への合併を議決,12月8日には文部省から認可されました。
 法政大学が大原社会問題研究所を招いた理由について,当事者は何も語っていません。しかし,その後の経緯や,さまざまな史料を読み解くと,一番の目的は,歴史ある有名な研究所を傘下に加えることで,法政大学の学術的・社会的評価を高めようと考えたものと思われます。当時の法政は,今とくらべ規模は小さく,財政的にも余裕はありませんでした。にもかかわらず大原研究所はかなり優遇されました。その何よりの証拠は,法政大学が戦後最初に新築した〈53年館〉5階に,大原社会問題研究所が専用スペースを与えられたことです。戦後の法政大学に何より必要だったのは教室でした。しかし戦後最初の教室棟は〈55年館〉で,大学院・研究棟である〈53年館〉の2年後の竣工です。この〈53年館〉は,法政大学が単なる教育機関ではなく,最高学府として「研究の場」でもあることを世間に誇示する「広告塔」でした。6階建ての,当時としてはかなりの高層建築です。壁面は全面ガラス張り,屋上にはネオンが輝いて中央線の電車の中からも見え,時代の先端を行く建築として話題を呼びました。大内総長は「あれは法政の広告です。ああゆうことも必要があるんです」と『週刊朝日』に掲載された徳川夢声との対談で語っています。大原社会問題研究所は,新設の野上記念能楽研究所とともに,〈53年館〉がカラッポの建物ではなく,研究機関を備えた施設であり,法政大学の研究機能を示す役割を担っていたのです。
 ところで,中野勝義が大原社会問題研究所を法政大学に呼んだ理由は,もうひとつあったのではないか,と私は考えています。それは,次期総長として大内兵衞を招くための布石だったに違いない,そう推測しているのです。1950年2月23日,野上豊一郎総長が亡くなったその日,野上側近の教え子5人だけが残った通夜の席で,「夜の白むまで,総長後任の問題につきわれわれの考えをまとめることに中野さんは異様な情熱を傾けた」(12)と記録されています。
 中野は大内兵衞を法政の次期総長にすることを野上総長の生前から考えており,そのためにいろいろな手を打っていた。そのひとつが,大原社会問題研究所を法政大学へ招致することだったと思われます。中野勝義という人は,さまざまな事業を手がけましたが,彼自身がトップに座ったことは,ただの一度もありません。最高責任者には,学識あり社会的にも知名度の高い人物を選び,その人の社会的影響力を生かし,その下で辣腕を振るっています。興民社・日本ヘリコプター・全日空の各社で社長になったのは,朝日新聞の編集局長・常務取締役・航空部長だった美土路昌一です。法政大学通信教育部の設置に際しては,法政大学にも法学部はあり法学教授もいるのに,部長には美濃部達吉を迎え,東京大学法学部の我妻榮・宮沢俊義・横田喜三郎を説得し,彼ら3人を「幹事」として発足しています。
 中野勝義は,病身だった野上豊一郎総長の後任として,早くから大内兵衞に目をつけ,東大の定年後,引く手あまただった大内を法政大学総長に招聘するための条件を整えていたのだと思われます(13)。実のところ,大内兵衞の総長就任は難航しました。大内兵衞が東大を定年退職したのは1949年3月,彼が総長に就任したのはその1年半後の1950年9月です。戦災による被害の大きい法政大学の実情を知り,大内はかなり迷ったのだと思います。彼自身『経済学五十年』のなかで「ぼくが法政に入ったのは全く思いもよらぬ偶然であった」と言い,友人の久留間鮫造や錦織理一郎の説得,理事の中野勝義の誘引によるものだった,と述べているのです。


★財団法人法政大学大原社会問題研究所

 法政大学への合併と同時に,研究所はいったん大学付置研究所になりましたが,すぐ大学とは別法人の「財団法人法政大学大原社会問題研究所」に改組されました。これは,独立法人の方が,補助金や寄付を集めやすかったからだと思われます。しかし財団法人となったため,法政大学が大原社会問題研究所を維持するために毎年支出する金額が丸見えになりました。大学の評議員会では,毎回,大原への寄付金の大きさが問題になったそうです。こうした状況を,久留間所長は「控え目に・慎ましく」という方針で,やり過ごすことに努めました。財団法人化は,研究所の独自性を保ち,職員の専門職的能力を育成強化する面ではプラスでした。しかし反面,組織が閉鎖的となり,人事や運営面で,さまざまな問題が生じました。とりわけ研究所の運営を担った人びとが,研究所をとりまく環境が戦前とは激変したことを認識せず,また私立大学における研究所の在るべき姿についてあまり考えず,学部教員との関係に配慮しなかったことは,研究所の活力をそぎ,研究所を学内で孤立化させました。
 この時期,研究所が,その事業の中心としたのは『日本労働年鑑』でした。政経ビル時代に編集を終え,合併直後に刊行された第22集《戦後特集》は,統計資料の不足などから「労働運動」の部だけでした。しかし第23集からは,第1部労働者状態,第2部労働運動,第3部労働政策の3部構成に復帰しました。年鑑の発行所は第22集は第一出版,第23集から28集までは時事通信社,第29集から第35集まで東洋経済新報社でした。このように出版社が頻繁に変わった一因は,編集・採算の両面で問題を抱えていたからです。年鑑ですから,運動の発展にともない採録すべき事項は増えました。しかし編集体制が弱体で,原稿のチェックが不十分だったため,ページ数は増加の一途をたどり,第30集は780ページを超えてしまいました。このため出版コストは上昇し,売れ行きは低下し,第31集からは,ページ数削減方針をとらざるを得なくなりました。第35集になると売れ行きは1000部を割り,版元から発行を断わられてしまいます。事態打開のため,また年鑑が刊行出来なかった空白期を補う意味もあって,「戦時特集版」の編集が企画され,1964年に『太平洋戦争下の労働者状態』が東洋経済新報社から,1965年には『太平洋戦争下の労働運動』が労働旬報社から刊行されました。
 このように中心事業でトラブルが発生したのは,研究所運営体制に問題があったからでした。所長をトップとする「所内評議員会」が運営を担っていたのですが,所内の「評議員」は何れも教授として学部に本務がある方ばかりで,日常業務は専任所員に一任された形でした。研究環境が劣悪だったこともあり専任研究員の勤務状態は不規則で,これに不満を抱いた職員の中には意識的に遅刻早退する者が出るなど,所内の人間関係は良好とは言えませんでした。


