《編集雑記》10 (2004年1月〜6月)
倒産した社会思想社の《現代教養文庫》がオンデマンド出版で復刊される。この朗報を伝えた1月31日付『朝日新聞』朝刊は、こちらも社会思想社の倒産とともに中断していた『横山源之助全集』が、法政大学出版局によって継続刊行されることを報じていた。
実は、『横山源之助全集』の編者・立花雄一氏は── いや立花氏と呼んでは別人のような気がするから立花さんと言おう── 法政大学大原社会問題研究所で私の同僚だった。彼は学生時代から同郷の先輩・横山源之助の研究にうちこみ、四半世紀前には
『評伝 横山源之助──底辺社会・文学・労働運動』の好著を出している。立花さんといえば、すぐ思い浮かぶのは、彼が定年で職場を去った日、その送別の席での異常な喜びようのことである。「明日からは仕事をしなくても年金が貰え、好きなことができる」、〈うふふ、うふふ〉と頬がゆるみっぱなしであった。その日から十数年、彼は全11巻におよぶ『横山源之助全集』の編纂に全力を注いで来た。
世の人の多くは、おそらく横山を『日本の下層社会』の著者として知っているに違いない。しかし彼の本業はジャーナリストだった。彼が書いた文章は、まず新聞・雑誌に掲載され、単行書には収められなかったものが少なくない。立花さんはそれをひとつひとつ丹念に拾い集め、解説と解題を付し、初出と単行本との相違を「校異」として注記するなど、これぞ決定版というにふさわしい仕事ぶりである。読みにくい字にはルビをふる一方で、原文に忠実に翻刻している。さまざまな点で立花雄一編『横山源之助全集』は、きわめて高い完成度をしめしている。その生涯をかけた作品が、刊行開始後まもなく中断を余儀なくされたことは、どれほどのショックであったか、想像に難くない。
ところで『横山源之助全集』刊行の企てとその挫折は今回が初めてではない。最初は、今から30年もの昔、復刻本で急成長した出版社・明治文献の企画によって刊行された。編者は、横山研究の先達である西田長寿をはじめ、隅谷三喜男、木村毅、津田真澂の諸氏で、本巻4+補巻1の全5巻を出す予定だった。しかし『日本の下層社会』と『人物論』の2巻を刊行したところで、明治文献は倒産し、雲散霧消してしまった。つまり『横山源之助全集』を刊行した出版社は、2社ともその完結を見ず、倒産の憂き目を見たのであった。
今回、いったんは死にかけた『横山源之助全集』が生き返った背後には、版元だった社会思想社の関係者が、出版人としての高い志と見識をもっていた事実がある。倒産後も、版権の譲渡先を探す努力を重ねる一方、在庫本の「バッタ売り」をしなかったのである。会社の破産ともなれば、一銭でも多く回収しようとするのは人情の常、理の当然である。そこをじっとこらえ、既刊3巻の在庫本をすべてそのまま保管し、今回この企画を継承した法政大学出版局に無償で譲渡するという。その〈やせ我慢〉ぶりには敬服のほかはない。おかげで読者は、これからでも『横山源之助全集』全巻揃いを入手できるのである。明治文献倒産の際に、あちこちのゾッキ本屋で『日本の下層社会』や『人物論』が安くたたき売られていたのとは、天と地ほどの違いがある。
ひとつの全集企画が、2つの出版社のあいだの共同作業として継承刊行される事例は、皆無ではないかもしれないが、珍しい。この『横山源之助全集』が無事に完結し、「三度目の正直」となることを祈っている。間違っても「二度あることは三度ある」といった事態にならぬよう、読者各位のご支援を伏してお願いする次第である。ぜひぜひお手近の図書館に、この全集を購入するよう、働きかけていただきたい。
なお、再開第1回が刊行されるのはまだ半年あまり先の本年9月のこと、以後年3冊、再開第8冊目が刊行されて全巻完結となるのは、3年後の2007年1月の予定であるという。
〔2004.2.8〕
『高野房太郎とその時代』をはじめ『編集雑記』も、すっかり間があいてしまいました。『食の自分史』にいたっては3ヵ月以上前に書いたきりです。まことに申し訳ない次第です。といいつつ申しわけをすれば、房太郎の命日である3月12日に《高野房太郎没後100年記念の集いと墓前祭》を開き、その準備と後始末に追われたのが大きな理由です。お許しください。おかげさまで、《記念の集い》には50人を超える方々がご参集くださり、盛会でした。当日、私が報告した内容も、加筆の上いずれ本著作集に掲載するつもりですが、しばらく猶予をいただきたいと存じます。
