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再論・「労働者の声」の筆者は誰か?



はじめに ─ 高野房太郎説は誤りであった
1 徳富蘇峰の証言 ─ 家永三郎による聞き取り
2 竹越三叉執筆説の検証
3 山路愛山執筆説の検証
4 酒井雄三郎執筆の蓋然性
5 蘇峰論稿と「労働者の声」
むすび

 

はじめに ─ 高野房太郎説は誤りであった

 今から約130年前,『国民之友』第95号に掲載された「労働者の声」*1 は,日本で最初に労働組合の結成を呼びかけた論説として知られている。「その筆者は誰か?」は,戦前から問題とされてきたが,未だに確たる答は得られていない。そうした中で私は,《オンライン版・二村一夫著作集》に連載した『高野房太郎とその時代』で*2,高野房太郎執筆の可能性を主張した。また,拙著『労働は神聖なり,結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』(2008年,岩波書店刊)でも,同様の主張を繰り返した。その根拠は,「労働者の声」が高野房太郎執筆の諸論稿の論旨や用語と共通する点が多く,矛盾がないことであった。また「労働者の声」の筆者は,欧米の労働組合や協同組合の歴史・現状についての豊富な知識を有しているが,当時,そうした人物はごく限られていたこと,さらに同稿の筆者が「実践者」としての決意を表明している点も重視した。

 この主張に対し,大田英昭氏は,その著書『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』*3 において批判を加えられた。批判のポイントは,以下の3点である。@「労働者の声」を高野房太郎執筆と断定するのに,二村の論拠は不十分である,A『国民之友』の社説欄を民友社外の無名の青年が執筆したとは考え難い,B二村は「これまでこの論文の筆者を探索した人はいません」と述べている。しかし1952年に家永三郎が徳富蘇峰の証言を得て,「『労働者の声』の筆者」*4を発表しており,さらに,この蘇峰証言をもとに,佐々木敏二も「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『国民之友』を中心に」で「労働者の声」の筆者に論及している*5。批判の最後で大田氏は,「竹越が〈労働者の声〉を執筆した蓋然性は非常に高いと考えられよう」と,竹越三叉執筆説を主張している。

 私が,家永三郎や佐々木敏二の先行研究の存在を見落としたまま「〈労働者の声〉の筆者は誰か」を論じたことは,研究者として初歩的な誤りをおかしたものと言うほかない。その後さらに,大田氏と私との間では,インターネットを介して論争を交わす機会があったが*6,その過程で,高野房太郎説の誤りが明らかとなった。
 『国民之友』の社説欄に外部筆者の投稿が掲載され得ると,私が考えた根拠は,「白面の書生」を名乗る「鐵面生」の投稿が『国民之友』社説欄に採用されていたからである。『国民之友』第86号(1890年6月)の巻頭に掲載された「山縣伯に与ふるの書」がそれである。しかし,問題の「鐵面生」は蘇峰の匿名であり,「山縣伯に与ふるの書」は『蘇峰文選』*7にも収録されている事実を知らされた。これによって「〈労働者の声〉高野房太郎執筆説」の主要な論拠は失われた。もともと「労働者の声」の筆者が漢学の素養ある人物であることは明らかで,小学校教育だけで特に漢学を学ぶ機会がなかった高野に,果たしてこれを書く力があったか否か,懸念がないではなかった。そうした疑問を抱いたまま,また蘇峰や『国民之友』について十分な検討を加えずに,私が高野房太郎執筆説を主張したことは軽卒であった。とはいえ,自らの手で自説の誤りを訂正し得るのは幸いで,この機会を与えられた大田英昭氏に感謝する。

 しかしながら,大田氏が,家永三郎による徳富蘇峰証言を根拠に,「竹越が〈労働者の声〉を執筆した蓋然性は非常に高い」と主張している点には,疑問を抱かざるを得なかった。「蘇峰証言」をほとんど吟味せず,筆者を特定しようとしているからである。本稿はこの「蘇峰証言」を仔細に検討し,「労働者の声」筆者の確定を目指すものである。

 

1 徳富蘇峰の証言 ─ 家永三郎による聞き取り

 第二次大戦中から近代思想史にも研究領域を広げていた家永三郎は,戦後間もなく『国民之友』の多くの号を入手したのを機に,同誌の研究に手を染めたという。1952(昭和27)年夏,家永は熱海の徳富邸を訪問し,蘇峰と面談した。当時「労働者の声」の筆者確認に強い関心を抱いていた家永は,同稿が掲載された『国民之友』を持参して,その執筆者について蘇峰の証言を求めたのである。その結果を家永は「〈労働者の声〉の筆者」と題する小文にまとめ,『日本歴史』第55号(1952年12月)に寄稿した。その核心部分は,以下の通りである。

今年八月、徳富蘇峰翁と面会する機会を得たので、同誌を示して、これは誰の書いた文章であるかと尋ねたところ、翁はしばらく雑誌を目にくつつけて劈頭の部分を熟視してゐたが(翁は眼鏡なしで本を読むのである)、これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた。(強調は引用者による)

 『国民之友』の創始者で,主筆でもあった蘇峰が,「労働者の声」を読んだ上での回答であるから,この証言は重要である。しかし一歴史研究者としては,その内容を検証することなく,鵜呑みにする訳にはいかない。
 蘇峰証言のうち,とりあえず事実と判断し得るのは,「自分が筆を取つて書いたのではない」という箇所であろう。本人が,その論文を読んだ上での確言であるから,信頼してよいと考える。しかし「竹越か山路であらう」という回答は推測である。このとき彼は「労働者の声」の「劈頭の部分を熟視」してはいるが,他に日記やメモを参照した様子はない。つまり満89歳の老翁が,27歳のときに刊行した雑誌の一論文の筆者について,記憶を頼りに答えたものである。この証言は,「労働者の声」の筆者を特定してはおらず,断定もしていない。竹越三叉か山路愛山が執筆した蓋然性を述べているに過ぎない。なお家永三郎も,「蘇峰証言」を記録に留めはしたが,その内容を検証してはいない*8

 

2 竹越三叉執筆説の検証

 最初に「大田英昭説」=「竹越三叉執筆説」を検討しよう。結論から先に言えば,三叉が「労働者の声」を執筆した蓋然性は限りなくゼロに近いと考える。その根拠は次の2点である。
 1)まずは文体の異質性である。「労働者の声」の文章は,名文家として知られた竹越三叉の文とは,明らかに異なっている。使用語彙や文字遣い,句読点の頻度,つまりは音読した時のリズムなど,三叉の文章と「労働者の声」とでは,明白な相違がある。
 2)論稿の内容にも疑問がある。「労働者の声」と同時期に発表されている竹越三叉の諸論稿には,労働組合や労働運動に対する関心がまったく認められないのである。
 以下,この2点についてやや詳しく見て行くことにしよう。