★2年ごとの所長交代

 1966年,研究所創立時からの専任研究員であり,戦後は常務理事や所長として,20年近く研究所を率いてきた久留間鮫造所長が退職し,後任の所長に宇佐美誠次郎理事が選ばれました。この時から役員の任期は3年から2年に短縮され,以後16年間,宇佐美・大島・舟橋の3理事が,2年交代で所長に就任する体制となりました。所長の交代とともに,研究員人事にも動きがありました。田沼肇専任研究員が社会学部に移り,原薫専任研究員が経済学部に転じたのです。また永田利雄司書が退職し,代わって是枝洋が1965年に入所しました。同年,中林賢二郎が兼任研究員となり,翌66年には小林謙一・二村一夫が兼任研究員に就任,中林・二村はそれぞれ1年後に専任研究員となりました。所長をはじめ研究員・職員人事の変動は,停滞していた研究所の業務全般を見直すきっかけになりました。
 『日本労働年鑑』の編集体制は第36集から,新任の宇佐美所長を先頭に,編集責任者となった中林研究員の努力によって,大きく改善されました。執筆に先立ち,関係者から運動の実状をヒアリングし,各研究員が分担箇所を報告する研究会を開き,さらに最終段階では専任・兼担研究員が合宿して内容の検討・調整が行われました。また何よりも版元が1965年から労働旬報社に変わり,同社が積極的に販売に取り組んでくれたおかげで,発行部数はいっきょに3倍以上になったのでした。
 1969年に大原社会問題研究所は創立50周年を迎えました。大島所長はこれを記念する事業に力を入れ,朝日新聞社の協力を得て,記念講演会と展示会を開きました。講演会は5月22日,有楽町の朝日講堂に満員の聴衆を集め,大島清所長,美濃部亮吉東京都知事,大内兵衞元法政大学総長の3人が講演しました。展示会は講演会の翌日から6日間,東急百貨店日本橋店(旧白木屋)で《社会運動の半世紀展 ─ 圧制と民衆の抵抗》と題して開催されました。この展示会は研究所所蔵の資料を時代順に配列し,日本の社会運動の歩みをたどったものです。連日2000人前後の入場者がつめかけ,カタログ3000部は売り切れ,急遽増刷したほどでした。このほか50周年の記念事業として『所蔵文献目録』と『大原社会問題研究所五十年史』が刊行されました。
 また50周年を機として,二つの新たな事業が加わりました。『マルクス経済学レキシコン』と《復刻シリーズ・日本社会運動史料》です。『マルクス経済学レキシコン』は,マルクス,エンゲルスの諸著作や書簡,遺稿などから,重要な概念や問題点についての叙述を抜粋し,競争,方法,唯物史観,恐慌,貨幣の五つのテーマごとに整理・編成し,原典と邦訳を見開きに収めたものです。この事業は,久留間名誉研究員が文字どおり生涯をかけて作成した抜粋カードを元に編集されたもので,1968年に第1巻が刊行され,その後,ほぼ毎年1巻のテンポで編集刊行され,1985年に第15巻を刊行して完結しました。『レキシコン』に対する内外の評価は高く,1970年に朝日学術奨励金を,1979年には野呂栄太郎賞を受賞しました。
 《復刻シリーズ・日本社会運動史料》は,機関紙誌編と原資料編とから成り,研究所が収集所蔵する資料を復刻したものです。この企画は,大原研究所が社会・労働運動の貴重資料を所蔵していることを広く知らせるとともに,自己努力による収入増を図る目的も持っていました。機関紙誌編は,研究所に欠号がある場合は,他の協力を得て出来る限り完全な原本を揃え,詳細な目次・索引・解題を付し,さらにペンネームや無署名論文の筆者を明らかにすることに努めるなど,営利主義的な復刻とは一線を画するものでした。発行所は法政大学出版局で,1969年3月に刊行した『新人会機関誌』を最初に,1995年3月までの25年間に〈機関紙誌篇〉200冊,〈原資料篇〉7冊を刊行しました。さらにこのシリーズを引き継ぐ形で《戦後社会運動資料》25冊が,同じく法政大学出版局から刊行されました。この戦後シリーズは,担当した吉田健二研究員が,関係者多数から詳しい聞き取り記録を残した点でも重要でした。



4 研究所改革に向けて

★スペース拡大と図書資料整理の進展

 〈53年館〉は新築の建物でしたが,大学の「広告塔」として外観重視の設計であったため,書庫に西日が射しこみ室温が高くなるなど,研究所施設としては問題がありました。さらに困ったことは,総面積が156平方メートルと狭い点でした。研究室は専任研究員全員が一室の相部屋で,しかも会議室を兼ね,ときに資料の整理室となるなど,落ち着いて研究できる環境ではありませんでした。またスペースの制約から,図書・資料の整理も容易には進みませんでした。ただ1880年以前刊行の洋書は,点数が限られていたこともあって1950年代には整理を終え,1960年に目録 A catalogue of selected publications and manuscripts in the Ohara Institute for Social Research を刊行しました。これは主として,当時,経済学部専任講師だった良知力の尽力によるものでした。
 スペースの問題がいくらか改善されたのは1967年のことです。付属校だった工業高校の廃止に伴い空いていた麻布校舎の図書室と教室の一部を,大原社会問題研究所麻布分室として確保したからです。それまで整理出来なかった図書・資料も,この麻布分室に運んで,ようやく本格的な整理が可能になりました。是枝洋司書を中心に,専任研究員も参加して柏木の土蔵に通い,死蔵されていた形の和書や新聞雑誌の所蔵確認が進められました。その結果,1969年,『法政大学大原社会問題研究所所蔵文献目録(戦前の部)』を刊行し,戦災を免れた図書や逐次刊行物の存在状況が明らかとなり,ようやく「大原社会問題研究所の戦後」は終わったのでした。