ただ、今月に入ってから「高野房太郎・サミュエル・ゴンパーズ往復書簡」の掲載に力をいれ、ようやく本日完結しました。What's New に英文ばかり並んでお見苦しいことになっていますが、その多くは本邦初公開の手紙です。既発表のものは房太郎書簡のうち3通(1897年4月15日付、同9月3日付、1899年9月1付)とゴンパーズ書簡のごく一部です。房太郎書簡3通は、受け取り人のゴンパーズの手で、当時のアメリカ労働総同盟の機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』に掲載され、ハイマン・カブリン『明治労働運動の一齣』にも収録されています。また、ゴンパーズ書簡の一部と房太郎書簡の下書きは、隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──ゴンパースとの関係を中心に」で、すでに紹介されています。また、房太郎書簡は原文ではなく、すべて日本語に訳したものを『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年)に収めました。
しかし、今回の「高野・ゴンパーズ往復書簡集」に収めた房太郎の手紙23通〔うち1通はAFLの書記フランク・モリソン宛て〕と下書き1通、ゴンパーズの手紙33通、計67通を往復書簡の形で、しかも原文で読むことが出来るのは、これが初めてです。
日本労働組合運動の黎明期の息吹を伝える、こうした貴重な第一次史料が、百数十年後の今日まで保存されたのは、二人の人物の努力によるものでした。その一人は、房太郎の弟岩三郎で、兄の伝記を書く望みをもち、ゴンパーズ書簡をはじめ房太郎宛の手紙多数を大事に保存していたのです。
一方、房太郎書簡の内容が残ったのは、アメリカの労働運動史家フィリップ・フォーナーの見識と努力によります。実は、房太郎書簡の現物とゴンパーズ書簡の控えは、第2次大戦後までAFLのアーカイブスに保存されていました。しかし、1960年代中、オフィスの移動の際にすべて廃棄されてしまったとのことです。1977年に初めてアメリカに行った私は、この事実を知ってがっかりしました。ところが、幸いなことにフォーナー教授は早くからこの往復書簡の価値を認め、AFLのアーカイブスに通って、記録にとどめておかれたのでした。教授は、これを房太郎が『アメリカン・フェデレイショニスト』に寄稿した英文通信とともに、Beginning of the Labor Movement in Japan: A Documentary Study の書名で刊行を企てられていましたが、残念ながら未刊のまま世を去られました。しかし、同書の刊行企画の過程で、フォーナー教授からその草稿コピーを預かっておられた野村達朗愛知学院大学教授から、その活用について相談を受けた二村は、まず房太郎書簡の日本語訳を『明治日本労働通信』で発表しました。そして今回ここに、二人の書簡部分をまとめて公開することにしたものです。この機会に、関係者各位、とりわけコピー機などない時代に一文字一文字タイプで打って、かけがえのない記録を残してくださった故フィリップ・フォーナー教授に心からの感謝をささげたいと思います。
〔2004.3.25〕
2004年4月3日、トマス C. スミスが亡くなりました。享年87歳でした。アメリカにおける日本研究、日本史研究の大家です。ただ知る人ぞ知るで、その業績にふさわしい名声を得ていたとは言えないように思います。スタンフォード大学とカリフォルニア大学バークレー校で長年教鞭をとり、すぐれた教師として敬愛され、その研究は高い評価を受けていました。しかし、研究と教育ひとすじで、名利を求めることのない方だったからでしょう。
トマス・カーライル・スミス(Thomas C. Smith)は、1916年11月29日の生まれ。第二次大戦中にコロラドの海軍日本語学校で学んだのを機に、フランス史研究から日本研究の道に入った、アメリカにおける日本研究の戦後第一世代です。日本研究ではトップレベルの業績をあげ、今なお海外の多くの大学の日本史や日本研究のクラスで、彼の著書や論文は必読文献に指定されています。日本でも専門研究者の間では、早くから注目されてきました。以下に示すように、彼の主著4冊のうち3冊までもが邦訳されています。また最後の書物は論文集ですが、その収録論文のうち4点が、雑誌論文の段階で日本語に翻訳されていました。こうした事実は、一部ではあれ日本でも早くからトム・スミスの業績を高く評価する人がいたことを示しています。
- 杉山和雄訳『明治維新と工業発展』(東京大学出版会、1971年)。原題 Political Change and Industrial Development in Japan : Government Enterprise, 1868-1880,
Stanford University Press, 1955.
