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《編集雑記》9 (2003年7月〜12月)

藤田省三さんのこと

1997年の藤田省三氏、著作集別刷り「まえがき」より

 5月28日、わが畏敬する大先輩の藤田省三さんが亡くなりました。知ったのは1週間後、6月4日深夜のNHKラジオのニュースによってでした。数ヵ月前から雑誌『世界』で「語る藤田省三」の連載が始まり、そこにはご本人の意向がなにも示されていなかったので、あるいはその日が近いのではないかと予感はしていました。しかし、実際にその時が来ると、失ったものの大きさをあらためて痛感しました。ただ、その一方で、藤田さんのためには、苦しく長い闘病生活が終わったことを喜んであげるべきだろうとも考えたことでした。なにしろ、今から6年も前に記された『藤田省三著作集』のまえがきで、著作集を生前に出すことを決意した理由を、つぎのように記されていたほど、その病苦は辛いものだったのですから。

 私の「時代」と「人生」は終わったのだから人間としてでなく「修羅」となって「人工肛門生活」の苦痛に満ちた「煉獄」を我慢するよすがとしようか、と決意した。

藤田像、作者年代不詳、著作集別刷り「まえがき」より  藤田さんに初めてお目に掛かったのは1956年、石母田ゼミにひょっこりと顔を見せられた時でした。法政大学法学部助手から専任講師となったばかり、処女論文「天皇制国家の支配原理(一)」が『法学志林』の巻頭をかざった前後のことでした。談論風発、颯爽として、しかし時々ちょっと照れたような笑顔をみせる29歳の少壮学者でした。私が助手になったばかりの頃、藤田さんの教室にもぐりこんで講義を聴いたことがあります。彼は教室中を歩き回り、教壇に腰掛け、その自由な精神を態度でも示して、実に面白い授業でした。しかし、クラスが終わると彼はすぐ研究室にすっ飛んで来て「以後、授業に潜り込むことはまかりならん」と申し渡され、残念ながら弟子入りはかないませんでした。

 藤田さんは、近代日本政治思想史の専門家として著名ですが、ご本人は、「私は現代に生きる者として、〈これが問題だ〉と思う所には、どこへでも出掛けて、及ばずながら其処で専門家の仕事に教わりながら問題の現代的意味を発見しようと努力するのが、私の根本方針なので 〔中略〕 私は知的な〈アマテュアリスト〉で且つ〈ジェネラリスト〉を目指す者であろうと心掛けている」(著作集版『維新の精神』まえがき)と言っておられました。つまり、○○の専門家といった枠に納まる方ではなかった、というより、納まることを拒否された方だったのです。

 本を読むことを無上の楽しみとしており、底知れぬ知的好奇心が着物を着て歩いているような人でした。書を読む際の、その関心の幅広さ、その読書量の多さもさることながら、その集中力、抜群の読みの深さには、いつも驚嘆させられました。その日本一の読書家、いやおそらくは世界でも稀な読書家に、丸山真男批判をふくむ小著『足尾暴動の史的分析』を、あの『中世的世界の形成』までひきあいに出してほめていただいた時の嬉しさは、格別でした。

 藤田さんはまた〈書生っぽ的議論〉を好み、歯に衣着せぬ物言いをすることでも知られていました。なにしろ毒舌が自分の趣味であり娯楽であると、次のように公言されていたのです。

  骨の髄まで不精者である私は、他に何も習得しなかったためであろうか、「趣味としての毒舌」を「パチンコ」代わりの娯楽として喜ぶ性癖を持っているが、松沢〔弘陽〕氏の無比の勤勉と信ずることにおける真剣さとに接すると、否応なしに独りで自己批判せざるをえないことは明白ではなかろうか。ただそれを他人に表現する場合には「その対立面に関する毒舌」をもってするだけなのだ。なぜなら、ひとも知る通り私は普遍主義者であるから、いくら趣味にすぎないからとはいえ、毒舌においても又普遍主義者でなければならないではないか。というのは半分冗談だとしても、私は、せっかく今まで保ち続けてきた対立面を消してしまって、双方の結合を非生産的な「夫婦善哉」にしたくはない。彼がもし過大に謙遜するのなら私は無理にでも不遜にならなくてはならぬ。そこが私の度し難いところであろう。しかし志すところはそう捨てたものでもないかも知れぬ。
(『天皇制国家の支配原理』第2版へのあとがき)