(1)文体の比較

 竹越三叉の論稿*9を「労働者の声」と比べた時,すぐ気づくのは文体の相違である。何より音読した時のリズムに違いがある。竹越三叉は,早くから,その名文・麗筆で知られていた。豊富な語彙・清新な造語は,多くの人の認めるところであった。彼は論稿を書き上げると「抑揚の妙を極めた朗読をするのが例であり、其故に文章は一種の散文詩とでも謂ふべきもので、如何にも口調が善く、悠揚として高風の雲を吹く様な趣があった」*10と評されている 。
 また,民友社の同僚で彼を良く知る山路愛山は,「竹越与三郎論」*11で,三叉の文章の特徴を次のように評している。

 文章を作つても其通り、誠に正々堂々の陣で、旗も太鼓も多い。実質は勿論無いではないが、実質を裸かで出さず、衣裳をつけ、羽毛を飾つて、立派なものにしてからでなくては満足しない。演説でも何でも皆其流儀で、総て荘重典麗。

 こうした竹越三叉の文章の特徴を,具体例で見よう。以下,三叉論稿を3点紹介するが,はじめの2点は「労働者の声」とほぼ同時期に執筆されたものである。
 第1は,『新日本史』の一節,「平民主義」に関する説明である*12

 此主義〔平民主義……引用者注〕の一たび現はるゝや、天下靡然として之に傾けり。何となれば是れ、自由主義、民権論、人権説、個人主義、自由貿易論、最多衆民論、国家独立論、精神的発達論等、凡べての自由進歩的の文字の注入すべき江海にして、以上の文字は、熔解して新たに此の平民主義となり、新奇なる色沢、新奇なる領分を有したるものなれば也。要するに此文字たる、維新以来、単純なる、法権主義の専制に反対する、凡べての分子の総管束を為し殿を為すもの也。

 200字に満たないこの短文においてすら,「江海」と「熔解」のように韻を踏んだり,「新奇なる色沢」「新奇なる領分」といった同一の形容を重ね,さらには「総管束」といった造語を使うなど,さまざまな工夫を凝らしている。
 第2は,『国民新聞』1890年5月16日付に掲載された「近日の文学」*13で,三叉の文章論としても読むことが出来る。愛山評言どおりの「旗も太鼓も多く、衣裳をつけ、羽毛を飾つて、立派なものにした、荘重典麗な文」の好例である。

 人心漸く近日の文学に飽きたるが如し。曰く今日の文学は繊少なり、微細なり、浮華なり、卑汚なり、曰く博大の観念なし、雄壮の思想なしと。甚しきは之を以て六朝亡国の余韻となすものあり。
 思ふに是れ、最もの次第ならん。如何に大牢の料理は美味なりとて、三百六十五日朝夜旦暮、大牢の美味に潰されては、如何なる贅沢家も之に懲りん、況んや大牢の美味ならざるものをや。今の文学は、其初めて発達するや、漢文ともつかず、和文ともつかず味なく趣もなき佶倔聱牙法吏の宣告文の如き文学を承けたるものなれば、其自然の結果として、絢爛華麗人目を眩射するものありき。世人の厭倦を招くの原已に此にありて存す。彼已に絢爛の文によつて人心の一部を満足せしむ、未だ雄大博大の韻を求むるの心を満足せしむるに足らず。此に於てか天下の非難、今日の文学に集まる。今日の新文学を難ずるの声は、実に昔日の新文学を賞嘆せる声なり。〔後略〕

第3の文例は,年少者向け政治教育の教科書として書かれた『人民読本』(明治版)第26章「国民の経済(下)」の一節である*14。「労働者の声」と共通する説明文である。

 然らば如何にして国の富を蓄積せんかと云ふに、其道、多端にして一ならず。第一に人民各自勤勉にして節倹を重むじ、驕奢の弊風を避けざるべからず。然れども如何に勤勉なりとも、唯だ己の手足を用ゆるのみにては不可なり。譬へば農業を営むにも、耕作力役の外、農学の示す所に従つて、効験ある肥料を用ひ、作物循環の法を実行する等、百方、地力を利用するの道を行はざるべからず。工業にても同じことなり。我国にては労力者の賃銭、欧米に比して安しとの説あれども、我国の労働者は欧米の労働者に比して、機械を取扱ふ事に熟練せず、力役者と云ふべきも、技藝者と云ふ能はざる者多きが故に、富を生産する結果につきて云へば、我労働者の方遙かに少きが故に決して欧米に比して賃銭安しと云ふ能はず。

 教科書として書かれたものだけに,三叉としては平明な言葉を使っており,「荘重」とは言い難い。しかし「驕奢の弊風を避けざるべからず。然れども如何に勤勉なりとも、唯だ己の手足を用ゆるのみにては不可なり」といった文には,特有のリズムがある。
 一方「労働者の声」は理詰めの文章である。もっとも冒頭は,管子を引用するなど措辞にも気を配っている。しかし,本論に入ると知識・情報の提供に集中する。比較のため,「労働者の声」の核心ともいうべき「同業組合」と「共同会社」,つまり労働組合と協同組合を論じている箇所を,抜粋して示そう*15。なお( )内は,原文ではルビである。

 吾人は今茲に、二個の方法を提出し、以て世の慈善心ある義人に愬へんと欲す、 其一は則ち労役者をして、同業組合(トレードユニオン)の制を設けしむる事是なり、同業組合とは何ぞや、大工は大工なり、左官は左官なり、又た其他の職人は職人なり、同職者相団結して、以て緩急相互に救ふの業を為す事是なり、此事たるや、欧米諸国にて既に久しく行はれしものにして、今日は其法頗る発達し、独り同職者のみならず、其職業の異なる者をも、皆団結して一体となり、以て緩急相応じて、以て其団結の利益を保護し、併せて之を拡張する所以の法を講ぜり、〔中略〕 斯の如く同業組合は、之を内にしては同業間の親睦を篤ふし、其緩急相助くるの情を養ひ、彼等をして幾分の所得を貯蓄せしめ、又た非常の時に際しては、其緩急に応ずるの保険者たらしめ、之を外にしては以て同業者の勢力を団結して、其疾苦を医するの手段を講じ、已むを得ざる時に至りては、罷工同盟をも為しかね間敷の勢を養ふに足る、〔中略〕 第二の考案は,共同会社(コオポレーシヨン)の制是なり、其制たるや、方法一つにして足らずと雖、要するに資本家と労役者と、雇主と被雇者との間に在りて、其利害を並行せしむる所以の目的に外ならず、 〔後略〕

