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《編集雑記》13 (2005年7月〜11月)

高野房太郎の旧跡探検(その8)──労働組合期成会事務所跡

中央区立泰明小学校、この学校の向かいに最初に労働組合期成会の事務所となった「米国裁縫師」沢田半之助の店があった。

 今回は、労働組合期成会の事務所跡を訪ねようと思います。と言っても、期成会は3回も事務所を移転していますから、その旧跡も4ヵ所になります。とりあえず、時間の経過を追って事務所所在地を記すと、以下のとおりです。
 1) 最初の期成会の事務所は、数寄屋橋橋詰にほど近い「沢田洋服進調所」に間借りしていました。いうまでもなくサンフランシスコ時代からの同志であり、職工義友会三人組の一人であった沢田半之助の店です。期間は1897(明治30)年7月5日から8月中旬までの2ヵ月足らずでした。もっとも期成会の準備段階の職工義友会事務所も、短期間ですが「沢田洋服進調所」に置かれていましたから、その期間を含めれば2ヵ月余になります。
 2) 2番目の事務所は日本橋区呉服町1番地にあった貸席「柳屋」です。房太郎の妻キクの実家でもあります。ここに事務所を置いた期間は、1897(明治30)年8月下旬から1899(明治32)年6月中旬までの2年足らずでした。
 3) 次の事務所は鉄工組合が購入した日本橋区本石町1丁目12番地のしもたやでした。労働組合期成会の事務所は、鉄工組合所有の建物に同居していたわけです。ここに事務所を置いていた期間は1899(明治32)年6月20日から約3年間程度と推定されます。
 4) 最後の事務所は神田区三崎町3丁目1番地、つまり片山潜の住居であり、社会活動の拠点でもあったキングスレー館です。何時ここに移転したのか定かではありませんが、1903(明治36)年正月に刊行された『労働世界』雑誌版の年賀広告では、鉄工組合はここに移っています。おそらく前年中には移転したものでしょう。このときに労働組合期成会事務所も、キングスレー館に移転したことは確実です。
  以上4ヵ所のうち、貸席「柳屋」跡およびキングスレー館跡については、すでに探検済みです。そこで、今回は、最初の「沢田洋服進調所」跡と3番目の「鉄工組合事務所」跡を訪ねることにします。

中央区銀座5-2。かつて、この辺りに沢田半之助の「洋服進調所」があった。

  期成会の創立時に沢田半之助の店がどこにあったかは、1897(明治30)年の『高野房太郎日記』巻末の住所録と、『労働世界』に掲載されている「沢田洋服進調所」の広告から分かります。どちらも「京橋区元数寄屋町1丁目3番地」と記されています。
  この京橋区元数寄屋町1丁目3番地を明治の地図〔東京郵便局編「明治四十年一月調査東京市京橋区全図」、東京都中央区教育委員会『中央区沿革図集[京橋編]』190ページ〕で見ると、数寄屋橋の京橋側の橋詰、数寄屋通りを挟んで泰明小学校と向かい合っています。泰明小学校は、房太郎と同時代人である北村透谷や作家の島崎藤村らを出した有名校です。どうやら明治期に比べると、現在の泰明小学校は、道路を取り込み、校地を南西部に拡大しているようです。しかし「沢田洋服進調所」は、泰明小学校の東側にありましたから、敷地の位置は当時と変わっていないようなので、現在地を特定することは比較的容易です。すなわち、中央区銀座5丁目2番地の旭屋書店辺りと見て、まず間違いありません。ただし「元数寄屋町1丁目3番地」は数寄屋通りに面した細長い区画で、同一番地に何軒かの家があったに違いありませんが、沢田の店がそのどこに位置したのかまでは、まだ分かっていません。

中央区立常盤小学校、この学校の東北角に隣接する地域に、鉄工組合が所有する事務所があり、労働組合期成会事務所もそこに同居していました。なお、この写真は休日のものではありません。授業中の通用口の光景です。