★図書資料の一般公開開始

 研究所の閉鎖性を改める第一歩となったのは1971年に始まった図書資料の一般公開です。この時,研究所は,今から考えると重要なルールを決めました。それは「閲覧者の資格を問わない」ことです。実はこの方針を決めた時は,全所員による会議を開き,かなりの時間をかけて討議しました。当初は,研究員を中心に,閲覧を研究者に限定すべきだとの主張が優勢で,所属機関の紹介状持参を条件にする案が決まりかけました。この時,いつもは無口で,あまり意見を言わなかったライブラリアンが強くこれに反対し,議論の末に「利用者の資格を問わない」という原則が決まったのでした。この決定は,その後の研究所の在りようを変え,ともすれば閉鎖的になりがちだった研究所を外部に開かれた組織へと変える第一歩となりました。この「利用者の資格を問わない」とい う決定の直接的な影響は,資料の寄贈が増えたことです。それから間もなく,松川事件弁護団から,松川事件に関する資料の一括寄贈について問い合わせがありました。これは,大原社会問題研究所だけではなく,東京大学社会科学研究所など複数の機関に対し照会されたものでした。弁護団は,最終的には大原社会問題研究所を選んだのですが,そのとき最も評価されたポイントが,この「利用者の資格を問わず誰にでも閲覧させる」原則でした。松川資料をキッカケに,戦後の諸「公安事件」の裁判記録が寄贈されたほか,労働・社会運動関係者個人や団体の旧蔵図書資料など,多様なコレクションの寄贈が相次ぎました。まさに「資料は資料を呼ぶ」でした。


★社会労働問題研究センターの発足

 1970年に私立大学に対する経常費助成が始まったことは,大原社会問題研究所を大きく変える転機になりました。財団法人法政大学大原社会問題研究所は,大学とは別法人のため,私学助成の対象にはなりませんでした。当然のことながら,大学当局は,研究所に問題への対応を求めてきました。そこでまず実施したのが,全国の主要私立大学の付置研究所の調査でした。関東,関西の7大学を訪問し,社会科学系を中心に,私立大学の付置研究所についての聞き取り調査を行ったのです。その結果明らかになったのは,私大の付置研究所の多くは,実態的には学部教員の共同研究推進の場,あるいは教員個人の研究支援の窓口的存在であることでした。これらの研究所とくらべれば,大原研究所は単に長い歴史をもつだけでなく,研究所として自立的で,それなりに個性的な活動を進めていることに,改めて気づかされました。そこで,プラス面を残して問題を解決するために案出したのが,大学直属の別組織の設立でした。こうして1973年暮,法政大学社会労働問題研究センターが発足したのです。財団法人法政大学大原社会問題研究所の専任所員は,全員がこのセンターに所属して大学から給与を受け,大原研究所は併任となったのです。
 新たに設置された「社会労働問題研究センター」の任務は,法政大学図書館の管轄下にあった〈協調会文庫〉と,大原社会問題研究所所蔵の図書資料との一括管理でした。ご承知のように,協調会は,政府と財界の肝煎りで,大原研究所と同じ1919年に設立された財団法人です。協調会の業務は,労使協調思想の普及のほか,社会政策に関する調査研究で,こうした目的のため多数の図書・資料を集めていました。協調会の蔵書は,経営側の立場から集められたものだけに,共通する分野ではあるものの,大原研究所の蔵書とは異質のコレクションでした。この協調会蔵書は,戦後は,協調会の後継団体となった中央労働学園大学の管理下にありましたが,1951年に同大学が法政大学と合併して社会学部の母体となったことにともない,法政大学図書館の蔵書となっていたので す。社会労働研究センターは,この2機関の収蔵図書を一括管理する主体として設けられました。
 社会労働問題研究センターの発足にともなって,研究所の専任研究員は同センターの教授,助教授となりました。ただ,この専任研究員の教授資格審査に際し,大原社会問題研究所の在り方に対する批判が表面化しました。かねてから関係学部の教員の間では,大原社会問題研究所の閉鎖性,とくに学部教授である兼担研究員が固定化し,大学と研究所の双方から給与を受けていることへの批判がありました。研究所がこうした批判の的となった原因は,財団の〈寄付行為〉にありました。研究所の仕組みそのものが,自己完結的だったのです。研究所を運営する〈理事〉は評議員の互選によって選ばれ,〈評議員〉は「理事会の議決により理事長が委嘱する」規定でした。役員は制限なしに再任が認められ,いったん役員になると,自ら退任しない限り,その地位に留まることが可能でした。実際,兼担研究員を兼ねていた研究所の役員は,同一の顔ぶれが40年近く「評議員」あるいは「理事」をつとめ,のちには所内3理事の1人が「所長」となり,残る2人は「常務理事」となっていました。役員・兼担研究員は財団からも給与を受け,その金額は所内理事会が決定しましたから,「お手盛り」的でもありました。こうした仕組みそのものが組織を閉鎖的にし,活動を現状維持的にした背景にあったのです。


★組織改革への動き

 研究所の組織体質,とりわけ2年ごとの〈所長回り持ち体制〉には,所内でも批判がありました。業務執行の上からみれば,所長の2年交代制は,かならずしも合理的ではありません。何か大きな課題を解決したり,あるいは新事業を軌道に乗せるには,2年任期は短すぎます。〈所長回り持ち制〉は,所長ポストを〈職務〉とは考えず,〈地位〉あるいは〈身分〉とみなしているからではないかとの批判が,所内にもありました。それが表面化したのが,1982年3月に起きた一事件でした。発端は,「所内理事会」が,長期入院中で退院後も一定期間の療養が必要とされていた理事を,病室で開いた会議で,次期所長に選任したことでした。関係学部の教員間に,大原研究所の閉鎖性,研究所役員の〈特権制〉に対する批判の声がある中で,代行者を置いてまで4巡目の所長を選定することの異常性を指摘し,専任所員のほぼ全員が反対して,決定を覆したのです。ご本人は憤慨し,退院後に,所員ひとりひとりの意見を聞きたいと,会議の席で各自の考えを問い質されました。新任の職員が回答を保留したほかは,全所員が就任に反対の旨を答え,決定は覆りませんでした。これによって所長輪番制は終わり,研究所の運営は,実際に業務を担う専任所員中心へと変化しました。こうした所長選任への反対が可能だったのは,1970年代初めの研究所改革の討議の中で,「所長選任の前に専任所員の意向を問うこと」が制度化されていたからでした。
 さらにこの直後,研究所の将来にかかわる問題が発生しました。それは1982年7月,会計検査院が経常費補助金についての検査に来所し,財団法人法政大学大原社会問題研究所と法政大学社会労働問題研究センターとの〈二重組織〉性を指摘し,次の検査までに,問題の解決を約束させられたことでした。
 最終的に研究所改革を決定したのは,同年10月,経済学部と社会学部の両教授会から,「大原社会問題研究所の移転・改組に関する要望」が提出されたことでした。これは,すでに多摩キャンパスへの移転を決めていた両学部が,研究分野が近い大原社会問題研究所も多摩校地へ移転することを要望するものでした。それと同時に,経済学部は,大原社会問題研究所が「既存の研究活動を見直し,社会的要請の強い新しい研究活動を開始」すること,「所蔵図書の利用方法についてより改善」すること,「研究員体制をより充実」し「学部スタッフの参加を一層進めること」を求めて来ました。また社会学部も,大原社会問題研究所が「全学的な研究活動推進の場として機能を充実する」ことを要求して来たのです。
 実のところ,この時点では,所内の誰ひとりとして,多摩校地への移転を考えてはいませんでした。80年館へ移転したばかりでしたし,当時はまだ全学部が多摩校地へと移転する計画が生きていました。全学部が多摩へ移転してしまえば,富士見校地内で,大原研究所の施設面の拡充は可能だと考えていたのです。実はそのころ,当局と組合の団体交渉の席で,組合側が「全学移転を控えたこの時期に,なぜ土地を取得してまで,新たな図書館棟を建てるのか」と質問したのに対し,学務理事が,「そうなれば80年館は大原研究所に使わせる」と答えた,と伝えられていたからでもありました。
 しかし,研究所と関係の深い経済・社会両学部からの移転申し入れを受けては,これを拒否することは困難でした。さらにその直後,大学理事会からも多摩校地への移転を要請され,研究所はこれを受け入れざるを得ませんでした。その上,すでに80年館の書庫は満杯で,図書と逐次刊行物の一部を旧図書館や川崎校舎に別置している状態でした。多摩キャンパスに移れば,広い書庫を確保できるほか,施設面での大幅拡張が可能と分かり,研究員会議,所員会議で討議の結果,経済・社会両学部の申し入れを受け容れることになったのです。残る問題は,施設面でいくつか要望を出し,すでに大筋が決定していた設計の変更を求めるなど,条件面での改善交渉となりました。