- 大塚久雄監訳『近代日本の農村的起源』(岩波書店、1970年)。原題 The Agrarian Origins of Modern Japan, Stanford University Press, 1959.
- 大島真理夫訳『日本社会史における伝統と創造──工業化の内在的諸要因1750‐1920年』(ミネルヴァ書房、1995年。増補版 2002年。原題 Native Sources of Japanese Industrialization, 1750-1920, University of California Press, 1989.
その研究分野は広く、徳川時代の農村社会史、農業経済史、あるいは歴史人口学、さらには労働史に及んでいます。国際比較的な視点からの鋭い着想にもとづき、通説をくつがえすような論点をとりあげ、緻密で説得的な実証を、磨き上げた美しい文体で展開しています。研究生活の長さにくらべ、作品の数は多いとはいえませんが、どの論稿も珠玉の輝きを放っています。ひとつの論稿を仕上げるのに、数年の時間をかけて考え抜き、文章を推敲し、論理を練り上げていました。もっとも、その研究経過を直接知っているのは「恩恵への権利」、「日本における農民の時間と工場の時間」、それに未定稿ながら大島真理夫氏の努力で公開された「日本の労働運動におけるイデオロギーとしての〈権利〉」など晩年の作品だけですが。
最晩年には、神戸川崎造船所の労使関係史、とりわけ1921年の労働争議について研究をすすめていました。厖大な史料を読みこなし、1節、1節と書き進めていたのですが、アルツハイマー病に妨げられて未完に終わってしまいました。トム・スミス本人はさぞかし無念だったと思いますが、私たちにとってもまことに残念なことでした。
私がトム・スミスと初めて会った日時はさだかではないのですが、1979年か1980年のことだったと思います。大原社会問題研究所がまだ法政大学市ヶ谷キャンパスにあった時期、それも新築の80年館に移る前で、大学院棟5階の研究所で、初対面の挨拶を交わしたことをはっきり記憶していますから。長身のトムが入ると、応接室兼用の狭い所長室はいっそう狭く感じられました。
トム・スミスは還暦を過ぎた頃から、「今のままでは同じ見解を長く繰り返すことになる」と研究分野の変更を決断し、それまで専攻してきた近世農村史から労働史に新たなテーマを求めていたのでした。私を訪ねて来られたのも、その準備のためでした。
トム・スミスと出会う数年前、私は最初の留学を体験していました。これまで書物だけで得てきた知識を、直接この目で確かめ、海外の研究者仲間と語り合ううちに、日本の労使関係が欧米のそれとは大きく異なる独特の個性をもっていることを痛感し、国際比較研究を始めたばかりの時期でした。私は、日本の労使関係の特質は、単なる資本主義化の遅れだけでは理解できないと考えるようになっていました。たとえば、欧米の労働運動で重要な役割を果たした職人層は、日本の労働運動では最初からきわめて弱体でした。なぜそうなったのだろうかといった問題を考え始めていたのです。こうした違いは、工業化以前における都市のありようの相違を考慮せずには理解できない。西欧の中世都市を支配していた「ギルド」と、武士の支配下にある城下町において上から組織された「職人仲間」との違いが大きな意味をもっているのではないか。そうした国際比較的な視点をもたなくては、日本の労使関係の個性は理解できないのではないか、そのように考えはじめていたのです。最初の出会いの時から、トム・スミスも、同じような関心から日本労働史に接近しようとしていることが分かったのでした。