 このように、その毒舌は衝動的な罵詈雑言ではなく、きわめて意識的であり、生産的な対立を目指す、きびしい、しかし爽やかな毒舌でした。明確な根拠を示しての批判だったのです。1966年に「期待される人間像」が公表された時、中教審に名を連ねていた大河内一男氏らを批判した「〈論壇〉における知的頽廃」での発言、著作集第10巻『異端論断章』での丸山真男、石田雄両氏との討論における宇野弘蔵氏らへの評価などには、そうした批判の厳しさの片鱗が示されています。

 ただし、厳しい批判の反面、藤田さんは優れた人物や業績を、あるいは批判の対象とする人物であっても優れた側面をもつものには、これを惜しみなく評価し、尊敬を払う人でもあったことを見落としてはならないと思います。丸山真男、石母田正、古在由重ら諸先生への尊敬の念はいくつかの珠玉の文章に結晶していますが、同時に「諸先生のこと」と題する文章では、香具師も先生のひとりとして、彼から学んだところを述べる人なのでした。この尊敬の念の重要性について説いた「原初的条件」の次のくだりも、忘れがたい一文です。

 どんなにラディカルに意見が対立してもそれは構わない。(但し意見があればのことである。もちろん意見とは根拠を述べることである。)憎んでも構わない。ただ尊敬の念は持つべきだ。少なくとも当日のあなた方は人を尊敬する能力を全く持ち合わせていない人達のように見えた。中野重治をも尊重せず花田清輝をも尊重せず杉浦明平をも尊重せず平野謙をも尊重せず本多秋五をも尊重せず等々……彼等の数十年の仕事が我々に与えた大小の精神的モトデを尊重せず、そうして羽山氏その他の人民の文学を志す人々の努力を尊重せず、五〇年問題の経験から学ばず、それでどうして全ゆる歴史的蓄積の上に立って進歩発展を担うなどということが出来るだろうか。ひょっとするとあなた方は宮本顕治すらも本当には尊敬していないのではなかろうかとさえ思われる程であった。まだしも私などの方が、現在の意見こそ異にしているが、宮本顕治や故国領五一郎等に対して──戦争中日本人民の精神を公然と守った彼等に対してそして彼等の生涯の歴史的功績に対して遙かに深い尊敬の念を持っているのではないかと思われたのである。