★『社会・労働運動大年表』

 移転に先立つこと3年前の1983年4月,研究所は新たな大型企画に取り組むことを決断しました。『社会・労働運動大年表』全4冊の刊行です。1858年の開国から1985年までの約130年間を「労働運動」と「社会運動」の2欄を中心に「政治・法律」「経済・経営」「社会・文化」「国際」の6欄を見開きに収め,各項目はすべて典拠を付し,さらに年表だけでは理解困難な問題については簡潔な解説を加えるものでした。この編纂作業のため,若手研究者を新たに兼任研究員あるいは嘱託 研究員として採用しました。若い研究員の参加は,研究所の力量を大いに高めました。とはいえ,この『社会・労働運動大年表』編纂は,研究所の実力をはるかに超える大事業であることも,途中で実感させられることになります。多摩キャンパスへの移転が『大年表』編集の最終段階と重なったこともあり,締め切りに追われ,実務を担った若手研究者にたいへんな苦労を強いることになりました。それでも企画から4年後の1987年1月には,本巻3冊・索引1冊の全4冊が刊行されました。幸い『朝日新聞』の書評欄で大きく取り上げられるなど高い評価を得ることができ,第1回冲永賞も受賞して,研究所の「財産」として後世に残る仕事になったと思います。版元の労働旬報社の努力もあって,売れ行きは良好で,版を重ねました。さらに1995年には,本巻3冊を1冊にまとめ,1994年までの9年間を増補した『新版社会・労働運動大年表』を刊行,これまた好評を得ました。この企ては,その後の『日本の労働組合100年』『日本労働運動資料集成』13巻+別冊,『社会労働大辞典』など,労働旬報社による大型企画につながりました。これら一連の出版の大半は,企画段階から編集者として佐方信一が加わっていました。彼は1960年代末から半世紀,『日本労働年鑑』をはじめ,旬報社刊行書の大半を手がけてくれた,文字通りの「縁の下の力持ち」でした。
 移転を翌年にひかえた1985年7月,故向坂逸郎旧蔵図書・資料約8万冊の寄贈について,有沢広巳前総長を介し,向坂ゆき夫人から申し出を受けました。これほど大量の蔵書について,すぐに「頂きます」とご返事出来たのも,多摩移転によって広い書庫の確保が確実になっていたからでした。研究所移転の直前,1986年3月12日から13日,「向坂文庫」は,向坂家から多摩キャンパスの新書庫に運び込まれました。


 

5 多摩校地移転後の研究所

★多摩キャンパスへの移転

 1986年3月15日,研究所は多摩キャンパスに移転しました。この移転に対しては,外部利用者から,「閲覧が著しく不便になってしまう,けしからん」と,厳しいお叱りも受けました。確かに,バスを使わないと鉄道の駅に出られない多摩キャンパスは,毎日通う職員はもちろん,利用者にも,決して便利な場所ではありません。しかし,ここに移転したことで,研究所は総面積2200平方メートルと,100年の歴史のなかで最も広いスペースを得ることが出来,新たな発展が可能になりました。なかでも書庫は1400平方メートルあり,これまで収集してきた図書資料を余裕をもって納めることができました。書庫は地下3階ですが,事務室内に書庫と直結する専用エレベーターを設置するよう大学理事会と交渉し,設計を変更してもらいました。これにより図書資料の管理が容易になりました。閲覧室や研究室なども富士見校地時代とは比較にならない広いスペースを確保することが出来ました。緑に恵まれ,ウグイスの声も聞こえる,自然豊かな環境への移転には,思わざるメリットもありました。優秀な臨時職員に恵まれたことです。キャンパスに隣接して大規模団地がある反面,良好な雇用機会が少ない地域だったからでした。


★財団法人解散,大学付置研究所となる

 移転に先立ち,組織改革についても検討が進みました。1983年6月8日,研究所理事会及び評議員会は,「多摩校地への移転を機に,法政大学付置研究所に改める」との将来方針を決定しました。最終的には,1986年1月31日に臨時理事会および評議員会を開き,「財団法人法政大学大原社会問題研究所を解散し,残余財産を学校法人法政大学に寄付すること」を全会一致で決定したのです。同日付で監督官庁である文部省に財団法人の解散を申請し,同年3月13日付けで文部大臣の認可が得られました。これにより,1986年3月末日をもって財団法人大原社会問題研究所は解散し,翌4月1日に大原社会問題研究所は名実ともに法政大学の付置研究所になりました。
 この改組は,研究所の〈閉鎖性〉を解消する上で画期的な意味をもちました。これ以降,所長人事をはじめ,研究所の運営に関する重要事項は,学部教授会に相当する運営委員会によって決定されることになったのです。運営委員会は,研究所の専任研究員に加え,関連学部教員の間から選ばれた7人の運営委員によって構成されることになりました。兼担研究員を兼ねた運営委員の任期は2年で,当然のことながら,運営委員は研究所の意向とは無関係に,関連する複数学部において選出され,運営委員の交代も行われています。関連する研究分野の教員を兼担研究員として迎えることで,研究所の活動分野は広がりました。それまでの専任研究員3人と兼担研究員5人の体制から,専任研究員3人・兼担研究員7人・兼任研究員7人へと増強され,さらに客員研究員や嘱託研究員として,多数の学内外の専門研究者を委嘱し,研究体制は格段に強化されました。


