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回顧座談会
二村 一夫
  「大原社会問題研究所との43年間」


【聞き手】(発言順)

早川征一郎(法政大学大原社会問題研究所教授)   
谷口朗子(法政大学大原社会問題研究所元所員)   
三宅明正(千葉大学文学部教授)             
五十嵐仁(法政大学大原社会問題研究所教授)     
梅田俊英(法政大学大原社会問題研究所兼任研究員)
吉田健二(法政大学大原社会問題研究所兼任研究員)


【研究者になるまで】

早川 今日は、お忙しいところを有難うございます。実は、二村一夫さんが1999年3月末で辞められることになりました。法政大学の専任教員は65歳定年制ですが70歳までは延長できるので、われわれは延長してほしいと頼んだのですが、ご承知いただけませんでした。そこで今日は、二村さんと大原研究所との長年のかかわりや、ご自身の研究などをめぐってお話を伺って記録に残しておきたいと思い、お集まりいただきました。
 まず最初に、研究者になられるまでの過程についてお聞きしたい。東大文学部国史学科に進学されるまでの話、なぜ国史学科を選ばれたのかなど。
 二村 わかりました。私が大学に入ったのは1952年、講和条約発効の年、メーデー事件の年です。前年の秋に雑誌『世界』が講和問題特集を出して大きな反響を呼び、すぐ売り切れて再版を出したほどでした。高校の世界史の教師は授業をつぶしてその『世界』を読んでくれました。いまではとても考えられないような雰囲気でしたね。同級生のなかには『朝日グラフ』の原爆特集を英訳して各国に送るといった運動をしたグループもありました。敗戦から6、7年しか経っておらず、占領下だったこともあり、高校生でも社会的関心は高かったのです。
 大学に入って、石母田正の『歴史と民族の発見』に感銘したり、高校時代からの友人である平山久雄──松村謙三さんの息子ですが、の影響もあって進学するとき国史学科を選んだのです。僕が見た学部便覧に遠山茂樹先生の名があったのも国史を選んだ理由のひとつでした。ところが、進学してみると近代史の先生は一人もいませんでした。指導教授は近世史、とりわけ日蘭交渉史がご専門の岩生成一先生でしたが、講義にはほとんど出席せず、歌ばっかり歌っていました。いくらか勉強らしいことをしたのは仲間と開いた読書会くらいです。国史の先輩で後に北海道大学の先生になった永井秀夫さんが東大社研におられ、彼をチューターに山田盛太郎『日本資本主義分析』などを読みました。
 早川 そのころはまだ、大河内一男さんについてはご存知なかったのですか。
 二村 いや知ってます、もちろん本を通じてですが。岩波新書の『黎明期日本の労働運動』や隅谷三喜男さんの『日本賃労働史論』などが出たばかりで、どちらもよく読みました。労働運動史で一番勉強になったのは、このお二人の本と平野義太郎さんのものです。この頃の実質的な「先生」は山田、平野、大河内、隅谷の四先生といって良いでしょう。
 そんな訳で、国史学科の学生としてはまさに〈落ちこぼれ〉でしたが、文学部の良いところは卒業論文を書かせたことです。誰もが卒論を重視し、卒論を目指して勉強する気風が強かった。卒論がなければ、何のために大学へ行ったかわからないままに終わっていたでしょう。実は、この卒論のテーマに選んだのが足尾暴動だったのです。これは、平野義太郎氏が『日本資本主義社会の矛盾』のなかで「これまでの労働運動史ではインテリの指導者だけを問題にしているが、南助松、永岡鶴蔵など労働者出身の指導者をもっととり上げるべきだ」と論じており、「じゃあやってみようか」という気になったんです。
 早川 『矛盾』?、『機構』じゃないんですか。
 二村 『日本資本主義社会の機構』は『分析』とならぶ講座派の代表作ですが、それではありません。『日本資本主義社会の矛盾』は、平野さんが戦後に書いた歴史関係の論稿を1冊にまとめ、1954年に出た本です。
 そこでいろいろ史料のことを調べはじめたら、裁判記録類は地方検察庁に保存されているらしいことが分かりました。たまたま、音感の1年先輩で後年NHKの大記者になる平山健太郎が宇都宮の出身で、彼が帰郷運動で知り合った社会党の県会議員を紹介してくれました。後には国会議員にもなる稲葉誠一という方ですが、検事出身で宇都宮地検にも顔がきいたのです。その稲葉さんだったか平山さんだったか忘れましたが、どちらかから法学部の団藤重光先生の紹介状を貰ってこいと知恵をつけられました。団藤さんは刑法、刑事訴訟法の大家で、戦後の刑事訴訟法の制定に大きな影響力をもった方ですから、検察関係者にとっては大先生だったのでしょう。主任教授の坂本太郎先生の名刺に一筆書いていただいて、大学の近くにあった団藤先生のお宅に伺い、紹介状を書いていただきました。広々とした立派な書斎に通され「これはすごい」と思いましたね。団藤先生の紹介状のおかげで、地検はわざわざ倉庫を調べてくれ、そこで「足尾騒擾事件ニ関スル機密書類」のファイルが見つかり、しかもそれを借り出すことまで出来たのでした。
 史料集めで大いに役立ったのは、明治新聞雑誌文庫です。奇人・宮武外骨が集めた新聞類を保存利用するために、吉野作造らが尽力し博報堂社主の瀬木博尚が金を出して、東大法学部内に設けられたアーカイブですが、赤門のそばの半地下式の小さな数室を本拠にしていました。まだ復刻なんてほとんど出ていない時期ですから、毎日ここに通って、社会主義新聞などをはじから読んで、関連のある記事を筆写しました。明治文庫は若い研究者には居心地のいい場所でした。文庫の主ともいうべき西田長寿さん、それに後の犬丸義一夫人の小山伊基子さんたちが親切に応対してくれました。嬉しかったのは、片山潜がやっていた『社会新聞』に永岡鶴蔵が自伝「坑夫の生涯」を連載しているのを発見したことです。どこの国でも労働者の伝記は少ないというのに、暴動の前に足尾銅山で数年間活動していた人物が自伝を残していてくれたのでした。
 もうひとつ東大経済学部の図書室で、暴動の前年に発行された足尾の友子の規約を発見し、これも大いに役立ちました。卒論そのものは今は読み返す気にもならないひどい代物ですが、史料収集という点では幸運に恵まれ、かなりの成果をあげることができたと思います。注や史料を収めた別冊の方が本文より長い2冊の卒論を、何とか期日までに出しました。いま見ると、別冊の方はほとんどかみさんの字です。もっとも、まだ結婚する前ですから正確にいえば婚約者ですが。卒論を書いたことで、落ちこぼれ学生がもう少し勉強したいと思うようになりました。


【大原社研とのつながり】

 そこで選んだのが法政大学の大学院でした。入試の時に、中村哲先生に「なぜ法政を選んだのか」と聞かれ、「資料の宝庫である大原社会問題研究所があるからです」と答えた覚えがあります。実は学部の卒論を書いた時に、大原研究所が戦前に出した『日本社会主義文献』をみていたのです。司書研究員の内藤赳夫が、森戸辰男の指導でまとめた本ですね。このなかには、明治の社会主義新聞や労働組合期成会の機関紙『労働世界』の主要目次が紹介されていたのです。これを見て大原はすごいと思ったので、塩田庄兵衛さんに紹介してもらい、田沼肇さんを研究所に訪ねました。卒論を書いた直後の1956年の1月か2月だったと思います。田沼さんは「資料はある、だけど全部お蔵にあって使えない」と話してくれ、4月に法政の大学院に政治学専攻の修士課程が新設され、そこで石母田先生が教えられることも教えられ、進学を決めたんです。〔参照 「石母田正先生のこと」
 早川 塩田先生の名が出たところをみると、もう労働運動史研究会に入っていたわけですか。
 二村 いや、まだ労働運動史研究会は出来ていません〔参照 労働運動史研究会の25年〕。準備会の名で機関誌第1号を出したのがその年の5月で、正式の発足は翌1957年です。塩田さんと知り合ったのは、僕のかみさんの母方の叔父・阿部行蔵の紹介です。塩田さんとは都立大学で同僚だったから、労働運動史を勉強したいならぜひ会えと勧められ、卒論のテーマを決める前に塩田さんに会ったのです。彼は当時すでに運動史の大家で、『歴史学研究』に「さいきんの日本労働運動史文献について」という研究史的論文を書き、大河内批判をしていました。そのとき塩田さんとどんな話をしたかよく覚えていませんが、足尾銅山の採鉱技術者・村上安正さんを紹介してくれました。そこで卒論の準備中に足尾に行きました。村上氏は、ちょうど『足尾銅山労働運動史』を書こうとしていた時だったので喜んでくれ、足尾の坑内をくまなく案内してくれました。とくに徳川時代の坑道跡の印象は強烈でした。体を小さくしてやっと入り、戻るには後ずさりしなければならないような狭い坑道もあったのです。単身者寮の村上氏の部屋に泊めてもらった時、朝食に久しぶりにはぱさぱさの外米を食べ、足尾はまだ〈南京米〉だと驚いたものです。