 この6月29日、日曜日午後2時から、《藤田省三さんを偲ぶ会》が法政大学市ヶ谷キャンパスの835番教室で開かれました。冷房のダクトや各種の配線がむき出しになっている古い殺風景な階段教室でした。この会場選択は、生前の藤田さんの意向を尊重して決められたことが、これも故人の遺志で司会をつとめた成澤光さんから説明されました。しかし、いったん会が始まってしまうと、劇団《風》のスタッフによって制作された簡素な舞台装置と劇場のような照明のもとで、いかにも藤田省三を偲ぶのにふさわしい雰囲気のなかで会は進行しました。
  最初に、平凡社の元編集者で、ご近所に住む友人として藤田氏の晩年を支えた小林祥一郎氏から「療養経過報告」がありました。1993年、65歳の時に直腸癌が発見され手術を受けたこと、手術は外科的には成功だったが、術後の痛みがいつまでも続いたこと、98年には1月に左大腿骨を骨折し、10月には腰椎を骨折しという不運に見舞われ、以後は入退院をくりかえし、最終的には要介護度5の状況だったこと、嚥下困難による肺炎になり、最晩年は点滴だけで栄養をとる状況であったことなどが報告されました。この間、友人、隣人、ゼミ生、それに藤田さんが命名者だった劇団《風》の人びとがその療養生活を支えておられたことも、この報告で知ったのでした。何年か前、人工肛門生活に適応できず、人に会うのを好まれないと聞いていたこともあって、比較的近所にいながら訪ねることを控えていたことが悔やまれました。
  この後、8人の方が追悼の言葉を述べられました。松山高校以来の友人宇野俊一さん、みすず書房社長として藤田さんを支えた小尾俊人さん、法政大学法学部で長年同僚であった松下圭一さん、シェフィールド大学日本研究所の元所長で、藤田さんのイギリス留学を支えたマーティン・コリックさん、後輩の宮村治雄さん、近所に住む親しい友人の子息だった鈴木亮一さん、韓国の軍事政権下で19年間とらわれていた徐勝、俊植兄弟の弟、徐京植(ソ・キョンシク)さん、藤田ゼミ生だった高橋信一さんです。
  多くの方がそれぞれの思いこめて語られた内容を紹介するのは難しいし、いずれ何らかの形で活字になるのではないかとも思いますので、ここでは、単純な事実経過の報告にとどめることにします。ただ、そこで語られたことの多くに共通していたのは、藤田省三が学者であり思想家であると同時に、細やかな心配りをする熱心な教師であったこと、それも単なる知識の伝え手ではなく、人生の師として生きていたことでした。
  「追悼のことば」につづいて、劇団《風》の辻由美子さんが、ブレヒトの「肝っ玉おっ母とその子供たち」の劇中の追悼歌「子守歌」を歌われ、さらに西郷信綱、多田道太郎、ミリアム・シルバーバーグ、それにお名前を聞き漏らした中国・北京大学の助教授の4人の方のメッセージが代読されました。このミリアム・シルバーバーグは、博士論文を書くために1880年代初めにシカゴ大学から法政大学大原社会問題研究所に留学してきた女性研究者で、Changing Songs:The Marxist Manifestos of Nakano Shigeharu(邦訳 『中野重治とモダン・マルクス主義』)の著者です。私が藤田さんに頼んで弟子入りを認めてもらったのですが、メッセージは私の研究室で最初に2人が顔を合わせた時のことから始まっていました。脳腫瘍の手術後で苦しい闘病生活を送っているミリアムが、藤田さんの最晩年にはるばる別れを告げに来たことを、彼女の弟子から聞いたばかりでしたから、このメッセージは二重の意味で胸がつまる思いがしました。
  最後に夫人の春子さんのご挨拶があり、参加者全員の黙祷で3時間におよぶ「偲ぶ会」は終わりました。
〔2003.7.7記、7.11補訂〕


電子図書館と著作権問題
──国会図書館の著作者公開調査に寄せて

 今月はじめに国会図書館《近代デジタルライブラリー》が拡充されました。既公開の3万冊に、自然科学・工学関係書や法律、言語関係など1万7000冊が追加され、これで明治期刊行図書のうち、著作権消滅が確認されたもののほぼ全てが公開されたとのことです。未収録は児童書と欧文図書だけです。自宅にいながら、5万冊近い本を、それも刊行当時の姿で読めるとは、10年前ではとても考えられませんでした。「インターネットはからっぽの洞穴」だの「ゴミ溜め」だと悪口を言われ続けてきましたが、この《近代デジタルライブラリー》は、その有力な反証です。
 その昔、私は「独断と偏見による論評」をうたい文句にした〈学術研究関連リンク集〉で、再三〈国会図書館サイト〉に批判的な言辞を弄してきました。しかし、この1年たらずの間に同サイトは大きく変貌しました。今年に入ってからでも、電子展示会「日本国憲法の誕生」「蔵書印の世界」の公開など、国会図書館にふさわしい意欲的な企てが続いています。情報発信量の点では、すでに日本随一といって良いでしょう。さらに、その潜在的な力量を考えると、国内唯一の納本図書館である国会図書館のウエッブ・サイトの重要性は、さらに大きなものがあります。ここ以外に、日本の電子図書館のセンターとなりうる機関は考えられません。それだけに、もっともっと頑張って欲しいと思うのです。