★『大原社会問題研究所雑誌』の刊行

 移転・改組に先立つ1984年,それまで論文1本と「労働日誌」だけだった『研究資料月報』の改革が図られました。307号(1984年6月)からページ数を増やし,複数の論文を掲載するようにしたのです。執筆者も,それまでは所員に限られていたのですが,外部筆者の論稿も加え,表紙も白紙からピンク色に変えました。
 さらに,研究所の多摩校地への移転と組織改革を機に,誌名を『大原社会問題研究所雑誌』に改め,これを活動の中心とする方針を決めました。新生の『大原社会問題研究所雑誌』が目指したのは,研究所紀要ではなく,社会労働問題研究の専門誌となることでした。そのため,販売を法政大学出版局に依頼し,市販することにしました。この計画が実行に移されたのは多摩移転と同時の1986年4月発行の第329号からで,体裁も一新した『大原社会問題研究所雑誌』が書店の店頭に並びました。『大原社会問題研究所雑誌』を〈紀要〉ではなく,社会労働問題研究の〈専門誌〉とすることを目指した背景には,戦前と戦後とでは,研究所の置かれている状況に大きな違いがあることを考慮し,その対策としての意味合いがありました。
 戦前の大原社会問題研究所は,他に社会科学系の研究所がほとんど存在しない中で,大学などではテーマとしてとりあげ難い分野でも自由に研究しうる点で,希少価値がありました。これに対し戦後になると,研究に対する政治的・社会的制約はなくなり,どの大学や研究機関でも,自由に研究が行われるようになりました。とりわけ主要国立大学には,国家予算の裏付けを得て,多数のスタッフを擁する総合社会科学研究所が生まれ,数多くの優れた研究成果をあげていました。これに対し,授業料の一部を原資とする私立大学の付置研究所は,研究スタッフの数や研究費は限られざるを得ません。こうした条件の下で目に見える成果をあげるには,所外の研究者の力を借りざるを得ない,と考えたのです。一般に開放された月刊の専門誌を出せば,研究所の名をあげ,研究活動全般の活性化につながるに違いない。こうした判断が,紀要ではなく市販する専門誌を刊行する方針を打ち出した背景にありました。この決定は,大原社会問題研究所の存在を広く知らせる上で,研究所100年の歴史のなかでも,かなり重要な決定だったと思います。


★パソコンの積極的な導入

 移転直前の1984年,大原社研は初めてコンピュータを導入しました。コンピュータといっても,メインフレームはもちろんワークステーションなども研究所の予算規模ではとうてい無理でしたから,パソコンです。それも科学研究費の交付を受けて,ようやく手に入れました。当時はパソコン開発の初期段階で,1号機は16ビットになったばかりのNEC〈PC9800シリーズ〉でした。パソコン本体に,メモリー,8インチのディスクドライブ,モニターなどまで別個に購入し,取り付けて使う代物でした。外部メモリーは8インチのフロッピーディスクです。それでも一式揃えるのに60万円はかかりました。ハードディスクなどは,まだ手が出せる価格ではありませんでした。OSはMS-DOSのVer.3,ソフトは管理工学研究所のデータベース・ソフトの「桐」やワープロソフトの「松」などでした。電源を入れると,8インチの大型でペラペラな文字通りの「フロッピーディスク」から,カタカタと音をたててプログラムが読み込まれ,モノクロのモニターに表示されるといった時代です。「パソコンでデータベース制作なんてとても無理」と言われていました。それでも1970年代からパンチカードによる図書検索ツールの制作を提唱していた司書の是枝洋にすれば,夢のような機械でした。彼は,粘り強く何年もかけて「桐」や「ネットリーブ」など各種のデータベース・ソフトを比較検討し,パソコンの性能が短期間で著しく進歩したことにも助けられ,ついに図書整理やデータベース作成に役立つシステムを作り上げたのです。
 画期となったのは1988年です。私学振興財団の「学術研究振興資金」から「パソコンによる労働問題文献データベースの作成と利用に関する研究」と題するテーマで,3年間で3000万円の特別助成を得たのです。これにより研究所のパソコン使用は一気に拡大しました。その後も,1991年度から2006年度までの16年間で総額5069万円,年平均300万円強の文部省科学研究費「研究成果公開促進費(データベース)」の助成を受けることが出来ました。この他1994年度から4年間,「社会・労働運動に関する異種資料のマルチメディア・データベースの構築に関する研究」をテーマとする科学研究費が認められ,1320万円の助成を得ています。つまり各種データベースの制作は,総額1億円近い助成金を得て進められたのでした。
 こうしたパソコンの利用は,図書整理やデータベース制作だけでなく,研究所の業務全般にプラスの影響を及ぼしました。『日本労働年鑑』や『社会・労働運動大年表』『大原社会問題研究所雑誌』の編集作業の効率も,パソコン使用によって飛躍的に向上しました。手書き原稿をもとに編集作業を行っていた段階では,初校ゲラが出てようやく元原稿の問題点が明らかとなり加筆訂正するといったことも普通でした。これがパソコン使用によって,原稿段階での編集が可能になったのです。つぎにお話しするインターネット利用も考えると,大原社会問題研究所のパソコンの利用は,他の研究機関や図書館にくらべ,かなり早く,また広範囲で多面的だったと思います。パソコンを活用するため,所内の希望者に向け各種の講習会を開き,hotmailなどの無料メールを利用し,臨時職員をふくむ全所員にメールアドレスの取得を奨励した結果,メーリングリストを通じての情報共有も活発になりました。