 つぎは、日本橋区本石町1丁目12番地の鉄工組合が所有していた建物跡です。なんとここも、小学校の隣接地でした。それも泰明小学校と並んで校区外からの越境入学が多いことで知られる東京の「公立名門校」中央区立常盤小学校です。ちなみに、この両小学校の校舎は、5、6年前、ともに東京都の「歴史的建造物」に選ばれているのだそうです。とはいえ、どちらも関東大震災後の建築ですから、房太郎らが目にした建物とは似ても似つかぬものだったに違いありませんが。
  鉄工組合が所有していた建物は、常盤小の校地の北東角に隣接する地域にありました。隣接地ですから、できれば校地内からも見たいと思ったのですが、驚くほど警備が厳重で、あらかじめ連絡せずに校内に入るのは不可能とあきらめました。右の写真は休日の光景ではありません。授業中の通用口がこのような頑丈な鉄格子で締め切られていました。
  そこで、学校の周囲を回り歩いて、どうやらここが鉄工組合事務所の跡であろうと目星をつけたのは、中央区日本橋本石町4丁目4番地15号です。明治時代の住居表示、つまり日本橋区本石町1丁目12番地は、細い路地に沿った細長い土地で、ここも同番地に4、5軒の家を建てるだけの広さがあります。労働組合期成会事務所兼鉄工組合本部、東京市日本橋区本石町1丁目12番地

東京都中央区日本橋本石町4丁目4-15番地。手作り辨当の店の辺りに、かつて鉄工組合が所有した事務所があり、労働組合期成会もここに同居していた。

 ただ、こちらの場合は、位置を特定することが出来ました。左上は、『日本の労働運動』の口絵に掲載されている期成会事務所の写真です。これを見ると、鉄工組合事務所があったのは路地裏ではなく、広い通りに面しています。したがって、右側の写真で「手作り辨当」の店の位置が、かつて鉄工組合事務所、労働組合期成会の事務所があった場所とみて間違いないでしょう。
〔2005.7.9記〕





高野房太郎の旧跡探検(その9)──生協売店「共営社」跡

「共営社」看板

 今回は、房太郎が労働運動を断念して中国へ向かう直前まで、運動と生活の拠り所にしていた共働店「共営社」の跡を訪ねることにしましょう。当時の住居表示で、東京市京橋区本八丁堀二丁目四番地です。
  「共働店」とは cooperative store をそのまま日本語にしたもので、今の言い方をすれば「協同組合店」か「生協売店」です。開業したのは1899(明治32)年10月のこと、1900(明治33)年8月末に日本を離れるまで1年足らずのあいだ、高野一家、房太郎とキク、娘の美代の3人は、ここで暮らしていました。
  「八丁堀」は日本の地名のなかでももっとも良く知られている町のひとつでしょう。江戸の町奉行所与力や同心の「拝領地」があった町で、時代劇でお馴染みの地名だからです。《八丁堀の七人》《八丁堀捕物ばなし》など、そのものずばりで町の名をタイトルに入れたドラマがありますし、《御宿・かわせみ》の東吾とるいは八丁堀で育った幼なじみという設定です。
  武士の「拝領地」は、もともとは屋敷を建てて住むために与えられていた土地ですが、薄給の同心たちは「拝領地」内に賃貸し用の長屋を建て、家賃で収入を補っていたようです。ですから、八丁堀は武家だけの町でなく、下級武士と庶民が混住していたのです。古い町だけに有名人も多く、紀伊国屋文左衛門や東洲斎写楽、伊能忠敬なども一時期この町に住んだことがあるそうです。

 八丁堀は、17世紀初めに、京橋川から隅田川をつなぐ水路として開鑿されたものです。地名の由来は、堀の全長が八丁あったからだという何とも単純明快なものです。房太郎の共営社があった地域は、八丁堀とは言っても、与力や同心の組屋敷があった地域からはちょっと外れていたようです。八丁堀センタービル、このビルの裏側辺りが、かつて共営社があった場所になる。
  さて共営社の住所である京橋区本八丁堀二丁目四番地を明治の地図〔東京郵便局編「明治四十年一月調査東京市京橋区全図」、東京都中央区教育委員会『中央区沿革図集[京橋編]』〕で見ると、「桜橋」に近い、堀に面した場所にあります。堀がそのまま残っていれば、現在地はもっと簡単に分かったのでしょうが、戦後になって堀はほとんど埋め立てられてしまい、上には公園やビルが出来ていますので、探すのは容易ではありませんでした。
  明治の地図と現在の地図とを見くらべながら何回か確かめたところ、どうやら「平成通り」と「鍛治橋通り」の交差点の南東角に建つ「八丁堀センタービル」の一画が、共営社があった場所であるらしいことが分かりました。現在の住居表示で言うと東京都中央区八丁堀四丁目六番一号になります。八丁堀センタービル裏手、かつて共営社があった辺り。
  ただし。このビルは地上げをして再開発したようで、かなり広い区画を占めており、番地だけでは正確な「共営社跡」は分かりません。ビルの正面側は鍛冶橋通りに面していますが、共営社があったのは八丁堀の河岸に面した場所でした。どうやら「八丁堀センタービル」の裏側、そのほぼ中央部辺りが「共営社跡」と見てよいようです。なお、明治の地図では、八丁堀河岸は空き地で、建物などはありませんが、今では昔の河岸跡にもビルが建ち並んでいます。堀の埋め立てとともに、昔の面影を偲ぶことを困難にしている一因です。