【大原研究所の資料整理】

早川 大学院に入ると同時に大原の資料整理を始められるわけで、二村さんがよく言う「無給アルバイト時代」ですね。これは大変な仕事だったと思うんですけど。
 二村 いや、たいへんな仕事というより楽しみでした。大原研究所にはすごい資料があるとは皆が思っていましたが、実のところその中味は、誰にもあまり良く分かっていませんでした。ご承知のように、新宿区柏木──いまは西新宿ですが、大久保駅のそばにあった研究所は、敗戦数カ月前の空襲でほとんど丸焼けになりましたが、不幸中の幸いで土蔵だけが焼け残っていました。資料や大事な本はこの土蔵にぎっしり積み込まれており、おかげで無事だったのです。この焼け残った本や資料の一部、たとえば農民運動関係は、大島清先生がアルバイトを使って整理され始めていましたが、大部分は手つかずでした。だから土蔵に行くと、いつも何かしら発見があり、考古学の発掘のような喜びが味わえました。なかでも治安警察法や治安維持法関係の予審調書が出てきた時には興奮しました。開ける箱、開ける箱がみな裁判記録でしたから。また、評議会の『労働新聞』や『無産者新聞』をはじめ、大量の機関紙類を発見した時も、目指すものがやっと出たと感激しました。残念ながら探していた『労働世界』はついに出てきませんでしたが。この機関紙誌類はきちんと包装されており、保存状態がきわめて良かったのには感心させられました。たぶん大阪から引っ越した時のまま、土蔵に入れられていたのでしょう。〔参照 《70年こぼれ話 6 》柏木の土蔵
 土蔵へはいつも4、5人で行き、各人が関心のある分野の本や資料の所在確認の作業をしました。たぶん研究員のなかで原資料類に関心を持っていたのは大島さんと田沼さんだけだったでしょう。久留間先生や宇佐美さんは図書、それも洋書中心でした。洋書の整理には、経済学部の講師だった良知力さんも参加し、1850年以前に発行された図書の目録を作成されました。土蔵での久留間先生は、いつも職工服のような〈つなぎ〉を着ておられたのが目に残っています。全員が黒い実験着のような上っ張りを着て仕事をしました。すごい埃で汚れましたからね。ただ整理といっても、当時の研究所はスペースがないから資料もたくさんは持って来れない。少し運んでは整理して土蔵に戻すといったやり方で、なかなか作業は進みませんでした。大学院5階の研究所には、一番奥に専任研究員の共同研究室と会議室を兼ねた部屋があり、原資料類は主にそこで整理しました。会議用のテーブルを使ってね。研究室をアルバイトが占拠して大きな顔して資料整理をやったんです。研究員の皆さんはさぞ迷惑だったに相違ないと、今になれば思うんですけど。たぶん、あまり皆さんこの部屋を使っておられなかったからでもありますが。
 原資料の整理がいくらか進んだのは、1960年に「わが国労農運動における社会民主主義の研究」というテーマで科研費をとってからです。大島さん、田沼さんの他に、所外から社会学部の村山重忠先生や増島宏さん、それに僕もメンバーに加わりました。この時に、資料用の棚を共同研究室に入れ、資料整理がいくらか本格的になりはじめたのです。とくに無産政党関係は、アルバイトとして参加された高橋彦博さんや大野節子さんらの努力でかなり進みました。法政大学出版局から出た大野・高橋・増島共著の『無産政党の研究』は、この研究プロジェクトの成果です。
 早川 そうすると、この資料整理の仕事は、久留間所長を初めとする研究所の一つの方針としてやったんですか。研究員から職員、それにアルバイターも参加して。
 二村 もちろん所蔵図書資料を利用可能な状態にすることは、研究所の一般的な方針でした。ただ専任研究員が原資料整理の実務を担当することはありませんでしたし、1960年代には職員も参加していません。資料整理の実質的な担い手は大学院生のアルバイトが主でした。職員には戦前資料を触らせることもしなかった。たぶん研究者かその卵でなきゃ資料整理は出来ないという考え方だったんでしょう。谷口さんは後には〈資料の主〉になりますが、それは1970年代以降のことです。
 早川 じゃあ職員の人は何をやってたんですか?
 谷口 年鑑編集のための資料の収集や整理をしてました。戦前資料の整理については、研究員がやるものだから資料係は手をつけるなと言った雰囲気でしたからね。農民運動の資料整理は大島さんの指揮下に、岡田和喜さんや五味健吉さん、石垣今朝吉さんといった大学院生のアルバイトがやっていました。
 二村 ただ「資料整理」とはいっても、まだどのように進めるべきか模索中といったのが実際で、僕が参加したころまでは、農民運動資料などはビラ1枚についてカードを1枚つくるといったやり方をしていた時もありました。だけど膨大な資料を、そんなやり方ではとうてい整理にはならない。つまりカードに対応する原資料がどこにあるかが分からないのですから。資料を書架に並べ、決まった場所に置かないと使えない。だから1950年代までは、整理というよりどんな資料があるの確認するだけというのが実状だったと思います。図書や裁判記録のようなまとまった形のものは、あることさえ分かれば、ある程度利用可能でしたが。
 三宅 この時に何か参考にされたものがあるんですか。例えば明治新聞雑誌文庫をモデルにしてそれに近い形にするとか、あるいは史料編纂所か何かのやり方とか。それとも参照されるものは全くなしに進められたのですか?
 二村 モデルはなかった、というよりどこかをモデルに出来る状態じゃなかった。整理途中の資料は、西日が当たる書庫の窓際に横積みに積み上げた木箱に入れてありました。まずは中身を確認し、評議会関係の資料などを残して、あとはファイルの表紙を付け替えるなど多少の手入れをして、また土蔵に戻していました。
 谷口 後に良知力夫人になる池邦江さんが大学院生で、原資料を靴みがきのブラシでこすって、虫の糞をはらっていましたね
 二村 資料の一部は虫に喰われるなどして痛んだものがあったから、それをさらに痛まないようにするといった程度の作業はしました。だけどそれもただ埃を払ったり、錆びたクリップをはずしたりして、それ以上紙が劣化するのを防ぐという程度のものでした。
 「社会民主主義の研究」で共同研究室のかたすみに書架を入れてからは、機関紙誌と整理済みの資料の一部をそこに置くようになったのでいくらか使えるようになりましたが。また、資料のごく一部についてはタイプ印刷で復刻しました。《労働運動史資料》とか《農民運動史資料》がそれで、年1冊から2冊のペースで出しました。《労働運動史資料》1の『関東合同争議資料』は田沼さんの編集ですが、2以降、つまり『日本労働組合評議会資料』は、大部分は僕の編集解説です。ただし後の時期のものは高橋彦博さんや、現クロアチア大使の大羽奎介さんとの共同作業ですけど。
 五十嵐 じゃあ、どのような資料があるかはわかるけど、一般の閲覧者が利用できるような形ではなかった?
 谷口 とてもそこまで行きませんでしたが、ただ戦前の機関紙誌は製本しましたね。
 二村 そうだった。僕は兼任研究員になるまでは無給だったけれど、いつだったか夏休みをほとんどつぶして新聞雑誌の整理をしたことがあった。その時はさすがに可哀想だということだったのでしょう、いくらか貰ったな。たしか兼任研究員になる前年だったと思うけど。劣化した輪ゴムや製本に使われている金具の錆びたをはずしたり、題号や発行期間など背文字の原稿をつける準備作業をしました。
 兼任研究員として最初に『資料室報』に書いたのは「大原社会問題研究所所蔵の戦前資料について」という紹介論文ですが、これを見ていただければ、ボランティア時代の資料整理というか資料調査の具体的な内容がいくらかお分かりいただけると思います。



【修士論文のこと】

二村 法政の大学院に来て、ようやく勉強らしい勉強をはじめました。石母田ゼミでは、エンゲルスの『反デューリング論』や、ウエーバーの『権力と支配』などを読みました。2年目から石母田ゼミはそのままでしたが、先生は籍を政治学専攻から私法専攻に移され、遠山茂樹先生がゼミを担当してくださった。ことによると石母田さんが僕のためにわざわざ遠山さんを呼んでくださったのかもしれない。国史に進学した時に遠山先生とすれ違った話をしましたから。遠山先生は明らかに僕向きのテキストを選んでくださった。片山・西川『日本の労働運動』といった史料類を読んだのです。
 大学院では2年かけて『法学志林』に発表した論文「足尾暴動の基礎過程」をまとめました。ゼミのレポートなどは、できるだけこのテーマに引きつけて書きました。学部の卒論で暴動の事実経過はある程度わかっていましたから、問題はその意味を明らかにすることでした。石母田先生は「史料に寄りかかった仕事していたらすぐ行き詰まる。何を解くべき課題とするか、それをよく考えろ」と強調されていました。「問題こそが重要で、問題のうちに答の半ば以上は含まれている」とか「若い間は、生涯をかけて解くべき課題を発見することが重要だ」と言われてね。これは方々で受け売りをしましたから、聞かれた方がいるかもしれませんが。ですから足尾暴動をどのように研究するかを考え続け、それが次第に大河内一男さんの「出稼ぎ型論」批判に収斂していったのです。ご承知のように「足尾暴動の基礎過程」の基本的なテーマは、鉱業技術の進歩は飯場制度を弱体化させずにはおかなかったということで、「暴動は飯場頭の強度な支配によっておきた」という出稼型による大河内さんの解釈を批判したのです。
 実はこれを着想する上でヒントになったのは、久保栄の「のぼり窯」です。「のぼり窯」には足尾暴動も描かれており、『日刊平民新聞』なども調べて書いてあるんです。ただし、ヒントはそこから得たわけじゃない。「のぼり窯」の中心的な舞台は北海道の煉瓦工場です。煉瓦の成型が、熟練労働者の手作りから機械による成型に移る過程を描いているんです。腕のよい手づくり煉瓦の職人だった男が戦傷で手作り作業が出来なくなり、機械を操作する労働者になる。この成型機械の導入が職人たちの人間関係に影響を及ぼす過程が描かれている。まさに技術の変化が生産関係を変化させるというシェーマです。これがヒントで修士論文をまとめました。もっとも修士論文のタイトルは「出稼ぎ型論批判試論」でした。『法学志林』の論文ではこちらをサブタイトルに回し文章もいくらか直しましたが、基本的な内容は修士論文と変わりません。
 この論文は、多くの方にわりあい高く評価してもらえました。とくに嬉しかったのは、修士論文を提出したすぐ後に石母田先生に呼ばれ「助手試験があるから受けてみろ」と言われたことです。「先の保証はないけど、奨学金のつもりで受けて見ろ」といわれた。実は、それまで僕は研究者になろうと思っていたわけではなかった。役人やサラリーマンなど宮仕えはしたくないと、やりたくないことだけははっきりしていたんだけど。大学院を出たら何になると考えていたわけでもない。ただ、もう少し勉強したいと思っていただけだった。だから尊敬する先生から研究者になれと勧められたことは何とも嬉しかった。生涯であれほど嬉しかったことはないと言ってもいいくらいです。
 梅田 「足尾暴動の基礎過程」についての僕自身の感想も含めて一言言わさせていただきたいんですが。僕がこれを初めて読んだのは、単行本ではなく『法学志林』から直接コピーして読んだんです。それで、非常に鮮明な感動を覚えました。どこに一番感動したかというと、大河内先生はああいう暴動は原生的労働関係の中で遅れた歴史の中で起こったんだというのに対し、そうではなくて歴史と進歩の中で起こっているんだということを明らかにされ、目が覚める思いをしましたね。ところで、当時、大河内先生やその周辺の人たちの反応はどうだったんですか。
 二村 まあ、全体的には割合高く評価してもらえたんじゃないかと思います。大河内先生は「ずいぶん僕が引き合いに出されておるな」、「一度乾杯しよう」と言われました。少し後のことになるけれど、僕が東邦大学でくさっていた時に、大河内先生はさる大学に推薦してくださった。この話は申し訳ないことに僕の方からお断りしてしまったのだけれど、大河内先生が僕をある程度は評価してくださったように感じました。正直のところ反論していただきたかったのですが、大河内さんは誰の批判に対してもあまり弁解や反論をなさらない方でした。
 周辺の研究者では、活字になったものでは氏原正治郎先生がいちばん早く認めてくださった。1959年の暮に出た『講座 社会保障』の論文で「最近の労働運動史の諸研究が重要な論点を指摘している」と評価してくださった。論文を発表したのがこの年の7月ですから、出てすぐに書いてくださったわけです。そのほか、矢島悦太郎先生も論文のなかでたびたび引用してくださった。もっとも矢島先生の方は「基礎過程」ではなく、修士論文をまとめる前の1958年7月に労働運動史研究会で発表した口頭報告を文章化した「明治40年の足尾暴動について」の方ですが。また、隅谷三喜男先生は『思想』の1960年8月号に「納屋制度の成立と崩壊」という論文を発表されましたが、この論文の基本は「基礎過程」と共通するもので、かなり私の論文の影響があると感じました。若い研究者に知られるようになったのは、たぶん中西洋氏が「日本における〈社会政策〉=〈労働問題〉研究の現地点」という大論文でとりあげてくれてからだろうと思いますけど。
 早川 社会政策学会でも発表したんじゃなかったですか?
 二村 1960年の秋たしか10月31日です。前の晩、岐阜の友人の家にいたとき長女が生まれたと電報が来たから。立命館大学で「労働運動史」を共通論題にした大会です。この大会はある意味で、労働運動史研究の転換を象徴する大会でした。これについては、大会直後に栗田さんが『季刊労働法』に書いていますし、私も「文献研究」でふれましたが、私以外の報告者、渡部徹、岸本英太郎、白井泰四郎の皆さんが一致して、大河内さんと同じように「労働組合は労働力の売り手の組織である、そうした本質に即して労働運動史も評価さるべきだ」と主張されたのでした。それまでの労働運動史は、谷口善太郎『日本労働組合評議会史』や渡部徹『日本労働組合史』などが典型ですが、運動家の立場で書かれた、それ自体が運動の一環であるような歴史が中心でした。この頃から、それまでの労働運動史研究の「方法」というより「研究態度」に対する批判がいっせいに出てきました。簡単に言ってしまえば「左翼善玉主義史観」批判です。もともと僕は、それまでの実践家による運動史、より具体的にいえば、あるべきであった方針によって過去を断罪したり、顕彰したりする運動史に強い違和感を感じていましたから、「左翼善玉史観」批判そのものについては賛成でした。自分には実践家としての資質が欠けているという自覚があったこともあり、また研究者の政治的あるいは思想的な立場によって初めから結論が決まっているような運動史に疑問をもっていましたから。ただ僕は、大河内さんたちのように、日本の労働組合を「労働力の売り手の組織」という定義で裁断することには疑念を抱いていました。この疑問が次の研究テーマに繋がってくるのですが、それはもう少し後のことです。
 三宅 以前、明治大学の栗田健さんが、出たときはこんなに影響力をもつとは思わなかったということを言っておられましたが、実際に広く受け入れられたのは、もう少し後のことで、ちょっと時間がかかったんじゃないでしょうか。とくに外国研究をやってた人たちが、重要だと評価するようになるのは、もうちょと後になる。
 それから、技術の変化が生産関係を変えていくという「基礎過程」のテーマのヒントが久保栄だということは、はじめて知ったんですけれど。「足尾暴動の基礎過程」が出た直後に、兵藤釗さんの最初の論文や池田信さんが生産過程の変化を重視された論文を発表されています。今から考えると、「イノベーション」という言葉が「技術革新」と訳されて日本社会に定着していく、そういう時代の中で生まれたのではないでしょうか。それまでのように政治的な現象として労働運動や労働争議が行われていたのに対して、もっと働いてる場所の変化を見ない限り日本の特徴はつかめないんじゃないかと考え始めた。そういう傾向のいわば先鞭だったのではないでしょうか。そうした点についてどうお考えでしょうか。この2点をちょっと伺いたいんですけど。
 二村  そのころ技術革新をめぐる研究がいくつか出はじめていたから、そういう議論からも影響は受けてるかもしれない。大河内さん自身も出稼型論を修正された時期に当たってます。たぶん、高度成長の現実が出稼型論ではダメだということを明らかにしつつあった時期だったと言えるでしょう。ただまだ兵藤さんや池田さんとは顔を合わせていないし、彼らの論文が活字になるのはもう少し後ですから、兵藤さんや池田さんの影響を受けたわけではない。
 梅田 もう一つ、総体的な感想と質問をつけ加えさせてください。僕の勝手な思い込みかもわかりませんが、先生はどうお考えになるか伺いたい。さっきちょっと話が出た、労働現場の変化にともない社会関係が変化するという視角は、石母田先生の『中世的世界の形成』から影響を受けたんじゃないかなと思ってるんですよ。黒田庄という一つの荘園の中での変化を、古代から中世まで追っかけることによって社会の関係を知ろうという、大きな枠組みのところはやっぱり影響を受けたのではないでしょうか?
 二村 限られた対象を素材にして普遍的な問題をつかみ出すことは可能であるという考えや、そうした研究方法についての確信は、明らかに石母田さんに負っています。足尾銅山というひとつの限られた舞台で、日本社会全体に共通する歴史の流れを追究するという方法は影響を受けてる。ただ『中世的世界の形成』から直接影響を受けたと言うわけではない。正直のところ、あの本は当時の僕が読みこなすにはちょっと難しすぎるものでした。むしろゼミや雑談などいろいろな機会に先生のお話しを聞き、そこから影響を受けたのだと思います。その他にも、いろいろ影響を受けていることは少なくない。たとえば、彼は講座派にはかなり批判的だった。とくに『日本資本主義分析』に対しては、ああいう図式主義ではだめだという言い方をされていた。そのことは、僕のその後の研究の方向に小さからぬ影響を及ぼしている。
 また遠山先生の教えからも影響を受けた点がある。これも僕は何度も受け売りをしたことがあるんだけど。それは「実証とは自分の仮説に合う史料を集めることではない。むしろ合わないものを集めそれを自分の仮説に突きつけ、それでもなおかつ仮説がくつがえされないことが必要だ」と言われた。僕の書くものが〈軽妙〉とはほど遠いものになっているのは、この教えを意識しすぎてきたためかもしれない。
 早川 隅谷さんもさっきおっしゃった『日本賃労働史論』を出されるし、東大社研の調査でも職場の変化の問題に注目しはじめて佐久間ダムの調査なんかをやってますからね、かなり変わり目の時期のそういう意味で後に残る意味をもった。