その日を皮切りに、トムと私とは、以後20年余、手紙を交換し、論文の草稿にコメントし合い、さらにはさまざまな場所でさまざまな問題について直接対話することになりました。私の手許にいま残っている彼の手紙だけでも五十数通に達しています。とりわけ頻繁に意見を交わしたのは1884年8月から85年3月にかけてのことでした。トム・スミスやアーヴ・シャイナーの計らいで、私はカリフォルニア大学バークレー校東アジア研究所および日本研究センターの研究員として招かれたのです。私の「前任者」が丸山真男、大江健三郎らであると知って、いささか気がひける思いでこの招待を受けました。
大学院生らの論文執筆の相談にのるほかは何の義務もなく、ただキャンパス内の宿舎からベルタワーの隣にある日本研究センターの研究室に通って論文を執筆する日々は、まさに「我が生涯最良の時」でした。この機会を与えられたおかげで、私は『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』をまとめあげることが出来たのでした。その7ヵ月余、トムと私は毎週定期的に昼の食事をともにしながら、さまざまな問題について語り合いました。労働史をめぐる問題だけでなく、ちょうど大統領選挙の年だったこともありレーガン・モンデールの「大討論」など、さまざまな話題について楽しい対話で飽くことがありませんでした。
トム・スミスはたいへん謙虚な人柄で、日本労働史をめぐる話題では、いつも私に教えを乞うという姿勢をとり続けました。そのため、われわれの対話は、形の上では、彼が質問を投げかけ、私はそれに答えるものが多くなりました。しかし、彼がなげかける疑問は、それまで日本人の誰もが気づかずにいた欧米と日本との違いの根拠を問うものがあり、その点では、常に私が教えられていました。言うまでもなく、研究を進める上で決定的に重要なのは、何を解くべき課題とするかにあります。史料の所在について、あるいは史料の読みについてであれば、私が助けた点もあるとは思います。また、彼自身の疑問とその解答のなかに、私との対話のなかで芽生えたものも、いくらかはあるでしょう。しかし、仮に最終的なバランスシートをとってみれば、私がトム・スミスに負うところの方が大きいと思います。トムから絶えず投げかけられた疑問について答える努力がなければ、私の研究は今とはずいぶん違ったものになっていただろうと思います。もちろん、答は、二人とも自分自身のものです。しかし私の疑問のいくつかは、トム・スミスの質問に触発されて生まれたものでした。
彼は、夫人やお孫さん達とともに車で遠出し、自然のなかでキャンプをしたりハイキングをしたりして、何日かを過ごすことを楽しみとしていました。私も1984年の秋に、トムの運転する車で、泊まりがけでシエラネバダに連れていってもらいました。ポプラに似たアスペンの樹林の一面の黄葉、壮大なヨセミテの景観は、スミス夫妻のやさしい心遣いとともに、いまなお懐かしい思い出として残っています。
〔2004.4.30、5.1改訂〕
半月あまり、何の更新も掲載もせずに過ぎてしまいました。実は先月20日からアメリカに行っておりました。主な目的は、カリフォルニア大学バークレー校(UCB)の日本研究センター主催で開かれた、トム・スミス追悼会への参加でした。トムの人柄を反映し、簡素で心のこもった会合で、ご遺族をはじめ古くからの友人、同僚、弟子たち80人ほどが集いました。アーヴ・シャイナーら旧知の友人に会い、20年前に滞在していたキャンパス内のWemen's Faculty Club に泊まり、当時日本研究センターが置かれていたスチーブンス・ホールなど昔懐かしいキャンパスのあちこちを訪ね歩くセンチメンタル・ジャニーになりました。
折角ここまで来たのだからと、サンフランシスコにおける高野房太郎の旧跡探検を試みました。5月23、24の両日のことです。まず目指したのは、房太郎がアメリカに着いた最初の夜に泊まったコスモポリタン・ホテルです。房太郎は後に、このホテルの客引きとなり、日本からの船が着く度に港に迎えに出る仕事もしています。給料はなく、部屋代と食事代がタダとなるだけのアルバイトでした。つまり、このホテルに住みこんでいた時期があるのです。アメリカにやって来たかなりの数の日本人が、房太郎の案内でこのホテルで渡米第一夜を過ごしたわけです。房太郎の親友で、職工義友会の同志である城常太郎もその一人で、一時はこのホテルの食堂で皿洗いのアルバイトをしていたことが分かっています。コスモポリタン・ホテルは、房太郎だけでなく、当時の日本人の多くにとっても懐かしい思い出の場所だったのです。