★インターネット世界への進出

 1996年12月,大原社会問題研究所は,インターネット上に研究所サイトをオープンしました。これは日本の研究所のウエブサイトとしてはかなり早かったこと,労働組合や労働関係の諸団体のサイトを網羅する〈労働関連サイトリンク集〉を制作したことなどで注目され,Yahoo! Japanのクールサイトにも選ばれました。ネット上の検索サービスが未発達だったため,〈リンク集〉の利用価値は高かったのです。研究所のウエブサイトが大きく飛躍したのは2000年2月,研究所創立80周年記念として《大原デジタルライブラリー》を開設してからです。 「ソキウス」で知られた野村一夫兼任研究員をウエブデザイナーに起用してサイト構成を一新すると同時に,短縮URL転送サービスを利用するため,サイト名を英文の研究所名の頭文字をとって「OISR.ORG」としました。OISR.ORG のセールスポイントは,それまでこつこつと所内で蓄積してきた《社会労働問題文献データベース》をネット上で使えるようにしたことでした。さらに『大原社会問題研究所雑誌』の全文公開,『社会・労働運動大年表』のデータベース化など,研究所サイトは内容を充実して行きました。『日本労働年鑑』についても第1集から第60集の全文を公開するなど,大原研究所サイトは《デジタルライブラリー》の名に恥じぬものとなっています。とりわけ『社会・労働運動大年表』データベースは,オンラインの日本近代史年表としては,これに匹敵するものはないと自負しています。なぜなら,活字本の年表とは違い,この年表データベースは,『日本労働年鑑』の「日誌」を『大年表』とまったく同じ構成にして,年々記録を追加しているからです。つまり年を追うごとに検索可能な年次が増える「年表」なのです。その他,ポスターなど画像データの公開展示をはじめ,『高野岩三郎日記』や『高野房太郎日記』,月島調査の家計簿の原簿を公開するなど,デジタルアーカイブスとしても機能しています。OISR.ORGは,インターネット世界では,かなり実験的・先進的な企てを試みており,ぜひ一度ご訪問ください。開設から四半世紀近く経って,データ量は格段に増え,データベースも〈蔵書〉〈論文〉〈研究所刊行物〉〈史料〉と多岐にわたっています。それだけに,初めての方には,使いにくいと感じられるかもしれません。そうした時は,ためしに〈マルチメディア・データベース基本ファイル〉を使ってみてください。そこで,特定の人物を選び検索を押すと ─ すべてのデータベースを横断的に検索することも出来るので,ちょっと時間はかかりますが ─ 思いがけない情報が得られると思います。


★国際化の進展

 戦後の大原社会問題研究所が,戦前とくらべて大きく発展した分野は,活動の国際化です。何より海外において,大原社会問題研究所への注目度が高まりました。その背景には,海外において日本研究が盛んになったことがあります。高度成長期に日本の労使関係が世界的に注目され,来日する研究者が増えたことも,研究所の国際化を促進しました。大学における国際交流の窓口として,研究所はいくつかの利点があります。学部の場合は,すぐれた研究者が存在しても,その名声は研究者個人のもので,所属学部や大学名には直ちには結びつきません。それにくらべ研究所は,その名称や刊行物によって,またその所蔵する図書資料によって,その専門性が容易に理解されます。大原研究所の場合は,1919年創立という長い歴史,『日本労働年鑑』や『大原社会問題研究所雑誌』などを通じて,その名が早くから,広く知られてきました。1970年代半ばのことですが,白井泰四郎兼担研究員が米国留学から帰国された折,アメリカ人研究者の間で大原社会問題研究所の名が,法政大学よりずっと良く知られているのに驚いた,と語られたことがあります。
 研究所が麻布分室で資料公開を始めた頃は,英語圏で日本の労使関係に対する関心が高まった時期と重なっていました。麻布のオンボロ閲覧室に,博士論文を書くためなどで,外国人研究者の訪問が相次ぎました。彼らの研究を通じても,大原社会問題研究所の名は広がりました。1980年代以降になると,多摩移転前の研究所に1年あまり留学したシカゴ大学のミリアム・シルバーバーグをはじめ,多くの研究者が大原研究所の客員研究員となりました。なかでも,ハーヴァード大学のアンドリュー・ゴードン教授は優れた日本研究者として著名な方ですが,大原社会問題研究所の熱烈な支持者で,著書や講演を通じて大原研究所とその所蔵資料について宣伝してくれました。とりわけ2007年3月にボストンで開かれた〈アジア研究学会〉では,「日本研究の研究資源および研究対象としての大原社会問題研究所」をテーマとするセッションを組織し,自ら司会をされたのでした。その記録は『大原社会問題研究所雑誌』591号(2008年2月)に収録されています。ほかにもカリフォルニア大学バークレー校のトマス・スミス教授など数多くの優れた日本研究者が,大原研究所で研究生活を送られました。
 アメリカ以上に広い交流が続いているのは韓国です。きっかけは,1991年に高麗大学校労働問題研究所のキム・ホジン(金浩鎮)教授が,国際シンポジウムに私を呼んでくださったことでした。さらに法政大学の研究者を韓国研究へと向かわせ,韓国の労使関係研究者との強い結びつきが生まれたのは,1993年に,仁荷大学校産業経済研究所所長・キム・デファン(金大煥)教授が来所されたからでした。金大煥教授は,高麗大学校のシンポジウムにも参加されていた方ですが,大原研究所と仁荷大産経研究所と共催で,両国においてシンポジウムの開催を提案されました。その結果,まず1995年1月と5月に多摩キャンパスで《日韓交流シンポジウム・韓国労使関係の現在》が開かれ,ついで1996年10月には,仁荷大学校で《第二回韓日交流シンポジウム》を開きました。これを契機に,双方の研究者が個別にも相手国を訪問して,相互支援を得て,現地調査が実施されました。その成果は,『大原社会問題研究所雑誌』の何回かの韓国特集となり,さらに《研究所叢書》としても,『韓国労使関係の展開と現状』総合労働研究所(1997年),『現代の韓国労使関係』御茶の水書房(1998年)の2冊として結実しました。また金浩鎮・金大煥両教授が,その後,韓国の労働部長官(労働大臣)に就任されたこともあって,韓国の労働行政担当者間で法政大学大原社会問題研究所の名は良く知られ,大原研究所へ来訪される韓国関係者の数は,延べ数にすれば3桁台に達していると思います。
 さらにインターネットでの発信も,大原研究所の国際化に役立っています。ハーヴァード大学図書館やデューク大学図書館が出している日本学研究ガイドなどでは,法政大学大原社会問題研究所が大きく取り上げられています。
 なお,1987年10月に,嶺学研究員の提案により,その年のILO総会で討議されたテーマについて,ILO総会の日本側の政労使それぞれの参加者による報告をもとに討議する「国際労働問題シンポジウム」を開始しました。このシンポジウムは,その後も毎年続けられ,2018年10月には第31回に達しました。