【東邦大学のころ】

早川 次に2つほどお伺いしたい点があります。一つは1960年4月に、東邦大学の専任講師を経て助教授になりますね。この間の二村さんと大原研究所とのかかわりについて伺いたい。もう一つは、東邦大学という医学系の大学に就職されたいきさつについてです。
 二村 まず東邦に行った話ですが、これは東邦大学が教養課程を独立させることになったんですが、その中心が森鴎外の息子の森於莵さんでした。森先生は中村哲先生と台北帝大の同僚で、中村哲先生に社会科学担当の適任者の推薦を求められた。中村さんが3人いた助手の名をあげたところ、森さんがその中から僕を選んだということらしいんです。だから任期は3年だったのに2年で助手を終えてしまいました。もともと政治学科の助手は先は保証されていないということは最初に言い渡されていたから、遅かれ早かれ外へ出ざるをえなかった。東邦では政治学を教えるはずだったんだけど、実際に行ってみたら法学をやれというんですね。要するに東邦大学は医学部だけでなく、薬学部、理学部がある。理学部の卒業生の多くは先生になるので、教職課程をおかなければならないが、それには憲法が必修だ、だから法学を担当しろという。学科新設の際の資格審査では政治学担当教員としてパスしたのに、法学をやらされた。学生には迷惑な話だが僕には勉強になった。
 大原研究所との関係は、東邦大学に就職しても、それまでとあまり変わりませんでした。いくらか違ったことといえば、科研費をとる研究プロジェクトなどで、僕は正規の研究分担者になるようになったくらいでしょう。
 ただこの時期は、研究面では行き詰まりを強く感じていました。自分で言うのもなんですが修士論文がそれなりの出来だったので、それを乗り越える研究をどのように進めたら良いかはっきりしなかった。学部の卒論をもとに修士論文を仕上げたときは、それなりに先が良く見えて楽しくまとめることが出来たのですが、それを次にどのように発展させていったら良いか分からなかった。とくにこの頃は子育てに追われ、なかなか勉強が出来なかった。60年と63年に子供が生まれた上に、かみさんがフルタイムで働き始めたものですから。こうした状況を、自然科学系の大学で専門外のことを教えさせられているからダメだと感じ、焦っていました。そうした中で仕事らしい仕事は『評議会資料』だけです。著作目録を見てもらうと分かりますが、この頃はろくな論文が書けなかった。だから大原研究所の研究員になったときは、本当に嬉しかった。


【日本社会運動史料のこと】

二村 今度はじめて自分の年譜などというものを書いてみて気がついたんだけれど、僕と大原研究所とのかかわりはほぼ10年ごとに変化しています。1956年に大学院に入って資料整理をはじめ、1966年に兼任研究員になり、1976年に留学し、1985年に所長になった。きっかり10年というわけではないけれど、ほぼ10年きざみで大きく変わっています。
 僕が専任研究員になった前後は、研究所も大きく変わりました。田沼肇さんや原薫さんが学部に移られ、代わって中林賢二郎さんと僕が入った。一番大きかったのは、戦後の研究所を担ってこられた久留間先生が退職されたこと、そして宇佐美・大島・舟橋の3先生が2年交代で所長をやる仕組みが出来たことでしょう。
 創立50周年をひかえ、いろいろ新しい計画もその頃生まれました。創立50周年は1969年ですが、準備は1967年ころから始まってる。所蔵図書目録の作成とか、50年史の発行とかいろいろありますが、僕が主にやったのは、法政大学出版局から出した《復刻シリーズ日本社会運動史料》の編集です。それまでは、タイプ印刷で1年に1、2冊ぐらいずつ労働運動史料集、農民運動史料集を出すやり方で、復刻できる分量はごく僅かです。それに、タイプ印刷だと、きちんと校正できてないから、資料としての信頼度にも問題がありました。これを《日本社会運動史料》として大きく変えたのです。
 三宅 復刻はほかにも例があったんですか。
 二村 明治文献資料刊行会が、労働運動史研究会の編集で《明治社会主義史料集》を出しています。実は《日本社会運動史料》の企画も、最初は明治文献で出す話があったのです。《大正社会運動史料集》として労働運動史研究会と大原研究所の共編でね。僕は研究所の代表と同時に労働運動史研究会の委員としての二重の資格でその準備会に出ていました。その時に、明治文献資料刊行会の営利主義的な態度に接し、パートナーとしては信頼できないという印象を強くもちました。結局、1978年2月に研究所側から明治文献へ交渉打ち切りを通告し、研究所独自の編集で法政大学出版局から出すことにしたのです。その後間もなく明治文献は潰れてしまい、あの時いっしょにやらなくて良かったと思いました。
 しかし、新しい事業をやるといっても大原社研には資金がない。財団法人だったこともあり、補助金の増額は難しかった。それでも機関紙誌編は、商業ベースでも何とかなりそうだったけど、原資料編は見通しがたたなかった。そこで復刻の印税の前払いで編集費を出そうとした。原資料編の編集作業を担当していただいた大野節子さんへの謝礼は、研究所でなく法政大学出版局から出す形をとった。1年に1冊出せば何とかつじつまが合う計算だった。しかし、とてもそのテンポでは無理と分かり、途中で切り替えました。
 私の仕事のかなりの部分はこの復刻の準備作業にしめられました。儲け主義的な復刻でなく学術的な復刻にしたいと考えたので、欠号のない完全な原本を揃え、ペンネームを調べ、索引や解説もしっかりしたものをつけるという方針を出してやり始めました。索引や解説には所外の多くの方の協力を仰ぎました。松尾洋・多賀夫妻、渡辺悦次さんなど多くの方にお力添えいただきました。私もこのころは割合せっせと働きましたよ。原本探しやペンネームおこしのために5年間で100人をこる人と会いました。おかげで新人会機関誌のときは宮崎龍介、平貞蔵、新明正道など十数人、『マルクス主義』では久津見房子、山川菊栄、野坂参三、福本和夫、志賀義雄など二十数人といったように、数多くの方にお目にかかることが出来ました。〔参照「新人会機関誌の執筆者名調査」「雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査」〕もうほとんどが亡くなられてしまいまいましたが。福本和夫氏の話し方が昭和天皇に似ていたことなど面白い話や忘れがたい思い出もありますが、これは話し出すときりがありません。
 梅田 《日本社会運動史料》はどのくらい売れたのですか。
 二村 ものによって違います。機関紙誌編は普通は300部、多いもので500部くらいでした。原資料編は作ったのは500部ですが、こちらはなかなか売れなかった。シリーズ全体でいちばん売れたのは『無産者新聞』〔参照:無産者新聞小史〕で700から1,000部、ついで『新人会機関誌』が600部くらいだったと思います。
 梅田 このころはまだ毎月1冊程度のペースでしたね。
 二村 はじめは月1冊弱です。セットにするとすごく高くなるから、月々出そうということで。
 早川 よく出せましたね、毎月。
 二村 僕も若かったし、法政大学出版局の担当編集者の平川俊彦さんはさらに若かった。それに、出版局もいくらかは商売になったんでしょう、ずいぶん力を入れてくれた。
 梅田 聞いた話ですが、固定客がついていて、刷り上がったら自動的に送りつければ買ってくれた時代だったそうです。法政大学出版局のドル箱じゃなかったですかね、当時は。
 二村 いやいや、とてもドル箱にはならなかったでしょう。ただ普通の本の5倍から10倍といった高い値段の割には一定数の固い読者があったから、売上高は大きく、損はしなかったというところかな。刷り部数が少ないから売れ残りも少なく、売れ残ってもいつかは必ず売れるというものでしたし。月々出したので、個人でも買ってくださる方が何人かいらして、そのおかげで続いたんです。
 専任研究員になってすぐの、もう一つの大きな仕事は50周年記念の展示会です。《社会運動の半世紀展──圧制と民衆の抵抗》という題で、1969年の5月に東急日本橋店、昔の白木屋でやりました。〔参照:『大原社会問題研究所50年史』〕大島清所長の努力もあり、当時の朝日新聞社の企画部次長の水原孝さんもたいへん乗り気で共催してくれました。直接の担当者は立石亥三美氏で、たぶんこれが本格的に展示会を担当した最初だったようですね。その後は「昭和の50年展」「事件と報道100年展」「原爆展」など大きな展示会を担当されましたけれど。この《社会運動の半世紀展》は朝日の後援のおかげで経費はデパートの宣伝部もちになりましたから、予算を気にせずに展示品を選んだり、大きな写真もたくさん使うことができた。朝日が大々的に宣伝してくれたこともあり、連日2,000〜3,000人の入場者がありました。所員は総出で大忙し、解説カタログも好評で3,000部が売り切れ、急遽増刷したほどでした。久留間先生がたいへん喜ばれて、開会式でテープカットをされた後、わざわざ僕のところに見えて丁寧に「ご苦労様でした、どうも有難う」と礼を言われ、ちょっとびっくりしました。
 ただ展示会の準備が大学院のバリストと重なり、これは大変でしたね。機動隊が入ってバリストが一時解除になったんですが、またいつ同じことが起こるか分からないということで、資料類を全部麻布に移すことになった。労働旬報社から車出してもらったり、僕も家の車をもってきて、麻布校舎へ運び出したんですよ。最後は、資料を入れる箱がなくなっちゃってね、その辺の机の引き出しをはじから引き抜いて、その中に資料を放り込んで運びました。そのころ大原で車を運転できたのは僕だけだったから、なにかと言うと運転手も兼ねた。もっとも、そんな時代だったから「圧制と民衆の抵抗」なんて銘打った展示会を都心のデパートで開くことが出来て、人も集まったのでしょうがね。はじめは《圧制と民衆の抵抗展──社会運動の半世紀》として準備していたのだけれど、朝日の社内で問題になったとかで、主題と副題が入れ替わったのでした。