日本で明治時代の旧跡を探訪しようとすると、探すのにひと苦労します。由緒のある町名でも簡単に統合したり変更しているからです。また、番地の振り方のルールが分かり難く、また町名変更にともないその数も変化しています。このため、古い地図と現在のものをさまざまな角度から照合しても、おおよその位置が分かるだけで、場所を特定できないことがあります。これに対しアメリカの場合はずっと分かりやすくなっています。町名による住居表示でなく、道路を基準にした住居表示だからです。時代が変わっても道路の位置はあまり変わりませんし、その名が変わることも少ないようです。また戸番(house number)は、道の左右で奇数・偶数で統一しており、数そのものは昔も今も変わっていないようです。もっとも、小さな敷地が統合されると使われなくなる戸番はでてきますし、同一戸番に2軒の家が建つとABなどを付して区別することになりますが。いずれにせよ、100年以上前の住所でも、今の地図の上で探すことは十分可能です。
さて、問題のコスモポリタン・ホテルの所在地ですが、これは房太郎が使ったホテルの用箋のレターヘッドに「100 and 102 FIFTH STREET, opposite U.S. MINT」と記されています。つまりサンフランシスコの5番街100〜102番地で、連邦造幣局(U.S. Mint)の向かい側にあるというわけです。そこで、出発前にYahoo! Mapsで「100 Fifth street San Francisco, CA 」の位置を確認しておきました。
サンフランシスコは1906年の大震災で壊滅的な打撃を受けているので、房太郎らがいた時期の建物で、今なお残っているのは少ないのですが、幸いUS Mint(連邦造幣局)はその震災に耐えて生き残り、ゴールドラッシュ時代の遺跡的な建築物になっています。また、ミッション通りを挟んでMintの向かい側に建つビルは、その入り口のひとつに「100 Fifth」の戸番を掲げています。こうして、コスモポリタン・ホテル跡は簡単に場所を特定できました。なんと今は北カリフォルニア最大の発行部数を誇るサンフランシスコ・クロニクル社の社屋の一部に取り込まれているのでした。
すぐ上の写真で手前のギリシャ風の柱をもつ建物が元のUS Mint(連邦造幣局)、奥の白い建物がサンフランシスコ・クロニクル社です。コスモポリタンホテルの住所は5番街の100番地と102番地でしたが、5番街に面したクロニクル社の2つの入り口のひとつは5番街100番地、もうひとつは5番街110番地と記されています。つまり、サンフランシスコ・クロニクル社の方がコスモポリタン・ホテルより、ずっと広い敷地を占めていることになります。星条旗がひるがえっている塔のある辺り、つまり5番街とミッション通りの角地が100番地です。その左上は、マーケット通りの北側から5番街を鳥瞰した図です。海との関係がわかるので加えてみました。元のUS Mintの建物は、今は使われていませんが、いずれサンフランシスコの歴史ミュージアムになるようです。
次に、沢田半之助と城常太郎が一緒に住んでいた住居跡を訪ねました。
ここはサンフランシスコ時代の職工義友会の本部の所在地であり、会合場所でもありました。その住所が、ミッション通り1108番地であることは、右の広告をはじめ、複数の史料で確認されています。