 ところで、今回の《近代デジタルライブラリー》の実験は、電子図書館の前途がそれほどバラ色ではないことも教えてくれました。「ほぼ全てが公開された」と言うのに、その数は僅か4万7000冊なのです。国会図書館が所蔵する明治期刊行書は総数16万8675冊ですから、その28%にも満たないわけです。なぜこれほど少ないかといえば、いうまでもなく著作権問題がからんでいるからです。著作権の消滅が確認されているか、あるいは著作権者の許諾が得られたものでない限り、公開は不可能だからです。明治期に刊行された図書であれば、すでにその多くは刊行後100年以上たっています。明治最後の年、1912(明治45)年に出た本でも、もう91年が経っているのですから。したがって著作権保護期間を終え、公開可能な本はもっと多いはずです。
  国会図書館が、過去にどのような仕組みで著作権の存否を調べて来たのか、寡聞にしてまったく知るところはありません。おそらく組織としては、それほど積極的に取り組んで来なかったのではないでしょうか。28%弱という数値が、それを端的に物語っているように思われます。この機会に、国会図書館が、著作権調査に積極的、組織的に取り組んで欲しいと思います。それも明治期刊行書だけでなく、所蔵する全図書について調査をすすめて欲しいと思います。電子図書館の成否は、この調査にかかっているといっても過言ではないからです。

 この点で、今回、国会図書館が、インターネットで「著作者情報公開調査」を実施したことを高く評価したいと思います。その結果、この3月から半年足らずの間に、738件の情報が寄せられ、532人について没年が判明したとのことです。内訳は、すでに著作権保護期間が終えた人が480人、まだ著作権保護期間中であるものが52人、提供された情報により収録可能となった資料数は976件、1193冊だったといいます。
  この数は、けっして小さなものではありませんが、不明者の総数5万数千人の僅か1%に過ぎません。私は、このような結果に終わった原因のひとつは、公開調査のやり方にあったのではないか、と考えています。いちばんの問題は、著作権不明者の一覧表が提供されなかったことです。今回の調査では、誰が著作権不明者であるかを知るには、特定の人名で検索するか、五十音順に検索して順次見て行くほかありません。データベースの形でしか提供されていないので、最大でも1回100件しか見ることが出来ないのです。担当部局の方は、こうした情報を寄せる人として、主として著作権継承者など著者の直接関係者を想定しており、それがこうしたデータベース形式での公表になったものでしょう。

 著作者の遺族なら生没年について正確な事実を知っているであろうことは確かです。しかし、その場合でも、自分の先祖が明治期に図書を出していたかどうか、知らない人も少なくないでしょう。一方、世の中には、さまざまな問題に関心をもち、数多くの人物についての知識を有する人が少なからず存在します。特定の分野、特定の地域についてなら、他の誰より詳しい人が少なくないはずです。ですから、もし著作権不明者のリストが、もっと人びとの目に触れやすい形で提供されていたら、はるかに多くの著作権情報が寄せられたに違いないと考えます。

 そう考えるのは、私が、この不明者約5万数千人の氏名をざっと見た結果に基づいています。五十音順で〈あ〉から〈ゑ〉まで、駆け足ですが、全部眺めてみたのです。各音ごとに、数百件から2000〜3000件の名が出てきますし、1回に最大100人しか見ることが出来ませんから、全部をざっと眺めるだけでも1日半もかかり、疲れ果てました。しかし、その結果、このデータベースの問題点がいくつか見えてきました。

 第1の問題は、おそらく一覧表さえ公開していれば、誰でもすぐ気づき、たちどころに解決したに相違ない人が数多く含まれていることです。
 たとえば、このデータベースには明治期刊行書の著者ではありえない人、それもかなりの著名人が相当数まざっています。たとえば次のような方々です。まだ健在でベストセラーを出しておられる日野原重明ドクターまで含まれています。ここに記すのは、大急ぎで眺めた私が気づいた人びとだけですから、5万余人のなかには、他に何人もいらっしゃるでしょう。

井上清岩永博猪股猛猪木正道
岡崎次郎小生夢坊近藤康男日下藤吾
五島茂篠原三代平硲正夫林健太郎
林知己夫日野原重明藤川アンナ南博
宮城音弥宮本顕治守屋典郎矢加部勝美
矢島悦太郎楊井克巳山本秋横山不二夫
吉野俊彦米沢信二若月俊一