【資料の一般公開】

二村 復刻と展示会のほかに、研究所での仕事としては、もうひとつ資料の公開準備がありました。1967年に大原研究所は麻布にあった空き校舎の一部を借りて分室を設置しました。これはもともとは協調会が運営していた学校の建物で、戦後は中央労働学園大学が使っていたのですが、これが法政大学と合併して社会学部となったのです。一時は社会学部と工学部が、さらに第一工業高校が使っていたのですが、工学部は小金井に移り、工業高校も廃校になり校舎が全部空いたのす。分室が出来たおかげで、土蔵に死蔵されていた資料をようやく書架に並べることが出来たのです。おかげで1971年から図書資料の一般公開が可能になったんです。最初は週2日、73年からは土日を除く週5日の公開です。僕も毎週1回は麻布に行き、資料整理にもかかわっていました。その後だんだんと整理の実務からは離れましたが。実は、僕が入ってすぐ、資料整理についての方針を変えたのです。それまでは、戦前の資料は研究員と大学院生にしかさわらせなかった。それではとても資料の公開は出来ないので、職員の人たちが中心になって資料整理をするように変えたのです。71年から谷口さんが麻布分室担当で、しだいに〈資料の生き字引〉になっていったのです。
 三宅 大原の英文名はohara institute for social research、つまり社会調査研究所ですが、それをライブラリーやアーカイブスという機能も考えていかなきゃならないという議論はあったんですか。それと、ちょうど明治100年記念で、学術会議が国立公文書館をつくれと言ったでしょう。そういうのも関係があったのですか?
 二村 それは全然関係ありません。これは研究所が主体的に計画したものです。もともと戦前の大原研究所は専門図書館としての機能を果たし、多くの大学よりずっと充実した内容をもっていたのです。
 吉田 研究所が戦後大きく発展するにはいろいろな条件があったと思います。なかでもいま先生が話された、《日本社会運動史料》の復刻と《社会運動の半世紀展》の開催、それから図書資料の公開は重要だったと思います。僕もこの資料公開の恩恵を受けて占領期の研究が進んだ経過がありました。ところで、研究所では、公開によって生じる問題点などをあらかじめ討議されたわけですか。また、公開を提案されたのは二村先生なんですか。
 二村 もちろん前々から資料の公開については議論されてきました。計画だけなら、法政大学との合併前の駿河台時代に、上杉捨彦先生が「情報センター構想」をたてておられた。実は僕が兼任研究員になる前年の1965年にも、研究所は〈労働問題文献センター〉計画をたてています。あの頃文部省は全国各地の大学に大型コンピュータを装備した文献センターをつくる計画をもっていたそうですが、その計画書のなかには大原社会問題研究所の名もあったらしい。もっとも結局は、私学の場合は法的な制約があるということで頓挫したのですが。だから資料の公開方針そのものは、早くからあった。公開を目指していたからこそ『所蔵文献目録』の作成作業を進めていたわけです。
 ただ、どうすればこれを具体化出来るかはあまりはっきりしていなかった。麻布校舎を確保すれば公開できると提案したのは、あるいは僕だったかもしれません。いずれにしても僕が研究員になった直後の1967年に、大学側に麻布校舎の使用を認めてもらい、ここに分室を設けました。これは研究所の将来にとって計り知れない大きな意味をもちました。スペースが広がったので、多くのコレクションの受け入れが可能になった。松川事件の資料も東大社研との競争でしたが、大原が利用者の資格を問わず公開していたから寄贈を受けることが出来たのです。これが縁で、メーデー事件やレッドパージの資料なども受け入れることが出来、そうした図書資料を持っていたから移転の度に書庫スペースを拡大することが出来た。
 もうひとつお話しておきたいのは、研究所が「利用者の資格を問わない」専門図書館・文書館となったことです。現在研究所は、この完全な公開制度をとっていることで各方面から高い評価を得ていますが、この方針はすんなり決まったわけではありません。実は研究員は、僕も含め公開を研究者に限る方向に傾いていました。というのも閲覧者のなかにはビックリするほど非常識な人もいて、貴重な機関紙の原本に自分が調べている地域の記事にはじから万年筆でマークを記入した人さえいたのです。だから貴重な資料を保存するには、ある程度の制限はやむをえないと主張したんです。しかし、ライブラリアン是枝洋は、無条件での一般公開を主張し、結局われわれが説得され、利用者の資格をまったく問わない一般公開ということになったのです。そうした点では、是枝さんにずいぶん教育されました。
 谷口 一般公開前にも、研究者の方は閲覧に来てましたよね。
 二村 ええ、日本女子大学の喜安朗さんが私学研修福祉会の内地留学でこられエルツバッハー文庫などを使っておられます。また、僕の高校時代の恩師で国語の先生だった都立大学の森山重雄先生も、プロレタリア文学やアナキズム関係の資料を見にこられました。その他にも立命館大学の細迫朝夫さんが客員研究員として滞在されました。
 しかし、麻布分室が出来たことで研究所は大きく変わる条件をえました。やっと大原社研のライブラリー機能を復活させることが出来たのです。もうひとつ1969年に『所蔵文献目録(戦前の部)』を出したことも忘れてはならないと思います。これを完成させるについては、僕らも冬のさなかに暖房のない柏木の土蔵に通ってカードを作ったりした。


【社会労働問題研究センター】

二村 ここでお話ししておきたいのは、社会労働問題研究センターのことです。敗戦後インフレで立ち行かなくなっていた大原研究所は、1949年に法政大学と合併しいったん財団法人を解散して、法政大学の付置研究所になったのです。しかし、その翌年にはすぐに「財団法人法政大学大原社会問題研究所」として、ふたたび財団法人になりました。旧所員だった森戸辰男さんが文部大臣をやったことでもあり、財団法人の方がいろんな助成金を取りやすかったんでしょうね。私学助成はまだない一方、財団法人なら文部省などから助成を得やすいという判断があったようです。ところが、私学に対する経常費助成が始まりその比重がふえると、学校法人法政大学の教職員には補助金が来るのに、財団法人大原社会問題研究所の研究員や職員にはそれが出ないわけです。これは大学にとっては大変なマイナスですよね。だから「大原社研を付置研究所にせよ」という議論が出てきたのも当然です。
 この時には、われわれも研究所改革問題をいろいろ検討しました。最終的には財団法人を維持したまま、大学付置研究所としての「社会労働問題研究センター」をつくり、専任の研究員も職員も全員そちらに移り、大原社会問題研究所の所員も兼ねるという方策をとったわけです。この方針を決める前に、僕はひとりでかなりの時間をかけて全国の主な私立大学の付置研究所の実状を見て回りました。早稲田の社会科学研究所、慶応の産業研究所、明治の社会科学研究所、同志社の人文科学研究所、立命館の人文科学研究所、近畿大学労働問題研究所、関西学院大学の産業研究所などですね。それぞれの研究所で理事会や学部との関係、運営の実態・問題点などについて調査したのです。簡単なメモに基づく口頭報告だけで報告書は書きませんでしたが、財団法人を解散して付置研究所にするのはマイナスが大きいという結論を出しました。私立大学の付置研究所の場合は専任研究員がごく少数、あるいは全然いないこともあるから、どうしてもその運営は各学部を代表する委員によって進められる。その場合どうしても学部間バランスを考慮した方針にならざるを得ない。たとえば、ひとつの研究プロジェクトがある年に経済学部中心で進められると、次の年は文学部、その後は法学部といった形をとりがちである。そうなると研究所独自の個性を出すことは出来ない。また蔵書の構成も一貫性を欠くものとなる。つまり、全学部から同数の運営委員が出て「民主的」な運営をすればするほど没個性的になり、単なる研究費のばらまき機関になるおそれがある。同時に付置研究所になると職員人事で全学的な配慮が優先されて異動が頻繁におこなわれるため、専門職的な職員を育てることは難しい。以上が、他大学の研究所を見ての主な結論でした。財団法人方式は閉鎖的であることなど問題も大きいけれど、研究所の個性を発揮する上では意味がある。よって法人は解散せず、経常費助成を受けられるような組織をつくり所員はそこに籍を移す。もっとも単なるトンネル機関をつくるだけでは具合が悪いから、法政大学図書館にある協調会文庫と大原社研の蔵書を統一的に利用する機関を設けることを大義名分にしました。実際、利用者の側から見れば、共通した分野の蔵書でありながら、協調会は官庁や財界から集めたものが多く、大原は運動と結びついて集めたものが多いから、これを1カ所で見られるのはメリットがありました。その点では研究センターは実質的な意味も小さくはなかったのです。
 もうひつと付け加えておきたいのは旧協調会資料の入手のことです。「協調会文庫」はもともとは協調会の付属図書館の蔵書でしたが、その他にも協調会には業務上の必要から作成したり、収集していた資料があるのです。その中には各県の警察部が労働組合大会に速記者を入れて作成した速記録など、かけがえのない資料も大量に含まれています。この〈旧協調会資料〉は、法政大学との合併の後も中央労働学園に残されていたのです。この資料の存在は一部の人には知られており、中労は希望者には閲覧も許していました。しかし閲覧室がなくコピー出来なかったこともあり、管理はずさんでした。『日本社会運動通信』のファイルから、特定地域に関する記録の部分が多数切り取られるといった事態もおきていたのです。このように保管環境も悪く、もし火災などでもおきたらと心配でした。そこでこの貴重な文書を研究所で購入することは出来ないかと、中央労働学園と法政大学に頼み、1975年3月これを入手することが出来ました。中労側も金を必要としていた事情があり、法政大学も鈴木徹三氏が財務理事、増島宏氏が学務理事と研究所に理解のある執行部だったこと、また年度末で予算にいくらか余裕があったことも幸いして、トントン拍子で決まったのでした。
 吉田 社会労働問題研究センターの設置にともなって、身分も変わったわけですね。
 二村 変わりました。財団法人時代は専任研究員というだけしたが、法政大学の付置研究所になったことで教授になった。
 早川 二村さんが教授で、私が助教授になったんです。


【文献研究・日本労働運動史】

早川 研究に関してちょっと伺います。1970年に「全国坑夫組合の組織と活動」を発表されますが、この辺から研究の道筋が見えてきたんじゃないかという気がするんですが、いかがですか。
 二村 いや、まだ見えてはいない。全国坑夫組合をやりかけたのは──あの論文はいまだに未完のままです──、足尾暴動以降の鉱山労働運動を取り上げることで、それまでの研究を発展させられるかもしれないと思ってやり始めたんです。だけど、これで研究の展望が拓けたという感じはもてなかった。
 三宅 1971年に例の『文献研究日本の労働問題』の増補版に労働運動史についての研究史を書かれましたね。これと1975年の『岩波講座 日本歴史』に論文を書かれましたね。どちらも恐らく依頼された原稿だとは思うんですけれども、それを引き受けられた理由と一番主張されたかった点をちょっと伺いたいんですけれども。
 二村 一番のポイントは、大河内さんのように「労働組合は労働力の売手の組織である。それ以上でも、それ以下でもない」と理解したのでは、日本の労働組合、とくに戦前の労働組合は理解できない、これがひとつの主張点でした。また大河内さんは、争議や暴動は非日常的な事件にすぎない。労働運動史研究は、組合の規約とか団体協約など、もっと日常的な活動を研究しなければならないと主張されていました。しかし僕は、実際に日本の労働組合の規約や団体協約などを見ていましたから、大河内さんの提唱に疑問をもちました。単に規約や団体協約の文言を分析してみても組合の実態を明らかに出来るとは思えなかった。また争議などは非日常的な事件にすぎないと言われるけれど、戦前の日本では、労働争議なしに労働条件の維持改善など問題にもならなかった。だから労働運動史研究、労働組合研究にとっても争議研究は重要だと主張した。これが第2点ですね。
 この論文は、たぶん僕の書いたものの中でもわりあい影響力をもったようで、その後多くの若い研究者が争議研究を取り上げるきっかけになった。おそらく方法的に、また資料面でも、とっつき易かったということもあるのでしょう。ひとつの争議を研究すれば何か意味のあることを解明出来そうだということで。岩波講座の論文の方は、そうしたことを考えはじめてはいたけれど、全体としてはまだ中途半端でしたね。
 三宅 1971年の「文献研究・日本労働運動史」で主として論敵にされたのは、大河内さん、渡部徹氏、あるいは白井泰四郎さんなんかですけども、あの時点で、戦前の日本の労働組合は労働力の集団的な売手であるという議論がベースになって研究が進んでいたというふうにお考えですか。
 二村 いや、そうじゃないと思う。どなたも抽象的に問題にされていただけで、そうした方法による実証的な研究成果はなかったと思います。
 三宅 岩波講座の論文は考えようによっては、労働組合を労働力の集団的売手として考えた場合に、どういう議論ができるかという話をしてるとも読めるでしょう、あれは。
 二村 そうかな、僕は余りそういうふうには考えなかったけど。僕には、鉄工組合や友愛会に結集した戦前の日本のブルーカラー労働者が、なぜあれほど「社会的地位向上」の呼びかけに敏感に反応したのか、それが疑問だった。これを解けば日本の労働者の団結の特質を明らかにすることが出来るのじゃないかと考えたのです。友愛会も鉄工組合も、大河内さんたちの基準、つまり「労働力の売手の組織」として評価したのでは、どちらも無力で、ほとんど無意味な存在だった、そう評価せざるを得なくなると指摘したのです。
 要するに大河内さんたちは、ウェッブの労働組合の定義を基準に日本の労働運動史を評価し直そうという提唱だったと思うんですよね。だけど僕は、実際に『評議会資料』の編集や全国坑夫組合の研究で日本の労働組合の資料を日常的に見ていたから、そんな基準では日本の労働組合は理解できないと考えるようになっていた。
 もうひとつつけ加えさせていただくと、この文献研究論文は一般には争議研究の提唱と受け止められました。もちろんそれで間違いじゃないんですけど、山本潔さんの争議史研究などとは、重点のおきかたがちょっと違います。僕は山本さんが主張されたような争議そのものの研究も重要だが、それよりも争議時に示される労働者の行動を通じて日本の労働者の日常的な意識や日本の労働者の団結の特質を明らかにしうるのではないかと主張したのです。争議のような非日常的な事態だからこそ残る文書や行動の記録がある。そうした「非日常」における記録を通して、労働者の「日常」を把握することが出来るのではないかと主張したんです。だから、山本潔さんの争議史研究の方法と僕の提唱とは異質です。
 いずれにせよ、この文献研究の論文と岩波の講座日本歴史の論文で、自分の研究の方向が見え始めたとは感じました。だけど、まだ本当には見えきっていなかった。