この文を「抑揚の妙をきわめた」散文詩と呼ぶことは出来ない。「荘重典麗」というより,「実質を裸で出」した文章と言ってよい。
 文体を比較する際に重要なポイントとなるのは,句読点の打ち方である。そこに筆者の文のリズム,文章の特徴が現れるからである。「労働者の声」は,この時代の論説文としては,読点=「、」を多用し,文を細かく区切る傾向が目立っている。これに対し三叉の文章は,一文が相対的に長い上に,読点は少ない。要するに「労働者の声」と比べ,句読点で区切られた文が長めなのである。この点を数量的に検討してみよう。比較の対象として取り上げる三叉論稿は「社会問題の成行」(『六合雑誌』第81号,明治20年9月30日)*16である。なお『国民之友』掲載の「労働者の声」原文は,文末にも読点を使っており,文の終わりが明らかではない。そこでここでは,文末の読点を句点=「。」に変えている『明治文化全集』版を用いる。これによると「労働者の声」は句読点を含む本文の文字総数が5505,一方「社会問題の成行」は3046である。「労働者の声」の句点の数は115,読点は286である。ただし読点と同じ機能を果たすダッシュ=「 ─ 」が2つ使われている一方で、「ナイト、オフ、レバー」と,読点ではない「、」が2箇所で使われているので,総読点数は286と変わらない。一方「社会問題の成行」の句点は51,読点は64である。したがって,句読点を差し引いた純文字数は,「労働者の声」が5104字,「社会問題の成行」は2931字である。以上から算出した一文の平均文字数は,「労働者の声」が44.4字,「社会問題の成行」は57.5字,後者が30%ほど長い。両者間に顕著な差が見られるのは,句読点によって区切られた短文の文字数である。「労働者の声」の句読点の総数401に対し「社会問題の成行」は115,したがって句読点によって区切られた短文の平均文字数は,「労働者の声」12.7字に対し「社会問題の成行」は25.5字である。つまり「社会問題の成行」の場合,句読点によって区切られた短文の文字数は「労働者の声」の2倍に達する。竹越三叉が「労働者の声」の筆者と考え難い論拠のひとつは,ここにある。

 

(2) 語彙の比較

 文体から執筆者を特定する上で,有力な手がかりとなるのは語彙である。照合する文章相互間で共通して使用される単語の有無や出現頻度などから,執筆者の異同を推定し得る。そこで,まず「労働者の声」のキイワードを選び,これと対応する語を,内容的に共通するところのある三叉論稿,具体的には『新日本史』の「旧社会の破壊,新社会の結合」の節*17と比較してみよう。
 「労働者の声」のキイワードは「労役者」である。全文を通じて23回使われている。また,「労役者」とはぼ同義の「労働者」と「職工」もそれぞれ7回出現している。もう少し範囲を広げ,職業や社会階級等に関する単語で,2回以上使われている語を抜き出すと,以下の通りである。順序はアイウエオ順,カッコ内の数字は出現回数,既出の「労役者」「労働者」「職工」も再掲する。

購客(6),小売(3),左官(2),資本家(4),社員(2),職人(2),職工(7),人民(2),大工(3),同業者(2),土方(2),問屋(2),雇主(3),労役者(23),労働者(7)。

 一方,竹越三叉『新日本史』 の一節「旧社会の破壊,新社会の結合」から,同様なカテゴリーの単語を抜き出すと,以下の通りである。なお,引用文で本人以外の執筆にかかるものは,採録対象外である。

階級(13),華士族(4),華族(8),官吏(5),県令(2),公衆(3),郷紳(7),豪族(2),豪農(4),国民(3),士人(2),地主(3),資本(4),紳士(2),人民(13),教師(3),大聖(2),農民(2),平民(13),大官(2),労力(4)。

 「労働者の声」と『新日本史』で共通する単語は「人民」のみである。もっとも,「労働者の声」で1回だけ使われている語を含めると「國民」,「平民」,「志士仁人」の3語が加わり4語となる。だが「労働者の声」のキイワード中のキイワードである「労役者」が,『新日本史』では全く使われていない。これは筆者推定上の重要なポイントである。

 語彙とともに,用字の癖も,複数の文書が同一筆者の執筆であるか否かを識別する,重要な手がかりとなる。この点に着目して三叉の一連の論稿をチェックしてみると,「労働者の声」と大きく違う点がある。それは三叉がカタカナ表記を頻用している事実である。たとえば「労働者の声」で「嗟呼」と記されている語が,「社会問題の成行」をはじめ三叉論稿では,「アヽ」と記されている。この時期,三叉が『六合雑誌』『青年思海』『基督教新聞』などに寄稿した諸論稿*18では,もっぱら「アヽ」が使われている。他にも「サレバ」「サレド」「サナキダに」「ソノ」「ソコ」「ソハ」「ソレ」「ソモ」「ソモヽヽ」「コハ」「ヲヽ」などで,三叉は片仮名を用いている。一方「労働者の声」の片仮名使用は,欧米の人名・地名・組織名,原語のルビ表記に限られ,日本語では使われていない。さらに注目されるのは,カタカナを用いて三叉が強調的に表示しているこれらの語そのものが,「労働者の声」では「嗟呼=アヽ」と「其=ソノ」しか使われていない事実である。とりわけ「されば」「されど」「そもそも」など,文頭で使われる語には,筆者の好みが反映する。そこに共通性がない事実は,三叉が「労働者の声」の筆者ではないことを示唆していよう。

 

(3) 内容面での比較

 竹越三叉には,『新日本史』の他にも,『二千五百年史』や『日本経済史』などの通史があり,『国民之友』をはじめ,数多くの雑誌や新聞に,多数の論稿を発表している。しかし管見のかぎり,これらの著書や論稿には、「労働者の声」の筆者であれば論ずるであろう労働組合や労働運動に関する言及が見出せない。
 こうした内容上の問題を,「労働者の声」とほぼ同時期に執筆された『新日本史』で具体的に検証してみよう。『新日本史』は,上巻が1891(明治24)年7月3日,中巻が翌1892(明治25)年8月4日,ともに民友社から刊行されている。ただ下巻はなぜか未刊である。『新日本史』の執筆開始日は1891(明治24)年2月27日*19,「労働者の声」から半年も経たずに書き始められている。主題は幕末から明治23年までの日本史,つまり同時代史である。その中の「社会・思想の変遷」において,三叉は次のように論じている*20

  故に概して云へば、明治十年までは、平民が士族に対して優劣の争を為したる時代にして、即ち武権と富との争なりし也。然れども富、武権に勝つや、此に富と富との争となり、直ちに資本と土地労力の争となれり。而して資本は市府に属し商賈に属し、土地労力は地方農民に属したれば、即ち此に地方村落と市府の争を起したるものなれば、苟も大局の眼あらん者は、一視同仁、早くも欧米の如き、資本と土地労力の激戦を生ぜさるに、預防の立法を為すべきに、明治政府の政策は比年、中央集権にして殊とに市府の人民に都合能き事のみ多かりしかば、市府は長大の進歩を為したり之に引換へ、農民は二十年間の保護政略の恩光に浴せざりしかば、悉く其資力を近傍都会の市民に吸集せられ、土地と労力とは聯合して、資本に対して、激しき戦を挑みたる其結果遂に農民の敗北となれり、〔後略〕

 引用文は,『新日本史』の中で「資本」という語が使われている数少ない箇所である。しかしここには「資本家と労役者」という「労働者の声」の核心ともいうべき概念がない。もし三叉が「労働者の声」の筆者であったならば,同時代史で「社会・思想の変遷」をテーマとし,「資本」を問題とする箇所で,「労役者」「被雇者」に関し,ひとことも触れずに論を終えるであろうか? なお,ここで三叉は「労力」という言葉を使っているが,「土地労力は地方農民に属したれば」と述べ,明らかに「労力」は「農民」を指している。つまり,「労働者の声」公表直後に刊行された著書の中で,三叉は労働者への関心をまったく示していないのである。