 ことによると、このデータベースは明治期刊行書だけでなく、現在国会図書館が著作権の有無を把握していない人に関する全員のデータベースなのでしょうか? とても、そうは考えにくいのですが。

 現在の著名人だけでなく、歴史的に知られた人物も、この不明者データベースのなかに含まれていました。

井上毅桜痴居士大町桂月尾上紫舟
景山英学海柴舟沙翁
桜田大我佐々木信綱山陽先生信夫惇平
大我居士百穂百川学海美妙斎主人
風葉安井哲子

 これらの名は、名前や読みの入力が間違っていたため不明になったと想像されるものがあります。「尾上柴舟」(さいしゅう)が「尾上紫舟」(ししゅう)になっているのが、その一例です。でもここに挙げた人物なら、国会図書館の部内で十分調べがつく人びとばかりです。

 私が、自分の研究分野との関わりで、どこかで見たことがある名もいくつかありました。たとえば、大和田弥吉、小沢国太郎、川地喜三郎、栗本勇之助、杉本五十鈴、南挺三などです。自分の直接の研究対象というわけではないので、正確な生没年を知っているわけではありません。しかし、その気になれば調べる手がかりはあると思います。大和田弥吉は、『高野房太郎とその時代』(19)でふれていますが、高野房太郎や伊藤痴遊の横浜時代の友人です。小沢国太郎は、西洋鍛冶の開祖とわれる小沢弁蔵の弟です。生没年不詳ですが、1889(明治22)年に同盟進工組の結成に参加していますから、今生きていれば若くても140歳前後でしょう。著作権保護期間が過ぎているであろうことはまず確実です。川地喜三郎、杉本五十鈴、南挺三の3人は、いずれも古河鉱業会社の役員です。栗本勇之助は、「栗本鉄工所」の創業者で、産報運動で見知った名です。これらの人々は、社史などに手がかりがあるでしょう。同じように、不明者のなかに、自分の見知った名を見出す人は少なくないでしょう。

 《著作者情報 公開調査データベース》でいちばんの問題は、人名の読みに杜撰な部分が少なくないことです。もっとも、これは五十音によってかなりのバラツキがあります。なかにはたいへん正確に読みを入れている部分もあるのですが、極めて杜撰なものもあります。たとえば、「高木」を「こうぼく」、「宮内」を「くない」、「根本」を「こんぽん」、「三村」「山村」をともに「さんそん」、「山中」を「さんちゅう」、「山内」を「さんない」、「三輪」を「さんりん」「三輪田」を「さんりんでん」などと読んでいるのです。姓の方でこれですから、名前にはもっといい加減なものがあります。もちろん、人名を正確に読むのは、本人以外には不可能な場合もあります。ことによると「やまうち」ではなく「さんない」の山内さんもいらっしゃるのかも知れません。しかし、おそらくはデータベースの入力時に、自動仮名ふり機能を使ったままで、最終的な校正がされなかったことに起因するものでしょう。
  それと、一覧表にすれば、遺族でなくとも分かる人がいるに違いないと想像される、特定の分野に固有な名前があります。たとえば、一竜斎がつく名前、あるいは「関ケ原軍記」などの著者である「南窓外史」のように講釈師と推測されるもの、歌川国麿をはじめ歌川国○、あるいは歌川芳○など、おそらく挿絵を描いている絵師の名でしょう。専門家が見ればすぐ分かる人が少なくないと想像されます。

 今回の公開調査の積極的な意味を評価した上で、国会図書館に要望があります。それは、国会図書館内に著作権問題担当の専任者をおいて、専門的に調査に当たらせるようにすることです。明治期刊行図書でなくとも、すでに著作権保護期間を終了した本は少なくないのですから。電子図書館の将来を考えれば、この問題は、わずか半年たらずの調査で打ち切りにするのでなく、もっと積極的、持続的に取り組むべき課題だと思います。
  その際、著作権保護期間内であっても、著作権者が一定の条件のもとで公開を認める図書も少なくないと考えます。そうした書物についての登録制度を、国会図書館が中心になって、ぜひすすめて欲しいと思います。この問題については、私は前にこの《編集雑記》で「インターネット時代の著作権(1)」「インターネット時代の著作権(2)」を書いていますので、ご参照いただければ幸いです。
 それと、古いことを知っている世代のなかには、キーボード・アレルギーをもつ方も少なくないわけですから、活字で「著作権調査対象者一覧」をつくり、全国の公立図書館や大学図書館などに配布し、協力を依頼することも検討して欲しいと思います。もちろん、それには経費もかかりますから、まずは一覧表をpdfファイルなどでダウンロード出来るようにしておき、《著者生没年発見コンテスト》でも呼びかけたら、思いのほか成果があがるのかもしれません。
〔2003.8.29 記、8.30改題し補訂〕