【海外留学──ヨーロッパ】

早川 じゃあ先に進んでいいですか。1976年に留学されるわけですけれども、海外で何を学んで来られたか。また大原研究所をIALHIに参加させ、今でも大原社研は日本で唯一の加盟機関ですが、それについてもちょっと話していただけますか。
 二村 1976年8月に出発して1年7カ月かな、翌々年の3月31日に帰国したんです。8月に出たのは『日本労働年鑑』の執筆義務を果たしてから出れば、1年以上いられると考えたからです。実は、短期ですが留学できそうな機会がその数年前にあったんです。その時はうまく行きませんでしたが、いずれ近い将来そうした機会があることが分かりました。その時いろいろ考えて、本を読むだけなら日本でも出来る。それよりなるべく多くの人と会い、意見を交換し議論することが大事じゃないかと考えたのです。それから留学まで3、4年あったのですが、英会話をかなり一生懸命勉強しました。おかげで、出発までにはわりあい自由に意思疎通できるようになりました。1976年の春に、イギリスのウォーリック大学社会史研究所の所長ロイドン・ハリソン教授が来日し、何日かその案内をして、英語でのコミュニケーション能力にも、いくらか自信がつきました。また、この数年間に何人もの英会話の先生たちと仲良くなり、正月に家に呼んで泊めたりして、そのうちの何人かとはその後も親しくしています。その一人がテリー・ボードマンで、昨年僕の本を訳してくれた一人です。彼は、僕が留学中にたまたまシェフィールド大学の日本学科の大学院生になったりする偶然も重なり、たいへん親しくなり家族ぐるみのつきあいを続けています。
 何を勉強したかと言われると、ちょっと困るんですけど、目標はいくつか決めて行った。一つは、外国の労働関係の研究所とかアーカイブスというものはどう運営しどうやっているかを見てこよう。これはイギリスを中心にしてヨーロッパにも行ったりしたときにかなり積極的に行って見てきました。ウォーリック大学のモダン・レコード・センター(近代文書館)はまだ新しい組織でしたけれど、そこのリチャード・ストーリーというアーキヴィストがとても親切でいろいろ教えてくれ、これは勉強になった。とくにイギリスには、全国の資料目録情報を集中的に集めているセンターがあってね、The Royal Commission on Historical Manuscriptsという名称だったと思うけど、そこに行けば書簡などイギリス中の整理済み史料の所在情報が手に入るとか、IALHIのことを教えてくれたのも彼です。
 僕が籍をおいた社会史研究所は労働史研究の巨人E.P.トムスンがつくった研究所、というか実質は大学院です。もっとも僕が行った時には、もうトムスンは辞めた後でした。しかし、その後労働史研究会の会合で会うことができました。慶応大学の松村高夫さんには、博士論文執筆の最終段階でお忙しい時だったのに、家族ともどもたいへんお世話になりました。ウォーリック大学には労使関係研究所もあり、そこでのセミナーにも出てヒュー・クレッグやジョージ・ベイン、リチャード・ハイマンらの話を聞いたり、自ら「トロツキストの経営学者」と名乗る若い研究者の話を聞いたりしました。正直のところ、社会史研究所のセミナーより労使関係研究所の方が面白かった。この研究所は、国の研究財団的存在であるSSRC(社会科学研究協議会)が設立した研究所で、所長は公募制、5年ごとに研究所の業績を評価しダメな場合は廃止されるという思い切った性格の研究組織で、活気にあふれていました。全体にイギリスの学者は、また研究所や学会は、実に悠然と学問を楽しんでいると感じましたが、この研究所だけは別でした。
 IALHIは、The International Association of Labour History Institutions の略称です。日本語にすれば「労働史研究機関国際協会とでもいいましょうか、労働関係文書・資料館のアーキビストの集まりですね。その創設者で責任者をしていたのがイギリス労働党文書館のアーキヴィスト、アイリーン・ワーグナー女史です。大原研究所の話をしたら、まさにIALHI向きの機関だからぜひ入れと言われ、日本に連絡してすぐ入会しました。
 早川 留学中いちばん印象に残ったことは?
 二村 それは、西ベルベルリンに1週間余り滞在して、毎日東ドイツに通った経験ですね。ある意味で留学中の最大の成果というか、印象深い体験です。さっきも言ったように、僕は各国の研究所や文書館を見ようと思っていましたから、出る前から東ベルリンのML研究所にも行こうと計画していました。それで宇佐美さんに紹介状を貰っていた。ML研究所への直接の紹介状でなく、独日友好協会への紹介状だったけど。
 しかし、東ドイツへ入った1日目からこれは社会体制としてまったく駄目だと感じました。理由はいろいろあるけど、印象的なことでいえば町に若い男の姿が全然見えない。若い男は兵営と検問所にしかいない。それに毎日、チャーリーズ・ポイントという検問所を通って往復したのですが、ここを通る度に西ドイツマルクを東マクルに替えさせられる。正確な記憶じゃないけど、闇だったら3対1か4対1か、とにかく西マルクがずっと高かったんだけど、1対1のレートで替えさせられた。それはいいんだけど、戻る時に東マルクが残っていても西マルクには替えてくれない。入る時は必ず一定額以上の東マルクに替えさせられ、戻るときにはそれを替えてくれない。またこれは行く前から知っていたことだけど、ベルリンの壁そのものの異様さね。西の方は壁まで行けるし、落書きがいっぱいあるのに、東側は高い監視所があり、人は近寄れないようになっている。東ドイツ社会主義はどっか間違っていることを実感させられましたね。
 東に入ると僕はすぐ独日友好協会に行ったんです。ただ紹介状を貰ってから10ヵ月も経っていたものですから責任者が代わっていて、僕が行くことは引き継がれていなかった。だから研究所へは案内できないというんです。しょうがないから「それじゃあいいです、僕は明日ML研究所に直接行って見せて貰いますから」と言ったんだ。そしたら彼女が青くなって「そんなことは絶対やめてくれ、私の責任問題になる」って言うんだ。それまでヨーロッパのどこの研究所へ行っても紹介状や予約なしで見せて貰えたんだけど、東ドイツだけはダメだった。そのほか、ガイドブックでお勧めのレストランに行ったときもビックリした。見かけは僕が入ったこともないような高級レストランです、味はそれほどではなかったけれど。後ろにブラックスーツを着たウェイターが立ってサービスしてくれる。もちろん高いチップを取られた。しかもトイレの中にもおばあさんが座っててチップを出さないと使えない。話には聞いていたけど、ヨーロッパの他の国でそんな体験したことがなかったから、ちょっと不愉快になった。外貨獲得のため、西から来た奴からは絞れるだけ絞ろうということだったんでしょうけど。まだ、いろいろあるんですけど、東ベルリンの見聞は留学全体を通じても印象強烈でしたね。「お客さん」として行ったのでは決して体験できない貴重な経験でした。


【海外留学──アメリカ】

二村 アメリカでは3カ月ごとに本拠を変え3カ所に行きました。これは石母田さんのヨーロッパ留学の真似です。初めがミシガン大学、つぎがハーヴァード大学、最後にカリフォルニア大学のバークレー校です。それぞれの日本研究所にあらかじめ手紙を書いて、受け入れて貰っていた。白井泰四郎さんにエズラ・ヴォーゲルやロバート・コールに紹介してもらってね。いまハーヴァード大学ライシャワー研究所の所長をしているゴードンさんは、この時に知り合った。彼はハーバードの大学院生でした。たしか、東大音感の先輩だった綿貫譲治さんが教えに来ていて、彼がゴードンに僕のことを、日本労働運動史の研究者だから話を聞けと言ったらしい。アンディは博士論文の執筆のため来日する直前でした。僕は彼を燕京図書館つれて行って、まず僕の「文献研究」の論文を教え、これとこれを読めと言って兵藤さんや池田さんの本を紹介した。1年半ほどの間にいろんな人といろいろな形で会って、ずいぶん議論しました。本を読むんじゃなくて、議論できるようにすることに重点を置いた準備をしたことは正解だったと思います。
 五十嵐 研究面ではどうですか?
 二村 長期的には比較史的研究を進めるための材料集めをしたことなどいくつかあるけれど、短期的な成果は高野房太郎研究です。ワシントンの国立公文書館に行って、房太郎が帰国したときに乗ったマチアスという砲艦の航海日誌を見つけたんです。それで、高野がアメリカ海軍に就職し、食堂のウェイターとして働いていたことや、その船が、何時、どこをどう回って日本に着いたのかといった経路もきちんと分かりました。それまでも房太郎がアメリカの軍艦に乗っていたことは分かっていたんですけど、なぜ乗っていたのか、どこで何をしていたのか分からなかったんです。日清戦争を報道するための新聞記者として乗っていたのではないかと推測した人もいましたが、実際は日本に帰る時に、只で世界各地を見て回り、金も稼げる軍艦を選んだらしいことが分かりました。それを材料に、帰ってすぐ『日本社会運動人名辞典』の高野房太郎の項目を書き、「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」という論文も書きました。正直のところ僕自身は自分が書いたものの中では、この論文が一番気に入ってるんです。というのは、これはある種の謎解きなんです。それまで隅谷三喜男先生は、高野房太郎は職工義友会の中心メンバーじゃなかったと主張されていた。それは『労働世界』にのった労働組合期成会の歴史が義友会の創立年を1年間違えていたからなんです。その間違いを関係者の旅券の発給日時などから論証した論文で、明快に謎を解いたんじゃないかと自負しています。


【労働運動史研究会のこと】

早川 いま「職工義友会と加州日本人靴工盟会」を気に入っているとおっしゃったんですけど、それを載せた労働運動史研究会の機関誌が売れなかったこととか、二村さんがその当時労働運動史研究会の事務局長をしておられたことなど。
 二村 労働運動史研究会はずっと僕の勉強の場でした。研究会のことや会と僕との関わりについては「労働運動史研究会の25年」「事務局長落第記」という2つの文章を研究会の会報に書いていますから、詳しくはそれを読んでいただければ幸いです。
 事務局長の話は、留学から帰ってきた時には事実上決まっていたんです。中林賢二郎さんと高橋彦博さんが相談して、二村にやらせようと決めていた。僕は何とか断りたかったんですが、中林さんには留学中いろいろ迷惑をかけていたし、高橋さんには年鑑の執筆を代わって貰っていた義理もあって断りようがなかった。
 事務局長としてやった最初の仕事が『黎明期日本労働運動の再検討』の編集なんです。それまでの編集長の松尾さんや中林さんは、もともと運動家ですから運動家的なセンスでマーケットに合った編集をしていたんですが、僕は担当編集者の佐方信一さんに「たまには売れない本を出さなきゃ」なんて言って編集したものですから、実際にも売れなかった。(笑) それで、たちまち労働旬報社から、機関誌を出すのは勘弁してくれと言ってきた。『労働運動史研究』をつぶしたのは僕なんです。それでその後はタイプ印刷の『会報』にして細々と続け、1984年にアメリカに行くことになった時に明治大学の栗田健さんに後任を引き受けてもらったのです。
 実は1980年代も後半になると、研究会に来る人が少なくなって、実質的に栗田健さん、高橋彦博さんと僕が中心になってしまった。『社会・労働運動大年表』の編集や執筆に参加されることになる若い人たちも来てはいたけど。ただこの時期に議論してたことは、お互いに影響しあっているんじゃないかな。栗田さんが『日本の労働社会』〔参照同書二村書評〕という本を書きましたが、あれは『イギリス労働組合史論』からストレートには出てこない論理のものでしょう。いくらかは労働運動史研究会での僕などとの議論が反映して出来たものじゃないかな。僕の方もあの理屈屋さんと議論することは大いに勉強になった。