 

3 山路愛山執筆説の検証

(1) 山路愛山執筆の蓋然性

 「はじめに」でふれた佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『国民之友』を中心に」は,家永三郎による蘇峰証言を紹介した上で,次のように結論している*21

  当時の愛山と三叉の二人の種々の論文を比較してみて、愛山の筆とは考えにくい。後に『新日本史』を書いた三叉ならばありそうなことである。しかしいずれにしても愛山とも三叉とも断定する決め手はない。

 つまり,佐々木は「労働者の声」が愛山執筆とは考えにくいと結論し,三叉執筆の可能性は「ありそうなこと」と述べている。しかし最終的には、「決め手はない」と結論を避けている。一方,大田英昭は竹越三叉執筆説を主張するだけで,山路愛山については検討していない。
 だが山路愛山には,「労働者の声」の筆者とみても不思議ではない論稿がいくつかある。たとえば,1905(明治38)年2月,『独立評論』誌上に掲載し,のちに彼の著書『社会主義管見』に収録した「社会主義評論」である。この文中で愛山は,ロバート・オーエンやマルクス,エンゲルスについて触れ,彼等の主張を紹介している。愛山はまた,『社会主義管見』のなかで「共同組合,労働組合」についても論じている。さらに『独立評論』1908(明治41)年5月号の「現時の社会問題及び社会主義者」では,高野房太郎や片山潜の名をあげ,職工義友会や労働組合期成会についても記録している。これらの論稿*22を見る限り,愛山も「労働者の声」の有力な執筆者候補たり得るであろう。

  

(2) 「労働者の声」は愛山執筆ではない

 しかしながら,山路愛山は「労働者の声」の筆者ではない。そう断言する根拠は,愛山が民友社へ入社したのは,「労働者の声」発表後の1892(明治25)年初めのことであり,『国民之友』への初寄稿は1892年1月13日発行の第142号「自ら寛ふす(歳晩所感)」である事実が,研究者間で一致している*23からである。愛山は若くして世を去り,彼を知る人びとが健在であった時に,その著作目録の作成は始められている。その内容に誤りは少ないと考えてよい。
 もう1点,愛山が「労働者の声」の筆者とは考え難いメモが残されている。それは明治24年頃の執筆と推定されている「愛山生が身を終るまで研究すべき事項」と題する手記である*24。そこには,聖書,基督教の歴史(教会,教理,及び社会,個人に於る感化の),各国の聖書(佛教,婆羅門教の類),文明史,商業地理,生物学,物理学及数学,東西詩文の8項目が記されているが,労働問題や労働運動については,まったく触れられていないのである。

 

4 酒井雄三郎執筆の蓋然性

 以上,蘇峰証言で「竹越か山路であろう」と名指しされた二人とも,「労働者の声」の筆者とは考え難いことが明らかとなった。こうなれば,蘇峰周辺の人物の中から,他の候補者を探し出すほかない。ここですぐ思い浮かぶのは,特別寄書家の酒井雄三郎である。1889年のパリ万国博覧会に際し,農商務省総務局博覧会課の官吏(属四等)*25としてフランスに派遣され,『国民之友』や『国民新聞』に数多くのヨーロッパ通信を寄稿したことで知られた人物である。パリ万博は1889年5月6日から10月31日まで開催されたが,酒井が横浜を出港したのは1888年1月であった。彼は博覧会終了後もヨーロッパに留まり,勉学のかたわら日本に通信を送り続けた。酒井がアメリカ経由で帰国したのは1892年2月,3年足らずのヨーロッパ滞在であった。
 酒井雄三郎のヨーロッパ通信は,当初は万国博覧会や世界各国の政治情勢中心であったが,次第にヨーロッパの社会問題・社会主義運動に目が向けられて行った。とくに1890年5月の『国民之友』第81〜83号に連載された「社会問題」では,ドイツ人による調査報告を紹介するかたちで,英国の「トレード・ユニオン」や「フラインドリー・ソサイチー」について紹介している。酒井を「労働者の声」の筆者候補と見るのに問題はなさそうである。また酒井は,『国民之友』創刊前から蘇峰の知己であり,個人的にも親しい関係にあった。徳富蘇峰も酒井のヨーロッパ通信を高く評価していたに相違ない。酒井の懇請に応じ,蘇峰が,民友社社員の月給に数倍する50円もの大金を送っている事実が,これを裏付けている*26

 しかし,酒井を「労働者の声」の筆者と見ることには,疑問もある。酒井雄三郎が自らの任務と考えていたのは,海外在住者だからこそ知り得る世界各国の情勢を日本に伝えることであった。その酒井が,在外通信ではなく,日本労働者の組織化を呼びかける文章を書き,故国に呼びかけたとは考え難い。また文体の面でも,酒井の論稿は晦渋で,文意明快な「労働者の声」とは,明らかな相違がある。また「労働者の声」はすでに何回か指摘しているように,読点を多用しているが,この頃の酒井は,ほとんど読点を使っていない。たとえば『国民之友』第81号「社会問題(三月七日発)」は,5ページ半の文中,わずか6箇所で読点を使っているに過ぎない。
 実は,この問題に決着をつける一文を,酒井自身が書き残している。彼がベルギーから寄稿した「欧州の形勢」の一節である。これは『国民之友』第99号,つまり「労働者の声」より4号遅れ,41日後に発表された論稿である。その文中で,酒井雄三郎は60日余のあいだ筆をとらず暑中休暇を過ごし得た,と記しているのである。問題の箇所は以下のとおり。全文270字が一文で,酒井の「晦渋な文体」の例としても参考になろう。

 実にサリスポリー侯の言の如く欧州各国の此頃の如く平穏静和なるは従来稀れに見る所にして、各国人民は果して能く此平和を利用して文学技芸の事に幾多の進歩を致し、道徳社交政治の事に幾多の改良を遂げ、以て大に其享有するに至りしや否やは、後世の史家能く之を闡明する者あるべきが、差し向き其外形に顕はるゝ所、某新聞紙上に記する所は、何の珍説もなく、何の異聞もなく、終に通信者をして、六十日余の間筆を執るを止めて為す事もなく暑中休暇を過こすを得せしめ、國民新聞の読者をして、我が国内地にては、議員選挙の競争、新議会開設の準備等、最も面白き記事多き時に於て、最も面白からぬ欧州通信を読むの煩を避けしめたり、

 酒井雄三郎もまた,「労働者の声」の筆者とは考え難いのである。


 