刊行開始6周年

 本サイトを開設してから満6年が経ちました。5周年では、著作集の巻数を増やすなど大幅な手直しをしましたが、今回はそうした構成上の変化はありません。ただ、懸案の『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』の掲載を始めることにしました。昨年1月、同書の紹介文を本サイトに掲載した時には売れ残っていたこの本が、おかげさまで品切れとなり、刊行元である東京大学出版会の了承も得られましたので、本日、まず冒頭の「はじめに」だけ、掲載します。
  さいわい16年前に入稿した際のテキスト・ファイルが残っており、今回はそれをもとにhtmlファイルを作成します。したがって、校正時の手直しが反映していない箇所がありえます。なるべく原本と照合して直して行くつもりではおります。それと、この機会を利用して、いくらかは加筆・訂正を行おうと考えています。ただし、多くは文章上の手直しで、基本的な論旨に変更はありません。仮にいくらかでも論旨に関わる変更を加える際には、そのことが分かるような形、たとえば〔補注〕として追加することにいたします。
  なお、今回から、ファイルの末尾に閲覧日を明示するようにしました。これは野村一夫さんのご教示に従ったもので、私のように途中で頻繁に加筆する癖がある場合、読んだ年月日が自動的に記録されることは、いささかの意味があると考えます。
  序章以降の本文では、表や図表がかなりの量にのぼりますが、その多くは、印刷所に渡すテキスト・ファイルには組み込むことが出来ませんから、ハードコピーを使いました。したがって、表の多くは、今回、新たに入力せざるをえません。そのほか、せっかくウエッブサイトで公開するのですから、新たにいくつかカラー画像も追加したいと考えています。さらに、オンライン版のメリットである、他の論稿へのリンクを追加して行くつもりです。いずれにせよ、タグ付けや画像追加などの作業を終えて、全てを掲載し終えるには、まだかなりの時間が必要だと思います。しばらくご猶予くださるよう、お願い申し上げます。
〔2003.9.25〕




『足尾暴動の史的分析』第1章、掲載完了

 一昨日、『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会、1988年刊)の前書き、それに序章「暴動の舞台・足尾銅山」および第1章「〈足尾暴動〉の主体的条件」の掲載を終えました。「はじめに」が9ページ分、序章が14ページ、それに第1章が112ページの合計135ページ、原本全体の約3分の1に当たります。モニター画面で読んでいただくには、ちょっと長すぎますが、この本のなかでは、比較的読みやすい部分です。ここだけでも読んでくだされば、鉱毒事件で有名な足尾銅山について、また労働争議の鎮圧に軍隊が出動した日本最初の事件でもある1907(明治40)年の足尾暴動について、ご理解いただけると思います。
  ここまでのところは、私自身が予想していたより、かなり早いペースで作業が進行しました。白状すると、『高野房太郎とその時代』の続稿の執筆が、材料不足に加え、意欲レベルの低下で難航しており、その分、すでにテキストが出来ている本書のタグ付けに集中し、比較的短期間で仕事を終えたからでした。
  第2章以降は、細かい表などが多くなりますので、これまでのようには進みません。なにより、停滞気味の高野房太郎伝や『食の自分史』にも、もう一度気をとりなおして取りかからねばなりませんから。
  編集者が執筆者を兼ねる著作集の難点は、「締め切り」がないため、ずるずる遅れることにある点を、あらためて感じています。
〔2003.10.18〕