 当時、共営社の顧客となり、出資社員ともなったのは、鉄工組合の石川島造船所の支部、沖電機工場支部の組合員でした。沖電機工場は、通信機や電話機など日本の軽電の先駆的企業で、現在の沖電気株式会社の前身です。その本工場は、共営社から堀を渡った対岸、つまり八丁堀と隅田川に挟まれた一画の新栄町にありました。また、石川島造船所は、新栄町から目と鼻の先の「佃の渡し」から隅田川を渡った佃島にありました。石川島造船所の親方で、鉄工組合の役員でもあった小沢辨蔵の自宅は京橋区船松町で、まさに佃の渡しのある町でした。この一例でも分かるように、石川島造船所で働く労働者の多くもこの近所に住んでいたのでしょう。
〔2005.8.30記〕


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刊行開始8周年
──『高野房太郎とその時代』完結へ──

 オンライン版『二村一夫著作集』の公開を開始したのは8年前、1997年9月25日のことでした。いつも「刊行開始記念」の時には、巻別構成の刷新やトップページのデザイン変更、あるいは縦書き表示ファイルの制作開始など、何か新しい試みをするよう、努力して来ました。しかし、今回はその余裕がなく、何も変更していません。
  あれこれ試みる余裕がなかった理由のひとつは、6年前から本サイト上で書き下ろしてきた『高野房太郎とその時代』を、この機会に完成させたいと考えたからです。例によって仕事が遅く、いまだに完結していません。ただ4、5日前、第96回「青島に死す」を掲載し、とりあえず房太郎の死去まで書き上げました。伝記ですから、誕生から死去まで書けば、いちおう完成のメドはついたと言って良いでしょう。あとは「まとめ」、それにこれまで取り上げるべくして洩れた項目、たとえば「日記に見る房太郎の日常」や「房太郎と英文通信」など数項目の追加を考えています。

 昨年正月の「年頭のご挨拶」で、「房太郎没後100年の本年中には完成させたい」と願望を込めて書きましたが、──予想どおり── 実現しませんでした。今年の正月にも、「間もなく完結の見込み」などと記しました。しかし今年もすでに3分の2を過ぎ、この間、私としてはけっこう頑張って21回分書いたのですが、まだ終わっていません。しかし、今度は文字どおり「三度目の正直」、年内には完成させるつもりです。

 完結後は、オンライン版をもとに活字本を出そうと考えています。当然のことながら、ホームページに掲載した文章をそのまま活字化するわけには行きません。個人サイトでの発表は、雑誌連載と違って、長くなりがちです。紙幅に制約がなく、編集者のチェックもありませんから、史料の引用なども長くなる傾向があります。それに、史料へのリンク、記述箇所へのリンクなど、活字版では処理不能の箇所もあります。
  一方、インターネット版では、カラー画像を使うことが簡単ですから、言葉による詳しい説明せずに済ませることが可能でした。しかし、書物となると、オンライン版で使った画像すべてを使うのは、経費面でも無理でしょう。その他にも、サイト上の作品を活字にするには、さまざまな編集作業が必要だろうと思います。と言うわけで、完結後しばらくは、本にまとめるための加筆訂正等の作業に専念するつもりです。
〔2005.9.25記〕