 5 蘇峰論稿と「労働者の声」

(1)「蘇峰証言」前半の信憑性

 竹越三叉,山路愛山に加え,酒井雄三郎も筆者でないとなれば,他に誰が「労働者の声」を書き得たであろうか。民友社や国民新聞社の諸資料を集めた『徳富蘇峰・民友社関係資料集』に収録されている名簿や書簡・回想記,『徳富蘇峰関係文書』(全3巻,山川出版社)に収録されている書簡,あるいは蘇峰の伝記類を調べても,候補者は見出し難い。

 ここまで来て,本稿が重要な問題を見落としたまま論を進めていることに気づかされた。それは他でもない,「蘇峰証言」の前半部分「これは自分が筆を取つて書いたのではない」との言葉を,「本人が,その論文を読んだ上での確言であるから,信頼してよいと考える」と即断してしまった点である。『国民之友』の社説欄を取り仕切っていたのは主筆の徳富蘇峰であり,「国民之友欄」は蘇峰執筆の論稿が多数を占めている。「労働者の声」の筆者探しにおいて,誰より先に検討の対象とすべきであったのは,他ならぬ徳富蘇峰である。

 論説の執筆者探しとなれば,筆者の主張も問題となる。しかしこの際,その検討は不要であろう。筆者が誰であれ,当時の『国民之友』社説欄は,徳富蘇峰の承認なしには掲載され得なかったからである。ただ,ここで指摘しておくべきは,徳富蘇峰が,酒井雄三郎の通信「社会問題」を読む前から労働組合に関心をいだき,1889年のロンドン港湾労働者のストライキに関する情報も得ていたこと*27,さらには,この時期の『国民之友』が,「社会運動の先駆者たらんと欲する者は」「『国民之友』を読め」*28と,きわめて実践的な姿勢を示していた事実である。

  

(2) 蘇峰文体の特徴

 「労働者の声」が蘇峰の執筆か否かを追究するには,同時代における蘇峰の論説文の文体の特徴を知る必要がある。それには,徳富蘇峰執筆であることが確実な文章を集めねばならない。「労働者の声」と同時代の文章となれば,徳富猪一郎著と明記された『将来之日本』,『新日本之青年』のほか,『蘇峰文選』の「第一編」および《國民叢書》の第1冊から第5冊,すなわち『進歩乎退歩乎』,『人物管見』,『青年と教育』,『静思余録』,『文学断片』をとりあげれば十分であろう*29。幸い国立国会図書館のデジタルコレクションには,これらすべての文献が収録されている。
 これらを通読して明らかとなる蘇峰文体の第1の特徴は,読点の多用である。読点を用いて文を短く区切り,この短文を重ねて一文を作り上げる手法である。当時,『国民之友』掲載諸論稿の句読点の用法は,雑誌としては統一されておらず,筆者ごとに異なっていた。さらに言えば句点や読点を用いる著者は少数派であった。第6巻(明治23年1月〜6月)を例にとると,ペンネームも含めた署名筆者50人のうち,句読点を全く使わない者が23人,一部に読点を用いるが原則的には句読点を使用しない筆者が8人と,不使用者が31人に達している。一方,句点・読点をともに使うのは,石橋忍月,尾崎紅葉,幸田露伴ら7人に過ぎない。また句点を用いず,読点だけを使う筆者は,蘇峰を含め11人であった。なお森鴎外は,「舞姫」では原則として句読点を使用していないが,森林太郎名で執筆した論説文では読点のみ用いている。この他,文の区切りにも句点を用いた筆者が2人いる。ちなみに,蘇峰も著書の『将来之日本』と『新日本之青年』では,もっぱら句点を用いている。

 蘇峰文体の第2の特色は,語彙や措辞に漢文訓読の影響が著しいことである。蘇峰の文章が簡潔明快である理由のひとつは,訓読語の圧縮された表現と,豊富な語彙力によるところが大きい。その具体例を,『国民之友』の創刊宣言「嗟呼国民之友生まれたり」で見ておこう。冒頭の一節と,「結び」にあたる末尾の一部である。

嗟呼『国民之友』生まれたり、何が故に生まれたるか、現今日本の時勢、其その必要を感ずればなり、必要とは何そや、吾人乞ふ試に之を説かむ、 日本国何くに在る、日本人民何くに在る、我か愛する日本は、不幸にして三百年来、絶海の孤嶋に隠遁したるを以て、国家、人民の思想に到りては、何人の脳中と雖も殆んど之を尋る所なく、其の名義こそ日本国とも、国民とも云ひたれ、其の實は荒々漠々たる無主人の空家に類し、人は文弱に流れ、民は遊惰に耽り、滔々たる天下泰平の夢に沈酔して、復た他事を顧みざるに際し、忽然として米艦天より来り〔中略〕 来れ、来れ、改革の健児、改革の健児、改革の目的は、社会の秩序を顛覆するにあらず、之を整頓するにあるなり、過去の事は過去の人をして之を做さしめよ、現在のことは現在の人をして之を做さしめよ、新奇なる舞台は新奇の役者を要し、新奇の事物は新奇の眼孔を以て之を観察するを要す、既に然り、我が『国民之友』の今日に産出する、豈に徒然ならん哉、〔後略〕

 こうした蘇峰文体の特色を知った上で「労働者の声」を読み返すと,蘇峰証言の前半部分「これは自分が筆を取つて書いたのではない」との言葉が,果たして真実を伝えているのか,疑わしく思われてくる。両者間に共通する点が,あまりに多いからである。

(3) 「労働者の声」と徳富蘇峰論稿の比較

 そこで以下,「労働者の声」の文体と蘇峰論稿の文体とを,仔細に比較検討してみよう。

1. 読点の多用

 蘇峰文体の特徴の第1は,すでに指摘したように,読点を多用して文を短く区切り,こうした短文を重ねて一文を作り上げる手法にある。この点を,竹越三叉の節で試みたように,数量的に確認してみよう。蘇峰論稿の一文の平均文字数と句読点で区切られた短文の平均文字数を算出し,「労働者の声」のそれと比較するのである。比較の対象として用いる論稿は,「労働者の声」と内容的に共通するところのある「平民的運動の新現象」(『国民之友』69号,明治23年1月3日掲載)にしよう。この原文は,「労働者の声」と同様,文末に句点を用いず,全文を通じて読点だけを使っている。そこでここでは,文末の読点を句点に変えている『蘇峰文選』収録稿を用いる。「平民的運動の新現象」は句読点を含む本文の総文字数が3778字,句点数は91だが,ほかに句点と同じ機能をもつ感嘆符が1つ使われており,これを句点に加えると92,読点数は181,句読点の総数は273,純文字数は3505字となる。以上から算出した一文の平均文字数は38.5,句読点で区切られた短文の平均文字数は12.8である。一方「労働者の声」の一文の平均文字数は44.4,句読点で区切られた短文の平均文字数は12.7であった。三叉「社会問題の成行」の一文平均文字数57.5,句読点で区切られた短文の平均文字数25.5と比べて,蘇峰「平民的運動の新現象」の数値が「労働者の声」の数値に近いことは明白である。両者の相違が一目瞭然となるよう,表にまとめておこう。