まずこちらもYahoo! Mapsで見ておきましょう。赤い星がその位置を示しています。ご覧になればすぐ分かるように、ミッション通りは、マーケット通りのすぐ南を、これと並行に走っている通りです。旧ミントとコスモポリタン・ホテルの間の大通りがミッション通りですから、ミントの角から南西に2ブロックほど下がった辺り、歩いて5分足らずの位置にあります。ミッション通りと7番街の北西の角が1100番地ですから、そこからさらに4軒目にあたります。ところが、この一角は現在は建物がまったくなく、建設工事の現場になっていました。都市再開発事業の一環として連邦政府関係のオフィスが入るビルの建築が進行中だったのです。2002年7月に起工式があったそうですから、すでに2年近くが経過しているわけですが、まだ建物の姿は現れていません。
今回は残念ながら、殺風景な工事場風景しか見ることは出来ませんでした。しかし、次をクリックすると新しいサンフランシスコ連邦政府ビルディング(New San Francisco Federal Building)の完成予想イメージが現れてきます。2005年、つまり来年には完成予定の、この18階建ての「新サンフランシスコ連邦政府ビル」が竣工すれば、ビルの前庭の東南角、つまりミッション通りと7番街が交差する地点から少し8番街方向に入った辺りが、職工義友会の旧跡ということになります。
公的な機関の敷地内ですから、日本の労働組合が募金でもして、記念碑を立てるかプレートを入れるにはもってこいの場所になるのではないでしょうか。
〔2004.6.5〕
次に訪ねたのは、ストークトン街10番地でした。1888(明治21)年に、20歳の高野房太郎が日本雑貨店(Japanese Bazaar)を開き、短期間で失敗、夜逃げ同様にサンフランシスコを離れざるをえなくなった「旧跡」です。まずはその位置をYahoo! Maps(ここをクリックしてください)で確かめておきましょう。この地図でも、また右の写真からも推測できると思いますが、ここはサンフランシスコ有数の繁華街です。マーケット通りとストークトン街だけでなく、エリス通りも交差し、しかもサンフランシスコの中心ともいうべきユニオンスクエアにわずか2ブロックしか離れていないので、商業用地としてはまさに一等地です。その日本雑貨店跡に、いま店を構えているのは、音楽や映像のCDやDVDを世界的に販売しているヴァージン・メガストア・サンフランシスコ店でした。その住所はストークトン街2番地、つまりストークトン街の偶数番地の出発点です。その隣に4番地、6番地、8番地と続き、10番地の房太郎店はさらにその隣、マーケット街から数えて5番目だったはずです。
ところで、下の写真はストークトン街から見たヴァージン・メガストアですが、なんと隣の店はストークトン街42番地でした。要するに、ヴァージン・メガストアは一店舗で2番地から40番地まで、つまり店20軒分を独り占めしている形です。仮にひとつの番地に1軒の店があったとすれば、窓ひとつが店2軒分になります。しかし番地の付け方には、1ブロックを機械的に100番地、つまり片側50区画とした場合もあったようですから、最初から1軒の店が複数の番地をもっていたのかもしれません。いずれにせよ、この写真で奥から2番目の窓の辺りが日本雑貨店旧跡と推測されます。それにしても、このような一等地に店を構えるとは、房太郎も思い切ったことをしたものです。きっと家賃も高かったことでしょう。短期間でギブアップしたのも宜なるかなです。
話は違いますが、どこかで見たロゴだと思って調べたところ、ヴァージン・メガストアは、イギリスの航空会社ヴァージン・アトランティックと同一の系列グループでした。熱気球で世界一周を試みたリチャード・ブランソンによって一代で創られたヴェンチャー企業群です。世界一周の方は不成功に終わりましたが、企業グループは成長を続けているようです。インターネット利用でも、どうやらトップレベルの水準にあるようです。
〔2004.6.22〕
【お断り】
当初、本ファイルに収めていた「国会図書館サイトの大変貌」は、《編集雑記》11に移しました。
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