【創立60周年】

早川 1979年に研究所は創立60周年を迎えたわけですよね。当時、何をやるかという議論をしてレセプションを一つやりましょうということで、貴重書の展示会をやることになった。「また展示会か」というふうに二村さんはぶつぶつ言いながら、結局、展示会は二村さんの担当ということで、八重洲のブックセンターで行った。これは非常に好評だったわけですね。
 二村 そう、展示会は二度と嫌だと繰り返していました。ただ記念事業となるとやっぱりそれしかないということで、稀覯書の展示会を開いた。もっとも、実質的な中心は一橋大学の松川七郎さんで、本を選んだり解説文を書くことはほとんど松川さんがやって下さった。もっともドイツ関係の一部は良知力さんにもお願いしたかな。僕がやったのは会場や展示ケースの確保、本やキャプションを並べるといったこと、それにスポンサーをつのり宣伝用の座談会を開いて『図書新聞』に掲載して貰った程度です。あとひとつ「稀覯書」では分かり難いので《秘蔵貴重書・書簡特別展示会》というネーミングを考えました。60周年記念事業としては、ほかに『写真で見るメーデーの歴史』を出しましたが、この編集は早川さんの担当だった。
 僕個人としては、60周年よりは70周年の記念事業の方が忘れがたいところがあります。大原社研として最初の国際シンポジウムを開いたのですから。ドイツ、フランス、オーストラリアの3国から講師を招き、「外国人労働者問題と労働組合」をテーマに多摩キャンパスの百周年記念館の国際会議場を使って開き、盛会でした。講師の招聘については経済学部の森廣正さん、長部重康さん、早稲田大学の鈴木宏昌さんにお力添えいただきました。予算がないのに3カ国語を使っての国際会議でしたから、社会学部の相良匡俊さん、経済学部のアン・ヘリングさんにタダで通訳をお願いするというという始末でした。『大原社会問題研究所雑誌』の特集号に掲載しただけで、本にまとめられなかったのは残念でしたが。70周年記念としては、このほか《戦後社会運動資料》と《労働関係文献データベース》の2つの長期的な事業をはじめました。


【『足尾暴動の史的分析』のこと】

早川 このへんで先に進みましょうか。足尾暴動の研究を再開されるのが1981年3月の論文で、「〈足尾暴動の基礎過程〉再論」の辺から始まっているわけですね。
 二村 80年館に移転したのが1981年の3月で、この頃になると研究所の専門図書館・文書館としての活動は完全に軌道に乗り、もう僕が出る幕じゃなくなった。一方僕は、人には争議研究を呼びかけながら、自分自身では20年以上昔に「基礎過程」を書いただけだったのが気になっていました。「基礎過程」だけでは、研究として不十分だということは自覚していましたから。それに、この20年間で、その存在は分かっていながら使えなかった資料が、古河鉱業の社史や栃木県史の刊行で、いくらか使えるようにもなっていましたので、研究を再開したんです。間もなく、東大工学部に学生の卒業レポートが残っていることが分かりました。これはすごく良い資料でね、毎年のように学生が足尾に行って製錬所や選鉱所に入って長期間実習し、それについて報告したものです。技術を中心に、労働条件や労働災害などのデータまで記録されていたのです。このため、最初は3回か4回で終わらせるつもりだった『研究資料月報』の論文は8回にもなってしまいました。その他、「主体的条件」について4回、「原蓄期における鉱山労働者数」についても2回書きましたから、全部で14回にもなってしまいました。
「労働条件」についての論文では、日本全体でも最も高い賃金を得ていた採鉱夫がなぜ暴動の主体になったのかを論じ、「主体的条件」では友子同盟が果した役割を論じました。
 早川 1981年から再開して本になったのが88年ですから7年、正味6年かな?
 二村 正味なら5年ですね。つまり1985年の12月に「主体的条件」を書き終えた時に完結したわけです。これは、その前年に、トム・スミスがバークレーに呼んでくれたおかげです。皆さんが『大年表』の仕事に追われていたさなかに7カ月ほど自由な時間があったので書き上げることが出来ました。あれがなかったら、おそらく数年は先になったでしょう。もっとも本にするときには、「はじめに」と序章、終章を書いたから、やはり正味6年近くかかっていますか。


【『社会・労働運動大年表』のこと】

早川 1980年代の重要な企画は『社会労働運動大年表』でしょうね。その企画決定のいきさつをちょっと話してもらえますか。
 二村 あれはね、もともとは大原研究所の企画というわけではなかったんです。1982年に労働旬報社から、労働運動史研究会にというか、栗田健・高橋彦博両氏と僕に話があったんです。何がよいか三人でいろいろ検討したんですが、結局大年表が良かろうということになった。(参照 「年表大国・日本」)ただ、いずれにしても僕ら三人だけではとても出来ない、中心になって編集作業を分担してくださる若い研究者が何人か必要なことは明瞭でした。しかし、各人にそれほど多くの給与は出せない。しかもいったん依頼すると数年その人たちを縛ることになる。それには、単なる年表の編集委員では無理だろう、そうでなく大原社会問題研究所の研究員になってもらえば、その人たちのキャリア・アップにもつながるから、人材を得ることが出来るかもしれない。また大原社会問題研究所としても、『社会・労働運動大年表』が出来れば、のちのちまで残る財産になるだろうと考えた。そう考えて、1083年のはじめに舟橋所長や高橋さんと栗田さんに相談したところ、すぐ了解してもらえ、最終的に大原研究所の事業としてすすめることになり、この年の4月から作業を開始したのです。簡単にいえば、そういう経過ですね。大年表のことは、僕より皆さんの方がよくご存じなわけで、これはそれぞれの立場で、お話しいただく方がいいでしょう。
 五十嵐 『大年表』は大変なプロジェクトで、私は第3巻を担当しました。編集会議も多かったのですが、それには皆勤したと思います。会議後の飲みながらの〈反省会〉を一回も欠かさなかったのは二村先生と私くらいでしょう。執筆した解説項目も私が一番多かったように思います。おかげさまで、原稿料をたくさんいただきました。
 無理して時間を割いたために、家庭的な問題も引き起こし、個人的にも苦労しましたが、大変勉強になりました。編集委員同士や研究所のスタッフとも交流が深まり、一体感のようなものが生まれ、楽しくやりがいのある仕事だったと、今では思っています。『大年表』は、私自身のその後の研究や仕事でも大いに役立っていますし、研究所の大きな財産になったと思います。
 吉田 僕が大原社研の業務に加わったのは1979年4月に産別会議の資料整理・研究のプロジェクトに参加してからです。その産別会議の資料整理の資料整理も区切りがついた1984年の1月下旬に、二村先生から電話がありまして、『大年表』の仕事を手伝ってくれないか、条件は週2回勤務で給与は月額6万円だ、ということでした。先生が、年表の編集に従事する人を研究員として採用すればキャリア・アップにつながるだろうということを考えたと言われましたが、僕もそう期待し、また自らの研究領域も広がるだろう、ということで引き受けました。
 僕は『大年表』では第2巻を担当しましたが、編集作業は大詰めの時期は筆舌に尽くしがたい大変さで、ホテルや大学の施設に泊まり込んでの作業がつづき、子供の脳外科の手術にも立ち会えませんでした。『大年表』は版を重ね、新版も出て多くの方に広く利用されています。先生はいま「『社会・労働運動大年表』が出ればのちのちまで残る財産になるだろう」ということで編集を決意されたということですが、たしかに『大年表』は研究所の財産になっておりますし、研究所の名声もいちだんと高めたと思います。けれども、僕にとりましては、40歳前後の大事な時期に、数年間もあの仕事に専念しました。十数年たった今も〈後遺症〉が大きく、とてもあの頃を懐かしい思い出として語る気持ちにはなれないのです。
 三宅 私は第1巻の編集を担当しました。第2巻や第3巻との一番大きな違いは、ページの割り振り方が、時間−直接には年で区切るよりも、労働運動や社会運動の実際にあわせて、たとえば労働争議が多発した年はページが極端に多いといった形になっていることだと思います。あの時点での労働運動史や社会運動史の研究状況を直接に反映している。現在だと、例えば戦時下などまた少し異なったページの割り振り方があるようにも思います。年表自体が歴史的な性格をもつことをよく示している作品でもある。


【所長に就任】

早川 1985年4月に研究所の所長に就任されていますね。久留間所長以来久しぶりの専任研究員からの所長でしたが、その時のことを。
 二村 実は1984年の4月には舟橋さんから交代してほしいと言われていました。ただその時は「アメリカの大学から呼ばれていますので」とお断わりしたのです。だから帰ってきてすぐ、再度所長就任の話が出た時は覚悟を決めて引き受けたのです。
 所長になってすぐ取り組んだのは『日本労働年鑑』の改革でした。ちょうど早川さんがイギリス留学中でしたので、佐藤博樹さんといっしょに編集に当たりました。1985年暮に出した第56集です。もっともこの時は、それまでの箱入り本をカバーに変え派手な〈腰巻き〉をつけたこと、巻頭に置いていた「労働日誌」を巻末に回し大年表に合わせて6欄構成の年表形式にするなど形式面での改革が主でした。しかしこれを引き継いで、次の第57集では、早川編集長のもとで大幅改革を実施しました。具体的には、収録期間を刊行年の前年7月から同年6月末までだったのを、前年の1年間と暦年にしたほか、3部構成を5部構成に変えました。
 年鑑の話になったついでに、僕と労働年鑑とのかかわりについて付け加えておきたいと思います。年鑑は35集からは中林さん、43集からは早川さんが編集長で、僕は一執筆者に過ぎませんでした。ただ立場上、誰も引き受け手のない章を受け持たざるを得なかった。だから年によって書いた章は違いますが、社会運動とか経営者団体、それに政党などを受け持ちました。最初は苦労しました。もともと、書くのはあまり好きじゃなかった上に、僕が担当した組織や運動に関する章は、統計主体の章と違い、自分で大量の情報を集めそれを限られた期間内にまとめ上げなければならなかったから。とくに第56集まではその年の春闘をカバーするため締め切りが8月上旬だったから、暑いさなかに四苦八苦しました。社会運動などは苦労して材料を集めても、なかなかうまく書けなくてね。そこで他の人の書いたところを読んで、年鑑執筆のコツを盗もうとしたんです。このとき大島先生の「農民運動」で大いに勉強しました。彼は実に要領よくさっさと書いてるんです。どうすればそんな風に書けるのか検討したんです。そうしたら、大島さんの章は僕のようにだらだらしていない。小さくコンパクトに書いた節を積み上げて、まとめているんです。これで年鑑のようなものでは、型が大事だということを理解しました。ちょうど「政党」を分担しはじめてしばらくしてのことです。おかげで書くのがだいぶ楽になりました。いずれにせよ、毎年毎年、200字詰めで数百枚も書かされたことは、文章修業としても大いに役立った。
 年鑑改革とならんで試みたのが機関誌の改革でした。実は前から機関誌の改革についてはいろいろな意見があったんです。そのなかで有力だったのは、月刊誌をやめて季刊の研究雑誌をつくろうという意見でした。60周年の頃は、それで行こうという意見で固まりつつあったんです。その時、増島宏さんがたしか学務理事だったと思うけれど、予算問題で交渉した際に「せっかく第三種郵便になっているのにそれを捨てることはない」と言われ、季刊化をやめたんです。これは正解でしたね。月刊誌だから続いているので、季刊となると年4回本をつくるようなもので、おそらく続かなかったと思う。
 だから僕が所長になる前から機関誌の改革は問題になっていたんです。1980年代はじめには、表紙を白からピンクに変えたりしてね。ピンクの表紙は僕は気が進まなかったけれど、佐藤博樹さんや三宅明正さんなど若手に押し切られた。さらに1986年4月には誌名を『研究資料月報』から『大原社会問題研究所雑誌』に変えました。同時に、その性格も研究所の紀要ではなく、社会・労働問題の研究雑誌をめざして市販することにしました。正直のところ、専任研究員3人だけの研究所が、月刊の機関誌を自力で出す力がないことは明瞭でした。社会・労働関係の研究誌としたのは、悪くいえば、「人の牛蒡で法事をする」ようなところがありますが、これもアメリカの専門誌の多くが大学から刊行されているのを真似した形です。日本の大学は紀要は出しても専門雑誌は出さないから、わりあい狙いは良かったのではないかと思っています。その後、雑誌は早川さんや佐伯さんなどの尽力で社会・労働関係の専門研究誌として、内容を充実させていることはご承知の通りです。
 吉田 『研究資料月報』を戦前あったものと同じタイトルの『大原社会問題研究所雑誌』にしたのは、なぜですか。
 二村 誌名についてもさまざまな意見があり、『労働問題研究』とか『労働と社会』とかいろんな案が出た。しかし最後は『大原社会問題研究所雑誌』というのが、戦前にも使って名前がよく知られており、しかも研究所名のPRにもなる、それに収録する論文も幅広くすることができて良いじゃないかということで、意見が一致したんです。