         総文字数 句点数 一文
文字数
句読点数 短文
文字数
労働者の声 5,104 115 44.4 401 12.7
蘇峰「平民的運動の新現象」 3,505 91 38.5 273 12.8
三叉「社会問題の成行」 2,931 51 57.5 115 25.5



2. 冒頭表現の共通性

 文体の特色は,書き出しと結びの表現に現れやすい。そこで,「労働者の声」における冒頭表現が,蘇峰執筆論稿の書き出しと一致する事例を探してみた。最初に「労働者の声」の冒頭表現を6例かかげ,次に,それらの文例と共通する蘇峰論稿の冒頭表現を例示する。なお,蘇峰文でページ数を記しているものは,『蘇峰文選』の当該ページである。

〔労働者の声〕
1) 果して然らば今日よりして、豫しめ彼等の地位を高尚ならしめ
2) 然らば則ち如何にして、労役者の生活上の道を便益ならしめん乎
3) 嗟呼今日に於て、誰か彼等の為に此便益を與ゆる者ぞ
4) 然りと雖以上は、たゞ富の生産上に於ける共同会社の利益にして
5) 例せば大工の如き、別々にて之を為すよりも、其力を合せて之を為す時に於ては
6) 今試に東京に在る活版屋の職工を一萬人と仮定せよ

〔蘇峰文〕
1) 果シテ然ラハ欧亜ノ二大陸ハ(『将来之日本』第四回)
  果して然らは、世の中の事は(インスピレーション,p.76)
  果たして然らば、小学校を目して一種の平民国なりと云ふ(小学校及ひ小学教育,『青年と教育』)
  果して然らば露国に雑誌の盛んなるが如きも(言論の不自由と文学の発達,『文学断片』)

2) 然ラバ則チ此ノ社会ノ主権者ハ誰ゾヤ(『新日本之青年』第二回)
  然らば則ち我邦現今の大勢は如何(保守的反動の大勢,『進歩乎退歩乎』)
  然らは則ち今現に英領濠州に於ても労働者の已に王たる如く(平民主義第二着の勝利,p.169)
  然らば則ち天下の多数は、失意の人にして(得意と失意,『静思余録』)

3) 嗟呼経済先生よ嘆息するなかれ(外交の憂は外に在らずして内に在り,p.28)
  嗟呼是れ豈に自由の天民にあらすや(新日本之青年,p.41)
  嗟呼是れ誰の罪ぞ(明治の青年と保守党,p.151)
  嗟呼諸君が支配する小学校は(小学校及ひ小学教育,『青年と教育』)

4) 然りと雖如何に世運進歩の為なりとはいへ(平民的運動の新現象,p.100)
  然りと雖吾人は今此事を詳説するの暇なし(新島先生没後の同志社,『人物管見』)
  然りと雖此小冊子は(文字の教を読む,『人物管見』)
  然りと雖百年前の哲人をして九原より起し来たれ(改革の偉業は、遠大を期せざるべからず,『進歩乎退歩乎』)

5) 例せば伊曽普の譬喩の如く(インスピレーション,p.81)
  例せば 古へ、羅馬の如き(田舎漢,『静思余録』)
  例せば上州前橋の如きも(二十余年間国力の発達,『進歩乎退歩乎』)
  例せば彼の小児が掴合を為す時に(小学校及ひ小学教育,『青年と教育』)

6) 今試に我邦人民は、今日に於て(外交の憂は外に在らずして内に在り,p.30)
  今試に支那の平和を破壊するものを挙けんに(支那を改革する難きに非ず,p.51)
  今試みに彼等の描し来る愛を看よ(愛の特質を説て我邦の小説家に望む,『文学断片』)
  今試みに其の一二を挙けんに(秋玉山の詩,p.235)
   

3. 文末表現の共通性

  次に,文末表現が,「労働者の声」と蘇峰論稿で共通している例を示そう。

〔労働者の声〕
1) 然らば則ち如何にして、労役者の生活上の道を便益ならしめん、即ち如何にして安全にその生活を得せしむ可き、如何にしてその老幼を養はしむ可き
2) 其一は則ち労役者をして、同業組合トレードユニオンの制を設けしむる事是なり
3) 欺かざるなり,  聞へざるなり,  能はざるなり,  来らざるなり
4) 同業組合とは何ぞや
5) 吾人は必ずしも、罷工同盟を奨励する者に非ず

〔蘇峰文〕
1) 誰れか真個の敵なる乎、誰か真個の味方なる(新保守党『進歩乎退歩乎』)
  彼等は今日に於て何を為さんと欲する(国歩艱難に処する国民の自信力,『進歩乎退歩乎』)
  我日本国は果たして、危急存亡の時節なる、又国家の自滅は遠きに在らざる(偉大なる国民『進歩乎退歩乎』)
  学問とは、人を迂闊に為すもの、冷淡になすもの、無用に為すもの、高慢に為すもの(多学の弊、無学の弊,『青年と教育』)
  豈に其人なからん、豈其人なからん(社会の新原動力,『青年と教育』)

2) 曰く官尊民卑の弊風即ち是れなり(嗟呼国民之友生まれたり,p.12)
  地方官の虐政是れなり〔中略〕草賊匪徒の蜂起是れなり(支那を改革する難きに非ず,pp.51-52)
  何人も了解し易き、平易なる文章を作ること是れなり(中略)、読む人をして楽ましむること是なり(基督教の文学,『文学断片』)
  何そや激成するものとは、貴族的急進派の運動是れなり(保守的反動の大勢,『進歩乎退歩乎』)

3) 吾人未た其の可なるを見さるなり(嗟呼国民之友生まれたり,p.8)
  未た其の外に止るを知らさるなり(外交の憂は外に在らすして内に在り,p.21
  未た此の敵に打ち勝つ方便を得る能はざるなり(支那を改革する難きに非ず,p.53)
  復た如何ともする能はさる也(明治の青年と保守党,pp.156-157)

4) 明言したるは何そや(外交の憂は外に在らずして内に在り,p.26)
  是れ豈に平民的運動の新現象に非すして何そや(平民的運動の新現象,p.104)
  然れとも尚其の故郷に恋々たりしは何そや(故郷 p.114)
  意外にも、此の為めに捲きさられつゝあるは何ぞや(明治の青年と保守党,p.152)

5) 外交の困難なる未た今日より甚しきものはあらす(嗟呼国民之友生まれたり,p.17)
  吾人は我が国民に向て、罷工同盟を奨励する者に非す(平民的運動の新現象,p.104)
  措て問はざるが如きもの無きに非ず(社会の新原動力,『青年と教育』)
  其の旗幟鮮明なりと云ふにあらす、其の軍営精整なりと云ふにあらす、然れども亦馬嘶風粛々の趣きなきにあらす(明治の青年と保守党,p.157)
   

4. 使用語彙の共通性

 「労働者の声」で用いられている語彙,とりわけキイワード的な語が,蘇峰の他の文章でも,しばしば用いられている事実も重要である。以下,「労働者の声」のキイワードを挙げ,続けて蘇峰論稿で同一語が使われている文例と論稿名を掲げる。