★21世紀の大原社会問題研究所

 私が研究所に在籍したのは1999年3月までで,その後の研究所の活動については,知るところが限られています。最近20年の研究所の動向は,現役の研究員の皆さまがまとめられる『大原社会問題研究所100年史』を待ちたいと思います。今回は,毎月刊行されている『大原社会問題研究所雑誌』と,それに年1回掲載されている「研究所の歩み」などから,重要と思われる事項のみピックアップして,簡単にお話しするにとどめます。
 21世紀に入ってからの研究所の活動方針は,2002年12月に策定された「中期計画」〈21世紀における研究所の中期的な活動のガイドライン〉,さらに2008年3月にこれを改定した「中期計画」〈21世紀初頭における研究所の中期的な活動のガイドライン〉にもとづいて進められています。
 この間の研究所の活動ですぐ気づくことは,『大原社会問題研究所雑誌』の発展です。多摩移転と同時に誌名を改め,一研究所の枠を超えた〈社会労働問題研究の専門雑誌〉を目指す方針を打ち出しましたが,当初は「専門研究誌」というのもおこがましい状態でした。しかし,次第に内容を充実させ,いまなお発展を続けています。とりわけ2001年 4月に,投稿原稿に対する査読制度を導入したことは,雑誌の権威を高めました。さる大学のホームページに,ある教授の研究成果が,『大原社会問題研究所雑誌』の査読をパスして掲載されたことが報じられていたのを見て,ちょっと嬉しくなりました。この査読制度導入と同時に,研究所雑誌に掲載された論稿の全文を,PDFファイルにして,インターネット上で公開するようになったことも,他機関に先駆けた動きとして高い評価をうけました。CiNiiの雑誌検索で調べてみると,全国の大学図書館に収蔵されている『資料室報』や『研究資料月報』は120〜130館ですが,『大原社会問題研究所雑誌』は229館と約100館ほど増加していることは,この評価の高まりの一端を示すものだと思われます。
 『大原社会問題研究所雑誌』の発展の背後には,プロジェクト研究の活発化があります。いささかの反省をこめて申し上げるのですが,私が在籍した20世紀末までの大原社会問題研究所は,『社会・労働運動大年表』や研究所ウエブサイトの開設などの諸事業に追われていました。共同研究としては,嶺学研究員を中心に活発に活動していた「加齢過程における福祉研究会」のほかは,早川征一郎研究員を中心とする「現代労働問題研究会」と相田利雄研究員を中心とした「経営労務研究会」だけでした。しかし,21世紀に入ると,名称をひとつひとつあげることはいたしませんが,専任研究員・兼担研究員が中心となって所外の専門研究者も加えた〈プロジェクト研究〉が活性化しました。研究所の本来の使命である研究面においても,目標とする「開かれた研究所」が,その内実を伴いつつあるようで,喜んでいます。
 『大原社会問題研究所雑誌』の充実とともに,近年における研究活動活性化の指標となりうるのは,単行書の刊行です。戦後の《研究所叢書》の第1号は1984年の『現代の経済構造と労使関係』ですが,現在では41点に達しています,この41冊のうち28冊は,私の退職後に出たものです。また,《ワーキングペーパー》も,現在まで56点出ていますが,うち48点は,この20年間に刊行されたものです。研究活動の活性化は,こうした数字にも示されていると思います。
 開かれた研究所の一環として新たに始まった活動に《大原社研シネマ・フォーラム》があります。 2011年12月,研究所の存在を,法政の学生や地域住民の方々にも広く知っていただくために企画されたものです。一般には,あまり観る機会のない社会問題関連の映画を,解説つきで鑑賞する会です。第1回の《フツーの仕事がしたい》を皮切りに,2018年の第10回《おだやかな革命》まで,12本の映画が上映されました。
 2012年度末には,研究所の歴史のなかでも特筆すべき出来事がありました。それは法政大学サステイナビリティ研究教育機構の解散にともなって,同機構に附設されていた「環境アーカイブズ」が研究所へ移管され,2013年4月1日から「大原社会問題研究所・環境アーカイブズ」となったことです。これにともなって,任期付専任研究員1人のほか研究補助者が増員となりました。環境アーカイブズは,内外の環境問題や環境政策,環境運動に関する資料を散逸させることなく収集・整理・公開することにより,学問研究や社会教育のために役立つことを目的としています。


おわりに

 あっちへ跳び,こっちへと跳びと,雑多な話を盛り込んだ講演になってしまいました。触れ得なかった問題も少なくありませんが,研究所100年の,おおよその歩みはたどることが出来たのではないかと思います。もし大原孫三郎が健在で,彼の名を冠した研究所が100年を迎えたことを知ったなら,どのような感想をいだくでしょうか。「大金を投じ,世間の批判も招いたが,造っておいて良かった」と思っていただけることを願っています。
 最後になりましたが,もうひとつ,お一人お一人お名前を申し上げることは出来ませんでしたが,100年の間に,さまざまな場で,研究所を支えてくださった皆さまにお礼を申し述べたいと思います。なかでも,研究所の出版活動を支えてくださった同人社,栗田書店(第一出版),時事通信社,東洋経済新報社,法政大学出版局,とりわけ半世紀余にわたって『日本労働年鑑』を刊行し,『社会・労働運動大年表』などの大型企画をいくつも提案し,刊行してくださったかつての労働旬報社,いまの旬報社の関係者各位に心からお礼を申し述べたいと思います。皆さまのご支援がなければ,大原社会問題研究所の今日はありませんでした。あらためて皆さまのお力添えに感謝し,私の話を終わります。




【注】

(1) 私が大原社会問題研究所について書いた論稿は、すべて「大原社会問題研究所をめぐって 詳細目次」に収録している。

(2) 「心血を注いで作った」という言葉は,子息の大原總一郎が,孫三郎の晩年を伝える一文に記されている。

「晩年、自分の作ったいろいろな社会施設を回顧して、心血を注いで作ったと思っているものが案外世の中に認められず、ほかのものに比べればあまり深くは考えなかった美術館が一番評判になるとは、世の中は皮肉なものだと語っていたこともある」。(「美術館の絵」『夏の最後のバラ』,朝日新聞社、1969年、152ページ。『大原總一郎随想全集』第3巻,福武書店,1981年,295ページ)。

(3) 正確には,4,880,381円である。なお,この金額は大津寄勝典が各種史料に拠ってまとめた数値で,『大原孫三郎の経営展開と社会貢献』(日本図書センター,2004年)の巻末に掲載されている「大原孫三郎による寄付・寄贈・助成」による。但し,この一覧には「金額不詳」の事例が60件に達しており,実際の金額は,500万円を上回っていたに相違ない。なお,孫三郎が大原社会問題研究所のために支出した金額については、拙稿「大原孫三郎が出した金」参照。