ようやく長崎へ

 久しぶりに『高野房太郎とその時代』を掲載しました。これまでなんとか月2回前後のペースを守ってきたのに、2ヵ月近くも間があいてしまいました。難航した理由はいろいろありますが、一番は材料と想像力の欠如です。このところ米砲艦マチアスでの船旅を描いているのですが、史料がほとんどありません。唯一の手がかりは、同艦の航海日誌からの抜き書きですが、これではマチアスがいつ何処にいたかが分かるだけです。各寄港地がどのような場所か、その間、房太郎がどのような生活を送っていたのかとなると、皆目見当がつきません。

 そうなると、他の旅行記、とりわけ航海記を参考にするほかない。というわけで、このところ、さまざまな人びと──作家、学者、実業家などなど──の紀行文を読みあさりました。『ヒュースケン日本日記』や『米欧回覧実記』からはじまって、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』にいたるまで。ホルプの『世界紀行文学全集』という便利なアンソロジーがあり、これが役に立ちました。今さらながら永井荷風が名文家であることを再認識したり、岡本一平『紙上世界漫画漫遊』の存在を知り、その目のつけどころに感心しました。もっとも、どちらも執筆には使えませんでしたが。
  予想以上に参考になったのは、市川清流著『尾蠅欧行漫録』でした。市川は、福沢諭吉や福地源一郎らが随行したことで知られる文久元年(1861)の幕府の遣欧使節に、副使松平岩見守の家来として使節団の一員となった人物です。きわめて旺盛な好奇心の持ち主である上に、自らを「尾蠅」〔馬の尻尾の蠅のように使節団について歩いたという意味でしょう〕と称するゆとりをもって、見たもの聞いたことを具体的に書き記しています。なにより、使節団が往路にスエズまで乗った船がイギリス軍艦、それもマチアスと同じ機帆船だったことが、19世紀の軍艦内の生活を知る上で、大いに役立ちました。
  こうして8月末に、なんとかシンガポールまではたどり着かせることが出来たのですが、そこで座礁してしまいました。月2回は掲載しようと思っていたのに作業が遅々として進まず、それにつれて意欲も低下してしまったのでした。

 幸い、『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』の掲載許可を得たので、10月の前半はこれにかかりきりました。とりあえず同書第1章の掲載を終えたことで、いくらか元気がでて、ようやく房太郎伝を再開する気になった次第です。今回主たる材料にした井山キワの手紙も、解読にずいぶん時間がかかりましたが、なんとか大筋が分かる程度には読み解き、ようやく房太郎を長崎まで連れて来ることができました。マチアスの船旅はそろそろ切り上げて、『高野房太郎とその時代』の山場となるはずの、帰国後の活動に移りたいと考えています。来年3月の房太郎没後100周年までに完結するという目標には届きそうもありませんが、出来るだけ頑張って書き終えたいと思っています。
〔2003.10.27〕


房太郎帰国

 房太郎をようやく帰国させることが出来ました。第23回で渡米時を描いたのですが、帰国時は第54回になっていました。つまり海外時代に32回を費やしたことになります。予想外に長くなりましたが、執筆期間も思いがけず長期にわたりました。2000年1月に連載を開始し、誕生からの17年間は1年たらずで書き上げたのに、10年の在外期間を描くのに3年近い歳月をかけてしまいました。1年間のアメリカ住まいでブランクが生じたことや、史料不足で筆が進まなかったことなど、言い訳の材料にはことかきませんが、締め切りがなく編集者に催促されない連載は、怠け者には向かないというのが実際のところでしょう。ただ、不満な点は多々あるとはいえ、これまで霧につつまれていた高野房太郎のアメリカ時代について、若干は明らかにしえたのではないかと考え、自ら慰めています。
 これからは手紙や日記、それに労働組合期成会の機関誌『労働世界』など、多くの史料が使える時期に入りますので、なんとか没後100年の来年中には完結させようと、あらためて決意しております。 
〔2003.12.2〕




《編集雑記》目次         《編集雑記》(8)         《編集雑記》(10)


 

法政大学大原社研                  社会政策学会



 高野房太郎研究            比較労働史研究            鉱業労働史研究


  史料研究            大原研究所をめぐって            雑文集   



著者紹介                 更新履歴

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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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