【向坂文庫の受贈】

二村 もうひとつ、研究所にとって大きな意味をもつことになったのは、向坂文庫の受贈です。〔参照 「向坂文庫」の寄贈を受けて「向坂文庫について」〕 これは、われわれが積極的に働きかけていただくことになったわけではなく、いわばあちらから飛び込んで来た話でした。1985年の1月、僕がアメリカにいた時に向坂逸郎先生が亡くなられたのですが、その蔵書を大原社会問題研究所で引き受けて欲しいという話が、ご遺族から有沢広巳先生を介して舟橋さんのところに来たのです。向坂先生は人も知る愛書家で、その蔵書はマルクス主義文献を中心に7万冊という大コレクションでした。それをまったく無償で大原社研に寄贈してくださるという、願ってもない話でした。さっそく青木宗也総長はじめ大学理事会とも相談し、いただくことに決めたのです。
 実は、僕は向坂先生の蔵書のことはよく知っていたのです。向坂逸郎先生は研究所が毎年開いていた高野岩三郎・櫛田民蔵両先生の追憶会の常連のお一人でした。ある時、先生が学生時代に筆記された高野岩三郎先生の講義ノート〔参照 向坂先生の落書き〕を研究所にくださるということで、それをいただきに伺ったのです。これは1968年の春でしたが、これを最初に復刻のための原本探しや50周年記念展の展示品を拝借するためなど、何回もお訪ねしていました。先生のお宅は、区は違いますが僕の家の隣町にあり、自転車なら僅か10分程度のところなのです。広い庭のはじに〈トーチカ〉とあだ名された書庫があり、書斎にしておられる座敷はもちろん、別棟の建物の天井裏にまで、原資料類が山積みでした。失礼な言い方になりますが、向坂先生は愛書家でしたが、図書資料の保存についてはいささか無頓着なところがありました。〈トーチカ〉は防火面では完璧でしたが、湿度が高く、そこに本を詰め込み過ぎておられました。またお宅は畑の真ん中ですし、物的条件もないから無理もないんですが、図書や資料の保存状態はあまり良くなかったのです。とくに天井裏に置かれていた資料は、毎年の春の砂ぼこりをかぶって埃焼けがひどく、貴重な文書がこのままではダメになるおそれがありました。そこで僕は家から掃除機をかついでいって天井裏を掃除したり、むき出しの新聞を袋に入れたりといった作業もやりました。その時は、まさかこれを大原研究所がいただくことになろうとは思ってもみませんでした。ですから僕はわりあい先生に信用され、何時でも自由に書庫に入ることを許されていました。だからゆき夫人も僕のことをよくご存じで「二村が所長なら安心だ」とおっしゃっていただいたのでした。この向坂文庫の受贈は、研究所にとってさまざまな面でプラスになりました。膨大な図書資料をいただいたということだけでなく、その整理のためにパソコンを入れたり、研究所の仕事のスタイルを変えるのにも役立ったのです。


【財団解散と多摩移転】

早川 つぎは、研究所の多摩校地への移転と、財団法人解散問題ですね。
 二村 これも、どちらも研究所が積極的に決めたことではなく、ある意味では押しつけられた形の話です〔参照 「多摩移転前後の大原社会問題研究所──1982〜1993年」〕。多摩移転問題についていえば、僕らは、法政大学が全面的に多摩校地に移転しても研究所は市ヶ谷に残れると思いこんでいたんです。というのは80年館を建てることになった時のことですが、すでに多摩校地への全学移転方針は大筋で決まっていたんです。たしか組合との団体交渉の席での話だったと思うのですが「何で移転前にわざわざ隣の土地を買い、こんなに大きな建物を建てるんだ?」と聞かれた理事会側が、「そうなれば、大原研究所がこれを使って活動すればよい」と答えた、といったことがあったんですね。もっとも「80年館は全部大原にやる」といった約束があったわけでじゃありません。しかし僕らはこれを聞いて、大原研究所のように外部利用者の多い研究所は都心の便利な場所にあるべきだと考えていましたから大喜こびし、学部の全面移転を心待ちにしていたのです。
 ところが1982年の秋、80年館に移ってすぐ、経済学部教授会と社会学部教授会から研究所に多摩移転要請が来たんです。要するに経済・社会両学部が移転するのであるから、関係の深い大原研究所も多摩に移れ、同時にもっと開かれた研究所にせよ、という要望書というか要求が来たのです。この時は予想外のことで大騒ぎになりました。全体とすれば移転反対論が強かったんだけど、最後は多摩へ移ればこれまでとは格段に違う広いスペースが手に入ることが明らかだったから、移転を決断したんです。80年館の研究所は、大学院の5階にあった時とは比べものにならない広いスペースを擁していましたが、それでも書庫はすでに満杯で、本や雑誌の一部を新館や川崎校地に移していたくらいでした。麻布分室を設けたことが研究所の発展につながったように、多摩への移転もさらなる発展の条件となると考え、僕は移転賛成に方針転換したのです。両学部には、舟橋所長名で多摩移転と研究所をより開かれたものにすることを約束する回答書を出しましたが、この回答文は僕が書いたものです。
 もうひとつの財団法人の解散は、さっきお話しした社会労働問題研究センター問題とからんでいます。これは1982年の秋のことですが、私学助成と関連して法政大学が会計検査院の監査を受けました。そこで大原社会問題研究所と社会労働問題研究センターの二重組織性が問題にされたのです。結局4年後の次の次の監査までには、大学の付置研究所に改組することを約束させられました。多摩移転と同時に財団法人を解散し、法政大学の付置研究所としたのは、こういう事情があったからです。財団解散に際しては、監督官庁である文部省の担当官が解散理由にあれこれ文句をつけ、けっこう面倒くさいやり取りがあったのですが、1986年3月に解散が許可されました。


【労働資料協のこと】

早川 労働資料協については、あまり知られていないので、ここで話していただいたほうがいいのではないでしょうか。初代の代表幹事が二村さんで、今は私が引き継いでいるわけですが。
 二村 分かりました。正式名称は〈社会・労働関係資料センター連絡協議会〉というのですが、この組織をつくるきっかけとなったのは、1980年にパリのユネスコで開かれた〈第1回労働者階級と労働運動に関する国際フォーラム〉という名の研究会議です。私は留学中の1977年に、ミラノで開かれたこのフォーラム準備会に出席した縁でこれに出席したのですが、この席で戸塚秀夫さんに会いました。そこで彼が言ったのは、労働戦線の再編などで、いま組合の資料がどんどん廃棄されている。これを何とかするためには、関係する諸機関が協力して、問題に対応できるネットワークをつくる必要がある。これには僕も異論がありませんでしたから、しばらくしてこれを社会政策学会の幹事会に提起したのです。たしか兵藤釗さんが代表幹事で東大に本部があった時のことです。その結果、学会とは別個に組織をつくるが、その立ち上がりまで財政的に支援してくれることになった。当時は東大社研の助手だった東条由紀彦さんが縁の下の力持ちをつとめてくれました。その後2年あまりの準備期間を経て、1986年5月に正式に発足したのです。この日を選んだのは、大原研究所の多摩移転と向坂文庫受け入れの披露のパーティを開いた日でもあり、これを社会労働資料協議会の発足と重ねることで、人集めをはかったわけです。はじめは意識的に規約を制定せず「設立趣旨」だけでしたが、それだと国立大学などが会費を出すのに具合が悪いといったことがあって、1993年に会則を制定しそこで代表幹事にもなりました。それまでは、戸塚さんと私が世話人ということで、私は事務局担当の世話人という形でした。もっとも実務はほとんど大原研究所の若杉隆志さんにお願いしてきましたが。参加機関にあまり負担をかけず、情報提供や重複図書資料の交換などを実行しています。全国の広い意味での社会労働関係図書館資料館のゆるやかなネットワークで、いわばIALHIの日本版ですが、そのはじまりは1980年のパリでの戸塚・二村の雑談に端を発しています。