(4) 高野房太郎については,本著作集第三部高野房太郎研究所収の諸論稿を参照。これらの研究をもとにまとめた本が『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』(岩波書店,2008年)である。

(5) 鹿野政直は,大原社会問題研究所設立の意味をつぎのように述べている。

「学問の新しい発足を示す象徴的なできごとは、わたくしのみるところ、一九一九年二月の大原社会問題研究所の設立であった。米騒動を契機とするこの研究所は、第一に民間の機関であるという点で、第二に社会問題を主題にした点で、それ自体、これまでのアカデミズムへの一つの批判であった。そうして実際、アカデミズムからはみでた人びとあるいははみでる傾向をもった人びとが、その所員を構成した」 (《近代日本思想体系 34》『大正思想集 U』,筑摩書房,1977年)。

(6) 現在の住所は、新宿区北新宿2丁目6-29。現在、この研究所跡地には、総戸数300を超える大型マンションが建っている。

(7) 1938(昭和13)年2月,いわゆる「第二次人民戦線事件」で大内兵衞は逮捕された。その直前,大内逮捕の事前情報とともに,当局は「大原研究所もつぶすといっている」との情報も研究所側に伝えられたという(久留間鮫造談話「戦時下の大原社研」,雑誌『エコノミスト』1973年9月18日号,87ページ。)

(8)大内兵衞「大原社会問題研究所炎上記」の初出は『世界』1953年8月。同稿は、大内兵衞『風物・人物・書物』(黄土社,1954年),『大内兵衞著作集』第12巻(岩波書店,1975年)に再録されている。
 柏木時代の研究所の様子を伝える記録はほとんどない。ただ,吉野源三郎が,大内兵衞喜寿記念文集の『山麓集』(大内会編,1965年,私家版)に寄せた「一編集者として」と題する回想に,次のような一節がある(同書,70ページ)。当時の研究所の雰囲気を伝える数少ない文章なので,ここに書きとめておこう。

 「昭和十四年の初夏だったと思う。私は、大久保の大原社会問題研究所の、日本間に西洋風の椅子とテーブルを置いた応接室で、大内先生とお話をしていた。開け放した部屋が二間つづきになっていて、その向うが廊下を隔てて庭になっている。繁った庭木に昼下がりの日光がそそいで、奥まった部屋が暗く感じられるほど、明るい緑が眼にしみた。」

(9) 野上弥生子の日記には,高野岩三郎の動静が,何回も記されている。なかでも注目されるのは,敗戦の翌日,つまり1945年8月16日の次の一節である。

「「八月十六日 木 晴れ  前略 高野老人が見える。東京はわりに平穏とのことである。彼は大に意気あがり、この新しい時代に一と働きする気で期待と希望に燃えている。まことにこれからはパパさんたちの世界になるのだ。」

(10)大内兵衞「中野君」,(『中野勝義の追憶』,中野勝義追憶録刊行会編,1963年,私家版,122ページ)

(11)久留間鮫造は,雑誌『エコノミスト』に1973年8月21日号から同年10月2日号まで,7回にわたって自らの研究の歩みを語り,その中で大原社会問題研究所が法政大学の傘下に入った経緯について,次のように記している。

 「中野君は法政大学の校友で、当時理事として ─ 野上総長はすでにかなり老齢だったせいもあって ─ 事実上学内で専権をふるっていたらしいのですが、その中野君がそのその席でぼくにもっと学校のためにつくしてくれというので、僕は大原研究所の経営にさえてこずっているのだから、そんなことはとてもできない、といったところ、それなら研究所もいっしょにもってきてくれという。そのときは、酔余の放言だろうと思って気にもとめなかったが、あとから考えてみると、かなり本気の話だったようにも思われるので、その時同席していた友岡〔久雄〕教授にその後会ったときに、あの時の中野君の話じゃ本気なのだろうかと聞いたところ、それは本気だろうということでした。友岡君と中野君とは以前は犬猿の仲だったが、〔理事会と経済学部教授会の〕紛争解決後は肝胆相照らす仲になっていたのです。ところで、友岡君はさっそくその話を中野君に伝えたらしく、その晩、中野君が飛んで来て、あの話は本気なのだからそのつもりで真剣に考えてくれというので、それからいろいろ考えてみた結果、条件次第ではよい話ではないかと思っていたので、大内、森戸の両君に相談したところ、よかろうという。研究所のそもそもの設立者であった大原孫三郎氏の後継者の大原総一郎氏にも相談したところ、本来なら自分が財政上の面倒をみるべきはずだが、いまはまだその余裕がないからこのさいやむをえないでしょう、ということでした。それで、そのあといろんないきさつうがあったが、結局研究所を法政にもってくることになったのです。

(『エコノミスト』51巻40号,1973年9月25日,85ページ)

(12)中野勝義,布川角左衛門とともに〈法政の三羽烏〉と呼ばれていた中川秀秋は『中野勝義の追憶』(中野勝義追憶録刊行会編,1963年,私家版)に寄せた「思いで深い友」と題する一文で,野上豊一郎の通夜の夜のことを次のように記している。

「やがて通夜の客も次第に去り、先生の教え子五人がのこった。中野さんは夫人に何やら太い声で言ったが、何かわからなかった。それから夜の白むまで、総長後任の問題につきわれわれの考えをまとめることに中野さんは異様な熱情を傾けた。そこには先生が法政大学に投ぜられた生命の尊さを知る者はわれ一人なりの気概があふれていた」(同書112ページ)。

(13) 大内兵衞と法政大学の関係は,大内の総長就任に始まったわけではない。法政大学の戦後再建は、1947年3月の野上豊一郎の総長就任に始まるのであるが、その際、外部から新たに理事として大内兵衞と阿部能成が招かれている。翌1948年,この2人の学外理事は退任するが,ともに「顧問」に推戴されている。この1947年の大学改革を推進した中心人物が中野勝義である。彼は,竹内賀久治総長を説得して退任を決断させ,後任に野上豊一郎を推し,同時に自身も理事に就任している。つまり中野は,法政大学理事会において大内兵衞と接しており,その力量を直接に知っていたのである。


初出は『大原社会問題研究所雑誌』No.731・732(2019年9・10月号)


参照 回顧座談会《大原社会問題研究所との43年間》





編集著作            鉱業労働史研究

雑文集            史料研究

高野房太郎研究            比較労働史研究





【最終更新:

Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

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