 1) 労役者 …… 洋服を穿つの必要を感する者は、労役者なり(外交の憂は外に在らすして内に在り,p.27)
 2) 団結 …… 彼等の団結一致したる勢力は(隠密なる政治上の変遷,p.60)
 3) 罷工同盟 …… 元来罷工同盟なる者は、使役せらるゝ労役者か、使役する雇主に対する運動なり(平民的運動の新現象,p.103)
 4) 職工同盟(ツレードユニオン)…… 既に欧米諸国に於ける職工同盟(ツレードユニオン)に於て、実行せられたり(平民主義第二着の勝利,p.162)
 5) 中等民族 …… 夫れ中等民族とは何物そや、独立自治の平民なり(隠密なる政治上の変遷,p.61)
   

5. 特有の表現,用字の癖

 文頭文末表現の類似,語彙の共通性などとともに,一般には使用例が多くない語や文言が,「労働者の声」と蘇峰の文章で,共通して使われている事実も注目される。前項で挙げた「労役者」「罷工同盟」「職工同盟」「中等民族」など,いずれもそうした事例とみて良い。その他「やかましく言うさま,くどくどしく言うさま」を意味する「呶々(どど)」は,「豈に余か呶々を俟たんや」(竹越與三郎『格朗穵』の巻末に付された推薦文「格朗穵の巻首に題す」),「漫に普通の理を呶々するなかれ」(明治の青年と保守党,p.151)として使われている。また,文末表現の共通性の箇所で紹介した「吾人は必ずしも、罷工同盟を奨励する者に非ず」という一文も,ほぼ同じ文言が「平民的運動の新現象」で,「吾人は我が国民に向て、罷工同盟を奨励する者に非ず」として使われている。さらに「労働者の声」の冒頭に「衣食足りて栄辱を知る、とは管子の言、吾を欺むかざるなり」とあるが、『静思余録』収録の「田舎漢」には「韓非子の語、豈に我を欺かんや」の一節がある。この他にも「労働者の声」の「我邦に於けるセント・シモンたる人は安くに在る」との文言と酷似する表現が,「顧みて我邦を見よ、クリスピー安くに在る」として「国歩艱難に処する国民の自信力」(『進歩乎退歩乎』)で使われている。関連して指摘しておきたいのは,竹越三叉は「セント・シモン」ではなく「サンシモン」を用いている事実である(「理想的社会」,『国民新聞』明治25年8月28日付)*30
 このほか筆者の文字遣いの癖も重要なポイントである。たとえば「我国」という表記もあるのに,蘇峰は例外なく「我邦」を用いている。一方「労働者の声」も8箇所で「我邦」を使っているが,「我国」の用例は皆無である。また,「ああ」という感動詞を表記するのに,三叉は「アヽ」を愛用しているが,蘇峰の場合は「嗟呼」が一般的である。一部で「嗚呼」も使ってはいるが,「アヽ」の使用例はない。これら蘇峰特有の用字が「労働者の声」でも見られる事実は,「労働者の声」を蘇峰執筆と推定する有力な根拠となる。

 

むすび

 以上で「労働者の声」の執筆者に関する探索を終える。活字で発表された無署名論文の場合,筆者の特定は容易ではない。しかし一定の長さと内容があり,筆者に韜晦の意図がない限り,文章には書き手の個性が反映する。この点に着目し,文の内容や文体の諸特徴,すなわち句読点の打ち方・使用語彙や著者特有の表現・文字遣いの癖などを精査すれば,執筆者の特定は不可能ではない。とりわけ「労働者の声」の場合は,『国民之友』の社説欄に掲載された論説であるから,執筆候補者は限定される。本稿は,家永三郎による「蘇峰証言」を手がかりに,「労働者の声」筆者の同定を試みた。
 検討対象とした4人のうち,山路愛山と酒井雄三郎の場合は,文体の比較だけでなく,従来の研究成果や他の史料によって,執筆者ではあり得ないことが確認された。残る竹越三叉と徳富蘇峰については,両者の執筆であることが確実な諸論稿と「労働者の声」とを詳しく比較検討した。その結果,竹越三叉が執筆者である蓋然性は,きわめて低いことが明らかとなった。他方,徳富蘇峰の文章と「労働者の声」の間には,文体面で数多くの一致を確認し得た反面,両者を同一人物による執筆とみなすのに,いささかの矛盾点もなかった。以上から,「労働者の声」の筆者は徳富蘇峰である,と断定して差し支えないと考える。
 家永三郎が「ひとつだけ学界にのこすに足りると思って」*31いた「蘇峰証言」は,内容的には信頼し難いものであることが判明した。しかし,家永が蘇峰証言を記録に留めてくれたおかげで,その検証を介し,筆者の特定が可能となったのである。

 最後に残る疑問は,なぜ蘇峰は「これは自分が筆を取つて書いたのではない」と答えたのかである。蘇峰が意図的に偽りを述べたとは考え難い。やはり満89歳の老翁には,62年もの昔に書いた一文を思い出すことは,容易ではなかったと見るべきであろう。しかしながら,高齢のために,徳富猪一郎が精神機能や知的能力を低下させていたとは考えられない。家永が徳富邸を訪ねた1952年8月は,蘇峰が畢生の大作『近世日本國民史』全100巻を脱稿した4ヵ月後である。さらに蘇峰が,最晩年の著作『勝利者の悲哀』の校正刷りに目を通し,追記と序を付して出版の準備を終えたのは,まさにこの月のことであった。
 十代半ばから新聞記者を志した蘇峰は,その生涯に数え切れないほどの文章を綴ってきた。病気のとき以外は休むことなく,毎日のように筆をとった男である。作家の国木田独歩は,一時期,民友社の社員であり,『国民新聞』記者として蘇峰の傍らにあり,彼を良く知る立場にあった。その独歩が「民友記者徳富猪一郎氏」*32と題する論稿で,蘇峰について次のように述べている。

  蓋し氏は知りて言ハず、感じて論ぜざるを以て、一つの罪悪と看做すの説を抱く人なり。而て之を『実行』せる人也。

 この人物評は,徳富蘇峰が,政論・史論・人物論・文学評・随想など多様な分野で,無数の記事・論稿を書き続けた動機を明らかにしている。
 また,蘇峰研究者の植手通有は,蘇峰が「およそ人間にかかわることは、何事にたいしても広く関心をもち,かつそれをすばやく理解し,わかり易く表現する能力に恵まれていた」と評価し,彼が生涯に出した著書の数は「恐らく三百冊を超える」と述べている*33。この評言は,徳富蘇峰の才能とその成果を的確に表したものといえよう。
 蘇峰の無署名記事・論説のなかには,著書に収録されなかったものが数多く存在する。数え年90歳の蘇峰が,若き日に書いた論説のひとつを覚えていなかったとしても,無理はないであろう。また蘇峰は,『蘇峰文選』の「序文」冒頭において,自らの文章について,次のように述懐している。