【「企業別組合の歴史的背景」】

  二村 ここで、自分自身の研究についてもいくらか付け加えさせてください。僕にとって、ひとつの転機になったかなと思うのは、1983年11月に僕がコーディネーターになって開いた公開講座「企業別組合論の再検討」なのです。2日間開き、1日は栗田健さん、もう1日は僕が報告をしました。テーマは「企業別組合の歴史的背景」で、これは僕としては初めて戦後の労働組合運動を取り上げたものです。そこでの主張のポイントは、企業別組合といっても戦前と戦後とでは性格が違う。戦前の組合は企業別組合というより事業所別組合であり、ブルーカラーだけの組織だった。しかし戦後の組合は、なにより工職混合組合であり、最初は事業所別であってもすべて企業単位に再編成されていった、ということでした。それと企業別組合の生成要因についての通説だった労働市場決定説を批判したのです。つまり、労働市場が企業別に分断されていたから労働組合は企業別になったのだという大河内さんや白井さんの見解では、戦後の組合が工職混合である事実を説明しえないと指摘したのです。ブルーカラーとホワイトカラーの労働市場はまったく別個であるのに、両者がひとつの組織に属しているわけですから。
 それに対置して僕が主張したのは、日本におけるクラフト・ユニオニズムの伝統の欠如でした。ここでその後の僕の研究の方向が、明確になったと言ってよいと思います。
 早川 これは多摩キャンパスで開いた社会政策学会の大会での二村さんの報告「日本労使関係の歴史的特質」ともかなり重なってますよね。
 二村 はい、ほとんど同じです。実は『足尾暴動の史的分析』も第1章と終章はこれに依拠しているんです。
 早川 二村労使関係論の一つの理論的フレームワークが出来た。
 二村 理論的と言えるかどうかは分からないけれど、これなら日本の労働組合の特質を、戦前・戦後の違いも含めて説明出来る、と考えました。これで日本の労使関係の謎がいくつも解けると感じたのです。これはその後の僕の研究、比較的最近の「日韓労使関係の比較史的検討」にまでつながっています。この後、何回か外国で日本の労使関係史について報告する機会がありましたが、大体この筋でやっています。
 こうした考えがまとまってきた背景には、外国人研究者との議論の積み重ねがあります。誰と議論しても、すぐ日本の労使関係の特質はどのように形成されてきたのかという、歴史的な説明を求められますから。特に、トム・スミスとの議論から多くを学びました。彼は僕をバークレーに呼んでくれた人なんですけれど、もともとは徳川時代の農村史の専門家です。なぜか労働史に関心をもち研究所に僕を訪ねてきたんです。大学院の建物で会っているから1970年代末のことですね。彼の代表作である『近代日本の農村的起源』の訳者のひとり大内力さんに頼まれたと言って、経済学部の佐々木隆雄さんが連れてこられた。トムはきわめて穏やかな人柄の紳士ですが、その質問はとても鋭く、その問いに答えるなかで問題の所在についていろいろ気づかされました。
 五十嵐 二村先生の議論の中で、僕の印象として強いのは、人格向上要求とか、社会的地位や差別の問題が日本の労働運動の場合、非常に重要であるという提起ですが、この「モラル・エコノミー」への関心は、1975年の岩波講座の論文のあたりでまとまったんでしょうか。
 二村 まだです。そこに問題がありそうだとは思っていましたが、筋道をたてて理解できたと感ずるようになったのは「企業別組合の歴史的背景」からです。
 五十嵐 足尾暴動研究とのかかわりはどうなんですか?
 二村 もちろん足尾暴動研究とも無関係じゃない。足尾暴動は端的に言えば、いちばん高い賃金をとっていた熟練職種の労働者が、職制を懲らしめたものでした。窮乏化論では理解できないこうした事態がなぜ起こったのか、この疑問を解こうとしたのです。一般に危険性の高い地下労働に従事している鉱夫社会は、どちらかといえば非競争的な性格をもっています。しかしそうした職場でさえ、労働者は〈役員〉になりたがり、〈役員〉になった奴は急に仲間を見下すような態度をとり賄賂を要求したりする。そうした問題がなぜ起きたのかということを追究し、僕はそこにクラフト・ユニオニズムの伝統の欠如といった日本の労働社会に共通する特徴を見出したのです。鉱山という、労働者間競争とはもっとも遠い社会においてさえ、そういう競争的な関係が存在したのですから。
 五十嵐 なるほど。もうひとつ日本の労働組合組織率が国際的な基準からすると数パーセント低くなっている事実を指摘されました〔「労働組合組織率の再検討」〕が、あれはどこからヒントを得たんですか。
 二村 あれは年鑑を書いてたから。
 五十嵐 『日本労働年鑑』ですか。じゃあ、足尾研究や鉱山労働者数の研究などと直接の関係はないんですか?
 二村 僕はいろんな仕事の中で統計資料の吟味をしているんです。
 三宅 その辺は、さっき出た岩波講座日本歴史の中でも『工場統計表』と『工場監督年報』を比較検討して、労働者数のデータとして一般に使われていた『工場統計表』の数値には脱漏があることを指摘されているんですね。あれは80年代の鉱山労働者数や実質組織率の論文などとつながっているように思うんです。
 二村 歴史研究者としては史料の吟味は常識です。しかしなぜか統計については、自説に都合のよい数値があると検討抜きに使う場合が少なくない。だけど統計は集計方式や定義の違いなどで大きな違いがでる。そうしたことを感じているので、統計を使う時にはその吟味から始める癖がある。たぶん僕の論文の3分の1ぐらいはそんなことをやってるんじゃないかな。
 三宅 別の質問ですが、例の「足尾暴動の基礎過程」のときは、日本の労使関係の把握に際してどちらかというと普遍性に重点があった。つまり大河内説は労働市場の型論で普遍性を欠いている。これに対し生産過程こそが重要であると、まさに普遍性を強調する議論をやられている。ところが現在の議論は、全く逆転しちゃってて、むしろ国民経済の型こそが重要なんだという議論になっている。表面的にみれば、明らかに逆転しちゃってる。この点をどう思われるか、ちょっと伺いたいんです。
 二村 それは、明らかに逆転してますよ。僕が最初に大河内批判をやった時は、世界史的に普遍的な法則が日本でも貫徹すること論証するつもりでしたから。ただ、そこで他の人ではなく大河内さんを問題にしたことには意味がある。僕は、日本的な特質を明らかにする必要があるという大河内さんの問題意識そのものには、共感してたんです。ただ逆転したとはいっても、自説を転換しているわけではない。『足尾暴動の史的分析』には30年前の「基礎過程」を再録しましたが、その際言葉遣いこそ訂正しましたが、論旨はまったく変えていません。僕は、普遍的なるものの追究と一国の特質の解明とが二律背反するとは考えない。国によって異なる個性を明らかにすることが、より普遍的なものの解明につながると考えているんです。
 三宅 88年の『足尾暴動の史的分析』終章のところはやっぱり問題ではないですか。近代的な国民経済の枠組みができる中で労使関係のあり方が国ごとにどう違っていくかといった場合に、伝統社会のあり方がそれを一義的に規定するという方向になってしまっていて。伝統社会の影響を論じるにしても、もう一回普遍的な次元でとらえなおして、その上でなぜ違いが出てくるか、国民経済や労使関係の国ごとの特殊性に迫るという、そういう議論でないと。見通しはいかがでしょうか。
 二村 そうした見通しがないわけじゃないと思ってる。そのためには、もう少し国際比較をきちんとやる必要があると考えています。それと、日本の近世社会の特質の解明もね。その二つの問題を明らかにする作業を平行してやろうと思ってます。だから僕自身は、それほど矛盾した行き止まりの道に入っているとは思っていない。
 早川 経済学者には、オリジン説といって批判的に言う人もいるんだけど。
 五十嵐 オリジン、要するにどんどん歴史をさかのぼって源までいっちゃうわけですよ。歴史的な制約条件を追っかけていくと、その根源までいってしまうことになるのではないかということ。それと、そうなってくると、ある種の運命説というか、過去から派生する諸条件に制約されて現在の状況が形成されるという話になっちゃって、過去によって現在が運命づけられるというような感じになるんですね。
 二村 それほど単純な議論をしているわけじゃない。
 五十嵐 まあそうですけど、単純化すればそうなるということもあるんじゃないでしょうか。
 二村 僕は日本の労使関係の特質をクラフト・ユニオニズムの伝統の欠如だけで論じているわけではありません。その後の歴史的変化、例えば第二次大戦の敗戦による改革を考慮に入れなければその後の日本の労使関係の変化は理解し得ないと考え、そう主張しています。また前近代社会の伝統を考えることが、一部の人が言うような〈ラッキョウの皮むき〉、つまり研究課題を無限に古い時代に遡らざるをえなくするとは思わない。時期的には幕藩体制かせいぜい戦国時代に遡り、権力と職人組織の関係や組織の意思決定の特質などを検討すれば、問題はかなりの程度まで明らかにしうるだろうと思います。
 何よりも、ひとつの課題を解明した結果、次の新しい課題が生まれてくるというのは、学問研究の当然の道筋でしょう。「ラッキョウの皮むき」などと言うと否定的に聞こえますが、学問研究とは本来的にそうした性格のものだと私は考えています。
 また日本にはクラフト・ユニオニズムの伝統がないから、日本の労働組合運動には展望がないといった宿命論的思考はしません。ただ歴史的な条件を無視した展望を出しても、成功しえないとは考えていますけど。もちろん、おっしゃるような理解をする人がいることは知っています。宿命論を批判したやつが、宿命論になっていじゃないかと言われるであろうことはね。
 三宅 「足尾暴動の基礎過程」を書かれた時点と、最近の前近代社会の構造が問題だとされる状況との間には、マルクス主義的なグランドセオリーの影響力の変化といった点はありませんか。
 二村 いや、それはないね。僕はもともと、そんなにごりごりの法則論者じゃないからね。最初から〈くそ実証主義〉でやってきてますから。東ベルリンを見て大理論に疑いをもったということではない。この国は本当のマルクス主義ではないな、とは思ったけど。
 三宅 ただ「足尾暴動の基礎過程」は、理論的にはものすごくごりごりとも読めますよね。もちろん実証の世界の問題があるわけだから別なんだけれども、そこで採用されている仮説は。
 二村 でも「ブルジョアジーは生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、絶えず変革しなくては生きて行くことができない」というのは普遍的な真理だと思うけどね。
 三宅 話が飛ぶんですけど、前近代社会の問題を考えるときに、例えば「世界システム論」などをどのようにお考えですか。栗田健さん、兵藤釗さん、あるいは熊沢誠さんもそうだけど、60から上の人たちの労使関係・労働関係論は一国的な発展論が軸でしかもモデルは基本的にイギリスですよね。ただ、実際の歴史過程に置き直して考えてみると、イギリスのあり方が極めて特殊であって、それ以外の国の労働関係は、そもそも原生的労働関係とか、何とかという議論をすること自体がほとんど無意味なくらいですね。資本主義世界の中に入ったときには、原生的労働関係であれ、あるいはもっと古い社会関係であれ、その中でしか存在しないような労使関係のあり方がある。
 二村 僕もそれはそうだと思う。だから最近の議論では、欧米の労働組合のありようの方がある意味では特殊だと言ってるわけですよ。要するに、ギルドやクラフトユニオンのような特別な条件が存在したからこそ企業の枠を超えた労働者組織が生まれたのであって、そうでない社会の場合には、労働者が毎日顔を合わせている職場を基礎に団結するのは、ごくごく当然だと。これは、きわめて単純な話だけど、実際そうじゃないかと考えている。本当はインドなど、ほかの国々の研究が進んでくれば、これまでの研究をもっと相対化できるんじゃないかと思っています。以前は僕も企業別組合は日本独特の組織というふうに言っていた時期もあるけれども、最近はそうじゃない。企業別組合はラテンアメリカでもそうだし、アジアのほかの国にもある、別にそんなに珍しい形態じゃないと言ってるわけです。ただ、おっしゃっるとおり、これまでの労働問題研究は圧倒的にイギリス・モデルで、そこからの距離でいろいろ論じてきた。年も多少は関係があるだろうけど、年齢だけの問題じゃないと思うけどね。〔参照 「広い視野での国際比較研究を──欧米中心史観を超えて──」


【最後に】

早川 あとは、二村さんから言い残したいことや、これからのご自分の仕事の予定などについてお話いただいて、終わりとしましょうか。
 二村 この十数年間、研究所として力を入れてきたのは社会・労働関係文献データベースですよね。これにはあれこれ知恵を絞って資金も手に入れ、時間と人手をかけてようやくものになりました。〔参照 「社会・労働関係文献データベースの歩み」〕 1997年の2月からはこのデータベースをインターネットを通じて公開し、27万件というデータ量の多さと、論文レベルでも検索出来る数少ないデータベースとして高い評価を受けつつあります。研究所のホームページも、データベースだけでなくリンク集が好評で、研究機関のホームページとしてはまあまあの水準になりました。この十数年「開かれた研究所」を目指して努力してきたわけですが、インターネットは日本国内だけでなく海外にまで大原社研のファンを増やしつつあります。実は辞めるまでにこれをもう一歩進めて、デジタル・ライブラリーのサイトを発足させたいと思っています。ただこれを本当に仕上げるには、おそらく最低あと10年はかかると思います。ぜひこれを完成させる体制を作り上げて欲しいと思っています。
 早川 ご自身は。
 二村 僕自身は個人のホームページ=『二村一夫著作集』を出来るだけ早く完結させたいと考えています。あとは、高野房太郎の評伝と日本の労使関係の通史を書くことを計画しています。
 五十嵐 大原研究所でなにかやり残したことはありますか? それとも、やるべきこと、やりたいことはやり終えたのでしょうか?
 二村 僕は大原研究所では、やりたいことをやり、言いたいことを言ってきました。やり方は強引だし、きつい物言いはするし、周りの方にはずいぶん迷惑をかけたけれど。そういう意味では幸せだったと思ってます。デジタル・ライブラリーや《復刻シリーズ 日本社会運動史料》の別巻など、やり残したことはいくつかあるけれど、それは皆さんにお願いするほかないし、やっていただけるものと思っています。
 早川 正直なところ、歴史研究者である二村一夫さんと大原社研は、うまくフィットしてきましたね、最初から。
 二村 僕が大原に入ったのが研究所創立50周年の直前で、研究所の所蔵資料の価値が多くの人に認められ始めた頃だったから。さらに向坂文庫をはじめ数多くのコレクションを受け入れ、労働関係の専門図書館・資料館として充実したものとなり、社会的にも評価されるようになった。ただ、そうした活動の中心になったのは僕じゃない。谷口さんはじめ歴代の資料係の職員の皆さん、数多くのアルバイトやパートの人などの力です。僕はほんの入口のところだけ、土蔵に死蔵されていた資料の所蔵状況を明らかにしただけです。それに、復刻や閲覧を重視したことで歴史研究所のように見られ、研究所の研究面での成果が過小評価されがちで、マイナス面もあったんじゃないかと思うけどね。
 早川 若干はそういう声も聞こえるけれども。ただ、私の目として見れば非常に重要な役割を二村さんが果してきたのは十分評価してます。それから、パソコン時代に是枝洋さんと一緒にもっていったこと、これは、みごとなものですよ。大原雑誌の二村さんの最後の論文が「インターネットと労働運動」(『大原社会問題研究所雑誌』1998年12号)だったのは象徴的ですね。
 二村 大原研究所がパソコン時代に適応できたのは、金がなかったからですよ。1988年に文献データベースの構築を始めた時、パソコンに頼るしかなかったんです。ところがマシンの性能アップとインターネットの普及のおかげで、パソコンでも相当なことが出来るようになった。パソコンだったからこそパッケージソフトを加工して、自分たちに合うシステムを自前で構築し、たえず改善することが出来た。おかげでシステムをブラックボックス化させずにすんだわけです。
 ただ、研究所のコンピュータ化では、僕より是枝さんや奈良明弘さん、野村一夫さんが果たした役割の方がはるかに大きい。僕がやったのはいくらか金を工面したことと、最初のホームページを作ったことくらいです。
 ただ僕個人がいささか貢献するところがあったとするなら、それは研究所の国際化かもしれません。この20年間で法政大学大原社会問題研究所の名は海外にもずいぶん知られるようになりました。その面では僕がいくらか貢献したところはあるだろうと、これは自負しています。



初出は『大原社会問題研究所雑誌』no.484 1999年3月。2000年4月15日、2019年5月22日補正。






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