大原孫三郎を描いたTV番組の再放送

青年時代の大原孫三郎

 NHK岡山放送局が「我が財を世のために捧ぐ〜倉敷 大原孫三郎の情熱〜」と題する番組を制作しました。大原孫三郎の生涯を、その社会的貢献の側面を中心に描いた作品です。新しいNHK岡山放送会館のオープン記念として8月27日に岡山局で、9月2日には中国地方各局で放送されました。
  倉敷紡績の女工募集用宣伝映画といった珍しい画像も発掘して紹介しており、ローカル放送だけではもったいないなと思っていたところ、一部地域を除く31都県で再放送されることが分かりましたので、この機会にご覧になるようお知らせする次第です。来月第三土曜日に、NHK総合テレビでの放送です。
  具体的な放送日時は、11月19日(土曜)の午前10時5分から59分まで、「にっぽん再発見」という地方局制作番組を全国に紹介する枠内での放送とのこと。なお、北海道、近畿、福井・鳥取両県、九州では、別番組が放送されるとのことです。先に全国放送とお知らせしましたが、正しくは「上記地域を除く31都県で再放送」とのことですので、お詫びして訂正いたします。また、このほかBSハイビジョンでも、10月28日夜8時からをはじめ、11月2日の12時15分、同3日午前3時からと3回放送されます。

 《現代ぷろだくしょん》制作の映画「石井のおとうさんありがとう──岡山孤児院・石井十次の生涯」で、大原孫三郎役を演じた俳優の辰巳琢郎さんが案内役となって、倉紡の工場跡、倉敷美術館、倉敷中央病院、労働科学研究所、大原社会問題研究所などをめぐり、孫三郎の実像に迫ろうとする力作です。孫三郎の孫の大原謙一郎さんや斉藤一労働科学研究所元所長とともに、私も短時間ですがインタビューに応じています。
    ちなみに、大原孫三郎は、私が長い間働いていた法政大学大原社会問題研究所の創設者で、この著作集のなかでも「大原社会問題研究所を創った人びと」「大原社研こぼれ話」で取り上げています。

 なお、「石井のおとうさんありがとう──岡山孤児院・石井十次の生涯」は独立プロの制作なので、一般の映画館で見ることは難しいようですが、今でも全国各地で上映を続けています。詳しくは、《現代ぷろだくしょん》のサイトをご覧ください。上映日程なども分かります。辰巳琢郎のほか、松平健、永作博美、竹下景子らが出演しています。
〔2005.10.27記、11.7放送地域につき訂正〕


年賀欠礼

 この1ヵ月間なにも書けませんでした。今月4日に母が亡くなり、その事後処理がほぼ一段落したところで、今度は私自身がやや体調を崩すなど、個人的な事情が重なったためです。そのため、もうとうに完結しているはずだった『高野房太郎とその時代』も、いまだに最終回を掲載出来ずにいます。今しばらくご猶予ください。

 母は1906(明治39)年12月30日の生まれですから、数え年で百歳、あと2ヵ月足らずで満99歳になるところでした。自宅で、まったく苦しむことなく息を引き取りました。文字通りの大往生、天寿を全うしたと言ってよいでしょう。白内障の手術で入院したのが唯一の入院体験という頑健な人でした。ところが9月末、脳梗塞の疑いで救急車で運ばれ2度目の入院を経験しました。幸い脳梗塞ではなく一過性の脳虚血でした。しかし生まれて初めてMRIや心エコーなどの検査をして、全身の動脈とりわけ心臓の大動脈弁の硬化がすすんでいることが分かりました。もはや治療の余地はないということで、2週間足らずで退院したのですが、この入院のおかげで、次になにかあっても救急車を呼ぶことはすまいという気持ちが固まり、自宅で生を終えさせることが出来ました。

 このように百歳近くまで大病をしたことのない母の血だけをひいているなら、私も元気で長生き出来るに相違ありません。しかし残念ながら、父親の方は、還暦を過ぎたあたりから病気と縁が切れませんでした。胃ガンに直腸ガン、心臓弁膜症に心房細動など、心臓は何度か止まりかけてペースメーカーを入れるなど、晩年の父は入退院を繰り返していました。どうやら、こちらの血も受けついでいることは間違いなさそうです。

 という次第で、例年掲載している「読者への年賀状」も、来年は失礼します。日頃のご愛読に感謝し、来年もよろしくお願い申し上げます。
〔2005.11.27〕





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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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