  予の文章は、其時、其場合限りの目的を以て、概ね出て来るもの也。故に旧稿を複読するは、予に於ては最も苦痛の義務也。〔中略〕   余の立言の目的は、所謂対症、応急にありて、固より百載の必伝を期せす。されは長篇短篇、何れも一揮し去りて、復た顧みす。其の当初筆を援るに際して、固より多く推敲を費さす、況んや更に之を添刪、補正するか如きは、殆んと絶無と為す。

 「労働者の声」も,おそらく蘇峰にとっては,「その場合限りの目的を以て」書いた文章のひとつであり,さほど重要な論稿とは考えていなかったものであろう。『国民叢書』に採録しなかった事実も,そうした評価を反映している。さらに臆測を加えれば,「変節後」の蘇峰にとって,「労働者の声」は若気の至りで書いてしまった論説で,「複読」したくない旧稿の最たるものとして,意識的に記憶から消し去っていたのではなかろうか。

【注】

* 1 「労働者の声」は『国民之友』第95号(明治23=1890年9月23日発行)の「国民之友欄」に掲載された。明治文化研究会編『明治文化全集』社会篇(1929年,日本評論社刊)に採録され,世に知られた。本著作集では、本文の全文を参考資料として翻刻し、またその画像データも掲載している。
 なお,「労働者の声」に先だって,日本人に労働組合について教えた諸文献については,小松隆二『日本労働組合論事始』(論創社,2018年刊)が詳論している。

* 2 「〈労働者の声〉の筆者は誰か?」本著作集『高野房太郎とその時代』第38回、2002年11月)。

* 3 大田英昭『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』(日本評論社,2013年刊),pp.188-189。

* 4 家永三郎「『労働者の声』の筆者」(『日本歴史』第55号,1952年12月),pp.40-41。

* 5 佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『国民之友』を中心に」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』,雄山閣,1977年刊,所収),p.154。

* 6 この問題をめぐって,大田英昭氏と私がインターネット上で交わした論争については,大田氏のブログ《長春だより》2018年6月および本著作集の「再び大田英昭氏に答える ─〈労働者の声〉の筆者は誰か・三論 ─」参照。

* 7 草野茂松・並木仙太郎編『蘇峰文選』(民友社,1915年刊)。

* 8 家永三郎「〈労働者の声〉の筆者」は,家永の論集『古代史研究から教科書裁判まで』(名著刊行会,1995年刊)に再録された。同稿の「著者解題」において家永は,「蘇峰の答がただしいかどうかは問題であるが,とにかく『国民之友』主筆その人の証言として他に代替性のない史料価値をもつことは否定できまい」と結んでいる。つまり蘇峰証言が「ただしいかどうかは問題である」ことを認識していたが,その正否を追究・検証することはなかったのである。

* 9 竹越三叉作品で,今回参照したのは,以下のとおりである。@『竹越三叉集』(三一書房,1985年刊),A『新日本史』上下(岩波書店,2005年刊),B『二千五百年史』(講談社,1990年刊行),C『旋風裡の日本』(中央公論新社,2014年刊),D『人民読本』(慶應義塾福澤研究センター,1988年)。なお翻刻本では,仮名遣いや漢字を現行の形に改めているものが多い。ただし単行書の原本のほとんどは,《国立国会図書館デジタルコレクション》で,画像によって読むことができる。

* 10 西田毅『竹越与三郎 ─ 世界的見地より経綸を案出す ─ 』(ミネルヴァ書房,2015年刊),「はしがき」およびp.64。なお引用箇所は,春風道人「昔の民友社」『文章世界』1巻5号による。

* 11 山路愛山「竹越与三郎論・常に第一流を以て自ら居る竹越君」(『中央公論』第25巻第11号,明治43年11月1日)。『山路愛山集(二)』(三一書房,1985年刊)p.361による。

*12 竹越与三郎『新日本史』(中)(民友社,1892年刊)pp.181-182。《国立国会図書館デジタルコレクション》による。なお岩波文庫『新日本史』(下)ではp.145。

*13 『竹越三叉集』《民友社思想文学叢書》第4巻(三一書房,1985年刊),p.285。

*14 竹越与三郎著・西田毅解説『人民読本』(慶應義塾大学福澤研究センター,1988年刊)p.80。

*15 明治文化研究会『明治文化全集 第6巻 社会篇』第3版(1968年,日本評論社)pp.476-478。

*16 前掲『竹越三叉集』,pp.206-209。

*17 竹越与三郎著・西田毅校注『新日本史』(下)(岩波文庫,2005年刊)pp.82-118。

*18 いずれも,前掲『竹越三叉集』所収。

*19 前掲『新日本史』(下)(岩波文庫,2005年刊)西田毅解説,pp.374-375。

*20 竹越与三郎『新日本史』(中)(民友社,1892年刊)pp.98-99。《国立国会図書館デジタルコレクション》,第48画面による。なお岩波文庫『新日本史』(下)ではpp.112-113。

*21 佐々木敏二前掲論稿,p.154。

*22 『社会主義管見』は,岡利郎編『山路愛山集(二)』(1985年2月,三一書房刊)に収録されており,「現時の社会問題及び社会主義者」は,前掲,明治文化研究会編『明治文化全集社会篇』に採録されている。

  *23 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 (16)』(昭和女子大学光葉会,1961年)。大久保利謙編『山路愛山集』《明治文学全集 35》(筑摩書房,1965年刊)。岡利郎編『山路愛山集(二)』《民友社思想文学叢書》第3巻(三一書房,1985年)。

*24 前掲,大久保利謙編『山路愛山集』p.410。

*25 酒井雄三郎が農商務省総務局博覧会課の判任官「属四等」に任官したのは,万博2年前の1887(明治20)年6月頃のことであり,『改正官員録甲明治二十年六月』にその名が初めて記載されている。官員録で,酒井雄三郎の名が最後に記載されたのは1890年4月の『改正官員録明治二十三年甲四月』である(以上,国会図書館デジタルコレクションに拠る)。

*26 高野静子『蘇峰とその時代 ─ 寄せられた書簡から』(1988年,中央公論社)pp.245-246。

*27 「平民的運動の新現象」(『国民之友』第69号,『蘇峰文選』pp.99-105)。酒井雄三郎が「トレード・ユニオン」について紹介したのは,同誌第83号である。

*28  『国民之友』の「第八巻目録」の末尾に付された広告の言葉。

*29 『蘇峰文選』第一編には,1886(明治19)年から1893(明治26)年にかけて執筆された論稿40点が,『国民叢書』第1冊から第5冊には1888(明治21)年から1893(明治26)年にかけて『国民之友』などに掲載された論稿115点が収録されている。

*30 前掲『竹越三叉集』p.300。

*31 家永三郎「『国民之友』研究の思い出」(『徳富蘇峰・民友社関係資料集』,三一書房,1986年12月刊)『月報』。

*32 《明治文学全集 34》『徳富蘇峰集』(1974年,筑摩書房刊),p.341。

*33 同上書,植手通有「解題」,p.354。






初出は、『大原社会問題研究所雑誌』730号(2019年8月)。







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